下心と秋の空
今日は曇り空だった。
まだ残暑は厳しく、季節は秋、とは胸を張って言えない。
二学期が始まって三週間目。もう少しすると忌々しい定期考査も控えている。
そんなある日。
「あ、木野くん」
それは天使の登場だった。
平台の向こうからひらひらと手を振る女子高生。
その瞬間、木野由平の世界は輝いた。
彼女はクラスメイト。才色兼備。綺麗な黒髪をポニーテールにしている彼女。そして由平が片想いをしている女子だった。そんな彼女がこちらへと手を振って、笑っている。これでときめかない男子は今すぐ医者へ行った方がいい。
「え……、あっ、ゆ、雪村さん?」
雪村葵は由平の前で立ち止まった。
「奇遇だね?」
葵が小首を傾げて微笑む。それだけで由平の心臓は飛び出しそうになった。
「あ、うん……そ、そうだね」
由平はどもりながらもそう答えた。
目の前で好きな子が笑っている。心臓が持ちそうになかった。
――というかどうして彼女がここに?
ここは学校近くの小さな本屋。小さい、とか言ったらここの主に怒られそうだ……いや、今はそんなことどうでもいい。
由平の自宅は学校から徒歩三十分。この本屋は学校から歩いて五、六分のところにある。由平は、家が近いからという理由でこの本屋を訪れるのだ。しかし、彼女――雪村葵は違うはずだ。
「ゆ、雪村さんって家、近くだっけ?」
由平は平台に並んでいる文庫本に目を向けながら、そう尋ねる。目を合わせられないのは察してほしい。
すると葵は首を横に振った。
「ううん。電車で四十分くらいかな?」
「それって下り線だよね?」
「そうだよ?」
下り線のほうなら、三つ駅を行けば、百貨店やショッピングモールなど立ち並んでいる。そこには大きな書店もあるだろうに。
「そっち行ったほうがいいんじゃ……テッ!」
そのとき、由平の頭上に四百ページ超えのハードカバーが落ちてきた。……結構痛いのだが。
由平は頭をさすりつつ、振り返ると。
「誰がボロで貧乏くさくて、感じの悪い店だって?」
「いろいろ盛ってるのは気のせいじゃないよね? そんなこと一言も言ってないよ、はる姉」
「私にはそう聞こえた」
なんとも横暴なことを言うこの女性は、この本屋の一人娘である春乃。由平より三つ上――つまり大学二回生。整った顔立ち。スタイルも抜群と美人だが、少し気が強いのが玉に瑕だ。昔からよくこの本屋に通っていたゆえ、春乃とは付き合いが長い。由平にとって、春乃は姉のような存在なのだ。
その春乃は由平の背後を見やり、ニヤッと笑った。
「あれぇ~、由平く~ん? こんなところまで彼女連れて……」
「ちっ、違っ! ただのクラスメイトだからっ!」
春乃の反応がうれしかったが、反射的に否定してしまった。少々残念と思いつつ、ため息を一つ。
すると、春乃が表情を崩した。
「私だって恋人ほしい~!!」
「…………は?」
ぶわっと泣き出した。
バンバンと由平の肩をハードカバーで叩く。だから痛い! つか、本は大事に扱え!
「抜け駆けとか卑怯だ~。由平もいつの間にか遠くに行っちゃたんだね……」
「それ、おれがいないみたいなんだけど?」
「え、由平、どこいるの?」
「ここにいるわ!」
ツッコミを入れてから、由平はぽかんとしている葵へと向き直った。
「気にしないで。この人、いつもこの調子だから」
そう伝えると、葵は愛想笑いを浮かべた。
「木野くんの馴染みある本屋さんなんだ」
「まあ、そうかな……」
「由平とは小学校からの付き合いだもん!」
「わっ!?」
いきなり春乃が抱きついてきた。突然のことに由平は抵抗できず、そのまま身を寄せる。そのとき、由平の腕にむにゅっとやわらかい感触が伝わった。
「…………」
今、自分はどんな顔をしているだろうか?
想像を絶するのだろうか、葵が大きな瞳をこれでもかと丸くしていた。
考えることを放棄した。
そのせいかわからないが、由平の視線は前を向き、そしてそれは自然と、葵の胸元へと向かった。……うん、ある。
「――ッ!」
体は動いた。由平は春乃からバッと飛びのき、彼女を睨んだ。春乃はぷくっと頬を膨らませている。
「恥ずかしがり屋さんめっ。昔はもっとやってたじゃんっ」
「してないよな!?」
「もっと……?」
「お願いだからその単語に反応しないで雪村さん。冗談だから」
由平は大きく肩を落とした。
春乃のせいでせっかくの出会いが崩壊した。
ジロリと春乃を睨むが、彼女はきょとんと可愛らしく首を傾げた。由平はもういい、と言わんばかりに大きくため息をついた。
「雪村さん、ごめんね。変なところで」
「……ううん、気にしないから」
なんだか不機嫌そうだったが、ご機嫌を取れるほど由平のトークスキルは高くない。だから流した。
「雨降りそうだし、帰ろっか。駅まで送るよ」
「え、いいの?」
「いろいろ迷惑かけたし」
「迷惑かけてないよ、私は」
「あんたのせいでしょ」
「由平、冷たい……」
「おれはいつも通りだよ」
そう言い捨てて、由平は葵を連れて、出て行った。
空は相変わらず灰色だった。
駅まで約十五分。それまでに降り出さねばいいのだが……。今日は傘を持ってきていない。葵もその様子だった。
「木野くんの家ってこっちなの?」
すると、葵が言った。
「違う。どっちかっていうと反対」
話しかけてくれたことにうれしい由平は、にやける顔を引き締める。
「じゃあ、なんで?」
不思議そうにこちらを見上げる葵。それがめちゃくちゃ可愛い。やはり天使だ。
「さっき、はる姉に頼まれたことがあったから。ちょうどいいかなって思って……」
本屋を出て行くとき、春乃にあるものを頼まれた。めんどくさいとは思ったが、葵と一緒にいられることを考えれば苦ではない。
そんな下心しかない理由だが、気にしていては葵とお近づきになれない。
「どこ行くの?」
「ん、駅前って言ったら違うけど、そこの喫茶店」
「あ。クリーニング屋の隣? もしかしてそこも木野くんが知ってるところ?」
「うん。よく行くし」
「ふーん」
葵は頷いて、前を向き直した。何かを考えるような横顔だった。
「……」
相変わらず心臓はトクトクと鳴っている。頬も若干熱を持っているように思えた。
――緊張してるな。おれ。
由平はふっと息をはいた。
こんな機会めったにないのだ。彼女のハートをつかむ……度胸はないが、彼女をもっと知りたい。
そういえば、どうして彼女はあんな本屋にいたのか。
「あっ」
葵の声に顔を上げると。
「あ……」
冷たい雨が頬に当たった。
カランコロン、と頭上で鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい。……あれ、由平君。どうしたの?」
「ちょっとお使いと、雨宿りです」
由平はそう答えて、濡れた髪をかきあげた。
ここは、由平の馴染みある喫茶店だ。カウンターと、テーブル席が六つ。いつもみたく、コーヒーの香りが鼻についた。店主は駅前と称しているが、駅まで七分もある。
由平に声をかけた女性は詩織という。
この喫茶店の娘で、そして春乃と同級生でもある。春乃を通じて、由平は仲良くさせてもらっているのだ。
「急に降り出して来たもんね」
詩織はドアの向こうを見つめてそう言った。
外は、雨が音を立てて降りしきっていた。駅まで走っていられない激しい雨だった。そんなわけで葵とふたりで、ここに避難したのだ。正直言うと、もう少し葵と一緒にいたかっただけだが。
「雪村さん、大丈夫?」
「うん。すごいねぇ」
由平が振り返ると、葵は苦々しく笑った。
「……」
季節は秋だが日中の気温は高い。由平の学校でもまだワイシャツの生徒もいる。由平もその一人だが。もちろん女子だって同じで、それは葵もそうだった。たしか朝は上着を着ていたが、今は着ていない。ワイシャツだけということだ。
今、大雨の中を走って来た。由平も葵もびしょぬれだ。
つまり、なにが言いたいかと言うと……。
――透けてる。
うっすらとシャツの向こう側が見えた。
由平はごくりと唾を飲み込んだ。
「……」
「由平君?」
「は、はいっ!?」
ポンと肩を叩かれた。体を震わせて振り返ると、にこりと微笑む詩織がいる。なぜか背筋が凍った。
「こ、こんにちは。詩織さん」
「そのままじゃあ風邪ひくから、とにかく座って。タオル持ってくるから」
「ありがとうございます。詩織さん」
由平は引きつった表情で礼を言う。心の中を見透かされているようだった。詩織がカウンターの奥へと引っ込んでから、由平は背後にいる葵へと声をかける。
「空いてるとこ座っていいよ」
「うん。あの人も木野君の知り合い?」
手前のテーブル席に移動しながら、そんなことを聞く。
「ああ、はる姉と同級生。仲良くしてもらってるんだ」
「そうなんだ」
席に座ってしばらくして、詩織が戻ってきた。茶色く染めたセミロングの髪が揺れる。
「はい。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
葵が少し遠慮がちにタオルとコーヒーカップを受け取った。詩織は微笑む。
「遠慮しないで。それにしても由平君が女の子連れてくるなんて思わなかったわ」
「……そうですか」
由平は不満げに呟く。事実だから言い返せないが。
すると、詩織が由平の肩にポンと手を置く。
「がんばれっ、少年」
「余計なお世話です」
くすくすと笑う彼女に、由平は紙袋を渡した。
「これ、春乃さんからです。中身は知りませんが」
「あっ。ありがとう、由平君」
嬉しそうに笑顔を見せる詩織。その表情は幼く見えて、由平は少し照れくさかった。
「それじゃあ、あとは若い二人でごゆっくり」
「……詩織さんも若いでしょ」
詩織は聞こえなかったふりをして、行ってしまった。
由平はその後ろ姿を見て、ため息をつく。
「ごめん。いろいろと騒がして」
と、葵に謝った。
「そんなことないよ。私も傘持ってないかったし、助かったよ」
にこりと笑う彼女。そう言ってもらえるのはありがたい。由平はカップに手をつけた。今日は紅茶らしく、赤色の液体が揺れていた。
由平が紅茶にミルクを入れていると、葵がぽつりと呟く。
「詩織さんも優しそうな人だね」
「え? はる姉より優しいかも。でも怒るとおっかないかな……?」
春乃に比べて、詩織はふんわりとした雰囲気をまとっている。が、勘が鋭いらしく、さっきの行動も読まれていたみたいだ。静かに怒るのが詩織の特徴だ。
「木野くんのまわりって、けっこう女の人多いね」
「そうか?」
確かに春乃と詩織とは小さい頃から仲良くしてもらっているが、それは例外だろう。学校だけで考えると多くはない。自分で納得してしまうとなんだか悲しくなった。
「そんなことないって。女子と関わりあんまないし」
否定すると、カチャリと音がした。葵がカップに触れた。白く細い小さな手。ゆっくりとカップを持ち上げて、それに口をつけた。
「おいしい」
葵は息を漏らすように微笑んだ。
それに見惚れてしまった由平はしばし硬直してしまった。そしてふと思う。
――これって……デートっぽい。
知人の喫茶店としゃれてはいないが、彼女と二人っきりなのは非常に嬉しい。
由平は決心した。
どうにか仲良くして、メールアドレスだけでも手に入れたい。
目標が低いとか批判は受けない。由平だって一生懸命なのだ。
「……どうかした?」
すると、こちらの視線に気づいた葵がきょとんと首を傾げた。
「い、いや、雪村さんとこうして話すのって初めてだなって思って」
「あ、確かに初めてかも」
気づいたように葵も声を上げる。
「せっかくだし何か話そっか。……木野くんは何か趣味ある?」
「えっ、あ、そーだな……」
まさか彼女から会話を切り出してくれるとは思わなかった。由平は驚きながら、答える。
「趣味は……本読むくらいだけど、そこまで好きってわけじゃないからなー」
「そう言えば木野くんってよく読書してるもんね」
「えっ? してる?」
「うん。よく読んでるの見るよ」
彼女の頷きに、由平の心臓が早鐘を打った。
――どうして、彼女は読書を知っているのだろう?
クラスが同じなら当然。そう思うがいまいちピンと来なかった。
「あ、ずっと思ってたことなんだけど……」
「なにを?」
葵は口元に指をあてて、いたずらっぽく笑った。
「木野くんの名前って面白いよね」
「は、はい?」
思わず紅茶を吹きかけた。目を瞬くこちらに、葵が慌てた。
「いや、そういう意味じゃなくてっ、賢そうというか、貴族にいそうな気がする」
「……?」
葵の両手が行き場を失い、わたわたとする。それが妙に可愛らしかったが、彼女の言っていることはわからなかった。
葵もますます慌てた様子で、顔を青くした。
「ほらっ、木野由平って歴史上の人物みたい」
「……あー。中臣鎌足みたいな感じ?」
なんとなく理解したので相槌を打ってみる。すると葵の表情が明るくなった。
「そう、それ! でも中臣鎌足より紀貫之かな?」
「ああ、古今和歌集の……」
歴史は得意ではない。しかし名字が一緒――これには語弊があるが、その人なら記憶にあった。
「なるほど、だから貴族ね」
「うん、そう!」
葵はうれしそうに笑う。少しでも彼女の考えを理解できて、由平の心は弾んだ。由平は紅茶を一口飲み、答えた。
「雪村さんの名前、おれは好き」
「へっ?」
「え?」
葵が目を丸くする。由平も彼女の表情を見て、自分が口走ったことを思い出す。かぁーっと顔が赤くなるのを感じた。由平は思わず席から立ち上がった。
「い、いやいやっ! 今のはそのっ、なんというか冗談……じゃなくて! 冗談じゃなけど反射的に……! やっぱり今のは忘れて!」
両手を合わせて懇願する由平。相当恥ずかしかったのか、耳まで真っ赤だ。
「……ふふっ」
すると、葵は吹きだした。
「ふふ……あはははっ。木野くんって面白いね」
口に手を当てて笑う葵。そんなに可笑しいのか、目に涙まで浮かべていた。気のせいか、頬も赤かった。
「木野くんといると楽しいね」
「……っ」
その言葉に、由平は狼狽した。面と向かって話すのは初めてに近いが、一つわかった。
葵は少し天然だ。
返答しにくい言葉を口にする。
男なんて単純なのに……。
――いつから、彼女が好きなんだろう?
きっかけなんて単純だ。
図書室で肩が触れ合ったのは記憶に新しい。本棚を見ながら歩いて、ぶつかったのだ。目を下ろすと彼女がいた。
視線が重なる。目と鼻の先に女の子がいるのだ。
綺麗な黒髪。大きく潤んだ瞳。桜色の唇。
時間が止まったように思えた。
やがて、その唇がやわらかく弧を描いた。
『ごめんなさい。……同じクラスだよね、私は雪村葵。あなたは?』
それ以来、彼女から目を離せなくなった。
由平は空になったカップをソーサーに置いた。深く椅子に座り込んだ。
要するに、一目惚れだ。思い返せば本当にどうでもいい理由だった。だけど今、由平の胸には、雪村葵が好きだという想いがある。それだけで十分だと思った。
だけど……。
由平は小さくため息をついた。
――どうしたらこの気持ちを伝えればいいのだろうか。
モヤモヤしていると、葵が「あっ」と小さく声を上げた。由平も声に反応し、窓の外を見やる。
「雨、止んだのか」
雨雲は満足したのか、雲の合間から太陽の光が漏れていた。
もう、時間のようだ。
由平は立ち上がった。
「駅まで送るよ」
「え、いいよ。もうそこでしょ?」
葵は申し訳なさそうに眉尻を下げる。しかし由平は引き下がらなかった。彼は笑った。
「約束だから。送るよ」
「あ、ありがとう……」
葵は恥ずかしげにうつむいた。
「さ、行こう?」
由平は笑って彼女を促した。
「ありがとうございました」
詩織の声を背に、二人は喫茶店を出る。
雨上がりの道は水たまりがキラキラと輝いていた。由平はまぶしくて目を細める。地面から目を離して、空を見上げると。
「あっ」
虹が出ていた。うっすらとしていて七色もないが、たしかに虹だった。
「わぁっ」
葵が目を輝かせて言った。
「今日は楽しかった。ありがとう、木野くん」
いつかのように、葵は微笑んでくれた。
「そうかな?」
いろいろと迷惑をかけた記憶しかない。とくに春乃とか。雨も降ったし。
顔を曇らす由平を見て、葵は由平の前へ回った。スカートを翻して、由平へと向き合う。
「木野くんが気にしなくていいの。私は楽しかったんだから、ね?」
「……そう言ってくれると、すごくうれしい」
彼女の笑顔に少しは落ち着いた。由平が笑うと、葵も微笑んでくれた。
――今日は、ツイてる日かな?
有意義な時間を過ごせた。彼女と二人っきりになれただけでも得だった。
それだけで満足している自分も腹立たしいが。
今はまだいいかもしれない。
由平は決心して、輝くような空を見上げたとき。
パシャ、と音がした。
何かが落ちた音だった。
「雪村さん、何か落とした?」
「あぁっ!」
そう聞いた途端、葵の悲鳴が聞こえる。
振り返ると、濡れた地面に折り畳み傘が落ちていた。
「……」
しゃがみ込む葵。
ぎゅっと折り畳み傘を握りしめ、由平を見上げた。真っ赤な顔の葵は、今にも泣きそうで……。
「み、見なかったことにしてください……」
「――っ!!」
由平の胸が、今日一番に高鳴った。
Fin.