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極章

 長く――――。目の前にあるのは静止画だと思っていた。しかし、それは絵画の一風景などではなく、現実として存在するものだと、モノクロの背景に割り込んできた少女によって気づかされた。

 まだ、幼い少女だった。小学校低学年か、いや、まだ小学生ですらないのか。それくらいに、小さな少女だ。

 そんな彼女は、(とし)に不相応なドレスを身につけていた。いや、ドレスと錯覚してしまうくらいに、綺麗なワンピース。そのうえに、寒さ除けのカーディガンを羽織っているところが、より彼女を幼さから遠ざけている。

 ――あざや。

 ハッとして、響崇(ひびきたかし)は銃口を下ろした。自分の娘に拳銃を突きつけるなど、あってはならないことだ。まだ幼い我が()に、こんな物騒なモノを見せるなど……。

 だが、幼い(あざや)はそんな父親の挙動どころか、父親そのものに気づいていないかのように、ふらふらと崇の前を歩いている。距離は、三メートルほど前。彼女は崇に振り向くことなく、その静止の前に立った。

 (アカ)い、椅子のような体勢で絶命した響奏(ははおや)。そして、(かなで)の足元で横たわったままの、(あに)

 ――ああ。

 鮮は、(さい)が自分の兄だということに気づいているだろうか。腹違いで、彼女と違って西館に暮らしていたということを、鮮は知っているのか。

 ――そして。

 自分の母親を殺した、憎むべき悪魔だということを――。

 鮮は彩の前で足を止め、膝をついた。血塗れの芝の上、自分が身につけた衣服が汚れることも(いと)わずに、鮮は横たわった悪魔へと手を伸ばそうとする。

「……っ」

 ようやく、崇の凍りついていた時間が動き出した。

 ――鮮!

 なぜこの()がこんな場所にいる?彼女は自室で勉強に励んでいるのではなかったか?いや、いまはそんなことを問うている場合ではない。認めねばならない、そのうえで否定しろ。

 ――鮮は、ここにいる。

 そのうえで。

 (おれ)が撃ち殺した彩に触れようとしている――ッ!

 それだけは、許してはならない。子どもの外見(なり)をしているが、奏を惨殺した悪魔なのだ。そもそも、アレは確かに死んだのか?それすら、判然としない。確証が持てないのだ。確かに、銃弾の痕が見える。そこから、赤い血も流れている。(アカ)い…………。血は、赤いらしい。だが、そんなもので気を許してはいけない。あの()を見ろ。ヤツが倒れる前と同じ色だ。なにも映さない、無感動な()。まるで機械のように、我々、響を破壊しようとしている。

 崇は一歩、鮮に歩み寄ろうとした。まだ震えているのか、声は出ない。だが、足を動かすことなら、辛うじてできるのだ。さあ、次の一歩も踏み出して、鮮を止めるんだ。

 が――。

 ――崇の前に、障害物が一人、立ち塞がった。

 こちらも、少女だった。歳は、鮮と同じくらい。だが、こちらの少女は、年相応の恰好で、動きやすそうな衣服に身を包んでいる。

 誰だろう、使用人の子どもだろうか。その少女が、牙をむき出すように歯を食いしばり、低い威嚇の声を上げながら、キッと鋭い視線でこちらを見上げてくる。まるで、追い詰められた仔犬といった風情。だが、少女のあまりの剣幕に、崇は咄嗟の反応に遅れる。

 その、致命的な刹那――。

 ――(みどり)の光が溢れた。

 崇は、その突然の光に呆然となった。崇を威嚇していた少女もまた、その光に気づいて振り向き、目を奪われて固まってしまう。

 その光は、血塗れの奏と悪魔と、そして鮮を呑み込んでいる。一体なにが起きたのか、しかし、崇はたちどころに、その現象を理解する。

 ……これが。

 鮮の、異能……。

 崇は、まるで動けなかった。事態は把握できても、一体どうすればいいのか、てんでわからなかった。……だから、成り行きに任せて見守る以外、なにもすることができなかった。

 光は、一分近く続いた。その光は、現れたのと同じく、力尽きたようにぷつりと消えてしまった。

 幕が晴れ、そこには光に呑まれていた三人の姿があった。特段、変わったところなどない。……ただ、鮮が悪魔の頭部、弾痕に触れていたということくらい。

 ――ふらっ、と。

 鮮がその場に倒れる。まるで糸の切れた人形のように、悪魔のすぐ傍で横になった。

「あざや……ッ!」

 その叫びは、響崇のものではなかった。当然、崇も娘のもとに駆け寄ろうとはした。だが、彼よりも早く、目の前の少女のほうが反応を示した。

 少女は即座に倒れた鮮のもとに駆け寄った。血で汚れた芝生など気にもせず、少女は鮮のすぐ傍に膝をついて、鮮に両手を伸ばす。

「あざや!」

 鮮を揺さぶり、彼女の名を呼ぶ少女。鮮の目を覚ますべく、少女は何度も何度も鮮を揺さぶり、声をかける…………つもりだったのだろう。

 が――。

 ――少女は、絶叫した。

 鮮の身体(からだ)に触れてすぐに、少女は悲鳴を上げ、自身の頭を両の手で抑え、悶え苦しむように頭を振り乱し始めた。

 突然の狂乱に、崇は言葉を飲み込んでしまう。

 ――一体なにが起きている?

 まるで、理解できない光景だ。いや、鮮が異能を発現した、ということなら理解できる。だが、当の鮮本人は力を使い過ぎて気絶してしまった。だから、いまの鮮に触れたところで、なにも起こるはずがない。

 なのに……。

 少女の狂態は、まるで永遠に続いたかと思われるほど、酷かった。が、実際には十秒ていどだろうか。少女もまた、唐突に、糸が切れたように倒れてしまう。

「…………」

 周囲は、突然静かになった。物音一つなければ、そよ風さえない。全てが停止した中、崇の視界は、ただ延々と目の前の光景を映し続ける。……血塗れの奏。……頭を撃ち抜かれた悪魔。……血で汚れた芝生の上で意識を失った、鮮と使用人の少女。

 ……一体、これをどう処理すればいい?

 そう、処理しなければならない。響の屋敷の中で殺人事件など、そんな事実は外に出てはならない。遠くで、使用人たちの声が聞こえる。そうだ。彼らに見られるのは仕方ない。崇一人で目の前の凄惨をこっそり片付けるのは、どうしても不可能だ。なにが起きたかなど、そんなことは使用人たちにも他言させない。だが、奏や悪魔のことは、それらしい形で公表しなければならない。全てを秘密にしては、親戚たちも不審がる。

 遅れて駆けつけた使用人たちは、みな目にした異常さに口を(つぐ)む。そのあまりの光景に、中には木陰で吐き出す者まで現れる始末。

 だが、どの使用人たちも、無駄口一つきかず、横たわった者たちを屋敷に運んでくれる。響で働く者たちだ。いつ、どんな形でその異常が現れるのか、彼らも覚悟の上というわけだ。

「崇様」

 一人の使用人が、崇に声をかける。その使用人は、ちょうど他の使用人が鮮と少女を運んでいき、残った二人を他の使用人とともに運ぼうとしていたところだ。

「なんだ?」

 崇が落ちついた声で訊き返すと、その使用人は青ざめたまま、なんとか言葉を続けた。

「崇様。…………お二人は、まだ息があるようです」

 平静の仮面が、一瞬で剥がれて落ちた。

 ……二人は、生きている?

 あの血塗れの奏が?あの喉元を見ろ。ごっそりと切り裂かれ、もはや溢れる血液すら失ったというのに…………それでも、生きていると?

 あの悪魔が?崇は、確かに銃弾を放ったのだ。その血塗れの頭部を見てみろ。弾痕が見えるはずだ。ぽっかり開いた、赤黒い空洞が…………それでも、

 ハタと、崇は足を止める。自分の見てしまったものが信じられず、憤怒の表情が驚愕に固まる。

 ――弾痕が、ない?

 悪魔の髪は、鮮血を浴びて紅く染まっている。が、その血液はすっかり乾いて、触ればパラパラと剥がれ落ちそうだ。……これでは、ジョークグッズを浴びた後みたいではないか。

 だが、当然、崇が使ったのはお遊びでもなんでもなく、本物の銃だ。異能者が暴走したときのもしもの用心。常に弾丸はフル装備で、不発などあり得ない。

 ……なら、これはどう説明すればいい?

 ……確かに、響崇は発砲の瞬間を見ている。

 ……頭部に銃弾が命中して、鮮血が飛び散った。

 ……ああ、悪魔も血は紅いのかと、そんなことを思った…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………その後。

「――――っ!」

 ハッと、崇は振り返った。すでに、倒れた四人は運び去られたあと。残っているのは、この現場を片付ける数人の使用人たちだけ。

 崇の素振りに、しかし、周囲の使用人たちは誰も気づかない。各々、この凄惨な現場を一刻も早く片付けたくて、誰も彼も俯いていたせいだ。

「……………………■■■?」

 その台詞には、ノイズがかかって聞き取れない。まるで霧がかかるように、辺りは白く、黒い線だけが風景の境界を示している。色は、すでにない。ただ、白黒の風景。あらゆるモノが、響崇までも、白と黒で描写されているだけ。そのまま、世界は溶けるように白に埋もれていき…………。


 目を開ける前から、彩はそれが夢であったと気づいていた。それはいつか見た風景、その続き。今回は、響崇の視点だった。つまり、それは崇の記憶ということ。以前、(こよみ)に見せてもらったときにはない情報だから、彼女から離れたときに、中途半端に残ったものを再生してしまったのか。

 彩は身体を起こした。場所は彩の寝室だから、これといって気になるものもない。開きっぱなしのカーテン、鍵のかかっていない窓。ベッドの位置からだと斜めに見える姿見、彩の部屋へと通じる扉があり、タンスが置かれている。

 彩はベッドから手を出した。白い手袋をはめた、左右の手。ほとんど常時、身につけていて、寝るときでも外さない。唯一の例外は、入浴のときくらい。

 彩は息を吐いた。別に、疲れているわけではない。そもそも、彩は疲労なんてものを感じない。あらゆる感覚を遮断して生きている彩は、だから寝る前の眠気も感じず、起きた直後の爽快感も、味わったことがない。ただ、身体が十分な休息をとれたと、そのていどが把握できるだけ。

「……………………鮮?」

 夢の中、響崇が呟くはずだった最後の台詞を、彩は呟く。

 あの光を、彩も見たことがある。――苛烈で、激烈で、鮮烈で。部屋中を呑み込む、翠の炎。灼かれたところから生命(いのち)が迸り、全てを塵に還そうとする神の息吹。――魔性の陽。

 ……はっ。

 彩は息を漏らす。まるで苦笑を漏らしたように、彩の口元は緩んでいる。

 その光景は、もう遠い昔に置き去りにしてきたみたいだ。まだ、あれから一月も経っていない。一週間、十日が過ぎたていどか。

 ……ああ。

 思い出すまでもない……。

 彩は、記録する。あらゆるものは記憶ではなく、記録。そこには一切の感情を挟まず、ただ淡々と事実を積み上げていく。

 だから、彩は忘却しない。それこそ一生、死ぬまで、この記録は彩だけのモノ。

 ――誰にも渡しはしない。

 彩はベッドから抜け出した。天井近くに掲げられた柱時計には、四時の時刻が示されている。当然、朝の、だ。彩のいつもの起床時間。

 着替えを済ませた彩は、その時間になるまで読書で時間を潰す。ベッド脇のテーブルに積まれた本の中から、いま読んでいる本へと手を伸ばす。マルキ・ド・サド著『恋の罪』。サディズムの語源となったサドではあるが、『恋の罪』に収められている話はサディズムとは離れた、冒険譚やユーモアに富んだ短編集。すでに半分くらい読んでいるから、早ければ今日中に読み切れるだろう。


 五時半になったところで、彩は読書を止めて部屋を出た。特別な名称をつけるならば、朝食前のティータイム、にあたる時間だ。一階のリビングに入ると、すでに準備は整っている。給仕役の猪戸再(ししどさい)は、ティーポットを持ったまま、彩を迎え入れるように微笑んだ。

 ソファーに座った彼女もまた、目の前のティーカップには一切手をつけず、さも待っていましたとばかりに入ってきた彩を見上げてくる。

「おはようございます。兄さん」

「おはよう。鮮」

 彩は鮮の向かいのソファーに座る。見計らったように、再が彩の前に置かれたティーカップに紅茶を注いで、「それでは失礼します」とだけ残し、リビングを出ていった。再は使用人で、朝食の支度があるのだ。料理自体は(れん)の担当だが、食器の準備などの給仕は、やはり再なのだ。

 それではいただきましょう、と鮮はティーカップを自分の口元へと運ぶ。彩も倣って、紅茶を一口。……相変わらず、味や香りの良さなんてものは、これっぽっちもわからない。大富豪の響の家で出るものだから、それ相応、かなり高級なものであるはずなのだが。

「兄さんは、冬休みの宿題は済んでいますか?」

 ティーカップをソーサーに戻した鮮が、そう話を振ってきた。

 彩もまたカップを置くと、その話題に返した。

「ああ。宿題なんて、休み前に終わってる」

「そうなんですか?」

 鮮は目を丸くして訊き返す。終わっていることは予想していたが、いくらなんでも、休み前に、とは思っていなかったようだ。

 ああ、と彩はいつもの無表情で応えた。

「授業中は暇だからな。冬休みの宿題だって、量が多いだけで中身なんて大したことないんだ。三日もあれば、余裕で終わる」

「兄さん。それは内職というものです」

 途端、鮮は半眼で彩を睨む。真面目な鮮からすれば、そういう反応になるのだろう。

 だが、不真面目な彩はどこ吹く風だ。

「別にかまわないだろう。授業中の読書は控えているんだ。なにもしないで時間を潰すよりは、ずっとマシだ」

「先生の授業を聞いていればいいでしょう」

「わかっている内容をわざわざ聞く必要もないだろう。大体、教師たち(あいつら)の教え方は回りくどかったり抜けがあったりで、聞いていたほうが混乱する」

 独学で高校の内容を終えている彩にとって、授業など暇でしようがない。暇潰しに読書でもできたらいいのだが、それはさすがに目立つので自重している。

 ふーん、と鮮はやや身を乗り出して彩を見上げる。

「そんなにいま通っている学校の授業に不満がおありなら、わたしの通う高校に転校なさいますか?」

「そういや、おまえの通っている高校って、どこだ?」

 鮮が彩の通う東波(とうば)高校にいないことは、彩も知っている。学校があるときは、鮮だけ電車を使うからと一番早く家を出るのだから、気づかないほうがおかしい。だが、鮮の通う高校が一体どこなのか、そこまでは彩も知らない。

 にっこりと、お嬢様らしい上品な笑顔で鮮は答えた。

「私立叡煌(えいこう)女学院です」

「……女子高じゃないか」

 ええそうですよ、と鮮はさもなんでもないとばかりに(のたも)うた。

「叡煌女学院は進学校ですし、東波高校よりはずっと進んでいます。先生方も意欲的ですし、兄さんが望まれるなら、大学の講義をお願いできますよ」

 澄まし顔で紅茶を口にする鮮。

 半眼で、彩はソファーにもたれかかる。

「いや、遠慮しておく。大学の教養くらいはもう終わっているし。必要になったら、独学のほうが早い」

 鮮の表情が急に生真面目なものになってまじまじと彩を見つめる。

「そんなに優秀なのでしたら、飛び級を利用されてはいかがですか?」

「飛び級?」

 ええ、と鮮は頷く。

「確か、日本では高校二年を過ぎれば大学への飛び級試験を利用できたはずです。あるいは、海外を試されたほうが良いかもしれません。海外のほうが、才能に対して理解がありますから。兄さんは、英会話のほうも問題ありませんよね?それだけ優秀なのですから」

 鮮の顔は、今度は真剣だ。とても冗談で言っているとは思えない。

 彩は内心で一歩引いて、しかし丁重に断りを入れる。

「……いや、そんな急く必要もないだろう」

 そういうのは、自分の才能を社会に貢献したいとか、明確な目標を持っているやつがすることだ。彩みたいに、そもそも自分はなんのために存在しているのか、なんて、まだ考え中のやつには、向いていない。むしろ、考える時間がほしいくらいだから、そんな制度、利用するはずもない。

 その後も、散々、鮮からは飛び級について説得されたが、そんな内心から、彩は断固拒否を続けた。


 朝の六時、朝食の時間になると、彩と鮮は食堂に向かった。だだっ広い食堂にはすでに先客がいて、彩が扉を開けると、彼はビクッと肩を震わせて、恐る恐るといった感じで振り返った。

「あ、お兄様。お姉様」

「おはよう、(かおる)

 彩を追い越して、鮮が薫に挨拶する。すぐ傍まで寄って来た姉に、薫はおずおずと「おはようございます」と返している。

 彩は黙ったまま席につく。もはや定位置となった、薫の横の席に。

「おはようございます。お兄様」

 やはり遠慮がちに、それでも欠かさず、薫は兄である彩に挨拶をしてくる。彩は一瞥(いちべつ)のついでに「おはよう」と返してやる。

 向かいに鮮が座り、さあ、朝食が始まる、というタイミングにも関わらず、鮮は薫のほうを向いて会話を続ける。

「薫は学校の宿題、もう終わったかしら?」

 隣に座る彩や、給仕の再に救いを求めるように視線を送りながらも、薫は「……まだです」と答えた。

 鮮の表情は、微笑んだまま変わらない。鮮も冬休みの大半をベッドの上で過ごしていたために宿題が残っているから、薫のことを責められないのだ。

「なら、午前中は勉強会をしましょうか」

 すっかり朝食の支度が整ってなお、鮮はそんな提案をしてくる。

 きょとんと固まっている薫に代わって、彩は無表情のまま口を開く。

「勉強会……?」

 そうです、と鮮は大きく頷く。

「明日には学校が始まってしまうのですから、わからないところを一人で悩んでいては、時間がもったいないです。ですから、勉強会です。わからないところがあれば、みんなで一緒に考えましょう」

 もちろん答えだけを教えるのはなしです、と鮮は彩と薫、そして使用人の再の顔まで窺う。

「いいですね、やりましょう」

 イベントごとには率先して賛同を示す再が、真っ先に応じる。次いで、自分の宿題も終わって手の空いている彩が「まあ、かまわないが」と興味なさ気に了解する。

 彩と再に鮮はそれぞれ頷いて、それから残る薫に顔を向ける。「薫は?」と鮮が訊ねる。鮮だけでなく、再もワゴンに手をかけたまま薫の返答を待つ。彩も、仕方なく待つことにした。朝食の支度が整ったからといって、一人勝手に始められる空気ではない。

 十秒くらい、薫はおどおどと迷った末、

「…………はい。よろしくお願いします」

 これで、午前の予定は決まった。


 午前中は鮮や薫たちの勉強会とやらに付き合ったが、昼食後、薫は昼寝をするとかで、午後の勉強会はなしになった。そもそも、二人とも宿題はほとんど終わっていて、勉強会というよりも雑談会になっていた。だから、午後に勉強会を開いたとしても、それは午前中の雑談の続きにしかならないだろう。

 だから、鮮も無理強いはしなかった。ここ最近、毎日ではないにしろ、薫は頻繁に昼寝をしているので、鮮も理解はあった。食後のティータイムも早々に切り上げて、鮮は自室に戻る。一方、彩は地下への階段を下っているところだ。

 ――手持ちの本が読み終わるから、新しい本を確保しておかないと。

 おそらく夕食後、寝る前の読書の時間だけで読み切ってしまうだろう。そのための、次の本だ。明日から三学期が始まるのだから、持ち運びに便利な文庫本サイズがいいだろう。帰宅後や休日に読む用にハードカバーも、何冊か持っていってもいいか。

「三学期、か……」

 もう、冬休みも終わる。喪中だから正月の雰囲気はなかったが、ゴールデンウィークなどはこんなふうに過ごすことになるのかと、そんな予行演習はできた。

 ――もう一週間も()つのか。

 あまり時間の流れなど意識しない彩でも、こればかりは思い返してしまう。それは、十年前というキーワードが、彩にとって無視できないものになっているように。

 ……あれから、うまくいっているのだろうか?

 薫が鮮を襲撃し、鮮が異能を暴走させた、元旦になったばかりの深夜。

 彩は、鮮の身体の中に流し込まれた薫の血液を破壊した。実際のところ、彩にとってその選択は賭けだった。感覚したものを破壊する彩でも、複数の中からただ一つだけを狙って破壊するなど、いままでやったことがなかった。間違って鮮自身も傷つけて、後遺症か、それ以上の取り返しのつかないことになったとしても、おかしくなかった。

 だが、一週間経ったいまでも、彩のその心配は杞憂に終わっている。感覚的に、鮮の身体の中から薫の血液を破壊した後、鮮の異能の暴走は止まり、彼女は気を失ってしまった。いや、もともと意識がなかったのだから、元通り眠っただけか。寝室を覆っていた無数の腕も、泡のように消えてなくなってしまった。鮮から溢れた生命がこの世に存在するために〝腕〟という形をとっていただけだから、発生源がなくなれば消失してしまうのは道理だ。電灯のスイッチを切るイメージだろうか。

 その後、腕から解放された薫を地下に運んで、彼の記憶を暦に奪ってもらった。

 ――異能を忘却するほどの、記憶の剥奪。

 その結果。

 薫は、あんな性格になってしまった――。

 いつも不安そうで、おどおどしていて。自身に溢れて、お喋りだった彼が、嘘みたいだ。せめてもの救いは、日常生活に支障は出ていないこと。異能に繋がる記憶は失ってしまったが、知識はその範囲ではなかったようだ。

 ……三学期になったら、どうなるだろうか。

 鮮は、特に訊かなかった。だが、(さと)い彼女のことだ、薫の異変には気づいているだろう。だからこそ、食事中は私語厳禁の規則を緩め、食後のティータイムにも薫を誘うようになった。もちろん、薫は紅茶が好きではないので、別の理由を作るのだが。

 だが、学校が始まったら、そううまくはいかないだろう。特に、薫はまだ小学生だ。子どもというのは、少しの異変にも敏感で、しかも素直で、残虐だ。小学校の間、ずっと周囲から攻撃されていた彩にはわかる。

 ……それを彩が心配したところで、どうしようもないのだが。

 どうなるかは、薫本人の問題だ。周囲との齟齬にどう折り合いを見つけるのか、もしもが起きたときにどんな選択をするのか。

 もちろん、薫の記憶を奪う決定を下したのは彩なのだから、薫に少しでもなにかあれば対処できるよう、気にかけるくらいのことはする。その小さな異変が異能に走ってしまわないようにするのも、きっと彩の役目だ。

 地下に辿りついた彩は、図書室の扉を開けた。

「……?」

 図書室の奥のほうだけ、明かりが()いている。誰かいるのだろうか。ここに住んでいる(みこと)たちが明かりを点けるかもしれないが、彩がこれまで通ってきた中で、そんなことは一度もなかった。だとしたら、なぜわざわざ一部だけ?鍵は閉まっていたのだ。それはまるで、外からは誰もいないように見せるだめではないか…………。

 と。

 ――地下の図書室のどこかから、悲鳴が聞こえた。


 彩は足を止めて声の発生源を探る。悲鳴は、なおも続いている。襲いかかるなにかを拒むような、そんな緊迫した声色。言葉自体は、拾えない。そもそも、声自体がくぐもっている。

 大声を上げているはずなのに、声が埋もれてしまう。壁を一枚挟んだように、言葉が不明瞭になる。

 ……奥の、立入禁止の場所か!

 彩は駆け出した。その予想に誤りはないと信じて。だから彩は本棚の間などは完全に無視して、図書室の最奥へ迷わず進んだ。

「……っ」

 立入禁止の場所に辿りつき、階段が見える場所まで来て、彩は自分の予想が間違っていないことを知る。悲鳴は、これまで以上にはっきりと聞こえ、音声まで明確に聞こえるからだ。

「……いや!……いや!……やぁ――――――――――っ!」

 それは、少女の悲鳴だ。彼女のこんな必死な声を、彩は初めて耳にした。

 彩は階段を駆け上った。下からでも、人影が目についていた。彼女ではない。彼女に襲いかかる、犯人のほう――――。

「おいっ。やめろ!」

 階段を上った踊り場、次の階段へ向かおうと振り向いたところに、彼らの姿が見えた。少女を引き倒し、彼はベルトを外してズボンを下ろしたところだ。

 彩は背後からその男を羽交い絞めにして少女から引き剥がした。予想外の介入に、男はあっさり引きずりおろされる。が、男もそれで諦めはしない。必死に踏み止まろうとして、背後の彩へと振り向いた。

「……!」

 彼のあまりの形相に、彩はつい拘束の手を緩めてしまう。それに気づいた、かまではわからないが、彩の腕を振り払おうと男は激しく抵抗する。振り払われないように力を入れようとするも、一度緩んだために絞め直すのが難しい。

 仕方なく、彩はズボンが落ちてがら空きになった男の股間へと、思いきり膝蹴りを入れる。

「――――――――――――――――ッ!」

 悲鳴すら上げられず、男は悶絶してその場にうずくまる。その隙にと、彩は引き倒された少女へと駆け寄る。

「大丈夫か?命」

 あまり見てはいけない光景なのだろうが、彩は彼女の安全を確認するため、上から下まで目をとおす。彼女が身につけていたシーツのような布切れは無残に引き裂かれ、その下の裸体が曝け出されている。だが、それ以上のことはなにもなかったようだ。暴行の跡も、乱暴にされた形跡もない。彩はすぐさま上着を脱いで、命に被せる。

 まだ視線が定まらないのか、揺れる瞳で、しかし命は彩を必死に見つめようとする。

「……あぁ。……さい。………………あたし…………」

 そこから先は、言葉にならなかった。命は彩にしがみついて、泣きじゃくる。いままで見てきた彼女とは想像もつかない姿だが、彼女も女の子なんだ。命を落ち着かせようと、彩は抱きしめるように彼女の肩を撫でてやる。

「大丈夫。もう大丈夫だ」

 命は涙を流したまま、ずっと恐怖を彩に訴えてくる。男に襲われたこと、それが恐くて恐くて(たま)らなかったこと。そこから先は、もう言葉にもできず、ただただ泣き(わめ)くだけ。

 そんな命の声に、彩はじっと耳を傾ける。時折、相槌を打ったり、もう大丈夫だと声をかけたり。とにかく、命が落ちつくまで、ずっとそうしてやるつもりだった。

 彼女が落ちつくまでに、五分くらいかかっただろうか。涙も()れ、声も()れ果て、命は彩にしがみついたまま(はな)をすする。

「……………………」

 ようやく彼女が落ちついたと見て、彩は今度は、男のほうに目を向ける。

「――――――、――――――、――――――、――――――」

 男はまだ踊り場の上でうずくまり、悶絶していた。が、こちらもようやく落ち着いてきたようだ。壁に手をかけながらも、なんとか身を起こす。

「――――、酷いなぁ、さい。――――、ここは、――――、シャレにならないんだよ――――」

 立ち上がりながら、男はズボンを履き直す。ようやくいつもの恰好になっても、まだ痛みはあるのか、壁に(もた)れかかるような形だ。

 彩は立ち上がって男と対峙する。命も大分落ち着いたから、顔は伏せたままだが、彩と一緒に立ってくれた。

「シャレになっていないのはおまえのほうだろう。こんな小さな()を襲うなんて、おまえらしくないぞ」

 再――――と。

 彩は男の名を呼んだ。

 途端、再の口元が苦痛を上回るほど、嘲笑に歪む。

「小さな()?ハッ……!その化物には不釣り合いな言葉だね」

 いままで以上に、感情を露わにした声。そこには、使用人としての礼節も、友人としての気軽さもかなぐり捨てた侮蔑があった。

 ――それ以上に。

 命を見下ろす再の()には、度し難い激情が(くすぶ)っていた――。

 彩は黙ったまま、再を睨むように見ていた。急所を強打したのだ、立ち上がりはしたが、まだ動きがぎこちない。

 だが、彩はそんなこと、すでに気にしていない。それ以上に、再がまとっている空気が、警戒するに値するほどの、それは狂気の域。

 引きつった笑みを浮かべたまま、再はなおも続ける。

「君だって、彼女たちのことは知っているんだろう?――――だから薫様は、あんなふうになってしまわれた」

 暦に記憶を奪われた薫は、これまでとはまるで別人だ。日常生活を営む上で必要となる知識・記憶に欠損はないが、薫のことを知る者なら、その性格・態度があまりにも違いすぎることに、すぐ気づくだろう。

 再の断罪に、しかし彩は一つの確信を得た。

「やっぱり、薫を(そそのか)して、響崇や鮮を襲わせたのは、おまえだな」

 思いがけない彩の反応に、最初、再は呆然と固まっていたが、次第に理解できるようになったのか、口元を吊り上げるように、笑みを強くする。――再の癖だ、悪戯(いたずら)がバレたときは、いつもそんな笑みを彼は浮かべる。

「なんだ、気づいていたんだ」

 あっさりと、再は白状する。本当に、他愛のない悪戯がバレてしまったように、悪びれもせずに。

「……どのあたりで、気づいた?」

「違和感を覚えたのは、薫の行動だ。あいつは自分の衝動にしたがって響崇を殺し、鮮を殺そうとした。その際、薫は病死に見せかけることにこだわった。それはなぜだ?衝動にしたがうだけなら、わざわざ病死に見せかけるなんて、そんな面倒なことはしない」

「殺人事件にはしたくなかったんじゃないの?そんな派手にやってしまったら、警察の捜査が入って、行動が制限される。そういった理性的なところは、あったんじゃないかな」

「薫は、俺に犯行がバレても、そのやり方にこだわった。鮮の身体の中に自分の血液を流し込むのを、俺の前で見せた」

「うん、それはちょっと異常だね。だから君は、薫を操る何者かの介在を疑った」

「その中で、一番怪しいのは……再、おまえだ」

「……というのは?」

「薫が鮮に襲いかかった最後の夜、その前夜に、おまえは俺と話をしたはずだ」

「ああ、覚えている。僕から君に用がある、って呼び止めたんだね」

「そうだ。なら、おまえも話の内容を覚えているだろう?」

 その日の夕食後、彩は再に呼ばれて、二人きりでリビングに残った。彩にとっては抹消したい記録だが、生憎、彩の記録は記録として完全に保存され、そんな都合よく削除などできない。

「おまえは、鮮が亡くなった場合、薫を次期当主にしようとした。そのために、俺には当主になろうなんて言い出さないよう、忠告した」

 やれやれ、とばかりに、再は肩を竦めて首を横に振る。

「一応、僕の言ったことは事実だよ。長く響家から追放されていた人間が当主になったら、親戚の方々がなんて仰るか。……なんて、そんなことを言っても無意味か。あれは、確かに直球過ぎたね。薫様が失敗されるなんて、まさか考えていなかったから」

 なおも笑って、再は答えた。彩の無表情は次第に強張り、凍りつき、このままでは耐えられるかどうか、それすら怪しかった。

 自身を落ち着かせようと、彩はいったん、緩やかに息を吐き出す。

「俺も、あのときまでは、おまえをここまで疑ったりしなかった」

「でも、少しは怪しいと思ったんだ?」

「そりゃあな。だが、鮮が体調を崩したのは、SLE(エス・エル・イー)の疑いがあるため、だった。さすがに、おまえが鮮を病気にした、とまでは思えなかった」

「でも、君はそれが単なる病気ではなく、人為的なものだと疑ったんだろう?そうじゃなきゃ、鮮様の部屋を毎晩見張るなんて、そんなことはしなかった」

 夜の見張り(そのこと)には気づいていたかと、彩は記録に刻み込むまでで留め、冷静を保とうとゆっくり、口を動かす。

「人為的、かどうかは知らない。だが、単なる病気ではない、とは考えた。実際、俺が見張ってから、鮮の体調は良くなった。だったら、理由はわからなくても、その結果だけで十分、試す価値があった」

 なるほど、と思案気に頷く再。彩の思考の道筋を一つ一つ吟味するような、冷静な態度。まるで、生徒から提出された答案用紙の解答を一つ一つ確認する教師のように。

 にこりと、再は満足げな笑みを浮かべる。

「あとはなにかなぁ。僕のミスは」

「さっきおまえが口走った台詞だ。――おまえは、この場所と、彼女たちのことを知っていた」

 この場所は、響家にしか知られていない秘密の場所だ。以前、この屋敷に暮らしていた親戚たちにも、知られてはいなかっただろう。響の異能、それにまつわる関係者――。それを知っているということは、つまり、薫の異能にも気づいていたということ。

「崇様に教えられていたから、ではダメかなぁ?」

「俺もそう思うよ。だが――だとするなら――おまえは、この事件の黒幕であると、自ら認めることになる」

 どういうことか、と無言で首を傾げる再に、彩は自分の辿り着いた解答(こたえ)を示していく。

「この場所は、当主の許可がなければ入れない。響家最大の秘密だからな、ここは本来、当主しか知らない場所だ」

「でも、当主の許可さえあればここには入れる。僕は崇様から、その許可をもらっている」

「じゃあ、薫は?」

 すかさず、彩は訊き返す。

「薫は、その許可を崇からもらっているのか?仮に許可が出ていたとするなら、それは、崇は薫の異能を知っていることになる。薫は言っていたぞ、(よもぎ)に自分の異能を試すために、何度か地下へ下りていた、と」

 だが、と彩は低い声のまま続ける。

「その仮定はおかしい。それなら、なぜ崇は病に()したとき、薫を疑わなかった?異能が暴走しているなら、すぐにでも暦に記憶を奪わせたはずだ」

「つまり、崇様の許可もなく、僕が勝手に薫様を地下に連れてきた、と。しかも、蓬相手に異能を使わせて、使い方をマスターさせていたと、そういうことになるのか」

「しかも、おまえは薫が異能に目覚めていることを知っていながら、そのことを隠していた。そこに、なんらかの意図があったと、そう読むのが自然だ」

 なるほど、と再は至極あっさりと、彩の追及に頷いた。

「薫様のことを隠していた僕は、確かに大罪人だ。黒幕と呼ばれても、それは仕方がない」

 そんな重い告白を、再はごく簡単に口にする。困ったように笑う様子など、本当に些細な悪戯が見つかっただけのようで、彩の気はちっとも晴れない。

「なぜこんなことをした?響の家から出るためか?なにも、当主殺しをする必要はなかっただろう?」

 いままで面白おかしく笑っていただけの再が、急に目を細める。まるで遠く、ずっと昔に失くした宝物を見つけられたように、その過去を(いつく)しむように、再は回顧するように。

「……覚えていたんだね。僕の夢を」

 静かに呟いた後、再は壁から離れて彩を正面から見る。

「理由は、それで間違いない。でも一つ、君は理解が足りない。そこまでする必要は、あったんだよ。正確には、響がなくならなければ僕はここから出られない、だ」

 その回答を、正直、彩は理解できない。理解できないなりに、しかし彩はできる限りの想像を巡らして、再に問いを投げる。

「――それは、おまえの異能に関係があるのか?」

 彩の疑問を受けて、再は楽しそうに微笑む。

「半分正解かな。確かに、僕ら猪戸兄妹の異能は、響家には必要だ。君も知っているだろうけど、猪戸の異能は『共有』だ。体力やエネルギーと呼ばれるものの共有。響が異能を発動して力を使い果たせば、僕たちからエネルギーを供給する。もしも響が異能を暴走させたら、僕たちはその溢れたエネルギーの受け皿になる」

 彩は驚かない。猪戸の異能は、地下の彼女たち同様、崇がまとめた響の歴史書の中に記されていた。

 でも、と再は首を横に振る。

「その、異能そのものは、僕が響から出られない根本の原因じゃない。本当の原因は、僕たち猪戸の在り方と、そこの、明宵(あけよい)の在り方に関係している」

 それはねぇ、と再の口元が一層に歪む。

「猪戸は、男と女の双子が産まれるんだ、基本的にはね。――そして明宵の一族には、三つ子の姉妹しか産まれない」

 それも、響の歴史書の中にあった内容だから、彩は驚かない。だが、再が言おうとしていることが理解できてきて、彩は口を挟むのを躊躇った。

「さて、女子しか産まれない呪われた一族。そんな化物たちを存続させるには、外からの男の精が必要だ」

 そこで再は言葉を切った。その止まった微笑は、ただ彩に問いかける。――それが誰だかわかるかい?――と。

 仕方なく、彩は強引に口を開けた。

「……彼女たちの父親役に選ばれたのが、猪戸だっていうのか?」

 途端、再は最高のジョークでも聞いたかのように爆笑した。

「父親?ハッ……!ただの交配の道具さ。僕に選択権はない。そうさ…………僕の運命はもう決められてしまったんだよ。そこの化物にさァ!」

 あるいは、最悪のブラックジョークだったのかもしれない。怒気も隠さずに、再は彩の背後に隠れるように身を寄せる命を指差した。

 彩は再から命を隠すように手をかざして、再に訊き返す。

「…………どういうことだ?」

 再は小馬鹿にするように息を一つ吐き、落ちつきを取り戻して彩を見返す。

「君は、そいつの異能を知っているかい――?」

 命がびくっと震えた。彩は視線だけでちらと彼女を見る。彼女は、まだ怯えている。いや、再が語ろうとしていることに、新たに恐怖を覚えたのか。

 彩は正面から再を見据えて、口を開く。

「彼女たちの異能は、過去・現在・未来のいずれかを司る。彼女は――命は――未来を司る異能者だ」

「それは異能の方向性しか表さない。実際にどんな異能かは、世代によって異なる。じゃあ、そこの、今の代の異能者は、一体どんな異能か?」

 彩の曖昧な返答に、それでは不足と、再は畳みかけてくる。

 彩は、自分の口元が強張っていくのをなんとか耐えた。これ以上進んではいけないとわかっていながら、無知である彩は、それを止めることができない。

「…………知らない」

 一層に歪んだ再の顔は、もはや狂喜の様相。満足そうに、再は一つ頷いて、応えた。

「じゃあ、僕が教えてあげよう。――『運命の剪定者』それがそいつの異能だよ。人間の不確定な未来を、特定の運命に限定してしまう」

 そして、と再は自分の胸に手を当てる。

「僕に決められた未来は、そいつの子どもをつくること。それまでは、なにがあっても響の屋敷(ここ)から出ることはできない」

 再は低く笑い声を漏らす。もはや抑えが利かないとばかりに、再の体は小刻みに揺れている。

「……君にわかるかい?化物と交配することを運命づけられた者の気持ちが。どんなに拒否しても、その運命からは逃れられない。だって――――それ以外の運命は、全て切り落とされてしまったんだから」

 狂喜を振りまく再に、呑まれないようにと彩は口を開いた。

「それと、響家を消そうとしたこととなんの関係がある?そんなことをしても、確定された運命は回避できないだろう?」

「そいつの異能も、完璧じゃない。確定できるのは、未来の特定の映像(ビジョン)だけだ。それまでの経緯や、そこから先の経過なんかは縛れない。そして、僕が確定された未来は『そいつと交配し、子どもを作る』こと、それから『交配するまでは響の屋敷に存在する』ということだけだ」

「……それでおまえは、薫を唆して、崇を殺し、鮮まで殺そうとしたのか?」

 地下に隠蔽された彼女たち、そしてその主である響が存在する限り、彼は外に出ることができない。だから彼の計画は、響を皆殺しにして、彼女たちをも亡き者にすることだった。だが、この辺りでは有名な響をただ殺してしまっては騒ぎとなって、彼女たちに手を下す暇も、逃げ出す機会も失ってしまう。だから、薫の異能を利用した。病気に見せかければ、そこに不審な点があっても、彼自身に疑いがかかることはない。

 ――それを、彩が阻止してしまった。

 薫は再起不能となり、同じ計画は使えなくなった。だから、焦った再は彼女たちのほうから先に手をかけようとした。己の運命の元凶――。彼女たちを殺しても、どうせ戸籍のない存在だ。地下の迷宮に葬ってしまえば、誰も見つけることはできない。

 そして、その計画を遂行するためには、己の運命という障害を解消しなければならなかった。……だから、再は命を襲った。

 まるで借金返済に追われる債務者のようだ。解放されるためにあれこれと手を尽くすが、結局うまくいかず、追い込まれてさらにひどい手段に手を染めようとする。やればやるほどに、泥沼にはまっていく。

 なんて愚かな――。そう、口にしようとして、

「――貴方は、愚か者です」

 カツン、と。

 この禁じられた場所に踏み込んでくる足音が響いた。


 彼女の顔は冷たい怒りに燃えていた。そう、それは怒りだ。空気さえ凍てついてしまいそうな、絶対の怒り。

「鮮……」

 彩は彼女の横顔を見つめながら、ただ呟いた。別に呼び止める意図はない。呼び止めるまでもない。彼女の表情、まとっている雰囲気を見ただけで、彼女がこの場に姿を現したことは明白だ。

 だが、その意図を理解できない再は、ただただ驚愕を浮かべて彼女を見返した。いままでの勢い、狂喜も萎んで、まるで母親に悪戯がバレた幼い子どものように怯えている。

「鮮様……?」

 震える声で、再は鮮に問いかけた。

「……いつから、聞いておられたのですか?」

「兄さんの、お父様は薫の異能(こと)には気づいていなかった、というあたりから」

 ちょうど、再の動機を訊き出し始めた頃だ。なるほど、と再は引きつりながらも、冷静を繕って鮮に応じた。

「僕が黒幕だということは、すっかり聞かれてしまったわけですね。それにしても珍しいですね。鮮様が地下の図書室に下りられるなんて」

 ええ、と鮮は(しと)やかに頷きを返す。

「お父様の遺言を探しにきたんです」

 鮮の体調が良くなってから、彩は彼女に当主の部屋の鍵を返した。そのとき遺言のことも訊かれたが、結局、彩は答えなかった。見つけはしたがもう済んだことだ、と、そんなふうに応えただけ。

 あれから、鮮も崇の遺言を自力で見つけ出そうとして、そしてこのタイミングで、答えに辿り着いたらしい。

 再は自嘲するように乾いた笑いを漏らす。

「そうでしたか。それは、実にタイミングが悪い。わたしは、焦り過ぎたようですね。明日以降、鮮様や彩様が学校に行かれている間に決行すれば良かった」

 そんなことはないわ、と鮮は首を横に振る。

「今日、彼女たちを見つけていれば、わたしは明宵の()たちを別の場所に移すつもりでしたから」

「それはまた……どうして…………?」

 表情だけは落ちついたまま、再は鮮に問い返した。しかし、その動揺までは隠しきれず、声は途切れ途切れだ。

 鮮はなんでもないとばかりに、冷やかな表情で再を真っ直ぐ見つめる。

「――家族は、一緒にいるべきです」

 今度こそ、再の表情は驚愕に歪んだ。いや、それは困惑でもあっただろう。彼自身、一体どんな顔を作ればいいのか、まるでわかっていなかった。

 ――それは、そうだろう。

 鮮の思考は、再にとっては理解できない、理解してはいけない内容(モノ)なのだから。

「…………正気ですか?」

 再の声は震えていた。顔は青ざめ、そのまま卒倒してしまうのではないかと、そう思えるほどに、再の衝撃は大きかった。

「こんなやつらを、あなたは、家族だとでも仰るのですか?こんなバケ…………!」

 ええ、と激昂しかけた再の言葉を、鮮は遮った。

「響とともに生きる者は、みな、響の一員です。この屋敷で暮らす権利があります」

 再と、そして彩もまた、彼女の言葉に驚嘆させられる。

 鮮は当主になってから、いままでこの屋敷で暮らしていた親戚たちを片っぱしから追い出した。使用人のほとんどにも暇を言い渡し、残ったのは猪戸兄妹だけ。そんな横暴を強行した鮮が、命たちを受け入れる。本当に響のために尽くす者は、ともに響の屋敷で生活してもいいのだと、それを公言し、認めようとしている。

「…………狂ってる」

 ようやく我を取り戻した再が、ぽつり、口を開いた。

「化物と一緒に暮らすなんて、あなたは、正気じゃない。なぜ、いままでこいつらが隠蔽されていたか、わかりますか?それは、こいつらが化物だからだ!こんなやつら、表に出せるはずがない!」

 主人である鮮に対しても、再は自身の激昂を隠しきれないでいる。再にとって、確かにそれは悪夢の光景だろう。己の運命を歪めた、憎むべき化物。そんなやつらと一緒に生活するなど、誰が耐えられようか。夜の見回りの際に、彼女たちの部屋の前を通らないといけない。見回りも終わってようやく眠りにつこうとしても、その隣の部屋には彼女たちがいるかもしれない。

 必死の再の訴えに、しかし鮮は悲しげに瞳を曇らせ、首を傾げる。

「どうして、あなたは彼女たちを化物と呼ぶのですか?再」

 愕然として、再の勢いが落ちた。

「それは……」

「彼女たちが異能者だからですか?わたしや、あなたも、同じ異能者なのに?」

 ぱくぱくと口だけは動くが、しかし再の口からはなんの言葉も出てこない。

 ――同じ、異能者。

 猪戸再と彼女たち、例えば、いまだ彩の足元で隠れている命は、同じ存在。響家当主の鮮も、そして記憶を失った薫も、再と同じく、異能者。

「だって…………」

 なにかを言いかけて、やはり再はそれ以上のことが言えない。何度も何度も、鮮と、そして彩の後ろの命へと視線を彷徨(さまよ)わせる。

 その沈黙は、一分近く続いた。果たして、再は納得できる解を得たのか。俯き、ぽつりと、言葉を漏らした。

「…………あなたは、他のやつらに会ったことがないから」

 それこそがこの問題の根源であるとばかりに、再は急に顔を上げ、勢い込んでまくしたてる。

「あなたは、他のやつらに会ったことがないから、そんなことが言えるのです!暦というやつがいます。そいつは人の記憶を奪います。しかも、記憶を取り込むたびに若返る。産まれたときは老婆だったのに、いまはそこの命よりも小さい子どもだ!

「蓬というやつがいます。そいつは不老不死だ。どんなに傷ついても、普通の人間なら死ぬような傷を負っても、必ず生き返る。腹から内臓が飛び出ても!頭がぺしゃんこに潰れても!

「そこの命は、人の運命を固定します。そいつに呪われた人間は、その運命から逃れられない。そして、そして…………」

 戦慄(わなな)く再はバンと胸を叩くことで己を鼓舞し、鮮を睨むように見る。

「わたしは、そいつの子を作らないといけない!わかりますか?そんな化物たちの父親にならなければならないんですよ、わたしは!そんな、そんなの…………。そんなの、耐えられない!耐えられるわけがない!」

 会話は、どうしようもなく平行線だ。同じ仲間だと、認め合おうと訴える鮮と。絶対に違うのだと、やつらこそが化物で異端なのだと拒絶を続ける再と。理屈ではなく感情で否定する再には、どんな鮮の言葉も届かない。

 再、と――。鮮は冷ややかな()のまま、しかし声には(かす)かな悲嘆を滲ませながら、彼から目を離さない。

「あなたの苦悩はわかりました――――」

 離さぬまま、告げる。


「――――暦。再の苦悩を奪いなさい」


 再は目を剥いて階下へと振り返る。ここ、禁じられた場所への扉は、開かれている。そこから、闇の獣が飛び出した。伸び放題の髪と、あまりの速さに、それは影にしか見えない。

 しかし、再の()にはどう映っただろうか。暦は階段の手すりを、まさに獣の如く四足で駆け昇り、その勢いのまま猪戸再に飛びかかった。

 怯えた再は、しかし一歩退くのが精いっぱいだった。無意味な悲鳴を漏らしつつ、そして暦にのしかかられた瞬間、絶叫を上げる。いや、それは断末魔の叫びだったのか。ありったけの記憶を暦に奪われた再は、次第にもがくのをやめ、そのまま昏倒してしまった。

 役目を終えた暦は再から離れ、主人である鮮の足元へと移動する。鮮は膝を折って、暦の頭を撫でてやる。本当の犬みたいに、暦は気持ち良さそうに目を閉じて、鮮にされるがままになっている。

 事態が納まって、いままで傍観していた彩がようやく口を開く。

「……よく、暦が近くにいることがわかったな」

 鮮は暦から手を離し、立ち上がって彩のほうへと振り返った。

「わたしをここまで案内したのは、彼女なんですよ。そうでなければ、立入禁止の場所になんて近づきませんもの、わたし」

 そうか、と彩が視線を落とすと、暦は鮮の足に寄り添ったまま無表情に彩を見上げてくる。

 ……会ったばかりの鮮には随分懐いているのに、なんで俺はこんなに警戒されているだ?

 夜中、彩が誰の断りもないままこの立入禁止の場所に近づいたからか?だが結局、彩は暦にやられたのだから、彼女が警戒するのは違う気がするのだが。

「あたし――」

 いままで彩の背後に隠れていた命が、彩と鮮の間に割ってきた。二人の視線に一度言葉を切ったが、どうしても言わなければならないと、彼女は顔を上げて続ける。

「猪戸再の苦悩を、知っていました。――だって、あたしが猪戸再の苦悩の、元凶ですから」

 彩はなにも返せなかった。

 命が再の運命を決定したとき、再は彼女になんと言ったのだろうか。なにも知らされずに、再は命の異能を受けたのか。崇だったのか、あるいはその前の当主だったのか、誰かの命令だったのは確かだ。

 ……それが、響の意思。

 ……彼女は、ただ実行したに過ぎない。

 そこに、彼女の意思はない。そうしなければ、自分の一族も滅んでしまう。相手からの同意は得られなくても、彼女は、それをしなければならなかった。

 鮮は命の傍まで歩み寄り、命と同じ視線になるように膝を折った。

「あなたたちが生きるためには、必要なことだったんです。あなたが気に病む必要はありません」

 命の頭を撫でながら、優しく語る鮮。

「あなたには、辛い役目を押しつけてしまいました。本当に、申し訳ありません」

 でも、と鮮から距離を置こうとした命を、鮮は逃がさないよう、けれど優しく包み込むように、抱き締めた。

「どうか、あなただけで抱え込まないでください。あなたに辛い役目を押しつけた響にも、その咎はあるべきです。……ですから、これからは一緒に生きていきましょう。あたなだけが、こんな(くら)い場所で隠れていなければならないなんて、当主である響鮮は認めません」

 それは、これまでの響の在り方を根底から覆す暴言だ。

 公にしていなかったとはいえ、一部の親戚たちは響の異能と、それにまつわる猪戸兄妹や命たちのような異能の一族のことを知っているだろう。隠していたことだって、そういった親戚たちの合意の上で、だ。

 だが、鮮はそれを、今後は一変させようとしている。地下に隠れていた彼女たちを、響家の一員として迎え入れる。追い出された親戚たちが、それを黙って見過ごすはずがない。

 後ろで傍観するだけだった暦が、四足歩行のまま鮮の足元に移動して、(うな)り声を上げて鮮を見上げる。鮮は「もちろんあなたもよ、暦」と笑顔を向けてから、再び命へと向き直る。

「命も、暦も、そしてもう一人いる蓬も、響の一員として暮らすの。地下に隠れるのではなく、社会の中で、堂々と生きていく」

 満足そうに口元に笑みを浮かべる暦に対して、命はなおも不安そうに俯いてしまう。鮮は、だが、それでもかまわないとばかりに、異なる表情を見せる彼女たちに笑顔を向ける。

「さあ、もう一人の蓬も呼んできてちょうだい。地上に、あなたたちの部屋を用意してあげます」

 一つ頷いて、秘密の部屋へと駆け出す暦。そんな幼い姉に呆然としながらも、暦は響の当主に「申し訳ありません」と一礼してから、暦のあとを追った。

 彼女たちの姿がなくなって、彩は鮮に声をかける。

「本当に、いいのか?」

 鮮は立ち上がって、彩のほうへと振り返った。

「当主であるわたしが決めたんですから、問題ありません」

「親戚連中がなにか言ってくるんじゃないのか?」

「あの人たちなら問題ありません。自分たちの利益が確保できれば、それでいいんですから。なにか言ってきたとしても、そんなものは勝手に言わせておけばいいんです。いま考えないといけないのは、戸籍の問題ですね。当然、彼女たちに戸籍はありませんから」

 それでも、と鮮は迷いなく、揺るぎなく、宣言する。

「彼女たちの存在は公にします。いつまでも、彼女たちを響で縛るわけにはいきません。彼女たちは、彼女たちの人生を歩むべきです。それは――――猪戸再が、彼の人生を望んだように」

 ちらと、彩は踊り場で倒れた再に目を向けた。彼もまた、薫のように記憶を奪われた。

 薫に崇を殺させ、鮮をも殺させようとしたことを忘却し。……自分の運命が決定されていることも、忘却し。

 それでも再は、いつか響の屋敷から出る日を夢見て、ただの使用人として、あるいは異能者として、生きていく。

 その、再の小さい頃からの夢を、鮮は良しとした。その夢がいつか叶うことを願い、鮮は再から苦悩を取り去った。それが偽りの平穏だとしても、再が自分の夢を叶えるために、それは必要な処置だ。

 ――(おれ)の手袋と、同じなのかな。

 この手袋をする前までは、彩は自分の意図とは無関係に、感覚するものを破壊し尽くしていた。だが、この手袋をすることで、彩は自分の感覚を制御することを覚え、いまでは滅多なことではモノを破壊しない。もしも、彩がこの手袋を手にしなかったら、きっと彼は自分の存在に絶望して、全てを終わらせていただろう。

 そんな彩が、いまでも存在していられるのだから……。

 彩は無表情のまま、目の前の鮮に問うた。

「それが、鮮の望みか?」

「はい。――そして、響家当主、響鮮の決定です」

「……わかった」

 きっぱり返す鮮に、彩は降参するように苦笑を漏らす。

「当主様の決定に、俺も付き合おう。――――家族は、一緒にいるべきだからな」

 なんて、らしくない台詞を自然と口にしていた。彩が十年振りに響の屋敷に戻ってきて、鮮から言われた台詞。それを自分から、しかもこんな苦もなく口にするなんて、まるで想像していなかった。

 ――すっ、と。

 彩に向かって、鮮は手を伸ばす。小指だけがピンと立っているから、鮮の意図を彩もすぐに察することができた。

「約束、ですよ――?」

「ああ、約束だ――」

 彩もまた、鮮に向けて手を差し出した。拳を作って、小指だけを突き出した形。――互いに指を絡めて、幼い頃に覚えた誓いの唄を口にする。


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