六、介入と激昂
黒に塗られた刃は黒烏の首に吸い込まれる。
ただ敗北者の命を奪わんと。
その刃が彼の首の皮を斬り血管に届こうとした瞬間。
勝利者、匕首使いにして名を隠せし暗殺者の目が大きく見開かれる。
次の瞬間暗殺者は黒烏を拘束したまま身体を回転させ、彼を盾にする。
金属が跳ねる乾いた音が数度響く。
暗殺者は黒烏の肩越しに数条の光となって飛来し、彼の纏う鎖を編んだ防具に跳ね返された物の正体を悟る。
「金票か……」
呟くや否や黒剣の柄で黒烏の首筋を殴り同時に、彼の鎖帷子に残る金票を引き抜き駆け出す。そして金票を投げ放ちその光を追うように、彼女は相手に肉薄する。
彼女の数歩先で、金票が弾き返される。
それの間を縫い、彼女は剣を振るう。
ギッ
金属がぶつかり擦れ合う不快な音が響き、しばし、その音ばかりが連続して響く。
一際高い音がして、刃を手にした二つの影は距離をとる。
「その辺にしてもらえますか? 」
この場に似合わぬ穏やかな声に暗殺者は舌打ちする。
「不意を討とうとしたのは貴様の方だ。そういうことを言う権利は無いと思うぞ……夜哭」
暗殺者の視線の先に佇むのはにこにこと微笑む一人の男。
狐のようと言う表現が似合う相手にあまり良い印象を与えないが整った顔。
髪は肩口位で緩く束ね白い地に紅い曼珠沙華の染め抜きのされた絹の長衣を着崩している。
どこかの貴人といってもおかしくない男だが全身から放たれる空気がそれを真っ向から否定する。
「いつの間にここまで来た? 」
不快極まりないといった様子で暗殺者は剣を突き付ける。
「ほんの数秒前くらいからですよ。勝負は四半里先から観賞させていただきましたが」
そんな相手の様子に驚く様子は無く、夜哭は本来人では成し得ぬことを、何ということもないように言う。
「化け物が」
半ば予想していた答えに暗殺者はそう吐き捨てる。
おやおや、と彼は苦笑する。
「それはお互い様でしょう」
確かにそれは正論である。
黒烏、暗殺者共に到底人間業とは思えない戦いを繰り広げていたのだから。
ただどう見ても夜哭という男はそれ以上に化け物な気がするが。
「ひっ」
その時小さく息をのむ音に暗殺者と夜哭は視線を動かす。
そして、黒烏の存在を思い出す。
先ほど、暗殺者が気絶させるつもりで殴ったが、さすが訓練された暗殺者、意識を奪うまでいかなかったようである。
そこで暗殺者は夜哭の握っている得物が彼のものであることに気づく。
「や、夜哭様、何故」
動揺を抑えきれず黒烏は夜哭に問い掛ける。
様、とついている点から、どうも夜哭が彼の上司のようである。
つまり、暗殺者の上司という訳だ。
暗殺者の態度は上司に対するものとしては激しく不適切ではあるが、その表情から見て事実なのだろう。
「……やはり貴様の差し金か? 」
黒烏の様子を見つつ暗殺者は彼に突きつける剣を、彼の顎下まで近づける。
「ええそうです」
彼は暗殺者の剣の刃をつまみあっさりと己の顎下から引き剥がす。
「それにしても己に与えられたもので勝利する、ですか。良い心がけです」
暗殺者の剣をとどめようとする力を何ということのないように指の力のみで押し返しながら男は微笑む。その声に含まれるは賞賛というより皮肉の色が濃い。
そしてすっと夜哭が剣から手を放すとその勢いで暗殺者は数歩後ろに下がった。
「っち」
暗殺者は舌打ちをし、剣を構えなおし歩み寄ろうとするが、夜哭の眼光に足を止める。
黒烏の何の色も宿らない冷たい氷のような眼ではない。
暗殺者の冷たいながらも全てを灼き尽くす眼でもない。
温度などなく全てを喰らわんとする闇の様な虚ろな眼である。
「剣を仕舞ってくれませんか」
ただ静かに彼は呟く。
もし引かぬならどうなるかわかっておるだろうな、と狐のようなその眼が語る。
暗殺者は唸り歯を軋ませ、動けと己の身体に念じるが動くことができない。
最終的に畜生、と呟き剣を鞘に戻す。
「よろしい」
夜哭は微笑み一足飛びで黒烏に歩み寄り立ち尽くす黒烏の腰に結わえられた鞘に刀を戻す。
チンッと刀の鍔が鞘と触れ合った音が響く。
黒烏と暗殺者は動けない。
唯一人夜哭だけが微笑み、黒烏の肩に手をぽんとのせる。黒烏はびくっと肩を振るわせ口を開いたり閉じたりし、何かを言おうとするが、言葉にならない。
「失態は不問に処します」
黒烏はその言葉に緊張の糸が切れたのかへたりと地面に座り込む。
「どういうことだ? 」
その代り暗殺者のほうが不快感を露わに尋ねる。
任務の失敗を不問にするほどこの男の性格は甘くない。
強い駒なら巧く使う。弱い駒なら使えなくなった時点で切り捨てる。
夜哭の頭の辞書には「優しさ」や「甘さ」という言葉はもともと存在しない。
「実力を試した、というわけですよ。黒鵺」
「実力? 」
暗殺者、黒鵺はその言葉に眉を顰める。
「結果はある程度予想できましたけどね。まあ貴方がやられたならまあそれでもいいですし」
弱者は不要です、そう笑う夜哭に生理的な嫌悪感を抱く。
最低最悪、存在自体がおぞましい。それが黒鵺の彼に対する評価である。
「まあさすがに貴方が黒烏をあっさり殺そうとしたのには若干驚きましたが……」
困ったものですとわざとらしく肩をすくめる夜哭を睨みつつ黒鵺は憎悪をこめて呟く。
「……借りは返す主義だ」
貴方らしいですね、と夜哭はくすくすと笑う。
夜哭、正確には二代目夜哭――正式な官位を持たないが王に仕える諜報と暗殺を司る長である。前王の時代、先代夜哭から名を襲名しその後新王即位を成すためにその腕を振るった希代の暗殺者であり、今は数多の暗殺者を束ねる頭領である。
その実力は全盛期を過ぎた今でも彼の下の暗殺者に追随を許さない。黒烏の兄弟子ともいえる存在であるが、今は完全に主従の関係である。
黒鵺は一応は従っているが、先ほどからの態度から酷く彼を嫌悪しているようである。
故に黒鵺は疑問に思う。
王のために己の部下やその他の人間を笑みを崩さず徹底的に使い捨てる。
部下の実力なぞとっくの昔に理解しているはず。
何故今さら実力を?
「当然、次の仕事のためですよ。貴方と黒烏の現時点での力量を試す必要があったんです」
黒鵺の心中を察したのか夜哭は口を開く。
「次は主上から決して失敗せぬよう仰せつかっていますから」
「で、私にやれと? 」
腕を組みながら黒鵺が問う。そのような理由であるなら勝者である黒鵺が仕事を受けるのが普通である。
しかし、夜哭は首を左右に振る。
「いえ、今回は二人で行ってください」
風によって声が掻き消されたが黒烏と黒鵺の耳にはそうはっきりと聞こえた。
互いに何を思ったのかはわからない。だが夜哭が本気であることは何となく悟った。
「疑問。次の仕事とは? 」
仕事、その話で冷静さを取り戻したのか黒烏はいつもの口調に戻り尋ねる。
「暗殺です」
ちょっと買い物に行ってくださいといった軽い調子で夜哭は人の命を絶つことを命じる。
「なら、私と黒烏で組むというのは非効率ではないのか? 」
かつての確執が足を引っ張ることは目に見えている。今まで殺し合っていた人間と組めというのかこの男は。
黒烏と黒鵺二人は大体そのようなことを思っていた。
「だから二重の網です。組むか組まないかはどちらでもよいです。ただ二人で確実に標的を始末してください」
そして夜哭はごく軽い調子で二重の網を張ってまで殺すべき相手のことを語り始める――
滔々と滔々と。
何の感慨もなくただ失態だけは決して許さぬと。
「……今すぐにでも向かってください」
話を終え夜哭はすっと腕を上げ果てしなく続く街道を指し示す。
「御意」
「…………是」
黒烏は滞りなく、黒鵺は一瞬言葉に詰まりつつ頭を下げる。
黒烏は頷き、闇に姿をくらませる。
黒鵺も去ろうとするが不意に呼びとめられる。
「黒鵺。ちょっと待ってください」
黒鵺は怪訝な表情でその場に留まる。
「何だ」
「先ほどの仕事はどうでしたか? 」
すると黒鵺はああ、と呟き、先ほど屋敷で回収した書簡を投げ渡す。
「仕事は滞りなかった。それは念のために持ってきた」
夜哭はそれを受け取り内容を暗闇の中目を眇めつつ一通り目を通す。
よくこの明るさで読めるものだと呆れつつ黒鵺はその様子を見つめる。
「……寧州に謀反の兆し、ですか。まだ痛めつけ方が足りなかったですかね」
ふむ、と呟きつつ夜哭は書簡を懐にしまい代わりに布袋を投げ渡す。
チャリン、という音とともにそれは黒鵺の拳に収まった。
徹底的に駒として扱い、失態や離反に対しては容赦しないが、成功すればそれに見合う報酬は渡す、それが夜哭の主義である。
「確認した」
袋の中身を確認し黒鵺は呟く。その様子を見て夜哭は腰に手を当て溜息をつく。
「まあ、仕事内容を果たしたのであまり言いたくありませんが、言いたいことがあります」
不意に夜哭の右腕がぶれる。
黒鵺は咄嗟に剣を振るいそれを防ぐ。
金属を打ち合わせる音が連続的に響く。
黒鵺も目にもとまらぬ速さで剣を振るっていたが、服や顔を覆う布が少しずつ裂かれていった。
音が止んだ瞬間にはふわりと黒髪が肩に落ち、顔を覆った布が切り刻まれ、素顔が露わになる。
歳の頃二十程度。黒目がちの大きな瞳には憎しみの色をたたえた中性的な顔。
そして腕で押さえている下の裂かれた服の胸元、さらしで潰してあるがそれでもわかる僅かなふくらみ。
――そう、明らかに女であった。
「っ貴様」
声を押し殺すことを忘れたのか黒鵺の声は急に音程の高い女性らしいものに変化する。
「確実に身体に届く攻撃は止めましたね……予想はしてましたけど」
振るった武器を一瞬で仕舞い夜哭は感嘆の声をあげる。一体何を振るったかは黒鵺にもわからなかった。
だがそのうち数撃は身体を顔を裂かんとしたものであり、黒鵺はそれだけをすばやく判断して防いだ。
だが全てを防ぐに至らず、髪を結った紐、顔を覆う布、服の数か所を裂かれることとなった。
恐らくは狙ってやったのだろう。黒鵺も理解しているが故額に青筋が浮かび上がる。
「どういうつもりだ……」
そして夜哭を貫かんとばかりの殺意を向ける。
彼女にとって顔を曝されることと、女であることを改めて見せつけられるのは酷く嫌うようである。
額に浮かんだ青筋がぴくりと動く。夜哭は何ということも無い様にそれを受け流す。
そしておどけた調子で彼女をからかう。
「何となく。そんなに殺意を向けて……殺意なき暗殺者の名が泣きますよ」
殺意なき暗殺者。
殺意、いや気配を一瞬でも漏らさず標的に近づき、一撃で葬り去る彼女の通り名である。
しかしその言葉は完全に彼女の逆鱗に触れたようである。
「貴様は別だ! 」
元々短気なのだろうか、一言で沸点に達し、彼女は黒剣を引き抜き、目にもとまらぬ速さで振るう。怒り狂っているがその剣の動きは速く滑らかである。
「おやおや……」
斬撃をあっさり避けながら夜哭はため息をつく。
冷徹に振るまっていても逆鱗に触れると冷静さを失う彼女に呆れた様子で溜息をつく。
そしてすぐに剣をくぐり抜け背後にまわり腕を捻り上げ、もう片方の手で首に手をかける。
彼の力ならほんの少し掴むだけで彼女の息の根を止められる。
黒鵺はその状況を理解しだんだん落ち着きを取り戻す。服の下、体に刻まれた数多の古傷が一斉にうずく。
「落ち着きなさい」
黒鵺はやがて落ち着きを取り戻し、剣から手を離し、乾いた音とともに剣は地に落ちた。
「からかったことは申し訳なく思います」
「思うなら始めからやるな」
その声色から黒鵺は相当悔しいようだ。
無理はないでしょうね、彼女の過去を鑑みれば。
夜哭はそう思いながら腕から手を離し彼女の前に向きなおる。
「まあ、今から言うことは顔を隠したままで話す内容じゃないですからね。まあ半分はからかってみたかっただけですが。他の駒は反応が薄くてつまらないですからね」
「むかつくことをさらりと言う……で、何だ」
黒鵺は冷静さと敵意を取り戻した顔で夜哭を見据える。
敵意満載だが話は聞いてくれる。彼女のその様子に、満足しながら夜哭は告げるべきことを告げる。
「貴方は私、黒烏に次ぐ優秀な暗殺者ですが……」
先ほどのからかいとは全く違うその口調。
このことこそが彼の問いたい真のこと。
「――貴方は未だに殺すことを躊躇ってませんか? 」
黒鵺の視線が再び殺意あるものに変化し、その眼光は夜哭を容赦なく貫く。
般若の如し、それが一番的確な言葉である。
その言葉も彼女の逆鱗には触れていた。今度は彼女は怒りを見せないし、剣を手に取ることはない。夜哭が彼女をあの闇の様な眼で射抜くように見ている、それもある。
一瞬前に見せつけられた圧倒的な力量差、それもある。
何よりも彼女を動かすのを阻むのは、心の中に澱のようにわだかまるその想い。
夜哭は試している。
彼女が夜哭に再び斬りかかればその想いを肯定し、彼女が護ろうとしているものを削るだろう。
それが彼女にはよく分かっていた。
「……否定する」
視線を上げまっすぐ夜哭を見据える。
そして袖の下で拳を強く握りしめる。
爪が掌に食い込み紅い痕を残す。
「こちらからも一言言うことがある」
「聞きましょう」
黒鵺は静かに夜哭に宣言する。
脳裏に二年前の惨劇の光景――王の狐、白(不吉)を纏い凶事を振りまく暗殺者と黒(闇)を身にまといし鵺(化け物)たる暗殺者との出会いの時を思い浮かべながら。
「貴様のやったことを忘れはしない。いつか必ずケリをつける」
明らかなる反逆宣言。
その瞳には強い光が宿る。
殺意とは違う未来へ向かわんとする強い光。
夜哭はそれを面白いとばかりに口の端を歪めながら笑った。
「貴方は感情的になりすぎです。いずれそれで身を滅ぼしますよ」
「望むところだ」
黒鵺も受けて立つとばかりに不敵に笑みを返した。
そして心の中である人物に語りかける。
彼女の人生の中で中核を成すといえる人物に。
『こんな私を愚かと思うか? 舜水』
守りたいものを守るため他の物を手にかける自分を。
別れて七年、始めは気恥ずかしく、そして暗殺者となってからは後ろめたくて会うことの叶わぬ人物名を捨て素性を隠してからも彼のことは忘れることなぞできなかった。
そう、彼女の真の名は黎、七年前、少年舜水への思いを桔梗に託した少女その人だった。
そして所変わり再び西の地――
盗賊の住処で青年が暴れているのと同時刻、同じ渓谷の一角に男たちが倒れていた。
死んでいるものはなく、大した怪我もしていないが全員が例外なく意識を失っていた。
その風体から見て、盗賊達の仕事に出ていた半分のようである。
「っくそ。やられた! 」
その中の一人が意識を取り戻す。
早く頭の元に戻らねば、と思いつつ立ち上がろうとする。
「もう遅いよ」
鈴が転がるようなこの場所には場違いな声。
女?
おっとりした悪く言えばぼうっとした顔にぽってりとした唇。
可憐な少女といってもおかしくない人物だが、盗賊は首をかしげる。
どこかおかしい。そしてその違和感に気づく。
「胡人? 」
そう、彼女はどう見てもこの国の人間とは思えなかった。
ふわふわとした長い巻き毛は秋に実る栗の色。
琥珀を思わせる薄い茶色の目に白い肌。
そして彫りの深い顔の造形。
「おじさんが言ったところでもう無駄。全部終わっているわ」
少女は男を見つめることなく、渓谷の向こう、盗賊の住処のほうを見つめる。
その様子はどこか浮世離れしている。
「一対二十だしな」
「何いってるの? おじさんの仲間が負けに決まっているじゃない」
変なの、と少女は彼に言う。
どうやら彼女と男はどちらが強いか意見が違うようである。
「はぁ? 」
男は意味がわからないと思う。
彼ら盗賊は、その強さは州師に劣らないと自負している。
確かに自分たちはあの野郎にしてやられた。
だがあっちには頭、幸運なことに彼らの中で使える者達が残っている。
あの野郎がどんなに強かろうが、やられるわけが無い。
「だってアイツ強いもの」
少女が呟く。それは自信に満ちた言葉。
「お嬢ちゃん分かってねえみたいだが、俺らの頭は……」
「ほら、帰ってきた」
それでも何か言いかける男をよそに少女は渓谷の奥を指さす。
確かにその先に人影が見えている。
「……嘘だろう」
「だからアイツは強いんだって……試してみる? 」
くすくすという笑い声とともに男の耳に何かを引き絞る音が聞こえる。
横を見ると長弓を構える少女。
「どっちかわかんねえだろう。味方を撃っちまってもいいのか? 」
咄嗟に男は怒鳴るが少女は静かに首を左右に振る。
「アイツだから撃つんだよ」
そう言って少女は矢を放つ。
その矢羽根には紅い目玉の模様が描かれていて、瞬く間に視線の先の人影に吸い込まれていった。
「だってシュンは強いんだから」
そう呟く彼女は自信に満ちた表情で笑っていて、矢を放った時の瞳は、光の加減か黄金に輝いていた。
――まるで鷹のようだ
男はそう思った。
長ったらしい文を読んでいただきありがとうございます。
やっとこさ闇編を抜け出せます。
次は数回光編です。
金票は手裏剣の一種で小さいクナイのようなものです。本当は金へんに票ですが環境依存文字なので、妥協……
胡人(外国人)の少女……出していいんだろうか。
まあ、黒鵺が全くかわいくないんでいいということで。
次からもう少し恋愛ものっぽくやっていきたらと思います。はい……
ご意見ご感想お待ちしてます。