10 想いの味
佐倉はゆっくり頭を上げた。
目元は赤くなっており、少し色っぽいと、場違いにも思った。
佐倉は、緩慢な動作で私の上からどき、手を差し出してきた。私がそれを掴むと、思いのほか強い力で立ち上がらせてくれた。そして手をつないだまま、二人掛けのソファーに連れていかれ、一緒に座る。
佐倉は、こてん、っと私の肩に頭を乗せた。
「…色々、ごめん」
佐倉の声はかすれて鼻声になっていた。
「でも、ありがと。」
顔は見えなかったが、佐倉は笑っているようだった。
「もう、大丈夫ですか?」
「うん。何だか、凄くすっきりした。今まで誰にも言えなかったことを言ったからかな。」
「そうかもしれませんね」
「…あのね、東サンとの出会いのこと思い出してた。」
「あの図書室でのことですか?」
「図書室は図書室だけど…東サンが思ってるのとは違うよ」
そう言われても、それ以外で佐倉と関わったことを私は思い出せなかった。佐倉は目立つ人だから、そんな人とのかかわりを忘れるはずはない。
思い出そうとしていると佐倉がぐりぐりと頭を押し付けてきた。何だか動物が甘えているみたいだ。
「僕は、いつも東サンに救われてるね。」
「…そうですか。なら、よかったです。」
今回のことも私は何もしていないし、彼のいう「いつも」が何のことかもわからないけれど、救えないより救える方がいい。
「…あのね、僕『人間失格』を読んで、なんだかすごく悲しくなったんだ。凄く、自分と重ね合わせてみたから。その後に、親父の姿を見たから、頭がぐちゃぐちゃになった。だから東サンが『分かる』って言ったときに…どうしようもなくやるせなくなって、あんなことしちゃった。…怒っていいよ。東サンにはその資格がある。」
「怒りませんよ」
本当にとっくに怒りは消えていた。キスをされた当初はある程度の怒りがあったがすぐに消えてしまったのだ。その代わりに残ったのは『分かりたい』という気持ちだけだった。それに安易にあの言葉を言ってしまった自分にも責任があると思った。
「東サン」
「はい」
「僕、東サンが好きだよ」
「え?」
あまりにも唐突な言葉に、思わず佐倉の方を見る。顔は私の肩にうずめられていて、表情が見えない。
(好き?それは…佐倉が私をってこと?え、何で?っていうか、今言うの?)
「あの、それは…今、慰めてもらったから、とかそういうこと?勘違い…とかじゃなく?」
しどろもどろになりながら、必死に言葉を紡ぐ。
今まで告白なんてされたことがない上に、相手は佐倉だ。好きという明確な感情までは抱いていないが、気になる相手ではある。
しかし佐倉は、私と違って経験が豊富で、様々な「いい女」とやらを見てきている男だ。正直、佐倉からの告白は現実味がなかった。慰められて勘違いしていると考えた方がよほど現実味がある。
「違うよ」
佐倉からの返事は、強い言葉だった。佐倉は私の肩から顔を上げ、ソファーから腰を上げるとそのまま私の前で跪いた。
握ったままの手もう片方の手をやさしく撫でられる。
「確かに、さっき慰められて嬉しかったのは確かだよ。でもそれで勘違いしたんじゃなくて…ただ、気が付いただけなんだ」
「気が付いた?」
「そう、気が付いた」
佐倉は真剣な眼差しで私を見上げる。恥ずかしさを覚えるが、そらすことは許されないように思えた。
「僕ね、本当は東サンに一目ぼれしてたんだよ」
「えっ…」
予想外のセリフに、固まるしかなかった。
「図書室で、君と今日僕を連れてきた子が一緒にいる時にね、僕の話をしてた時があるんだよ。覚えてない?」
「…えっと、何度かあった気がします。」
美子はよく佐倉の話をする。図書室でしたこともあったかもしれない。
一年の頃は図書委員ではなかったが、本がそれなりに好きな私は図書室によく通っていた。何度か美子もついてきたことがある。
「僕の写真を見て話していた。その中の一枚が、中学の時の写真だったみたいで…。東サン、僕の髪色を『似合ってる』って言ってくれたんだよ」
「・・・」
そんなこともあったかもしれない。でも、そんなことで好きになるだろうか。おそらく他の女の子にも良く言われるであろう言葉だ。
「その言葉に救われた。きっと他の誰でもない、東サンだったから。
その時から、目で追い始めた。知らなかったでしょ?僕に見られていたなんて。…本当は、もっと早く気付くべきだったのに…。でも、僕は臆病ものだったから髪色を戻すことも、君に話しかけることもできなかった。」
「ま、待って!」
あまりにも頭が混乱したので、佐倉の話を遮った。全てが、唐突すぎた。佐倉が私を好きということも、それが一目ぼれだということも、全てが突然だ。一度に入ってくる情報が多すぎて考えることもできない。
「…ごめん、びっくりしたよね」
優し気な佐倉の声に、うなずく。
「じゃあ、もっと単純に考えて?」
「単純に…?」
「うん。僕は東サンが好き。じゃあ、東サンは、僕をどう思ってる?」
私にとっては難しい質問だった。
その答えが出せればいいと思って、佐倉に会いに来たのだ。だけどそのことを考える暇もなく、佐倉に告白されてしまった。
恐らく、佐倉は本気で言ってくれている。ならば、私も本音を語らなければならないと思った。
「正直、よくわからないです。佐倉くんは気になる存在だけど、私は恋をしたことがなくて…この感情が『好き』なのかどうかわからないんです。」
「そっか、分からないんだね。」
「はい。ごめんなさい…」
佐倉の想いに応えられないことが申し訳なくて目をそらした。
「じゃあ取りあえず…」
そういいながら、跪いたままだった佐倉がようやく立ち上がった。
「抱きしめるね」
「は?」
佐倉が言った意味を捉える前に、彼は私を抱きしめた。何の対応もできない私は固まるしかなかった。
つけている香水だろうか、甘い匂いがする。その香りのせいだろうか。頭がぼーっとして、心臓が強く打っている。
「あ、あの…?」
精一杯だした声は、かすれている。しかしこんなにも密着しているのだから、佐倉には聞こえるはずだろう。
「嫌じゃない?」
「い、嫌じゃないです」
甘い声に誘導されるように答える。
「緊張してる?」
「してます…」
「ドキドキしてる?」
「…してます」
「ゆっくり、考えて。僕のことどう思っているか。好きじゃないなら、突き放して。君が僕と同じ気持ちなら、抱きしめて。」
「・・・」
佐倉が言葉を止めると、鼓動が聞こえてくる。私の音なのか佐倉の音なのかはいまいちわからない。
胸の中で形のなかった私の想いが、ゆっくりと形作られて行くのを感じた。
きっと、彼の腕の中があまりにも心地よかったせいだろう。私は、ゆっくりと腕を佐倉の背中にまわした。




