ビー玉を通して見える世界
短編 別バージョン
子供の頃、何か分からないことがある度に母親に尋ねた記憶がある。
空は何故青いのか。犬は何故喋れないのか。鳥はどうして飛べるのか。今日の夕飯は何なのか。父親はどうして出て行ってしまったのか。ずっと部屋の隅にいるあの人は誰なのか。あの子はどうして起きないのか。あれは何、これは何。思い浮かぶままの疑問。
いつからだろう。
分からないことがあっても気にしなくなったのは。
いつからだろう。
不思議なことが起こっても見向きもしないようになったのは。
分からないことがあったら、分かるまで向き合う。勉強でだって大切なことだ。高校のテストで解けない問題があったら、後で解けるようになるまで向き合う。成績アップにだって欠かせないことだ。
でも、それがなかなかにしんどいことだっていうのを今の僕は知っている。
いちいち何かに真剣に向き合うのはひどく疲れる。だから、向き合わない。僕の生き方は、英文を読んでいて知らない単語が出てきたら、何となくの意味を当てはめてそのまま読んでしまうようなものだ。
向上心はなく、成績も上がらない。それでも、高校ではそこそこの成績だし、特に困ることもない。別に今日明日の命ってわけじゃないし、それでいいじゃないか。
未来に希望? 笑わせないで欲しい。そんなものはないよ。僕は夢と現実に折り合いをつけて生きているんだ。
むしろそんなものをもって生きてる人間なんてあんまりいないでしょ。皆なんとなく生きてるんじゃないかな。それで生きていけるわけだし。
そう思っていた。だから僕が、庭野 雪という少女に関わってしまったのは皮肉でしかなかったわけだ。
「桜葉ってさ、スゲー春っぽい名前してんのにぜんぜん春っぽくないよね。なんか秋って感じ、暗いし」
前の席の女子がそう話しかけてきて笑った。名前は覚えていない。人の名前を覚えるのは苦手だ。
桜ってついてるだけで春っぽいとか言うのは止めて欲しい。偏差値が低そうだ。あと、秋っぽいってなんだ。結局暗いって言いたかっただけだろ。僕は好きで根暗をやっているんだ、ほっとけ。
彼女の近くにいた男子が「それ分かるわー、マジうけるわー」などと頷いている。個人的には全くうけない。
「そうかな」
無難に引きつった笑顔で言葉を返す。
大体何故この人は僕に話しかけてきているんだ。前に消しゴムを拾ってあげた遠回しなお礼なのかこれは。彼女のお礼はこんな感じなのか。異次元か。いや、僕の時代が追いついていないだけかもしれない。まぁ、消しゴム拾ったのは一週間も前だけど。
理由も分からないまま話しかけられ続けると、急にせわしなく動いていた彼女の口が止まった。
「庭野のやつまた変なことしてる」
先ほどまでより少し低い声で目の前の女子はそんなことをもらした。どうやら会話のキャッチボールをするつもりで発したわけではないらしい。彼女の視線は僕より斜め後ろを向いていた。
その視線につられて振り返ると、そこには一人の女子生徒の姿があった。
色が薄い。一言でいえばそんな感じの人間だった。透き通るように白い肌、明るめの茶色なのに活発な印象などまるで受けない腰まで届く髪。小柄の人形みたいに整った顔についている大きい瞳の内の片側は何故か青いビー玉を通して窓とは反対の方向を覗いていた。
体の線が細く、目に見えないところで知らないうちに消えてしまうんじゃないかと思ってしまうようなその少女の名前は流石の僕も知っていた。
庭野 雪。僕の通っている学校では有名な女子生徒だ。
「あー、庭野。あいつ先祖が陰陽師? っつーやつやってたんっしょ。またなんか見えてたりして」
さっきまで僕に話しかけてきていた女子の側にいた男子が、独り言のつもりで一方的に投げられた言葉を拾って、言葉のキャッチボールをする。
「なんかってなによ?」
「そりゃあ、決まってるっしょ」そこで男子生徒が声のトーンを下げる。「幽霊とか」
男子生徒の言葉に女子生徒は笑う。
「きゃはは、なにそれ、視えちゃってるんです系少女。うけるんですけど」
「いやー、でもありえなくなくない? むしろ日々の奇行にも納得いくっしょ」
女子生徒と男子生徒が僕の名前トーク以外で盛り上がり始めたので、そっと胸を撫で下ろす。庭野には悪いが、助かった。このタイプと会話するのは苦手だ。
と思っていたのが、どうやら相手は僕もまだ会話のグループに入っていると思っているみたいで、意見を求めてくる。
「ねぇ、桜葉はどう思う?」
自分にとっての理想の営業スマイルで対応する。今の僕の営業スマイル技術は考える最強のハンバーガーショップの店員に匹敵すると思う。
「いやー、ないんじゃないかな」
バカらしい。幽霊なんているわけがないだろ。大体僕の中の霊感系少女は黒髪ロングと相場が決まっているんだ。
放課後の校舎はわりと好きだ。放課後に下駄箱から校舎の外へ出るその瞬間が僕はもっと好きだ。なんというか、解放された感じがする。あれ、ちょっと待ってもしかして僕、学校嫌いなんじゃない。悲しい事実に気付いてしまった。
昨日出し忘れた宿題を職員室で数学教師に提出してから、自転車置き場に向かうとそこには庭野 雪の姿があった。
彼女も自転車通学だったのか、知らなかった。さらに言えば、僕と同じ直帰組の帰宅部だったということも知らなかった。まぁ、知る必要もなかったのだが。
庭野は昼間に見たときと同じようにビー玉を覗きこんでいた。高校2年にもなってビー玉で遊ぶ人間なんて探したってそういないんじゃないだろうか。探さなくたって分かることだ。
最近はそのガラスの球体自体あんまり見かけない。大手百円均一ショップのペットコーナーで同一の色のものが多量に袋詰めされているのを見かけるぐらいだ。金魚鉢の底に敷き詰めたりして使うんだろう。
庭野がビー玉を覗きこんでいようが、へそで茶を沸かしていようが、正直僕には関係ない。何も見なかったことにして自転車に乗り、直帰するなり、古本屋に向かうなりするだろう。普通ならば。
重要なのはその庭野がビー玉を通して覗きこんでいる対象だ。
さっきから何度も確認しているが間違いない。あれ、僕の自転車だ。
今の僕には何事もないかのようにあの自転車に乗って帰る心のタフさはない。
だからこれは仕方ないのだ。
「僕の自転車に何か用かな?」
声に反応して庭野が驚いたように振り向いた。大きな目がまんまるに見開かれている。何だよその顔、今の状況に驚くのはむしろ僕の方だぞ。
「さ、桜葉くん?」
庭野が僕の名前を口に出した。最後のイントネーションが上がったのは彼女が僕の名前をきちんと覚えていなかったからだろうか。
それでも一度も話したこともない僕の名前を覚えているなんて感心だ。僕は庭野と違って有名ではないだろうに。
「いかにも、僕は桜葉だ。それで、君は僕の自転車に何か用があってそこにいるんじゃないのか?」
何が可笑しかったのか庭野は口を手で隠し、少し前かがみになるとくすくすと笑った。
もともと小柄な庭野がそんな姿勢になると、顔がこちらを向いたときに自然と上目遣いになる。顔立ちの整った女の子の上目遣いというものはそれだけで破壊力がある。他人に期待をしないエキスパートの僕じゃなければやばかったかもしれない。
「ふふ、桜葉くんって、変わってるね」
失礼な。学校内でも変わっていることで有名な庭野に言われる義理はないぞ。僕はいたってノーマルだ。現代っ子風に言うなら、パンピーだ。いや、なんか違うな。
「そうかな」
「そうだよ。変わってる」
庭野はそう言って笑った。どうでもいいことだが、庭野が笑っているところを初めて見た気がする。
ずいぶんとあどけない笑顔だった。そう思うのは僕が笑顔を向けられることが滅多にないからだろうか。だとしたら悲し過ぎる。
僕がそんな悲劇的なことを考えていると庭野が続けてこんなことを言った。
「話しかけられるの久しぶりだもん、わたし。きっと他の人なら、どいてくださいの一言だけだよ」
なるほど、それが正解だったのか。にしても、寂し過ぎるだろ。庭野は確かに変人で有名だが、女の子であることにかわりはないのだ。話しかけられるのが久しぶりって、そんなのないだろう。夏休み後の僕かよ。
「そう言われてみるとそうかもね」
そう答えておくが、彼女は既に僕の質問を二回もスルーしている。いい加減答えてくれないだろうか。
そんな僕の思いをくみ取ったのか、はたまた偶然か、庭野は僕の自転車の方を向いた。
「これ、桜葉くんの自転車なんですよね?」
「さっきまで君は何を聞いていたんだ。そうだよ、僕のだ」
「ですね」
庭野はまたくすりと笑う。それから唐突に真面目な顔つきになって、こちらに向き直った。
「この自転車、誰かのお古だったりしませんか?」
一瞬心臓が止まるかと思った。
彼女の言っていることは正しい。それは母さんが学生時代に使っていたものだ。僕が高校生になるときに婆ちゃんが譲ってくれた。
大切に使っていたらしく、買われてから20年近くたった今でも問題なく使える。
「そうだね、当たってるよ。庭野って、エスパーだったりするの」
よく考えてみれば、僕の自転車が古いものだということぐらい観察すれば分かることかもしれない。だから僕は、らしくもないジョークを飛ばした。
だが、彼女は、庭野 雪という少女は変人だったのだ。僕はつい忘れていた。
「ううん、残念ながらエスパーじゃないよ」庭野は首を横に振る。それから続けてこう言った。「でもね、この自転車からはとーっても温かい人の想いを感じるの」
やめてくれ。そんなわけがないだろう。
「君はそのビー玉で幽霊でも見えるのか?」
きっと今の僕の声はさっきより低いし固い。
「うーん、そうなのかな。言い方によってはそうかもね。でも、わたしはその幽霊っていう言い方あんまり好きじゃないけど」
「へえ、じゃあ庭野が陰陽師みたいな家系の子孫っていう噂は本当だったんだ」
庭野の表情が凍った。だがすぐに困ったような笑みを彼女は浮かべる。
「うん、そうだよ」
「へえ」
庭野はまだ手に持っていたビー玉を目の高さまで持ち上げる。彼女はそのままそれを覗きこんだ。
「桜葉くん、怒ってる」
そんなこときっと、ビー玉を通さずたって分かるだろう。
「別に怒ってないよ。自慢の霊能力も大したことないね」
庭野にあたったって仕方がないのにどうしても言葉に棘が入る。
「わたし、わたしね」
庭野がなんだか泣きそうな感じで言った。彼女の眼尻にはうっすらと雫が溜まっている。
「桜葉くんとは仲良くなれそうな気がするの」
僕は彼女のその言葉を踏みにじる。きっとこれは八つ当たりだ。
「どうだろうね。僕はあんまりそうは思わないかな。他人にはあまり、興味がないんだ」
だって仕方ないじゃないか。
僕の自転車に温かい人の想いなんて遺されているはずがない。
母さんが僕に残すとしたら、それはきっと怨念とか、そういったものだ。
頭がお花畑の霊感少女にはそんなこと分かるはずもない。
「さ、桜葉くん?」
最初に彼女が発した言葉と同じ言葉なのに大分印象が異なる。庭野の声は震えていた。
そんな彼女の隣を通り過ぎて、僕は自転車の鍵を開けて、スタンドを蹴り上げ、座席に跨った。
「じゃあね、庭野さん」
そう言い終えると、自転車をこぎだす。何だかペダルが重たい。
「桜葉くん、また明日!」
庭野の精一杯張り上げた声だけが僕の後ろで響いていた。
世の中を斜めに見ることしかできない人種がいる。もちろん自覚はある。僕みたいな人間だ。
斜に構えて生きて、何が楽しいんだと思う人もいるだろう。実際、全く楽しくない。でも、こういう生き方しか僕はできない。
そしてきっと、彼女は反対にどこまでも純粋でしかあれないのだろう。
「桜葉くん?」
昨日から何度この声に名前を呼ばれているだろう。ここ最近僕の名前を呼んだ数ランキングとか作ったらいい線いきそうだ。どんだけ名前呼ばれてないんだ、僕。なんだか視界がぼやけてきた。心の汗かな。
現在、僕の前には庭野がいた。
放課後にわざわざ僕の席まで来て、そのまま黙りこくってしまったときは正直焦った。同じクラスの奴らが異様なものを見るような目をしていたことが海馬にこびりついてしまった。トラウマものだ。
なんとなくその場の空気が嫌で、屋上なんかに逃げ込んでしまった。庭野も何も言わずに着いてきて、今に至る。
「何?」
何だか告白でもされるみたいだ。遠くから見ている人がいたらまさにそう見えるだろう。
「昨日はごめんなさい」
だけど、彼女の口から出てきたのは愛の告白ではなく、謝罪の言葉だった。
「いや、別にいいよ。大したことじゃない」
おとなげなかったのはむしろ僕の方だ。相手に僕個人の事情を把握しろというのは無理に等しい。だから、人は基本的に相手の事情に深く踏み込みたがらない。踏み込むことを重いといって、表面上だけの関係を続ける。そして、そんな薄っぺらい関係を愛だの友情だのいうのだ。
庭野の謝罪も表面上だけの社交辞令に違いない。だって彼女は悪くないのだから。
「でも、桜葉くんは傷ついてた」
「昨日、君は僕を見て怒っているかと聞いていたけどね」
「うん。だって、傷ついたからこそ怒るんだよ」
一理あるかもしれない。だけど、全てがそうとは限らない。少なくとも僕は傷ついてなんかいない。
「話はそれだけ?」
そう問うと、庭野は困ったように笑った。昨日見たのとは全然違うような笑顔だった。
「わたしは、人の想いより美しいものはないって、そう思ってるの」
急に何を言い出したんだこいつは。さっきまでのことと、全く関係ないことを言いだした庭野に少しうんざりする。そういえば彼女は校内では指折りの変人、自称霊感少女だった。
「そうなんだ」
人の想いなんてものほど信頼できないものもないと僕は思うけどね。
「ねぇ、桜葉くん。お母さんの想いと向き合ってみない?」
その一言は庭野にとってはなんとなくの言葉だったのかもしれない。少なくとも決死の覚悟で言った言葉ではないと思う。
きっと庭野は愛されてきた人間だ。少なくとも家族には心の底から祝福されて生まれてきたに違いない。なにせ彼女は人の想いよりも美しいものはないなどと素面で言い切れる人間なのだ。
そういう奴は決まって吐くのだ。子どもを愛していない親などいない、などという薄っぺらい言葉を。そんな言葉は決して他人には届かない。いや、同じく頭の中まで幸せな奴らには届くのだろうか。
「向き合ったとして、そこに君が思い浮かべるようなハッピーエンドはないよ」
自分でも驚くぐらい低い声がでた。昨日から感情的になることがどうにも多い。
庭野の顔は少しばかり青褪めている。彼女だって女の子だ、きっと怖いに違いない。
「その顔」
庭野はそれでもその場に踏みとどまって、僕と向き合い続ける。
「僕の顔がどうかした?」
「桜葉くんはよくその暗い笑顔を浮かべてる。それ、あんまりよくないよ」
「きっと僕はそういう本質の人間なんだよ、だから隠し切れずにどうしても表情に出るんだ」
「それは嘘」
庭野はそれだけはとても力強くはっきりと言った。彼女はブレザーのポケットから青いビー玉を取り出す。そしていつものようにそれを覗きこんだ。いや、訂正がある。正確には彼女はそれを通して僕を覗きこんでいる。
「桜葉くんはとってもあったかい色をしているもの」
なんだそれ。お前はビー玉を通して霊的な何かが見えるんじゃなかったのか。人を色に例える能力は別ものだろ。いつから霊感少女から共感覚者にジョブチェンジしたんだ。
「温かい色、ねぇ」
「だからね、桜葉くんはお母さんと向き合うべきだよ。それでね、自分の問題に整理をつけたその後にはわたしを助けてね」
「勝手な言葉だな」
「そうだね、わたしは勝手だ。でも桜葉くんはきっと私を助けてくれるよ。あなたはわたしよりよっぽど人の心と向き合う仕事にむいている。だから、目を逸らさないで」
庭野のいうことは理解ができない。少なくともこのときの僕には理解ができなかった。
「よく、分からない」
僕がそう答えると庭野は少し寂しそうに笑った。
「えへへ、変なこと言っちゃった。それじゃ、今日はもう帰ろうか。行こっ、桜葉くん」
「行こうって、何で一緒に帰る流れになっているんだ」
「昨日も言ったと思うけど、わたし、桜葉くんとは仲良くなれる気がするんだ。だから、今日からわたしと桜葉くんは友達、いいでしょ?」
今度は最初見たときのような笑顔で屈託なく笑う庭野に僕は首を横になど振れるはずもなく、ただただ頷いた。彼女のような変人を可愛いと思ってしまったのは秘密だ。
次の日からも、庭野は僕に話かけ続けた。最初はつまらない噂の種にされたり、奇異の目にさらされたり大変だったが、人とは慣れる生き物である。やがて、そういうことは減っていった。いやはや、慣れとは実に恐ろしい。
まぁ、僕に話しかけてくるクラスメートは減ったが。それはもともと少なかったのだからよしとしよう。自分のことながら考えると悲しくなるようなやつだな、僕は。
代わりに庭野と話すようになったのだから、結果的に人と話す回数は圧倒的に増えた。
庭野と一緒にいることも増え、彼女のこともだんだんと分かってきた。変わり者なことを除けば、庭野は良い奴だし、なにより見た目は可愛い。一緒にいて気分は悪くなかった。
今だって帰り道に捨て猫と戯れている彼女の姿は目の保養になる。
「可愛いー」
小動物を可愛いという女子は小動物ではなく小動物を可愛がる自分を可愛いと思っているというようなことを聞いたことがあるが、果たして真偽はどうなのか。正直どっちでもよかった。
猫が撫で続けてくる彼女に辟易したのか、庭野の腕から身を捻って脱出して、僕の方へと寄ってきた。黒いそいつは、猫らしくにゃーと鳴く。
やめてくれ、可愛らしく鳴いたって飼ってなんかやれないぞ。人懐っこいやつめ。
「桜葉くん、懐かれてる」
「君みたいにこいつも僕をカモだと思ったんじゃないかな」
「ふふっ、何それ」
庭野が笑う。一緒にいるようになってから、彼女はよく笑う。目の前の彼女は僕が知っていた昔の彼女とはまるで別人だった。
「きっと事実さ」
「ねぇ、桜葉くん。この子、飼ってあげてよ」
庭野がしゃがんだまま上目遣いで見てくる。僕はそれに非常に弱かった。だけど、易々と負けるわけにはいかない。精一杯の抵抗を試みる。
「君が飼ってあげなよ」
すると、庭野は困ったように頬をかいた。
「うちはそういうの駄目なんだ」
「別にアパートやマンションでもないだろうに」
庭野の家には一度だけ行ったことがある。とても大きい家だった。一言で豪邸だ。ただ、僕はあんまり好きにはなれなかった。なんだかとても冷たい感じがしたのだ。
「うーん、親が厳しいから。ねぇ、桜葉くん。本当にダメ?」
小首を傾げてそう聞く庭野に逆らうことが出来ず、その日、僕は結局猫を腕に抱えて家に帰った。もちろん婆ちゃんには怒られた。お礼にと言って庭野がビー玉を一つくれたが、全然割に合わない。
それからしばらくしてからだった。
庭野 雪が死んだのは。
その知らせは電話で届いた。電話に出た婆ちゃんはなんとも言えない顔をしていた。
僕はお通夜にもお葬式にも顔を出さなかった。ただ部屋の隅でずっと膝を抱えていた。
自分が傷ついたと自覚したのは母さんの死以来のことだった。母さんが死んだ時、僕は自分を責めた。庭野は母さんが、僕に温かい想いを残しているなんて言っていたが、そんなはずはない。母さんはきっと僕を恨んでいる。庭野、君も葬式にも行かなかった冷たい僕のことを恨んでいるかな。
僕は母さんが高校二年生のときの子どもだった。相手の男は大学生だったらしい。そいつは母さんの妊娠を知ると、大学を辞めて姿をくらました。そこから母さんは僕を女手一つで育て上げ、僕が中学二年生の時に病死した。乳がんだった。僕は婆ちゃんに引き取られた。
母さんはきっと僕を恨んでいるに違いない。僕さえいなければ、母さんはもっと幸せな人生を過ごせたはずだ。人生の一番楽しいかもしれない時期を僕の面倒を見るだけで終えた母さん。近所の人間には奇異と侮蔑の目で見られ、避けられ、それでも病気で倒れるまでは一人で僕を育てた母さん。一体母さんの人生はなんだったのか。
――目を逸らさないで
庭野の声がして、そっと抱きしめられた気がした。
顔を上げると、この前の黒猫が僕の足下にすり寄ってきていた。目が合った。にゃあ。猫が僕に向かって鳴く。なんだか責められている気がした。
「母さん、そこにいるんだよね?」
僕は家の自転車がとめてある方向を向いた。
庭野はビー玉を通さないと霊的なものが見えないという設定だった。でも僕には、ビー玉なんかいらない。ずっと見えていた。彼女なんかよりずっと霊能力者だ。
ただ、目を逸らし続けていただけ。見えないふりをしていただけ。疑問も抱かないようにした。それがきっと普通だから。母さんも尋ねられて困っていた。だから僕は、見えないことにした、見ないことにした、向き合わないことにした。
でも、君が再び向き合わせたんだぞ、庭野。
「ずっと、恨んでいるから側にいるんだと思ってた」
立ち上がって、母さんのいる方へと向かう。
温かかい。あまり力はないようで、言葉は発せないみたいだけど、僕の頭を撫でてくれた。
大きくなったね、そう言ってくれた気がした。
庭野の言った通り、僕は恨まれてなんかいなかった。むしろ、守られていたんだ。
「今までごめんなさい、母さん。そして、ありがとう。僕はもう大丈夫。今から、友達を助けに行かなきゃいけないんだ」
髪の毛がふわりと風に優しく吹かれるような感触がした。もう一度撫でられたのだと思った。にゃあ。足下で黒猫がまた鳴いた。慰められているのだと思った。
僕は庭野の家の前にいた。大きな門が僕がこの家に入るのを阻んでいる。僕はこの門が嫌いだった。どこまでも真っ直ぐ向き合おうとしていた庭野の家の門に相応しいとは思えなかった。
その門を押したが開かない。仕方なく塀をのぼって庭へと入った。不法侵入だ。警察に突き出されたら捕まるのだろうか。
庭に下りたつと、すぐに見つけることができた。
「やあ、遅くなって悪かったね」
声をかけられて僕に気付いた庭野はいつかのように困ったように笑った。
「やっぱり、来てくれたんだ」
庭野の回りにはお札やよくわからないもの達で結界のようなものが張ってある。
「そういう家系なだけあるな、結界かな?」
「そうだね、私はここから出れないんだ」
「みたいだね。でも、助けるよ」
僕は初めて庭野に対して意識して笑みを浮かべた。
今さらだが、庭野 雪は正真正銘本物の霊能力者だった。僕の自転車を見るだけで、そこに宿っていたものが母さんの想いだと見抜いていた。
対して僕は彼女のことを少しも理解していなかった。いや、この言い方には語弊があるだろう。理解しようとしていなかったのだ。彼女は初めから僕と向き合おうとしていたが、僕は今、このときまで向き合おうとしていなかった。
「ううん、もう十分助けられたよ。桜葉くんのおかげでわたしは救われた」
「何を言ってるんだ、僕はまだ何もしていない」
「桜葉くん、わたしは死んだんだよ」
そうだ、庭野 雪は死んだ。僕は何をしようとしていたんだ。何をしにここに来た。死人に何をしてやれる。
「庭野、お前は」
「桜葉くん、世の中には理不尽なことなど山ほどあるんだよ」
庭野はそう言う。
僕の母さんは病死した。では庭野は何故死んだ。病死か、いや違う。そんな感じはしなかった。事故死か。それもきっと違うだろう。
庭野 雪という少女はきっと殺されたのだ。
何故、娘の魂を結界の中になど閉じ込めるのだろう。普通の親ならそんなことはしない。
僕は庭野がどんな人間かを何となくは知っている。くわえて今の彼女は悪霊には見えない。
きっと庭野はこの家の人間に殺されたのだ。
「庭野!」
僕は以前庭野のことを家族に愛された幸運な人間なんだろうと勝手にみなしていたことがあった。
でもそれは違った。庭野は愛されてなどいなかったのだろう。
「桜葉くんはわたしと初めて向き合ってくれた人。わたしが生きてきた唯一の意味」
きっと世間ではこれを重いと言うのだろう。そうだ重い。他人に向ける感情にしては重すぎる。
「なんだよ、それ」
僕はきっと期待していたのだ。実は庭野は死んでなどいなくて、きっと何かの冗談で、僕は改めて庭野と向き合い、分かり合う。もしくは、庭野の魂を体に戻して元通り。
そんな都合ばかり良い、心地いいハッピーエンドを。
だけど、例え天地がひっくり返っても。
死人は生き返らない。
この世界は僕達にそこまで優しくない。不条理だからこそのこの世界なのだ。
庭野はまた口を開く。
「わたしはね、ここの子どもじゃないの。分家の子どもなんだ。ビー玉を通してしか視ることができない、出来損ないの分家の子。だからわたし、式神にされちゃった」
殺されちゃった。庭野はそう言って笑った。
「僕は――」
言葉が出ない。僕は何をしにここまで来たのだ。先ほどからこの家の人間が僕を取り囲んでいることは分かっていた。だけど、そんなことはどうでもいい。何か、何か言わなきゃ。
「ねぇ、桜葉くん」
庭野はよくそう言って僕に話しかけた。
「ありがとね、大好きだよ」
その言葉の後に彼女はごめんねと付け足した。
なんだよ、それ。
この後すぐに僕はこの家の人間に取り押さえられた。ひどい話だ。僕は結局何も言うことができなかった。きっとこれは悲劇でしかない。まるで悪い夢のようだ。でも、現実なのだ。
庭野が何に対して謝ったのか、僕は今だに分からない。
その日、部屋に戻ると黒猫がじゃれついてきた。
にゃあ。このままで君は本当にいいのかい。そう言われているみたいだ。
猫が喋るはずがない。化け猫ならともかく。
きっとこれは僕の心の声だ。過去に戻れるのなら戻りたい。
床に座り込むと、何かが手に触れた。彼女がくれたビー玉だった。
なんとなくビー玉を覗きこんだ。世界が綺麗に見えた気がした。
その後しばらく経って、僕は彼女の言った通り人の気持ちと向き合うために一つの歪な世界に足を踏み入れることになった。
どんなに世界が理不尽でも、僕は、向き合うことで人を救いたい。
一人称で小説を書いてみたかったので書きました。次回作こそ明るい話を書きたい。