第四十五話
☆☆☆
「…………ちゃん…………お兄ちゃん!」
次第に大きくなっていく悲痛な叫びが聞こえる。聞き覚えのある声は少年の耳に残り懐かしい気分にさせた。
不意に顔に水滴のようなものが当たって弾け、サクヤは反射で瞼を強くくっつける。それで意識が一気に覚醒へと動き、サクヤはうっすらと瞳を開けた。
焦点がまだ定まらず視界のぼやける状態で彼の双眼は、自分の上にある顔を捉えた。
「メグ……?」
なぜ自分がそう思ったのかは分からない。懐かしい声の波長や、記憶に焼き付いたシルエットが無意識のうちに妹に照合されたのかもしれない。
サクヤの声を聞いて、目の前の表情が変化した……気がした。
「お兄ちゃん……! ごめんね……」
時間が経つにつれて脳が現実の情報処理が正確に行われ始めると、声の主が彼の直感通りに最愛の妹であると確信を持つ。これが戦ってきたメグではなく、サクヤの大切に思ってきた妹であることは疑いもしなかった。
「ごめんね……。私のせいで、お兄ちゃんに酷い思いをさせちゃった……。私がもっとしっかりしてれば、こんなことにらならなかったのに」
涙ながらに自責の念を抱き続ける妹はとても見ていられなかった。
間違いなく、今存在するのはこの世界に投げ出される前に共に過ごしていた妹だ。だが、サクヤの見たかったのは妹のこんな姿じゃない。明るく振舞って、いつも周囲に笑顔を振りまく、そんな姿が見たいのだ。
「メグのせいじゃ、ない。あの時助けられなかったのは俺だ。俺が助けられていれば、こんなことにはならなかった」
「違う! 私、ずっと記憶はあったの。お兄ちゃんを何度も刺したり、殺そうとしたことも、全部、覚えてるんだ……」
後半の方は、声が消え入りそうだった。メグが数ヶ月間で辛い思いをしてきたことの証だ。
サクヤは上半身だけを起こし、妹を抱き寄せた。
メグは喋ることなく、兄の胸でついに堪えきれなかった数ヶ月間の涙を零し始めた。
少しでも妹の感じてきた苦痛や愁傷を肩代わりできたら。それが今まで妹に頼り切りだった償いであり、兄としての責任。
もう、無理はしなくていいんだ、心の中で声をかけて、サクヤは自分の胸の中の妹の温もりを感じ続けた。
ひたすら無言の時間が流れ、サクヤは自分からその時間を破ろうとは思わなかった。だからメグから離れるまで静かな時間は続いた。
結局どれだけの静かな時間が過ぎたのかは分からない。メグが離れて顔を上げた時には涙はもう見えなかった。しかしまだ目は腫れていてつい先程まで泣いていたのが丸分かりだ。
「こうしてばかりじゃ、いられないよね」
まだ若干声は震えてたが、メグの中で気持ちの整理はできたようだ。
それより、メグに言われるまで失念していた。サクヤたちがこうしている一方でマリナたちはまだ城内で戦っているのだ。マリナとレイヤのことは信じているが、相手が富豪だと正直不安も強い。
一刻も早く戻る必要がある。
「私が言うのも変だけど、もう大丈夫?」
言われたときは、何のことだか理解できなかった。しばらくキョトンとしていると、自分がメグに刺されていた事を思い出して一瞬表情を険しくする。
だが、痛みはどこにも感じない。
呆然と自分の腹部を見下ろして見たが、出血の跡はない。
「どういう、ことだ?」
痛みがないから今の今まで傷のことを忘れていたのだろう。それにしても不自然すぎる。サクヤが負ったのは重傷だ。それが彼の眠っているうちに傷跡まで完治するなんてまずありえない。
サクヤの戸惑う様子を見てメグはふふっ、と微笑んだ。
「治癒魔法を使ったんだよ。私のは与えられたものだから効力はそこまて強くないから心配だったけど、よかった、治ったんだね」
「元に戻っても魔法は使えるんだな」
「そうみたいだね」
「……なぁ、何があったんだ。メグは今までどうなってたんだ?」
それが一番聞きたい内容だ。サクヤが何度か戦ってきた妹は何だったのか。そしてなぜ、元からこの世界に住んでいないメグが魔法を使えるのか。
サクヤが訊くとメグは僅かに俯いた。きっと何かがあった時のことを思い出しているのだ。
「ごめん、言いたくなかったら……」
「いいよ」
すぐに自分が無神経だったと悟って取消そうとしたがメグがサクヤの言葉を遮った。
「私は、私の中に別の人格を植え付けられてた。魔法によってね。でも、私の意識はちゃんとあった。だから魔法を使うときの感覚、剣を振るときの感触は全部覚えてる」
「それならさっき言ってた治癒魔法、ってのは」
「うん。魔法も人格を植え付けられた時と同じように魔法も植え付けられたっていったらいいのかな? とにかくそんな感じで強引に与えられたものなの。治癒魔法は一度も使ったことはなかったけど、与えられた中の一つだよ」
「もう一つの人格…………」
サクヤには想像もつかない感覚だ。自分の体が自分のものでなくなることはメグにとって辛いことだったに違いない。自分の意思に反し、勝手に行動を起こすのに止めることすら叶わず、見ていることしかできないなんて、生真面目で、穏やかで、優しいメグには苦痛だったはずだ。
「解放されたのはお兄ちゃんのおかげだよ」
「俺の……?」
「ペンダント、ずっと着けててくれたでしょ? ペンダントの光が無かったら私は元に戻ることを諦めてた。ペンダントを着けてくれているのを見て、私のことをずっと忘れないでいてくれてるってわかったから、植え付けられた人格の支配を弱めることができたんだよ」
このペンダントは何年か前にサクヤがメグの誕生日にプレゼントしたものだ。それだけにこの赤いペンダントには二人の思い出が詰まっている。メグの言うことが正しいのなら、兄妹にとってペンダントが大切なものだったからだろう。
「そっか」
優しい微笑みを浮かべるメグにつられてサクヤも自然と表情が綻ぶ。
「さ、」
とメグが表所を引き締め直した。合わせてサクヤも真剣な眼差しを向ける。
「マリナさんとレイヤさん、だっけ? 早く二人のところに行かないと取り返しのつかないことになるよ。富豪は、《創始者》は強い、なんて言葉で片付けられないどの力を持っている。マリナさんたちも強かったけど、長くはもたないよ」
「…………ああ」
本来ならここで、別れ別れになっていた時間を取り戻すように二人の時間を大切に過ごしたいところだがまだ戦いは終わってない。感情に浸るのは、全てが終わってからだ。
「いいのか? せっかく解放されたばかりなのに」
心配げに訊くサクヤに、メグは笑って答える。
「もちろんだよ。ちょっとは罪滅ぼしもしないとね」
冗談であると知りながらサクヤは、誰もメグを責めたりしないのにと渋面した。
「……分かった」
苦渋の決断ではあったが、サクヤはメグの同行を承認した。
本音を言えばメグには安全なところでことが終わるまで待っていて欲しい。だが、サクヤと同じように、一人だけ安全なところにいるというのは恐らくメグも耐えられないだろう。それに、いくら冗談でも、きっと責任感の強い妹なら何割かは本気で言ったに違いない。兄としてここは止めるべき場面なのかもしれないが、マリナとレイヤが勝てない相手を倒す自信など、サクヤには無かった。もうメグと離れ離れにならないためには、二人で《創始者》の元に向かうのが最善だ。
そう判断したサクヤはメグと肩を並べて再び城へと戻り始めた。