二章
目を開けた彩は、天井近くにかかった時計を確認する。――四時。窓から見える暗さから、朝だということがわかる。いつもと同じ起床時間。
彩は適当に選んだ服に着替えて、鞄から本を取り出す。
「……あ」
読み始める前に、彩は寝室を出てもう一つの部屋に入る。一高校生の一人部屋に、普段の生活スペース以外に寝室があるなど、かなりレアだろう。しかも、それぞれが十二分に部屋として機能するのだから、その広さは異常だ。
彩は、普段は素通りするだけの部屋の隅におかれた段ボールを開け始める。三樹谷家から引っ越したときに持ってきた、彩の私物を詰め込んだ箱の数々。そのうち開けようとしていたものの、特に急ぐ理由もなかったのでそのまま放置していた。
中に入っているのは、学校の教科書やノート、救急箱と、読み切った本。学校の教科書は、中学のモノと高校一年のときのモノ。もう必要ないから処分してもかまわないのだが、高校のモノは一応卒業するまでとっておく。救急箱は、最近ではあまり使わなくなったが、念のためとっておく。本は…………読み切ってほとんどは処分したが、うち何冊かは引っ越すときに段ボールに詰めて持ってきた。だから、とっておいて良いモノではある、が、読み返そうとは思わない。――彩の記録に忘却などないので、読み返したところで新鮮味もなにもない。
……これだって、そのうち捨てるんだろうがな。
忘れないから、新しく読む本がないことに彩は気づいた。一応、まだ読みかけの本があるが、それだって昼前には読み切ってしまう。
「買いに行くか」
本屋が開くまでは、最後の本で時間を潰せるだろう。
……そして、読書で時間を消費して。
「……」
彩は寝室の時計を再度確認する。――五時半。朝食前の、お茶の時間だ。
「まったく」
なんて、愚痴を零しながらも、本を閉じて一階のリビングへ向かってしまうのだから、習慣とは恐ろしい。部屋を出れば、人が四人並んでも余裕なほど広く、そして長い廊下が伸びているなんていうのも、もう慣れたもの。高校のものより、幅も長さも倍はあるだろうか。
そんな広すぎる廊下も、しかしいま利用しているのは彩だけ。連は朝食の支度をしているだろうし、再はリビングで鮮の相手をしているだろう。……それが、響家のいつもの早朝の風景。
……が。
リビングの前に立った彩は、扉から中の様子をざっと眺めて、一言。
「………………いないな」
再はおろか、鮮もいない。それどころか、昨日の飾りつけがそのままだから、部屋を間違えたまではいかないにしても、多少の違和感のようなものがある。
「まだ寝てるのか?」
反射的に天井を見上げる彩。鮮の部屋の正確な位置までは知らないが、本館東側の二階だから、だいたいこの辺りだろう。
「…………」
自然を装ったまま、彩は首を横に振る。鮮がいなくてつい彼女の居そうな場所を探してしまうなんて、どうかしてる。もともと、彩はお茶の時間を苦手としていたはずだ。苦手というよりはわからない、といったほうが正しいのだが。食事はただの栄養補給という認識の彩にとって、優雅にティータイムなど、まるで馴染めない感性だ。
……だから、付き合っているだけ。
彩はリビングを出て、食堂へと向かった。といっても目的は食堂ではなく、その奥の厨房。
「ここにいたか」
彩が口を開くより先に、二人は足音に気づいて振り向いた。二人とも、厨房の清掃をしていたようだ。再はモップで床を、連は雑巾で調理台を拭いている。
振り返った二人のうち、最初に声をかけてきたのは、再だ。
「やあ、おはよう。もう起きたんだ」
「いつも通りの時間だ」
再が柔らかい微笑を浮かべるのに対して、応えた彩は平生のままの無表情。
一方で、連のほうは雑巾から勢いよく身を離してぎくしゃくと反応をみせる。
「さ、彩様っ。紅茶ですよね。いま用意……」
「いい」
やたら高い声を出す連に、彩はみなまで言わせる前に止めた。
「もともと俺の趣味じゃないんだ。ないならそのほうがいい」
くすり、と。再は臆面もなく笑い声を漏らす。
「それなのに、毎朝ちゃんと参加するんだね。今日なんて……」
腹を抱えて笑いを堪えようとする再を、彩はギロリと睨みつける。だが、そんな彩の威圧も、昔からの付き合いのある再には意味をなさない。ようやく笑いが納まると、再は顔を上げて正面から彩を見る。
「鮮様は、まだお休みだよ」
「珍しいな。あいつが寝坊なんて」
平日はもちろん、休みのときでも時間を間違えない鮮。その彼女が、今日に限ってまだ寝ているとは。
ふっ、と。再は口元を吊り上げる素振りを見せる。
「それを言うなら、あんな遅くまで起きていたほうが珍しいよ。たぶん、起きてくるのは昼頃だろうね」
「わかるのか?」
「長い付き合いだからね。鮮様だって、遅くまで起きていれば寝坊もする。まあ、それがだいたい、パーティの後なんだけど。昨日はいままでにないくらいはしゃいでいたから、いつもより遅れるかもね」
普段は時間に厳しい彼女が、昨日は自分からその門限を破って遅くまで起きていた。それを考えれば、鮮が寝坊しても仕方がないのかもしれない。
「君は平気なんだね」
柔和な表情で続ける再に、返す彩は相変わらずの無表情。
「それは、おまえらだって同じだろ」
彩には夜の散歩の習慣があったから、夜遅くまで起きることに抵抗はない。昨日なんて、結局散歩をしなかったから、眠りに就いたのはいつも通りといったところ。
再は微笑を漏らしながら、彩に応える。
「どんなに遅くまで起きていたって、翌日にはちゃんと使用人の勤めがあるのさ。…………なんて、いつもより遅れて仕事を始めさせてもらってるけど」
見回りも早めに切り上げちゃったし、なんて、再はあっさり白状する。
対して。隣で黙っていた連が、急にびくりと肩を震わせる。
「えっ、あっ、そ…………」
「喋れてないぞ、連」
やれやれ、と再は肩を竦める。
「まったく。もう僕らしかいないってのに。いつまで気を張ってるんだか……」
再とは小さい頃からの付き合いがあるように、連とも同じく、小さい頃に知り合っている。
……というか。
響の屋敷にいた幼い頃、彩は本館ではなく西館で暮らしていた。西館から出ることもなく、毎日毎日、自室で勉学に励んでいた。
直接言われたわけではないが、響彩は西館から出ることを禁じられていた。食事とか、入浴とか、用がない限りは自室から出ることも、どうやら望ましくなかったらしい。
そんなふうに、ほとんど軟禁状態の彩を外に連れ出したのは、他でもない連だ。連と再、そして鮮と、四人で遊んだことは、記録として彩の中に残っている。
それが……。
あの頃は、自室にこもりきりの彩を無理矢理引っ張り出したくせに、いまの連はどこか遠慮がちな、使用人としての姿勢を崩さない。
……いまだって。
「彩様。では、お食事になさいますか?いま準備を――――」
振り返り、連は駆け足気味に奥の冷蔵庫へ向かう。いや、向かおうとして……。
がくん、と。連の頭が突然落ちる。急転換したせいか、拭いたばかりの床で滑りやすくなっていたのか、連は滑った拍子でそのまま落ちるように崩れていって――――。
「……!」
「おっと……!」
再がモップを放って、連の肩を掴んで彼女を支える。一瞬で連のすぐ傍まで身体を寄せたから、再はなんなく彼女を支えることができた。
……へぇ。
彩は内心で感嘆の息を漏らす。あの一瞬で判断して、なによりその通りに動くのは、それなりに難しい。それをあっさりとやってのける再は、かなり反射神経がいいらしい。
連の身を元通り起こした再は、ぽんと一つ彼女の肩を叩く。
「いつもの時間に間に合えばいいんだ。焦って仕度しなくてもいい。――なあ、いつも通り、六時からでいいよね」
振り返り、彩にお伺いを立てる再。ああ、と彩が承諾を返すと、再は感謝を表すように笑みを深くする。
「連も、昨日の疲れがまだあるんじゃないの?少し休んだら?」
なんて、気楽に提案してくる再に、連はガバッと身を起こし、気をつけの姿勢に固まる。
「そんな……!滅相もございません。使用人のわたしが、勝手に休むなんて」
再を一瞥してから、連はすぐに彩のほうへ身体を向ける。連の顔はすでに真っ赤で、熟した林檎並みだ。
……なんというか。
ここまで恐縮される意味がわからないから、彩はただただ憮然とするしかない。一方で、再は使用人として仕事をする前の雰囲気のままだから、余計に連が過剰に見えてしまう。
だったら、と再はなおも柔和に笑ったまま。
「転ばないように気をつけろよ」
苦笑の一息で済ませて、再はいままでの騒ぎを忘れたように彩のほうへと振り返る。
「じゃあ、いつもの時間で準備するから、それまで待っていてくれ」
なんて、片手を上げてみせる。
了解の意として、彩は返事もせず、無表情のまま引き返す。あと少しで厨房を出る、その直前に、実にどうでもいい音が背後から聞こえてくる。
「でも、朝食の支度なんて……。皆さん、遅くまでお休みになっていると思っていたから……」
「昨日の料理を温め直せばいいだろう?昼食だって、もともとそういうつもりだったんだから」
「ちょっと……!まだ彩様がいらっしゃるのに」
「だーかーらー。そんなに畏まらなくてもいいんだって」
時間通りに食堂へ行ってみると、そこには、よくよく目を凝らせば確かに昨日の料理が並んでいるようだが、しかし一見してそうと気づくのは至難だろう。盛り付け一つでここまで隠せるとは、連の努力も一入だったろう。
結局、朝食に参加したのは彩だけで、鮮も薫もまだ眠っているらしい。何十人収容できるんだというほどに広い食堂で一人ぽつんと朝食をとったわけだが、しかし彩は気にしない。三樹谷でも一人で食事をしていたわけだし、ここ響家では食事中のお喋りが禁じられているので、ただ黙々と栄養を摂取するというのは、あまり普段との差異を感じない。
「彩様」
食事を終えた彩に、連が食後のお茶を運んで来ようと、厨房に戻りかける。それを断ると、連は振り返って彩のもとへと戻ってくる。
「本日のご予定はいかがなさいますか?」
彩は改めて連のほうへと振り向いた。予定を連が訊いてくるなんて、初めてだ。もっとも、普段なら連は厨房に引っ込んでいて、給仕をするのは再の役目だから、連が食堂にいるということ自体が珍しいのだが。だから――そもそも――連が食堂で彩に話しかけてくること自体が、初めてなのか。
「もう少ししたら、本屋へ行こうと思ってる」
「なにかお探しですか?」
「いや、読む本がなくなったから、適当に見てくるだけだ」
そうですか、と連は悩むように小首を傾げて口元に手を当てる。三秒後、ぱっと連は顔を上げた。
「でしたら、地下の図書室に行かれてみてはいかがでしょう。市内の図書館、とまでは申しませんが、最新のモノにこだわりがなければ、十分な数の本を揃えてあります」
一瞬悩む素振りを見せるが、彩の内ではほとんど回答が決まっている。外へ出ていかなくてよくて金もかからないなら、そちらの選択を採る。
「そうだな。じゃあ案内してくれ」
はい、となぜか嬉しそうに連は頷く。
「では、鍵を持って参りますので、少しお待ちください」
彩を置き去りにしてさっさと食堂をあとにする連。
……どうも連は、テンションが上がると周りが見えなくなる傾向にあるらしい。
「向こう見ずなところは、昔と変わらないんだな」
連も決して、彩の知らない存在になってしまったのではないと、それを喜んでいいのかは彩にもわからない。……もとより、喜びとか安堵なんて感情を、彩がもつはずはないのだが。
食堂でぽつんと待っているのもなんだか癪で、とりあえず口の中をゆすいだだけで、彩はリビングのソファーで待つことにした。いつになったら部屋の飾りつけは片付けられるのだろうかと、他人事のように眺める彩。……まあ、そのうち再がなんとかするだろう。
扉を開けっぱなしにしておいたので、連は食堂まで行くことなく彩に気づいた。すぐに「参りましょう」と、先頭に立って彩を案内する。
昨日、リビングの飾りをとりに行った部屋の、さらに奥。扉だけ見ると他の部屋と変わりないが、隣の部屋の大きさと壁との距離を考えると、この先に部屋があるとは考えにくい。
連が鍵を開けたその先は、確かに部屋などない。弱い明かりが照らされた足元には、地下へと続く階段が伸びている。
「やけに下りるな」
東波高校の一階を過ぎ、そろそろ二階に達するほど下ったというのに、階段はなおも続いている。
「一階だけで、普通のビルの三階分ほどの高さがあります。ずっと昔の、図書室を最初に作った方のご提案で、広々とした開放的な空間にされたそうです」
下まで着くと、すぐ前に扉がある。連が鍵を開けて、中へと入っていく。
「こちらです」
開かれた扉の向こうへ彩も進む。当然、最初は明かりなど点いていないから、なにも見えやしない。地下だから窓もないのだろう、輪郭すら浮かんでこない。
パチ――。
明かりが点くとともに、ゴオオォと空調が稼働する音。彩の視線を受けて、連が珍しく気取ったふうに一礼してみせる。
「ようこそ。響家の地下図書室へ」
ぼんやりと、彩はその広大な空間を眺め見る。地上の屋敷も三階まで吹き抜けだから、見上げたときの印象は同じくらい。下から見るとわからないが、一面本棚が並んでいる様は、さぞ威容だろう。天井側にも本を置くスペースが点在して見え、そこから見ればここの全容が知れるはず。上の屋敷と同じくらいの広さがあるのだろうか。
「彩様は、サドをお読みでしたよね?」
ああ、と彩が頷くと、連は「では」と先を進み出す。連のあとに続きながら、彩は周囲の棚にそれとなく目を向ける。一般的な図書館同様、各棚に図書の内容と、番号が記されている。微積、統計、建築、化学、電磁気。歴史書も、日本のものだけでなく、イギリス、ドイツ、フランスなど外国のものまで。この辺りから文学か、古典、漢文、近現代、日本のものを通り過ぎると、こちらも外国のものが並び始め…………。
「こちらにございますのが、サドの書籍です」
通された本棚の中に、確かにサドの本が並ぶ。
「『悪徳の栄え』や『美徳の不幸』はすでにお読みになったということでしたから………………。こちらはいかがでしょう」
その中から、連が適当に数冊を見繕い、彩に差し出す。
「これは以前、彩様がお読みになられていた『食人旅行記』のもとになっていた書籍になります」
「もと?」
「はい。この『アリーヌとヴァルクール又は哲学小説』の中の一部が『食人旅行記』として別冊になったのです」
「……そういえば、あとがきでそんなことが書いてあったな。じゃあ、こっちがオリジナルか?」
はい、と連は頷く。
「アリーヌとヴァルクールが、ジュスティーヌ的な位置付けになるんだったか?」
「そう、そうです。よくご存じですね」
「『食人旅行記』のあとがきから、そう思っただけだ」
「わたしは、あとがきは読みませんので。あとがきを読むと、翻訳者の方や解説者の方の印象が刷り込まれてしまう気がしますので」
渡された本は、確かに彩もまだ読んでいないものだ。
市内の図書館には及ばないと連は言っていたが、とんでもない。十分に肩を並べられるだけの蔵書量を誇っている。人間一人分の寿命では、とても読み切れない。本気で、これからは本を買いに行く必要などなさそうだ。
「ここにあるのは、持ち出してもいいのか?」
「はい、かまいません。戻す場合は、わたしに渡してください」
元の場所に戻しますので、と連は付け加える。……まったく、図書館と変わりない。
まあ、それも仕方のないこと。大富豪である響家だ、貴重な本だってこの中には眠っているのだろう。それらを漏らさず管理するためには、それなりのシステムを持たないといけない。
彩はまた周囲を繁々と眺めようとして、だが結局、止めた。別に今日一日で全てを回る必要はない。必要なモノは手に入った、貸出可能なら、いつまでも地下にこもっている理由はない。
「とりあえず、これだけ借りていく。ここに入るには、おまえに言わないとダメか?」
純粋に訊ねる彩に、連の顔が――これまでもだいぶテンションが高めだったが、さらに――ぱあっと、喜色に輝く。
「気に入っていただけましたか?」
彩は迷わず、心の内で一歩引いた。……そこまで喜ぶことか?
「気に入ったというか……。本を買いに行く手間が省けるからな」
率直に低く返したのに、連は自分の世界に浸っているのか、あまり気にしない。そうですねぇ、なんて、勝手に話を進めていく。
「でしたら、彩様にも合い鍵をお渡ししましょう。コピーがすみましたらお渡しします」
「――ああ。任せる」
頷いておく彩。……まあ、鍵があれば便利なのは確かだから、ここは素直に頷こう。
「とりあえず、上がるか」
「あ、はい」
途端、テンションが下がる連。……わかりやすいやつだ。
出入り口の前で、連が彩に貸出処理を教える。バーコードをリーダーに読みとらせ、貸出情報をパソコンに入力する。どうやら、このパソコンで検索もできるらしい。……まったく、図書館そのものだ。
「そうでした。大切なことをお話し忘れていました」
彩に本を返しながら、連が改まったように背筋をぴんと伸ばす。もしかしたら胸を張っているつもりなのだろうか、そんな気取った姿勢にも見える。
にこり、と。いままで以上に最高の笑顔で、連は最後の説明を付け足した。
「お借りになられた本ですが。――個人所有の図書室ですから、返却期限はございません」
連の得意気な表情に、彩は一瞬だけ呆然とした。
……実際。
普通の図書館のような図書カードは存在しないらしい。だから、図書があるのか、貸出中なのかは記録しているようだが、誰が、という管理はしていないのだろう。……出入り口に貸出処理を済ませたかを監視するゲートもないから、素通りだってできるはずだ。
「一生、借りっぱなしでもいいのか?」
彩の意地悪な質問に、しかし連はうーんと唸って、予想したような反応を見せない。
「本来はあまりよろしくはないのでしょうけど…………。大丈夫です。地下図書室を利用しているのは、わたしと彩様だけですから」
「…………」
だからなぜそんな得意顔をしていられるのかと、彩は冷めた目で連を見返すだけでなにも言わない。
……というか、いつのまにか彩も常連にされてるんだが。
やっとの思いで「…………そうか」と返すのが、彩には精一杯だった。
地上に戻って連と別れてから。
……本当に、本が好きなんだな。
自室に戻るまで、つい、図書室での連の姿を思い返す。
一カ月前、十年振りに再会したときなどは、動揺のあまり、上ずった声を上げたり、会ってすぐに玄関に向かって頭から突っ込んだりと、なかなか奇行が目立っていた連。さすがに一カ月も経てば慣れたように見えたが、昨日のパーティから、またあの頃の挙動に逆戻りしかけ。
そして――。
ついいましがた、図書室を案内していた連は、これまでで初めて見るくらいにテンションが高かった。……ように見えた。
……自分は、どうだろうか。
自分の寝室へと戻り、テーブルの上に持ち出してきた本を置きながら、ふと考える。
彩が本を読むのは、時間を消費するため。意味のない空白を埋めるように、彩は本を手に取り、ページをめくる。
――だが。
別に、本でなくても良かったはずだ。ここ最近、夜の散歩の習慣が放置され気味だが、それが主になっても良かったんだ。
なのに……。
彩は、わざわざ本を選んだ。読むモノがなくなれば買いに行っていたのだから、なにが無駄なのか、わかったものではない。
響彩は、なぜ本を読むのか――?
その自問に。
「…………」
ふっ、と。彩は自嘲を漏らす。
幼少の頃――。まだ彩が響の屋敷にいた頃、事故に遭う前、いまのように本館ではなく、西館に一人、軟禁されていた、あの頃。
彩は、たくさんの本に囲まれ、季節も昼夜も関係なく、一人で勉学に励んでいた。
――なぜ?
問うまでもない。……それが、彩に与えられたモノ。それが、彩に定められた役目。
だから、響彩は続けている。小学生のときも、中学生のときも、高校生になってからも……。
監視するやつらがいなくなっても。彩は、独学を続けている。おかげで、小学生のときには高校の勉強を終え。高校一年には大学の一通りの知識を習得し終え。高校二年のいまでは、時間潰しの単なる読書だけが残っている。
ソレしかしない。ソレしかできない。……ソレしか、知らない。
響の屋敷を追い出された彩は、三樹谷の家で十年を過ごし。そして響崇の跡を鮮が継げば、彼女の命にしたがって響家に戻り。冬休みの間、妹の希望通りにこの広い檻の中で時間を潰す。
……そう、潰す。
ああ。
なんて……。
「――無意味だ」
彩はベッドの上に背中から倒れ込む。テーブルの上に置いた本に手を伸ばす前に、彩は自分の顔の前に左手を掲げる。
――白い――手袋を――嵌めた――手。
十年前の事故で入院していたとき、もらったモノ。彩の破壊の性質を知ったうえで、その女性は、彩にこの白い手袋をくれた。
……願掛けだとか、なんとか。
事故の直後は、病院のベッドも衣服も、見境なく破壊していた、響彩の感覚。だが、十年経ったいま、彩が普通の生活を送れているのは、彩が感覚を意識の中に置かないよう、訓練したからだ。手袋を外した途端、モノを壊してしまう、衣服がボロボロに崩れていく、なんてことはない。いまでも入浴のときくらいしか外さないが、入浴中に何かを壊してしまった、なんてこともない。
無感覚……。無関心……。無感動……。
この十年で、彩が積み上げてきたもの。
――そして。
これからも彩は続けていく。
響の屋敷に戻って来たとしても――。
「…………」
溜まっていたものを廃棄すように、彩は息を吐く。そろそろと手を伸ばし、地下の図書室から持ってきた本を引き寄せる。八百ページ級のハードカバー、冬休み中に読み切れる。
もちろん、東波高校からは宿題が出ているが、彩は休みに入る前に終わらせている。授業中は本が読めないんだ、どうせ小学校の頃に終わっている内容だから、彩には意味のないこと、有効に利用しておいた。
ノックの音が聞こえて、彩は顔を上げた。適当に返事を返すと、扉が開いて連が姿を見せた。
「彩様。そろそろお食事にしますので、食堂までいらしてください」
ああ、と返すついでに、彩は言葉を付け足す。
「今日はやけに遅いな」
時計を見れば、いつもより一時間も遅れている。普段、時間に厳格な生活をしているから、こうもズレるとかなりの違和だ。
使用人らしく、連はすっと頭を下げる。
「申し訳ありません。鮮様や薫様の具合がよろしくなくて。しばらく様子を見ていたのですが、お二人とも、もうよろしいようなので」
彩は本を開いたまま、平生通りの口調で問いを投げる。
「具合が悪いのか?」
「いえ。なんと申し上げましょうか…………」
言い淀む連を見て、彩は「ああ」と即座に納得する。
――――たぶん、起きてくるのは昼頃だろうね。
つまりは、そういうこと。
昼頃とはいっても昼食の時間よりいくらか早いと予想していたが、結果は逆になったらしい。日頃、時間にうるさい鮮も、昨夜は大分疲れたのだろう。
まだ返答に窮している連を制して、彩は食堂へと向かった。食堂に向かう途中でリビングを見てきたが、午前中にはまだ残っていた飾りも、すっかりなくなっていた。
再が片付けたか、なんて考えていると、背後から当の本人の声が聞こえた。
「朝以外は食後にティータイムがあるはずだけど。朝なかったから、補給が必要?」
彩が半目で振り返ると、再の口元が吊り上がっていくのがわかる。その話題を続ける気がないので、彩は別のことを口にする。
「片付けたんだな」
「さすがに、昼前には終わらせておかないと。君なら大丈夫だけど、あとの二人――特に鮮様――には見せられないよ」
昨日、二人がかりで飾りつけしたのを一人で片付けたのだから、かなり手際よくやったものだ。なのに、疲労した様子も見せず笑っていられるのだから、使用人として熟達している。
で、と彩は嘆息気味に吐き出す。
「その二人は、ようやくお目覚めか」
「そんなところ」
微笑を漏らす再。その笑いがなんだか堪えるふうだったが、彩にはその理由がわからない。
「食堂で待っていてくれ。料理はもう少ししたら運ぶから」
それだけ残して、再は行ってしまう。
再が奥の厨房に消えていくのに対して、彩はその手前の食堂の扉を開ける。一カ月前には親戚の人たちもこの屋敷で生活していて、それでも十分に収容できるスペースを持っている食堂を、いまは三人だけで使っているのだから、殺風景もいいところ。
が……。
先にテーブルに座っているのは、昨日十歳になったばかりの薫だけ。その薫が、扉が開いたのに気づいて彩に笑いかける。
「おはようございます。お兄様」
「……おはよう」
扉からテーブルまでの長い距離を歩き、彩は自分の席に腰を下ろす。昔から使っている長テーブルに、薫と彩は並んで座っている。
こういうとき、彩は自ら口を利こうとはしない。無駄な時間ではあるが、喧しくするよりは沈黙を、彩は選ぶ。
「今日は寝坊してしまいました。昨日は遅くまで起きていたせいですね」
だが、薫は彩のような性格ではないらしい。訊いてもいないのに、彩のほうを向いて勝手に喋り出す。
「今日は習い事がお休みで良かったです。先生は個人でピアノを教えている人で、長期休暇はご家族とゆっくり過ごされたいとのことで、いつもお休みなんです」
だから、と薫は口元を笑みの形にしたまま眉を寄せる。
「休み明けは久し振りにピアノを触るので、引き始めは毎回緊張するんです。ちゃんと覚えてるか、ついつい不安になってしまって。でも、ちゃんと身体は覚えているんです。指が勝手に進んでしまいそうになっても、鍵盤の跳ね返りを確かめながら、ちゃんと合っていくんです。その、なんて言うか、引き方を思い出していって、しっくりくると、もういつも通りになって止まらないんです」
「ピアノ、上手いのか?」
饒舌に語る薫に、つい彩は訊き返していた。薫は、上手いと思います、なんて笑って返してきた。
「先生は、飲み込みが早い、覚えがいいと仰ってくれます。五回くらい、弾くのと聴くのを繰り返せば、大体の曲は弾けます」
ただ、と薫は肩を竦めてみせる。
「もう前からですけど、練習するのにもっといい環境が欲しいと、そう思うようになってきました。時々、先生のお知り合いの演奏会に連れて行ってもらうことがあるのですが、その中でとても上手な方がいらっしゃって。その人に教わりたい、って思っています。……でも、その人は県外の人なので」
響崇がどういう伝手でピアノ教師を見つけたのかは知らないが、さすがに遠方から呼び寄せることはしなかっただろう。もともと、響家は音楽家の一族ではないのだから。
「あとは、環境もですね。ちゃんとした演奏会場では音の聴こえ方も大分違いますし。先生のところでは、先生も弾いてはくれますが、このところは有名な人の演奏の入ったCDを聴いて、それから練習することが多いです。CDだと、なんとなく綺麗なのはわかるんですけど、音の流れ方が少し違うというか、独特なノイズがあったりで、少しもったいない気がするんです」
だから、と薫の語りに熱が入る。
「本当に最近ですけど、弾き方を自分なりにアレンジしています。そうすると、先生もいろいろとアドバイスしてくれます。それはいいとか、もう少しこうしたらいいとか。そうやって自分で弾き方を考えていると、CDで他の人の演奏を聴いたときにいろいろと参考になるんです。きっとこういうふうに弾きたかったんだろうなぁ、とか。CDではこんなふうに聴こえるけど、実際はこうなんじゃないか、って」
でも、と薫が苦笑を漏らす。
「そうやって、いろいろ試していると、やっぱりもっとちゃんとしたところで弾きたい、っていう気になってくるんです。先生のところのピアノ自体はたぶんいいんでしょうけど。音の響き方とかが違うから、それがちょっと気になってはいるんです」
もちろんいつもそんなことばかり考えているわけじゃないですけど、そう薫は締めた。
……かなり本格的だな。
薫は十歳で、小学生の半分ほど。それでも話を聞いた感じでは、かなりの腕を持っているし、意識も高い。
なのに、と、彩は思いついた疑問をそのまま口にする。
「この屋敷にピアノはないのか?」
東波高校から響の屋敷に帰るまでの道でピアノの音はよく耳にする。だが、この屋敷でピアノの音を、彩は聞いたことがない。
薫は首を横に振る。
「ありません」
「どうしてだ?練習のために置いてもいいんじゃないのか?」
普通は、そんなに気軽に買えるモノではないのだろうが、ここは大富豪の響の家。部屋の造りが同じなら、薫の部屋に置いてもまったく支障はないだろう。
さあ、と薫は首を傾げる。
「わかりません。お父様には、家ではお勉強をするように言われましたけど」
その辺りはわけているのか、と彩は妙な納得を得る。もともと、薫だけ習い事があるのが例外なのだ。祝日と長期休暇以外、毎日通わせているから、それで十分と判断したのか。
でも、と薫は続きを口にする。
「ピアノは、確かに欲しいです。できれば、ちゃんとした演奏ルームも欲しいです。ああ、あと、CDとスピーカーも必要ですね」
笑って理想の部屋を想像する薫。かなり無茶な要望に聞こえるが、響の財力があれば、きっと可能だろう。地下に図書館を作れるのだ、森の中に演奏ホールをこしらえることくらい、簡単だろう。
……鮮がやる気になれば、な。
いまの響家を動かしているのは、当主である鮮。なら、金を動かすのも、土地の使い道を決めるのも、鮮しかいない。
佐久間あたりに話したら、きっと悲鳴を上げるだろう。まだ高校一年生でしかない彩の妹が、響家という巨大な一族を手中に収め、動かしている。
――そんな。
本来なら、彩にとって遠い存在であるはずの彼女。
が――。
扉の開く音がして、薫が反射的に振り向く。薫に倣って彩も振り向くと、響家の現当主、響鮮が食堂の中へと入ってくる。
「おはようございます。兄さん、薫」
お嬢様らしく優雅に、無駄なくテーブルを横切って、彩と薫の向かい側に座る鮮。ぴんと背筋を伸ばし、いつものように当主様らしい姿勢を保っているように見えるが、彩の目にはまだ眠気が抜けきっていないように見える。本人はなるべく目立たせないようにしたつもりなのだろうが、一度長めの呼吸をしていたところから、欠伸を堪えるのに苦心しているようだ。
「申し訳ありません。遅れてしまって」
「いいえ。僕もついさきほど起きたところですから」
薫は笑って首を横に振る。鮮は薫を一瞥して頷いてから、ついと彩に視線を送る。仕方なく、彩も口を動かすことにした。
「別に俺はかまわない。どうせ休みなんだ、好きな時間に寝て、好きなときに起きればいい」
「それは不規則というものです」
いつものように生真面目なことを返してきたが、次の瞬間には鮮は溜め息を吐く。
「こんな時間に目を覚ました人間が言うことではありませんが。……本当に、どうかしてるわ」
眉間に皺を寄せ、額に手を当てる鮮。……確かに時間に厳格な彼女らしからぬことだが、そこまで気に病むことでもないと、彩は思う。
「珍しく、昨日は遅くまで起きていたからだろう」
気休めを口にする彩に、鮮は「そうでしょうか……」と漏らす。
「いつもの時間には起きられると思っていたのですが。思っていた以上に疲れがあったのでしょうか。昨日のように大がかりなパーティは初めてでしたし」
日頃から時間や規則にうるさい鮮が、まさか自分がそれを破ることになろうとは思っていなかったらしい。加えて言うなら、そんな自分自身も許せないようだ。
そんな鮮を慰めるように、というつもりはなく、純粋に鮮の言葉に薫が反応する。
「昨日は素敵なパーティをありがとうございました。とても嬉しかったです」
笑顔でお礼を口にする薫に、鮮もまた笑顔で返事をする。
「薫が喜んでくれるなら、やった甲斐がありました」
和やかな二人を前にして、しかし彩は口を挟まない。もともと鮮主導でやったことだし、正直、彩には誕生日パーティなんて特別な意識はなく、単に夕食の延長でしかなかった。特別、彩がなにかをしてやったという意識はないので、彩が語ることなどなにもない。
と……。
薫と笑顔を交わしていた鮮が、ふっ、と視線を彩に向ける。
彩は表情を変えず、しかし内心で疑問符を浮かべる。なにか、彩も口にすべてきなのだろうか、だが鮮の表情からはそんな要求めいたものを読み取れない。どちらかというと…………。
「――兄さん」
低く抑えた、声。薫と談笑を交わしていた声では、当然なく。自分自身を叱咤していた声とも、また違う。
――緊張を孕んだ、内緒話をするときのように、落とした、声。
だが、彩にはその理由がわからない。だって、あまりにも脈絡がなさすぎる。それを鮮も気づいているのだろうか、彼女は「いいえ――」と首を横に振って、
「お食事中は、私語厳禁でしたね」
なんて、会話を打ち切った。それはちょうど、再が食事を運んできたタイミングでもあった。
珍しく食事前に雑談が入ったが、食事中は平生のとおり、無駄口の一切ない昼食となった。二人とも途中で眠気に挫けそうになる素振りもなく、普段となんの遜色もない食事風景だった。だからか、昼食が終わると薫はすぐに自室に戻っていった。一方で、彩と鮮はリビングへ向かい、食後のティータイム。薫が参加してはいけない、という規則はない。単に、薫が紅茶を飲みたくない、というだけのこと。
そんな、いつもどおりの流れだったから、彩は食事前に鮮が言いかけたことなど、まるで気にしなくなっていた。忘れることはないが、どうでもいいことは意識から抜けていく、彩の性格が遺憾なく発揮されたわけだ。――――が。
「兄さん。お話があります」
ソファーに座り、互いのお茶の準備が済むと、鮮が早速と切り出してきた。
連はすぐにリビングを出てしまい、再は薫の部屋へ行って勉強を見ているのだろう。……だから、リビングには彩と鮮の二人だけ。
「――昨日は、なんの日かわかりますか?もちろん、薫の誕生日、以外です」
鮮がティーカップをテーブルに置いたので、彩も一口だけ口にしてティーカップを置く。不意打ちのような問い、だが、彩は迷うことなく即答した。
「俺が事故に遭った日」
そして――。
「俺の母親と、おまえの母親が、亡くなった日だ」
――十年前の事故。
それがどんな事故なのか、彩の記録の中にはない。交通事故だと聞いているが、それだけだ。
彩が聞いているのは、他二人の死。…………彩の母親――響水花――と、鮮と薫の母親――響奏――の二人。
彩と鮮は兄妹ではあるが、それぞれ別の母親をもつ。……彩は妾の息子で、長男。鮮は正妻の娘で、彩の一つ下。
その事実が、響家の跡取り問題にどこまで影響を及ぼしたのか、彩は知らない。物心ついた頃には、彩はここ本館ではなく、西館に部屋を用意され、一日中そこで過ごしていた。
……いや。
きっと。
出ることすら、許されてはいなかった……。
直接、外出禁止を命じられたわけではない。父親は彩に部屋を与えた切り、その後、一切の関わりをもたない。彩の母親も、普段から屋敷にいないような自由人で、たまにふらりと帰ってくるが、彩の生活にはさほど興味を持っていないようだった。
それでも、彩が外に出ることを禁じられていたというのは、なんとなく理解している。西館にいた使用人たちがそれとなく彩を外に出さないようにしていたから、そんな雰囲気を、彩だって気づいていた。彩に妹がいることも、彩は使用人たちの話からなんとなく知っていた。
――彼女は正妻の娘で、本館に迎えられ。
――自分は妾の息子で、西館に追いやられ。
その隔たりがより致命的になったのが、十年前の事故。
彩と彩の母親は、同じ交通事故に遭ったらしい――記録がないのだからこうとしか言いようがない。彩は奇跡的に助かったが、水花のほうは結局、還らぬ人となった。
そんな傷モノの彩を、彩の父親にして当時の当主である響崇は勘当し、親戚の三樹谷家へ放り込んだ。事故で入院するほどの大怪我を負った人間に対してあまりにも酷い仕打ちだが、響のような上流階級の一族にとって、家の名を汚すような存在は排除しておきたかったらしい。以来、響崇が亡くなり、鮮が当主になるまでの間、彩は響の屋敷に入ることはなかった、というわけだ。
「そのとおりです」
鮮は硬い表情のまま頷く。
「祝い事と同じ日に不幸があったなんて、それを薫が知ったら、誕生日パーティなんて気持ちがなくなってしまうと思いましたので、薫には内緒にしています」
彩にとっては、自分が事故で入院した日であり、母親である水花が亡くなった日。だが、鮮と薫にとっては、別の意味のほうが大きいだろう。――響崇の正妻である、響奏の死。
彩も事実だけは知らされているが、実際にはなにが原因だったのか、聞かされていない。奏は事故ではなく病死だと耳にしているが、その日が薫の誕生日であることから、彩は自然と一つの可能性を推測してしまう。
「薫は知ってるのか?そのこと」
いつもと変わらぬ無表情で、彩は問う。対して、鮮は「いいえ」と首を横に振る。
「おそらく、知らないと思います。葬儀をやったきり、墓参りなどはしていませんから。……わたしも、お父様の葬儀の際に、十年振りにお母様方のお墓の前に立ったのですから」
沈んだ声を出す鮮に、しかし彩はなにも返さない。
……俺は一度も墓参りなんてしてないがな。
それも、仕方のないこと。事故の直後はしばらく入院しており、その後は響崇から勘当されて三樹谷家に追いやられたのだから。葬儀に呼ばれることも、墓参りで声をかけられることも、当然ない。
その沈黙を埋めるように、鮮は真っ直ぐ彩を見る。
「――兄さん。お墓参りに行きましょう」
彩の判断を挟む余地もなく、鮮は提案する。
「兄さんは三樹谷にいる間、一度も響家のお墓には行ったことがないのでしょう。兄さんのお母様のこともですが、ぜひ、お父様のためにも、手を合わせてください」
すでにその提案は鮮の中で決定事項らしく、彩が拒否を選ぶことなど不可能だった。だから彩は、十秒を開けて、頷くしかなかった。
響家の墓は、この広大な響の屋敷の敷地内にあるらしい。玄関から正面に本館があり、本館の両脇に東館と西館が、本館を突っ切ってすぐ裏に離れが一つ。この離れは周囲の屋敷より少し小さいくらいで、離れというより別館と呼んでもいいくらいだ。それだけの建物があっても、この屋敷の敷地はまだ余りあり、これら四つの建物の裏側には広大な森が広がっている。……その森の中に、響家の墓があるとのこと。
一カ月前には屋敷の中に親戚たちを何人も抱え込んでいた、それだけの広さをもつ一方で、墓は響家専用らしい。
「響の家に親戚の方々が暮らしていたのは、一応、響が部屋を貸していたからです。ですから、この土地の所有権はあくまで響にあり、墓地のような永続的なものに親戚の方が入る余地はありません」
というのは、鮮の言。
墓に行くまで森の中を進むわけだが、人工の森だ、人が通るための道は用意してある。緑のトンネルを、彩と鮮は並んで進む。
「この先に、もう一つ離れがあるんだったか」
一度も行ったことはないが、彩も響の屋敷の造りを、小さい頃に一通り把握した。はい、と鮮が頷く。
「昔は、猪戸兄妹が住んでいました。わたしが中学生の頃に、本館の裏にある離れに移動しましたが。響家の世話をするのに遠くの離れでは不便だと、猪戸兄妹から要望があったそうです。それをお父様が承諾された、と」
いまではみな本館で暮らしていますけど、と鮮は苦笑を漏らす。
なるほど、と彩は一つ納得する。まだ小学校に上がる前、彩がこの屋敷で暮らし、西館にいた頃。彩は連に誘われてこの森までやって来たが、彼らがここを遊び場としていたのは、ここを毎日通っていたからか。
彩と鮮がいま通っているのは、本館から離れに通じる整った道だが、もちろん、一つ脇に逸れれば、人工とはいえ、それなりに巨大な森に迷い込む。その中には休憩のための憩いの場があり、また、いま彩たちが向かおうとしている墓地もある。それでも猪戸兄妹がいつもの遊び場に辿り着けたのは、そういう経験があったからだ。
「…………」
彩は十年振りにこの森に入ることになる。屋敷に帰ってきて一カ月も経つが、これまで森の中に入ることはなかった。当然だ、用もないのにこんな場所に入るわけもない。十年前は遊び場だったかもしれないが、それは小学校に上がる前の小さいときのこと。
加えるなら……。
……もともと、外に出る気なんてなかった。
十年前は連に誘われて、彩は仕方なくここまで来ていただけ。だから、当時の様子は記録には残っているが、特に思い返すようなことはない。精々、彩の心に浮かぶのは、
――この道を使うのは、初めてか。
くらいのもの。あの頃は、人目につかないように変な道を通っていたせいなのだが。
もうどれくらい歩いたか、十分は優に過ぎているだろう。
「こちらです」
鮮がこれまでの道を外れ、木々の間を通っていく。彩も彼女のあとにしたがうと、そこにも狭いながら、道がある。一人が通るくらいの道幅しかない、あとは押し寄せるように緑の葉が伸びている。
そこからさらに三分ほど。視界から緑が遠退き、現れたのは開けた空間。
「こんなところにあるのか。よく隠したな」
周囲をぐるりと緑に囲まれ、ここだけぽっかりと空が見える。そんな空白の地の中央に、その墓はあった。響家だけしかないから、家の名が刻まれた石が一つ、そして個人の名がいくつも綴られた石の帯が、その周りを囲むように置かれている。
若干、鮮が先を進みながら、彩のほうへと振り返る。
「奥の離れから近いところにあるんです。その離れにいた使用人に、ここの管理をお願いしていました。とはいえ、それは一部の人なので、それ以外の人はこの場所自体を知らされていません。基本的には、森の奥に勝手に入ることは禁止しているので」
まあ、当然の処置ではある。自分たちの寝起きしている場所のすぐ近くに墓地があるなんて、あまりいい気はしない。
だが、と彩は記録の中からそれを思い出して、皮肉交じりに鮮に返した。
「その割には、昔は頻繁に森の中に入っていた気がするがな」
「あっ、あれは。小さい頃のことです。あのときは、まだそんなことは知りませんでした」
「そもそも、屋敷から勝手に出ることもダメだったんじゃないのか?」
「…………そうですけど」
いいんです昔のことですから、と鮮は彩から視線を外してさっさと先に進んでしまう。彩は一つ吐息を漏らして、鮮のあとに続く。
墓地のすぐ横に小屋があり、鮮はそこから線香とライターを取り出して墓へと向かう。鮮は二本の線香にまとめて火をつけて、すぐに消す。
「さ、兄さん」
差し出された線香を、彩は黙って受け取る。鮮はなんの迷いもなく、白い煙を上げる線香を墓前に捧げて手を合わせる。
……ご冥福をお祈りします、か。
彩も鮮を真似て手を合わせ、目を閉じる。……響家の墓。ここに埋葬された人間で彩が知っているのは、三人。
だが――。
――思い出なんて、ないな。
その誰をとっても、彩はなにも感じない。有り体にいえば、他人の死を悼むようなもの。自分となんの関わりもない、赤の他人。
だって、そうだろう。
――特に。
親父のことなんて――。
事故に遭う前、まだ彩が響の屋敷にいた頃。響の姓をもつにも関わらず、彩は本館に入ることを許されず、与えられたのは西館の一室。
……いや、それだって。
よくよく記録を掘り返してみても、彩は響崇の顔を見つけられない。物心つくより前に西館の部屋に入れられたのか、父親に部屋と本を与えられたという認識だけが残っている。
……まあ、そのていどのことか。
その後、事故に遭えば勘当し、彩の病室には一度も足を踏み入れず、もちろん、三樹谷の家にも来たことはない。退院した彩を迎えに来たのも、三樹谷夫妻だったか。
――顔さえ知らない相手の墓前に、彩は立っている。
なんて、皮肉。
幼少の頃より隔離され、拒絶され。事故に遭ったことでそれはより決定的なものとなり。
そして――。
片方が命を失って、初めて両者は対面する。この相対だって、墓石の下で眠っている相手は、きっと望んでいない。――――まして、祈り、なんて…………。
「…………」
彩が目を開けても、妹の鮮はまだ手を合わせて目を閉じたまま、動こうとしない。仕方なく、彩は静かに待つ。彩がどうであれ、彼女がなにかをやったと実感できれば、それでいいのかもしれないと、そう納得することにして。
墓参りが終わると、彩たちはすぐに屋敷へと引き返した。昔遊んだ森を通りながら思い出話に興じる、なんてことは一切起こらずに。もちろん、故人の思い出話をするようなことも、ない。彩は勘当され、この屋敷から追い出されていたのだ、語ることなどない。
父親のこともだが、母親のこととなれば、なおさらなにもない。……腹違いの兄妹。思い浮かぶ相手は、全く噛み合わない。
本館に戻ると、二人は二階で別れた。それも当然、鮮は東側で、彩は西側の部屋だ。自室に戻るなり、彩はすぐに寝室まで部屋を突っ切り、ベッドの上で読書を始める。宿題をやり終えた彩の、当然の冬休みの消費法だ。
……その後、彩の読書はかなり捗った。
というのは、夕食後、鮮は体調が優れないとすぐに自室に引っ込んでしまったから。いつもなら、食後のティータイムがあるのに、だ。
墓参りで疲れたのか、いや、それほど距離があったわけでもなく、重労働をしたわけでもない。昨夜の疲れがまだ残っているのだろうか、なんて、彩は特に意識に留めることはせず、すぐに自分のベッドの上に戻ってきた、というわけだ。
彩がベッドの上で読書をしていると、よく連がベッドメイキングのために入ってくることがあるが、今日はそれもない。おそらく、彩が墓参りに出ている間に済ませたのだろう。おかげで、彩は誰にも邪魔されることなく、地下から借りてきた本を読んでいられる。
一日で第一部を読み終わるていど。このペースだと、来年になる前に読み切ってしまうか。『アリーヌとヴァルクール又は哲学小説』以外にも地下から持ってきた本があるから、そちらを読めばいいのだが。
内容は、以前に読んだ『食人旅行記』のあとがきにあるとおり。お互いに想いを寄せ合う男女、だが、女性側の父親は金を持っている別の男と結婚させようとする。彼らと、女性の母親、他にも男性側の友人たちは、なんとか主人公とヒロインが一緒になれるよう苦心する。……という、現代でもドラマでありそうな話だ。
一応付け足しておくと、話は彼らのことだけではなく、『食人国旅行記』で登場していた二人の男女の物語も絡むことになる。
……まあ、そいつらの話は第二部からだから、明日になるが。
この本の父親は、自身の私欲を満たすために、娘を金持ちの男と結婚させようとする。……なんとなく、彩の父親と重なる気もする。
だが、決定的に違うところも、またある。――響崇は、その思惑が知れない。
彩を隔離し、拒絶していた彼の父親。なにか理由があるのだろうが、一度も彼と言葉を交わしたことがなく、まして会ったこともないのだから、その理由を測ることさえできない。
――響崇は、なにを考えていた?
一瞬浮かんだそんな思考も、莫迦らしいと彩はすぐに破棄する。それを知ったところで、彩のこれまではどうにもならないし、これからだって、なんの変化もない。響崇の治世は終わり、次は彩の妹が全権を任されている。
……あいつはあいつで、勝手にやってくんだろうが。
父親が亡くなった後、葬儀をすませた鮮は親戚たちを響の屋敷から追い出して、代わりに彩を呼び戻した。ただそれだけのことでも、響にとっては大きな変化だ。
彩はふと、視線を上げて柱時計に目を向ける。零時をまたぎ、すでに日は変わっている。
「どうするか……」
ここ最近は散歩に出ていなかったが、今夜くらいはどうだろう。猪戸兄妹による見回りは、もう終わっているはず。
――パタン。
と、本を閉じる。ハードカバーをケースにしまってテーブルに置く。部屋着のまま、彩はベッドから抜け出し、
――行くか。
と。
口には出さず、そう決定した。
彩は足音を殺して階段を下っている。あまり意識してのことではない、気配を殺すなんて、彩にはさほど難しいことではないから。
時刻は午前零時半。久し振りの夜の散歩。今夜の散歩コースは、響の屋敷。…………地下にある図書室へ。
一カ月もこの屋敷にいるから一通り回ってみたが、生憎、片っぱしから鍵がかかっているので部屋に入れたことはない。
図書室の鍵は、夕食後に連からコピーを渡された。早速その鍵が役に立つわけだが、まさか連も、真夜中に利用されるとは思っていなかっただろう。
もっとも、だからどう、というわけでもないが。彩からすれば習慣になっている散歩の延長でしかない。午前に初めて入ったときは本を借りるだけで終わったから、改めて中の様子を見て回るのもいいだろう、ていどのもの。
一応、他に誰も見ていないことを確認してから、彩は鍵を開けて図書室の中に入る。明かりだけ点けて、空調は停止したまま。扉を閉めても窓から明かりは漏れてしまうが、それは仕方ないと彩もあまり気にしない。
「…………」
改めて、そのあまりの広さを一望する彩。規則的に並んだ本棚が、縦にも横にも、どこまでも続いているよう。高校の体育館ほどの広さだろうか、だが、高さはさらに高いからより広く感じる。
周り始める前にと、彩は入口付近に置かれたフロアマップに近づく。銅の台座の上に広げられたそのマップには、おおざっぱに蔵書の区画が記されている。
どんな本が置かれているのかと、一通り確認していた彩は、ふと一番奥の箇所に目をとめる。
「立入禁止、ねぇ……」
二階へ続く階段があり、その階段の上に記された文字を彩は読む。地下で一階とか二階とか考えるのも妙だが、とりあえずいま彩がいるところを一階とすると、一階のフロアマップはちゃんとあるのに、二階のマップはここには書かれていない。階段の上には『立入禁止』の文字以外なにもないから、なにがあるのかわらない。
彩は視線を上げる。二階にもフロアがあることはここからでも見える。が、本棚は奥に隠すようにしていて中までは見えない。階段も、湾曲した壁に隠すように設置してあるらしく、ここから見ることはできない。
「……」
彩は行き先を定め、本棚の間を突っ切っていく。一階に敷き詰められた大量の本棚など見向きもせず、彩はその目指すべき先に視線を固定する。
一カ月前には親戚たちもいたような屋敷だ、響家として秘密にしておきたいものだってあるだろう。
――なら、彩は?
響の姓をもちながら、小さい頃から本館に入ることを許されなかった彩。事故に遭えばそのまま勘当され、外にいる親戚の家に放り込まれる。
――きっと。
彩は、響として扱われていない――。
そんなことは、とうの昔からわかっていた。
――その理由が。
あの先にあるとしたら――?
彩が妾の息子だから、というのが簡単な理由だろう。だが、だから事故に遭ったのを理由に勘当するというのは、いくらかやりすぎではないか。
……それに。
と、彩はその記録に触れる。
十年前の事故――。彩の母親が亡くなり、三日の昏睡を経て、彩だけが奇跡的に助かったという、事故。だが、当事者でありながら、彩はそのことを記録していない。医者からは頭を強く打ったせいで覚えていないだろう、なんて説明されたが、それだけで納得しきれるものではない。
彩は、記録する。それは感情を挟むような記憶ではなく、純粋に事実だけを積み上げた記録だ。ゆえに、彩はこれまでのことを全て覚えている。――――ただ、十年前の事故という唯一の空白を除いては。
……都合が良すぎる考えだってことは、彩だってわかっている。
だが、なんとなく浮かんだその思考に突き動かされ、彩は足を止めない。
――どうせ、単なる思いつきだ。
ハズレたらハズレたで、それはそれでかまわない。夜の散歩の余興はそのくらいのことだって、彩も心得ているのだから。
端から端まで歩くだけでもだいぶ時間がかかったが、ようやく、彩は二階へと続く階段の前に立った。壁が歪曲しているどころか、完全に内側に巻き込んでいるから、パッと見ただけではわからない。デパートの非常階段のようなイメージだ。そこに階段があると、わかっていなければ気づかない。ご丁寧にも、中に入るとまた『立入禁止』なんて文字があったから、実直な人間だったらすぐに引き返しているだろう。
……いや、それだけではない。
階下に立った彩は、その先へと続く階段を見上げる。もともとビルの三階分の高さがあるから、階段もそれなりに段数がある。途中で踊り場が用意されていたが、問題は、その踊り場に設置された、モノ。
「…………なかなかセンスあるな」
見上げる先、それなりの距離があるのに、その異様ははっきりと目にすることができる。それは、人間の全身を模した石膏像だ。『模した』といってもかなり精密で、しかし『模した』というように、それは完全な人の形をしていない。
男性の裸体の石膏像らしいが、まず目につくのは、空っぽの頭。そう、首から上が切断されたように綺麗に存在しない。そして視線を下げると、鍛え上げられた肉体の至るところが空洞で、向こう側が覗けて見える。右手を前に突き出して『こちらへ来るな』と言っているようにも見えるが、その手にも穴が開き、指が何本か欠けている。
ハッ、と彩は小馬鹿にするように吐いて捨てる。
「だからなんだ、ってやつだが」
その気味の悪い石膏像を目にして、しかし彩は階段へ足を伸ばす。なんの躊躇も怯えも見せず、彩はスタスタと階段を上っていってしまう。
確かに不気味ではあるが、それで諦めてしまうのは子どものすることだ、と彩はそう理解している。ただのこけおどしていどで、響彩は引き返したりしない。
そんな彩も、次のブツにはさすがに肝を冷やしたのだが。
「……!」
踊り場に立ち、次の階段に進もうとしたところで、彩はその異形の前に足を止めた。
それは、手擦りを境に、首なし像の反対側に設置されていた。こちらも人を模した、と言えるのだろうか。醜く膨れ上がった肉体から、無数の棘が生えている。苦痛を訴える表情の、その眼は空洞で眼窩が覗いている。顔と首と肩の境がなく、髪も融けて身体に張り付いている。両手を伸ばして救いを求めているように見えるが、その絶叫した表情からは生理的な恐怖が這い寄ってくる。しかも体中から幾重にも針が生え、まるで針山の塊のようなその姿には、あまり近づきたくない。
「地獄絵、ってやつか…………?」
宗教絵画の中には、悪魔や悪鬼、あるいはそういった魔が住む世界を描いたモノがある。生前に悪事を働くと、こんな苦しくて辛い世界に堕とされる、こんな醜いやつらに酷い目に遭わされる、そういう意図で作成される。
この二つの異形の像も、きっとそういった警告なのだろう。『立入禁止』その禁を破った者には災いが降り注ぐ…………。
「本当に、子ども騙しだな」
彩はかまわず、上の階へと歩を進める。その見上げた先にも、またなにか設置されている。今度は頭部のみの銅像らしい。階段を上りきって正面からその銅像を確認すると、どうやら髑髏を模したモノらしい。右半分は完全に銅色の髑髏だが、左半分は白く肉付けされていて、眼窩の中には硝子玉のような眼球がいくつも詰め込まれている。
……もはや呆れて、なにも口にする気も起きない。
二階には、それほど広くない。ともすれば、行き止まりと見間違えてしまうほどになにもない。が、柱の陰に隠すように、このフロアで唯一の扉を彩は見つけた。
――あれか。
目的地の前に、彩は立つ。この扉の前にも警告の文言が認められているが、彩はまるで取り合わず、ドアノブに手を伸ばす。
「……………………まあ、開いてないよな」
いくら捻っても、鍵がかかっていてびくともしない。それも当然だろう、誰でも入れるようにしていたら、警告の意味がない。
「仕方ないか」
彩は引き返して、一階に下りることにした。髑髏の銅像を通り過ぎ、ハリネズミのような人を模した肉の塊の側面を眺め、首なしの裸体の側面を視界の端に追いやる。踊り場から次の段へ下りると、目の前には目隠しのような壁があるだけ。折角二階まで上ったのに、覆いがあるせいで一階の全容を眺めることはできなかった。
「まだ時間はあるだろう。一階だけでも見ていくか」
一階に下りた彩は改めてその立ち並ぶ本棚を眺め見る。本棚に染みついた古色から、相当古くからあるのだと理解できる。また、壁際には本を読むための机が用意されている。
とりあえず壁に沿うように歩きながら、彩は中心の本棚の群れを眺めていく。
スーーーーーーーーーーゥ…………
と。
視界の端で、なにかが通り過ぎる。
「……!」
慌てて引き返し、彩はそれが見えた通路を直視する。…………なにも、いない。
――見間違いじゃない、はずなんだが…………。
再か連か?だが、見回りの時間はとうに過ぎている。
……それに。
彩はその影が消えた場所まで、足音を殺して移動する。一瞬だったとはいえ、彩の記録力なら間違えるはずがない。
「…………」
やっぱり、と彩は内心で確信する。
――背が、低すぎる。
一瞬見えた影の高さと本棚の高さから、彩は自身の身長と比べてみる。その影は、彩の膝丈ほどの高さしかない。……館の中で一番背の低い薫でさえ、もっと背丈がある。
「……………………」
影が消えた先へと、彩は油断なく視線を向ける。どこまでもどこまでも、同じ形の本棚が続いている。同じ形で、こうして漠然と眺めているだけでは、個々の違いなど見えやしない。類似にして同等で等価なモノが無限に敷き詰められている。いつまでも凝視していては目眩を起こしてしまいそうな幾何学模様に、しかしそれを破ってくれる異物は見当たらない。
周囲に目を向けたまま、彩は並行して耳からの情報にも探りを入れる。シン、と物音ひとつしない。空調も切っているから、静寂が耳鳴りのように響いている。キーン、と耳の奥に針を刺し込まれたような鋭い無音。息がつまりそうな圧倒的な無に、しかし彩は身動き一つせず、ただじっとしているしかなかった。
「……」
どれくらい、意識を凝らしていただろうか。結局、一瞬だけ視界に入ってきた影は少しも現れない。変な気配もなく、ただ周囲には静寂があるばかり。
……見間違いだったか。
そう、彩が結論しかけ、緊張を解こうとした。――瞬間。
スーーーーーーーーーーゥ…………
また、気配。――それは、背後。
「……!」
反射的に彩は振り向いた。音が聴こえたわけではない。なんとなく、そんな気がしただけ。
普段は感覚を遮断している彩でも、常に感覚をオフにしているわけではない。なるべく感覚しないようにしながらも、最低限の、気配とかそういう類のものを感じ取るために、意識を研ぎ澄ますときがある。
いまが、まさしくその状態。――――感覚する、感覚しない。その、絶妙なバランス。
「…………」
彩は振り向いた状態で静止し、じっと自身の背後を凝視する。正面と等しくどこまでも続く本棚の群れに、敷き詰められた本の数々。末端の壁が霞むほどに、広がる本棚と本の模様が視界を埋め尽くすように。
――なにも、いない……?
それ以外の異物は、やはり見つけられない。
そんなはずはない、と彩の直感が訴え続ける。しかし、彩がいま視えて、聴こえて、そして感じ取れるモノは、その意見に異を唱える。
「………………」
再び足音を殺し、今度はより慎重に、彩はその気配があったほうへと移動する。
直接見たわけではないから、どこを通り、どちらに向かったのか、まるでわからない。それでも、なんとなく、直感だけで歩を進める。
なにも、聴こえない。周囲の音どころか、自分の足音も、鼓動の音さえ、彩は感覚しない。ただ、自身の身体がわずかながらも緊張している、ということだけはわかる。わずかな、ほんのわずかな肉体の動きから、彩は自身の状態を把握している。
ゆっくりと歩きながら、彩は慎重に、細部まで逃すまいと、目と耳に意識を向ける。
……こういうのは性に合わない。
周囲に意識を向けるようにしたとはいえ、長年、感覚を遮断し続けてきた彩だ。いまみたいに周囲の気配を感じようなんて、しかも、いるかいないかもわからないような、そんな姿を隠した相手を探すなど、彩には不得手だ。
感覚する、感覚しない、その、中間に位置する、絶妙なバランス。それは、普段から完全に感覚を遮断している彩にとっては、余計な集中力を強いる。
内心で悪態を吐いても、しかし彩は少しも集中を切らない。まだ、なにも感じ取れてはいないが、それでも彩の直感は〝なにかいる〟と訴え続けている。……なら、その正体がはっきりするまで、彩は諦めるわけにはいかない。
本棚と本棚の隙間を、彩は通過していく。彩は男子の中でも背の高いほうだが、そんな彩でも脚立がなければ本棚の一番上まで届かない、それほどの高さの本棚。地震かなにかで倒れてしまったら、生き埋めになってしまうだろう。あるいは、これだけの本の量だ、その重みと衝撃で潰れてしまうのだろうか。……人を見下ろす本棚に隙間なく本が敷き詰められていると、それだけでかなりの威圧感がある。
本棚の背には板が入っているため、彩の視界は正面に固定される。一列を抜けて次の列へ移る直前に、左右を見ることができるだけ。だが、どこから見ても、やはり見えるのは規則的な本棚ばかり。なにも異常を見つけられず、彩は次の列へと移動を再開する。
五列移動して、彩はしばらく周囲を確認してから、ようやく引き返し始める。なんとなくこっちに気配を感じたが、いくらなんでもこれ以上向こうにはいないと、そう判断したのだ。もちろん、相手がじっとしている保証なんてないのだが。
――そう。
相手だ――。
彩は、明確になにかの存在を意識している。それが『なに』かは、彩にもわかっていないが。
本当に、ここはなんの音もしない。図書室全体を照らす白い光が降り注ぐだけ。それも煌々と照りつける強い光ではなく、本は読めるだろうが、どこかぼんやりと、目を離せば影が浮かぶような、そんな印象の光だ。事実、視線の端、ギリギリ視野の内に入る場所であっても、這い回る闇が本棚を、通路を呑み込み、人の認識から覆い隠してしまう。
――と。
不意に、彩は足を止めた。
「…………」
気配を感じたわけではない。なのに、直感が、この辺りだと、彩に告げる。
まるで、根拠なんてありはしない。身体は緊張し続けているらしく、筋肉の強張りが自身の動きから判断できる。もう一歩奥に踏み込んでしまったら、咄嗟に反応できなくなるかもしれない、そんな、ギリギリのライン。こういうときは、肉体をほぐすために、少しでも動いておいたほうがいい。
なのに……。
彩は、気配を探る。もう、無闇に周囲を眺めることも、首を動かすことさえ、しない。眼球だけを動かして、周囲を判断する。それ以上に、耳から得られるものはないかと、集中する。
「…………」
長く息を吐いて、少しでも身体を落ち着かせたいのに、それさえしない。…………まるで、次の瞬間に猛獣が襲いかかってくることを知っているかのように。
震、と静寂。――止まったまま、気配だけを探っている。なにも、動くものは、ない。
緊、と耳鳴。――静かすぎて、頭がおかしくなりそう。なのに、ぴくりとも、動けない。
まるで、押さえつけられたバネのよう。あまりの力に、中ではギシギシと軋みを上げている。一方で、自身は早く飛び出したくて、まだかまだかと待ちかまえる。……飛び出した瞬間、果たして喰われるのはどちらなのか。
網膜の裏では、あの影がちらついている。本棚と本棚の間に、一瞬だけ姿を見せる影。それは影という形をしているだけで、正体は不明。ただ、彩の膝丈ほどの背丈しかない、ほんの小さな影、ということしかわからない。
それでも、彩は油断しない。本当に、小さな子どもかどうかなんて、わからないのだから。
そもそも、あれが人なのかさえ、判然としない。犬か、はたまた狼といった獣の類。だとすれば、それはかなりの大物だ。……それだけの大きさで姿を捕捉できないほどの速さをもつなら、人間の彩がどうこうできるのか?
「……」
不意に、彩は二階へ上がるときに見かけた異形の石膏像を思い出す。首を断ち切られ、体中を穴だらけにされた、裸体の男性像。醜く肥え太った肉体の、その内側から串刺しにされた性別不明の石膏像。どちらも苦痛を訴え、救いを求めて手を伸ばし、しかし一度下された審判は覆ることなく、罪人を断罪する。
彼らの頭上からは、爛れた肉をこびりつけた髑髏が歪んだ哄笑を上げている。無数の眼が、数多の虹彩に輝く眼球の群れが、決して罪を見逃さないとばかりに睥睨している。
――莫迦な。
あの影が、執行者だとでもいうのか?禁を破った者に裁きを下す、その使徒だとでも?
あり得ない、と内心で結論し、しかしぴくりとも動けないこの状況では、説得力が足りない。そんなはずはないと、ただ一言吐いてしまえば少しは楽になれるのに、そうやってただ吐き捨てることさえ、許されない。
……その瞬間に。
襲われることを知っているかのように……。
異形の石膏像、手を伸ばした彼らはなにかから逃れるように、救いを求めるように。頭上の髑髏は、ただ罪を嘲笑う。しかし、自身も首だけの、皮膚を削がれた存在に成り果てたことに、果たして気づいているのだろうか。
わずかに彩は手を握り締める。たったそれだけの所作、しかしそのわずかな動きだけで、彩は自身の愚かな思考を断ち切る。ただの一言も発することができないこの状況での、苦し紛れの代替行為。
裁きなんて、あるわけがない。もしあるとするなら、それは人の手によるものだ。こんな、得体の知れないモノに突きつけられるような、そんな呪いじみたものじゃない。
良し、と納得して息を吐こうと、して、
スゥ……。
頭上に――。気配が――。のしかかる――。
ハッと、彩は反射的に振り仰ぐ。……だが、その一瞬の隙をつかれて、彩は後手に回る。
彩の視線の先、それは本棚の上にいた。それは、まさしく影だった。図書室全体を照らす光が降り注ぐ中、彩はその正体を観ることができなかった。
突き刺さる視線。獲物を見下ろす猛獣の眼光。それは獰猛ではなく、ただただ純粋な脅威。影の中、闇の中から、その禍の一閃が彩の網膜を、身体を貫く。
蛇に睨まれた蛙とは、こういう気分なのだろうか。いや、気分もなにもない。なにか、感じるより先に…………。
……彩の意識は、肉体が崩れ落ちる前に、墜ちた。




