第四十二話
――死んでもいい人なんていないよ。
また聞こえた声にサクヤは顔を上げた。よく聞きなれた声で、それでいて久しく直接聞いていない声。穏やかな含みを持っていて、こっちまで自然と穏やかな気分になれる。
でもなぜだろう。声はちゃんと届いているのにどこから聞こえているのかが分からない。
――お兄ちゃんにだって、必要とされる人はいるはずだよ。
今度こそはっきりと分かった。声は耳から聞こえているのではなく、直接脳裏に響いているのだ。そしてその主は、今対峙している最愛の妹。この世界に来てメグとまともに言葉を交わしたのはたった一度のみ。サクヤの夢に現れたメグはちょっとした方法で夢に入ってきていると言っていた。その方法は結局教えてもらえなかったが恐らくこれも同じ方法なのだろう。
――だから死んでもいいなんて言わないで……。
目の前にいるメグを見れば、彼女は動きを止めていた。そしてもう一つ、今この場で起こっている現状に気付く。
彼が首から下げている、メグの赤いペンダントが服越しに小さく発光している。服の中からペンダントを取り出すと灰色に染まりきった街に一点の真紅の光が点った。
サクヤはしばらくその光に見惚れていた。メグと同じように光には一点の曇りもない。赤く澄み渡った光は次第に収束していき、消えた。
光が消滅してからもサクヤはペンダントを見詰めていた。どうやらメグも同じようで、今メグの身体に宿っているのはどっちのメグの魂なのかは分からないが微動だにしない。
もう本来のメグの声は聞こえなくなった。つまり、妹の身体にあるのは《創始者》によって弄られている方。多分直にサクヤの攻撃を再開するだろう。
でも、どうしようもないんだよな。声をかけてくれたメグには悪いけど身体は機敏に動きそうにない。戦闘が再開すれば数分で殺される。
メグが少しずつ元に戻りつつあるのは間違いない。さっきのだってその兆しの一つだ。今のうちに畳み掛ければメグを取り戻すことができるかもしれない。逆に考えれば今しかチャンスはないだろう。メグが攫われたあの日から数ヶ月間この時を待ち続けていた。やっときた好機を易々と逃すわけにはいかない。
身体の支配を戻した妹が再びのそのそと身体を動かし始めた。その表情にはやはり感情がなく、敵対している方のメグだとすぐに断定する。もしかしたらそのまま本当の妹が戻ってきてくれるんじゃないかと些か期待したが、さすがにそんな都合よくは行ってくれなかった。
さぁ、どうくる。
いつの間にかサクヤの中の葛藤は消えていた。おかげさまでもう自分が死んでもいいなんて考えはない。だが、この状況を打破できるとも思ってはなかった。
「何があったの……?」
ペンダントが光っていた間の記憶が無かったらしく、空白の時間を思い出そうと頭を抱えながらメグは呟いた。
やはり、頭の中に響いてきた声とは違う。傍からみれば違いなど分からないほど微弱なものかもしれないが、兄にはその声音の違いがはっきりと分かる。
しかし、そのメグが戸惑いを見せたのは初めてのことだ。状況はサクヤ有利に傾いている。
自分の推測にサクヤ思わず口端を持ち上げた。
「まぁいいや。お兄ちゃんももう戦えないし、そろそろ終わらそっか」
開き直ったサクヤは、何があったか知らない敵を微笑ましく見ていた。彼に具体的な作戦やプランがあるわけではないが、その場を動かない。というよりは動けない。
自力ではどうすることもできないためにこれから起こるであろう未来に、覚悟を決めていた。
メグは腕を振り上げて叫ぶ。
「プロミネンス・メテオ!」
上空から隕石のような火塊が大量に降ってくる。地響きを立てながら街をさらに燃やすこの魔法こそがこの街を、この現状にした原因なのだろう。
もちろん火塊の雨はサクヤを中心に降り注ぐ。だが、それでも彼は微動だにせず、寧ろ小さく笑顔まで見せている。炎が直撃しなかったのは奇跡に近いかもそれない。それでも勿論強烈な熱さを感じるが耐えて平然を装う。
「ストーム・スクリーム!」
これはさっきも聞いた技だ。降ってきた炎による黒煙の外から舞い上がった火の旋風が来るがそれも避けない。
今回ばかりは痛みも強く感じて膝をつきそうになるが歯を食いしばって自分を奮い立たせる。その間にメグが煙の中から自らの剣でトドメを刺そうと現れた。
――サクヤは、この時を待っていたのだ。メグの方から近づいてくれるその時を。
メグは完全に勝ったと思い込んでいる。だから最後は魔法ではなく直接手にかけようとしている。
そこをサクヤはギリギリまで引き付ける。
引き付けて、引き付けて、引き付けて引き付けて、引き付けて。
――刺された。
これまでで一番の激痛と、自分の腹部を貫いた剣の冷たさと熱さの矛盾した感触をサクヤは確かに感じた。
そして彼は微笑を浮かべた。つもりでいたが、実際のところは痛みが強すぎたために単なる引き攣った愛想笑いのようになっていたことには気づかない。
満足げにメグが剣を引き抜くと、脱力感や虚無感といったものまで襲ってきた。それに痛みも増して今度こそ立っていられなくなった。しかし、ただで倒れるわけにはいかない。震える手を持ち上げ、メグの背中に回して華奢な身体を抱きしめる。すると、妹がビクッと震えたのが伝わってきた。
「やっと……取り戻した……」
力のないサクヤの声はすぐに炎の燃え盛る音によってかき消される。
もう離さない。何があろうとどうなろうと、二度とこの手は離さない。こんな思い、散々だ。だからサクヤは妹を出せる限りの力で強く――実際は力が入らなかったために緩かった――抱きしめた。途端に鼻に届く妹の甘い香り。それは一緒に暮らしていた時のまま健在していた。
懐かしさを覚え、幸せそうな表情を浮かべるサクヤの意識は薄れかけていく。今のサクヤの状態だと、メグなら抵抗するのは容易なはずだ。なのに彼女はそうはしなかった。
兄の腕の中で大人しくなった妹。二人の姿はそれが本来あるべき兄妹の形そのものだった。
朦朧とする意識の中で、サクヤも妹の変化に気づいていた。数ヶ月に渡って求め続けてきた瞬間。その刹那の時間を愛おしさを感じながら、サクヤはゆっくりと、深い眠りについた。
この時、二人の幸せな時間をそっと見守るようにしてメグの赤いペンダントが小さく光っていたことをサクヤは知る由もない。