第二十六話
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――ここは、どこだ?
何も聞こえない。何も臭わない。
目を開けて体を起こそうとしたが、激しい痛みが全身を襲い、また倒れてしまう。
サクヤの視線の先にあるのは、電気で灯された白い天井。どこか見覚えのあるものだがそれが思い出せない。
一度息を整えてから、今度はゆっくり全身を使って状態を起こす。今度は成功した。まだ朦朧とする意識を覚醒させようと時間を置く。
その時、胸に何か重みを感じた。その小さな衝撃で意識を覚醒させる手間は省けた。柔らかいが、それでいて温かい感触。顔を落とすと、重みの正体は胸に飛び込んできたマリナだった。
「サクヤ……よかった……!」
目を覚まして聞いたマリナの第一声は震えていた。それだけでなく、小さく肩も震えている。
「マリナ……」
マリナが泣いている?
最初は信じられなかった。あのマリナが、こんな姿を一度も見せたことのないマリナが涙を流しているなんて。
そうか、メグに刺されて倒れたんだ。ということはどのぐらい寝ていたのだろう。天井の高いこの部屋の上部にある窓から光は差し込んでいるが時間が分からない。
でも、今はそんなことどうでもよかった。今、自分のために一人の少女が泣いてくれている。それが嬉しかった。
――思い出した。ここは俺の家の俺の部屋だ。
手負いになったサクヤをここまで運んで来てくれたんだ。長い道のりをどうやってかまでは分からないが、大変だったに違いない。
「サクヤ……サクヤ……」
心からマリナには感謝している。だからサクヤは優しく彼女を抱き締めた。ずっと心配してくれていたんだ。しばらくはこのままにしておいてあげよう。
マリナはそこから声を出さなくなったが、肩の震えはまた大きくなった。
「落ち着いたか?」
マリナの呼吸が整うのを待って声を掛けた。
「ええ」
彼女はそう返すとゆっくりと離れて座った。まだ彼女の顔は涙で濡れ、目が充血している。
「あ、ありがとう。サクヤ」
礼を言う彼女だが、どこか様子がおかしい。少し俯き加減でサクヤと目を合わせようとしていない。それに、何だか顔も紅い気が……。
「あ、」
そこまで考えてようやくサクヤは我に帰った。今考えれば二人は相当恥ずかしいことをしていた。マリナの態度を見ると、サクヤまでも恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
「ごごご、ごめんマリナ」
慌てて謝罪して思わずサクヤも目を逸らす。
これまでは彼にとってマリナは、同じ世界から来た唯一同じ境遇で、同じ目的のために戦う仲間だったのだが、この時初めてサクヤは目の前にいる赤髪の少女を異性として意識した。
☆☆☆
ゆっくりと時間を掛けて落ち着いた二人はこれまで通りの状態に戻っていた。ただ一つ違うことと言えば、キッチンに立って料理をするマリナがどこか嬉しそうなこと、だろうか。
そんな状態でどこからか持ってきたエプロンを着けて立つ彼女の後ろ姿を見ていると、サクヤの方まで恥ずかしくなってしまう。
「これって、前とは立場が逆だな」
「前って?」
マリナが手を止めて振り向く。
「ほら、創始者がレイヤの村を襲撃した時」
若干のタイムラグがあった後、マリナの顔がみるみる紅潮していき、遂に顔を背けた。
「どうした?」
「べ、別に何でもないわ。――あの時は、ごめんなさい。私ほんとにあの時どうかしてたわ」
「そんなのもういいさ。過去のことに囚われても何も起こらない。それに、今回俺を助けてくれただろ?」
しばらくの間、赤髪の少女は無言で手を動かていた。それからようやく消え入りそうな声で、
「……ありがとう」
それからすぐに料理が出された。茶碗の中には紅い梅干が乗ったお粥が盛られている。
それに疑問を感じたサクヤが横目で時間を確認すると、時計の針は太陽と同じように頂上に上りきったところで重なっていた。
「……なぁ、俺ってどれぐらい寝てたんだ?」
「ざっと一週間近いわね」
「そんなに!?」
反射的に机を叩いて立ち上がろとしたが、まだ痛む体のせいで椅子に戻されてしまう。
「ええ。妹さんの剣は完全にあなたの体を貫通していたわ。正直、生きていること自体が奇跡に近いのよ」
完全には覚えていないが、マリナの言うには相当危篤状態だったのだろう。サクヤにしてみればそれは昨日のことだが、実際は一週間もの長い間寝たきりなのだ。それで体の痛みが酷くないのはまだ感覚が麻痺しているのかもしれない。
「だから、数日は過激な運動をしないこと。しばらくは剣を振るのも控えて。また傷口が開くと本当に何もできなくなるわ」
そこまではっきりと宣告されれば無視はできない。
「分かったよ。無理はしない」
不平はあったが、それは胸の内に押しやって頷いた。
「そろそろご飯食べるわよ。折角作ったのに冷めるわ」
「そうだな、いただきます」
礼儀正しく挨拶をして、マリナが座るのを待たずに玉子焼きに箸を伸ばす。
口に入れた途端に玉子がとろけるような柔らかさで甘さも程よい。
「うん、美味しい」
「そ、そう?」
マリナの声が上擦っている気がして見てみると、彼女は俯き加減に頬を赤く染めていた。
それからは無言で食べ進めた。マリナがいつも様子が違うために場の雰囲気が気まずくなってしまったためだ。
そのせいでマリナの料理は美味しいはずなのに、今一つ味がよく分からなくなってしまった。
気まずい状況から一刻でも早く抜け出すためにサクヤは早食いを実行し、皿を空にすると今後のことについて切り出した。
「この後、レイヤのとこに行こうと思うけど、まだ行ってないよな?」
「ええ。でも……あなたはまだあんまり動かない方が……」
「心配してくれるのは嬉しいけど、一週間も日を空けてしまったんだ。これ以上は先延ばしになんてしたくない」
あまり気は乗らなそうだったが、事が事な上に、マリナ自身にも関係する内容のため、彼女はサクヤの行動を黙って承認した。