八、懐古と光明
八州国が西、洟州州都峯楽の一角で――
「師匠? 」
投げ返された財布を受け取り、葵沃、かつて舜水という名であった青年は疑念と警戒をこめた声で呟く。こちらをじっと見つめる夕吹の頭をくしゃくしゃと撫でながら、その人物、頭頂部で白髪交じりの髪を結い、煤けた若草色の袍を身に纏った男は苦笑しつつ頷く。
「久し振りだな、舜水。いや、今は葵沃か。御勇名はよく耳にしておるよ」
その言葉に葵沃はやっぱりといった様子で緊張を解き、屈託のない笑みを浮かべる。
「いえ、俺なんかまだまだですよ。愁鳳師匠、十年ぶりです」
後ろに隠れている夕吹のことはすっかり忘れたかのように葵沃は自分の剣の師匠である男の手を握る。愁鳳も夕吹の頭から手を離し彼の手を握り返す。
出会いは十年前、舜水と黎が育った村での話。
当時二十代にして八州国に十傑の一としてその名を轟かせた剣客愁鳳。
当時十三であった舜水は村を訪れた彼に教えを請うた。
自分の脳裏に時折浮かぶ父の影を追うために。
反逆者の血を継ぐ己の存在が親しき者に害を与える前にこの場所を去ることができる様に。
そして何より……強くなり、守りたいものを守るために。
黎は幼かった故、愁鳳がそれほどの剣客とは知らなかった。
ただ知っていたのは、一年程度で舜水の実力が彼を上回ったこと。
愁鳳はそのことを悟ったとき素直に舜水をねぎらい、やがて村を去った。
「ここじゃ目立つ。少し移動しないか? 」
愁鳳の言葉で自分たちの間に人だかりができていることに気づく。
「そうっすね」
ちなみに彼らがいるのは街の北の州城から東へ抜ける広途。目立つことは無理もない。
どうしようか。
互いに同じことを考え、同時に答えにたどり着く。
そして顔を見合せ苦笑し、二人は同時に地を蹴る。
夕吹は逃げられない様にがっちりとつながれた父の手を一瞬見た後諦めたように溜息をつき大人しく引きずられつつも走り始める。
あの場所にいた者のほとんどは彼らが忽然と姿を消したように見えただろう。
暗殺者の闇にまぎれるためのものとは違う言わば疾風の足。
広途のから延びる小道を抜けた先、さらに入り組んだ路地をしばらく駆けたところで三人は足を止める。
「まあここらでいいかな」
入り組んだ路地を抜けた先の広途ほどではないがそこそこ広い通りを見回し愁鳳は息をつく。やはり年齢的につらいのか頬には僅かな脂汗が浮かんでいる。
「ですね」
葵沃はさすがに若いのかどうということはないようである。
夕吹も多少息が荒い程度で、手をつないだ父の顔を心配そうに見上げている。
彼自身も引きずられる形であったものの見事についてきたことを鑑みると、非常に将来が有望のようである。
「……さすがに私も歳だな。少し走っただけで息が上がるなぞ」
何とか息を整え愁鳳は苦笑し、歩きだす。
「いえいえ。あの速さで走れるのなら衰えたうちに入りませんよ」
それを追いながら葵沃はそう言って彼の肩を叩く。
確かに息が上がろうが常人離れした速さで走れるのなら衰えたとはあまり言えない。
世辞というより葵沃の正直な意見なのだろう。
「そう言ってもらえると嬉しいがね」
「俺は正直者ですから」
ニカッと笑う彼を見て愁鳳は時を重ねど本質的なところは変わらぬな、と思う。
「自分で言うかそれを」
「事実ですよ」
そう言って笑いつつ二人は道を行き、腕を引かれ夕吹もそれに続く。
晩秋の空は雲高く澄み渡り数羽の鳶が舞っている。
心地の良い冷たさの風が三人の頬を撫でる。
「……師匠は今は何を? 」
人通りの少ない通りを歩みつつ葵沃は問いかける。
若かりし頃はその剣の腕随一と謳われた彼ももう四十過ぎ、凛々しかった顔には皺が刻まれ、顔や厚手の綿でできた長い袖から見える腕には葵沃と別れた後についたであろう傷がいくつもある。
それでも佇まいから見てまだまだ剣客は引退してはいないようだが、どういう訳かその活躍は影をひそめていた。
「ああ、お前の村を去ってから今の女房に出会ってな。子をもうけつつも剣客稼業を続けていたんだが、今はこの街付近でのみ仕事をしている」
私の腕も衰えたしな、と両の掌に目を落とし自嘲気味に笑う。
「幸せそうで何より」
愁鳳は心底幸せそうに笑う。
その笑みから彼が本当に奥方に惚れ込んでいることが分かり、かなりの愛妻家であることがそれだけでうかがい知れる。
「ところでお前の方は変わりはないか? 」
「それは……」
何気ない様子で聞かれた愁鳳の言葉に葵沃は僅かに眉を歪め目を伏せ、沈黙する。
その表情から愁鳳はあることを思い出し、しまったと思う。
「……迂闊だった。申し訳ない」
「いえ、気にしないでください」
葵沃はそう力なく笑う。
その声は明るいがどこか影がある。
「その餓鬼、いえ、お子さんは師匠の? 」
話題を切り換えようと葵沃は彼らの再会の鍵となった子供の顔を見る。
子供、夕吹は先ほどの彼の様子を思い出し、小さく体を振るわせる。
「四番目の子だ。この子はよくこういういたずら染みたことをするんだ。さっきはすまなかったね」
そう言って彼は夕吹の頭を軽く小突く。
痛っと夕吹は呟き、非難染みた目で自分の父親の目を見上げる。
そんな我が子に対し母さんに告げ口してほしいか? と愁鳳は笑い掛ける。
その額に浮かぶは青筋。やはりかなり怒っているようである。
その瞬間夕吹の顔が蒼白になる。
「か、母さんに言うの? 」
明らかに青筋を浮かべている父親より、母親のほうが怖いらしく夕吹は袖をひっぱりつつ懇願する。まあ師匠の性格などを照らし合わせると母親のほうが実際怖いのかもしれない。
女は怖い。孤児院にいた頃からそれはよく分かっている。
「さてどうしようかね? 」
そんな彼の額をぴんっと弾き愁鳳はにやりと笑い、夕吹は目に涙を浮かべる。
「そんなぁ……」
「まあ、許してやってはどうですか? 財布も戻ったことですし」
さすがにかわいそうになって葵沃は助け船を出す。愁鳳は仕方ないな、と苦笑する。
「お、お兄ちゃんありがとう」
心の底から感謝し、葵沃を見上げる夕吹に葵沃はしゃがみ込みくしゃくしゃと頭をなでる。
「もう二度とするんじゃねえぞ」
「うんっ」
その瞬間三人の耳は急いでこちらに近づく足音を捉えた。
「シュン! やっと見つけた! 」
鈴の転がるような声とともにゆっくりと立ち上がった葵沃の右腕に栗色の巻き毛を揺らしながら鷹姫が抱きつく。背後では連れてきた馬が行儀よく主の様子を見ている。
「っ鷹姫! 」
「突然走っていったから探すの大変だったんだよ」
その言葉に葵沃は左手を額に当てあちゃあと呟く。
財布、全財産取り返すのに必死で彼女の存在をすっかり忘れていた。
非難がましく上目づかいで琥珀色の瞳で見つめる彼女に何か言わねば後が怖いな、と葵沃は判じる。
「あーごめんな。すっかり忘れていた」
その言葉に鷹姫は呆れる。
そこまで財布に気を取られていたのかと。
どうせわたしなんてどうでもいいんだ、と彼に聞こえないように呟く
「……ところでお財布は? 」
「取り戻したぜ」
懐を探り財布を彼女に見せる。
それを見て鷹姫はそりゃ良かったね、と皮肉気に呟く。
「貴方は……? 」
そんな様子に呆気にとられていた愁鳳はおずおずと鷹姫に尋ねる。
「そちらこそ誰? 」
今やっと彼の存在に気づいたようで、琥珀色の瞳を大きく開き首をかしげる。
互いに静止した二人に代わって自分が言わねばと葵沃が間に入って鷹姫を愁鳳に紹介する。
「こいつは鷹姫」
「芙蓉! 」
律義に自分の名を修正する鷹姫。
だが葵沃は適当に流す。
「……ああ、鷹姫は字です。祷州の知り合いの元にいる娘ですが、今は一応旅の連れです」
愁鳳は彼女の背の弓と矢筒を見て、ああそれで鷹姫か、と納得する。
ただ、彼女自身は芙蓉という名のほうが良いようだが。
「一応って何よ! 」
「そのままの意味だ」
「ひっど! 」
すぐに喧嘩を始める二人。仲がいいのか悪いのかよくわからない二人である。
茫然とそんな様子を見つめる愁鳳はふと疑問を抱く。
服こそはこの国の繻裙を纏っているものの、鷹姫なる娘はどう見てもこの国の人間とは思えず、話に聞く西方の民のように思える。
「ええと……西方の方かな? 」
失礼になると思いつつも愁鳳は尋ねる。
「そうです。数年前この国に来ました。母がこの国の人でしたから」
鷹姫が頷きながら答える。
ふわふわとその動きに合わせて髪が揺れる。
「そうか……失礼だったかな? 」
「いいえ! 大丈夫です。良く言われますから! 」
愁鳳に首を左右に振りながら彼女は無邪気に笑う。
彼女は身の内に流れる八州国の民の血と新たにもらった名に誇りを持っていたし、西方の民の血からなるこの髪と瞳の色や与えられし名が好きだった。
故に西方の血のことについて尋ねられようが気に病むことが理解できないのだ。
「私は愁鳳。先ほど葵沃に粗相をした子供、夕吹の父親だ」
そんな彼女の様子をほほえましく思いつつ愁鳳は自ら名乗り、片手でそばにいた夕吹を引きよせ、頭を下げさせる。
「本当にうちの餓鬼がご迷惑をおかけして申し訳ない」
「いえ、私は何も……」
彼女にも自らの子供の頭を下げさせる愁鳳に戸惑い誤魔化すように笑う。
「いいえ、君も多少の迷惑を被ったんだ。謝らぬと私の気が済まん」
そう言って愁鳳は微笑む。
「……わかりました。もう物を盗ったりしちゃダメだよ」
愁鳳に軽く頭を下げ、鷹姫傍らに立つ夕吹にしゃがみ込み、ぴんと指で額を弾く。
そしてこくりと頷く夕吹に可愛い! と抱きついて頭をくしゃくしゃ撫でる。
夕吹は驚いたようだがまんざらでもなさそうだ。
「子供好きなんだね」
「はい! 」
その言葉に夕吹から手を放し鷹姫は立ちあがる。
そんな師の姿を見つつ間に入りづらく沈黙しつつ舜水は思う。
非常に居辛さを感じるのは何故だろう、と。
「そういえばシュンとシュウホウさんは知り合いなのですか? 」
「何でそう思うんだい? 」
ひとしきり葵沃を放って置いたまま話した鷹姫はふと、あることに気づき頬に右手を当てながら愁鳳に尋ねる。彼女は言葉は流暢だが名前はどういう訳かうまく発音できないため、音程が若干違っている。
「さっきずっと二人で話しているのを見たから……知り合いじゃないとああいう風に話さないと思ったの」
「勘がいいね。その通り、私たちは旧知の仲だ」
「俺の剣の師匠なんだ」
愁鳳が答え続いてやっと会話に入り込む糸口を見つけた葵沃が補足する。
鷹姫はへぇと感心し、改めて愁鳳を見つめる。
「そうだったんですか! 」
「意外かい? 」
「いいえ、すごいです」
両手を胸の前で合わせ間をキラキラと輝かせる。
そんな様子を見て愁鳳はふと横にいる葵沃を見やり、実に可愛いお嬢さんじゃないかと唇をわずかに唇を動かして茶化す。
すぐにその言葉を理解し、猫かぶっているだけですよ、と葵沃も同じように返す。
「何二人で話してるの? 」
目ざとくそれを見つけた彼女が勢いよく振り返り葵沃を睨む。
その眼は正に鷹の如し。
その眼に射すくめられ葵沃は浮かべていた笑みを引きつらせる。
「い、いや師匠がお前のこと可愛いっていって俺が同意しただけだし」
「ほんとぉ? 」
咄嗟に誤魔化すが鷹姫は半信半疑だ。
人の話は簡単に信じるが時々妙に疑い深いんだよなぁ、と心の中で思う。
「本当だって」
「ならいいけど……」
そう言いつつもを伸ばし、葵沃の両頬をつねり、ひっぱる。そして声を出さずに嘘つき、といっていたずらっぽく笑い頬から手を放し愁鳳に向きなおる。
「ごめんなさい、見苦しいところを見せちゃって」
「仲の良いことはよいことですよ」
頬を押さえ眉をしかめた葵沃を横目にくすくすと笑った。
「さて、芙蓉殿。どちらの門から御出立で? 」
「ええっと卯門? だったと思います」
彼女は頭の中で向かう方向と門の位置を照らし合わせてそう呟く。
州都はほとんどの場合北に州城があり、方角に合わせて十二の門がある。
門の名は十二支に対応しており、北の門からから右回りに名がつけられている。
卯門はちょうど街の東側の門である。
葵沃はこれから、鷹姫を送るため、そして彼女の保護者である友人に会うため祷州に向かうつもりなのである。
「そうか。なら後から向かうので夕吹と共に先に行ってくれ」
唐突に愁鳳がそんなことを言う。
その言葉に鷹姫と葵沃は目を丸くする。
「え? でも……」
「うちの家も卯門の近くなんだ。ついでに夕吹と少し遊んでやってもらえないかな? 」
夕吹はいいだろう、愁鳳はそう言って夕吹を彼女の方に押し出す。
「いいですけど……」
夕吹を抱き止めつつも鷹姫は呟く。
その様子に愁鳳は頷きつつ、よろしく頼むよと軽く頭を下げる。
「少し葵沃に話があるだけだ。すぐに追いかけるよ」
「わかりました……セキスイ君、馬に乗ってみる? 」
「うん! 」
手をつないで鷹姫と夕吹は、後ろで非常に暇そうな顔をしていた鷹姫の馬のところへ向かう。
「この子はギョウ(暁)っていうの。ギョウ、この子は私の友達だよ」
赤毛の馬の鼻筋を撫でながら鷹姫はそう言い聞かせる。
馬は鼻を鳴らして彼女に頬をすりよせる。
「いい子ね」
彼女も馬に頬を寄せ、くすぐったい、と笑う。
そして夕吹に触ってみる? と尋ね、頷いた彼を抱える。
わしゃわしゃと馬の頭を興味深げに撫でる彼の様子を微笑みつつ、そのまま抱え上げ彼を馬の背にのせ、自分も彼の後ろに乗る。
「手綱をしっかり握っててね」
夕吹がしっかり手綱を握ったのを確認し、じゃあ、と葵沃に手を振り、馬を操り鷹姫は卯門に向けて去って行った。
「……なかなか馬の扱いが上手いな」
「まあ慣れてるようですからね」
彼女達の姿が見えなくなるまで見送った後、愁鳳は正直な感想を漏らす。
「祷州といえば、彼女はひょっとして? 」
祷州、冬になれば雪に閉ざされ、毛皮や甜菜などが特産のその州は今ある集団が名を轟かせていた。
「ええ、『鵬』の人間です」
「なるほどな。まさかお前も? 」
『鵬』その単語については特に驚かず、愁鳳は彼に尋ねる。
『鵬』の一員である彼女とつるんでいるのならもしや彼も……と思ったわけである。
「付き合いはありますがね」
そう言いつつ彼は腰の剣の柄に僅かに触れ、手を放す。その顔に浮かぶは僅かな笑み。
付き合いというより、実際はもっと深いのだろうと、愁鳳は予測する。
「そうか。だが……まあ今から言うからいいか」
やや苦々しい様子で愁鳳は呟く。その様子に葵沃は怪訝そうに眉をしかめる。
「何ですか? 」
「……そういえば昔お前といつも一緒にいた娘はどうしている? 」
その言葉に葵沃いや、舜水の顔が凍り付きみるみる青ざめる。
彼にとって彼女の存在はかけがえのないものであり、今は心に深く突き刺さる杭となっている。
「……彼女は死にましたよ」
そう、二年前。
おそらく間違いなく死んだと葵沃は思っている。
全てが終わった後あの惨劇の地に向かったとき、柄にべっとりと血のこびりついた折れた彼女の剣が転がっていた。
あの血はおそらく本人のものだろう。
遺体は見つかっていないが剣が折られたのなら、恐らくは……
「……果たしてそうだろうかね? 」
「え? 」
「恐らく彼女は生きているよ」
愁鳳は彼の答えを聞き、そう静かに告げた。
まっすぐ葵沃を見据える目、それは過去何度か見たことのある国一と謳われた剣客にふさわしい光を宿していた。
そしてそれが葵沃に一縷の望みと不安を与えることとなる。
長い文章を読んでいただきありがとうございます。
一応今回でのんびりペースは終わりだったりします。
なかなか舜と黎が再会しませんがその点はご容赦を。
ご意見ご感想お待ちしています