表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
華と剣―fencer and assassin―  作者: 鋼玉
第四章 望郷追想
45/50

四十五、霞彩剣舞

久しぶりの戦闘シーンっぽいものがあります。

柏州が南の小さな村、南峰村。

北に山を抱くその村は静かに夜明けの時を待っていた。

昨夜に降った雪は止んではいるものの未だ村を白く包み、漂う朝靄は朝の澄んだ空気を白く霞ませる。

村の奥、山の麓に位置する場所、かつて何らかの建造物があったであろう痕跡を残すそこには十数個の盛り土とそしてその上に突き立てられた同じ数だけの墓標があり、まだ日の昇らぬ時分であるものの墓地に一つの人影があった。人影、短髪と猫のような釣り目が特徴的な青年は帯剣し、その墓標を一つ一つ複雑な表情で見て行っており、やがて一つの墓標の前で足を止めて苦笑した。

『秦黎』

墓碑銘には簡素な二文字の名前……ここは黎の墓なのだ。遺体こそなかったが慌てて駆けつけた舜水と白桂達は黎の墓を建てた。まさか、生きているとは思わなかった舜水はあの時抱いた気持ちを今でも鮮明に思い出せる。半身を引き裂かれたような、耐えられぬ痛み。

今、さまざまな困難を乗り越え、彼女が傍らにいる状況。

夢にも思わなかった。

「壊すのもなんだし、な」

呟いた舜水は手に握っていた物を墓碑の前にそっと置いて穴を掘って埋葬した。黎があの時使い叩き折られた剣の柄。祷州で黎に見せた後、何も言わず夜哭への復讐へ向かった彼女に紅華楼に置いていかれたそれは今までこっそり舜水が持っていたのだ。

今までの苦難は朽ちることはなくここに眠るだろう、とほんの少し詩的なことを考えつつ血濡れの折れた剣は土の下は消えて行った。


さくっ


その時、朝靄の向こうに人影が現れた。本当は足音を消せる癖にわざとらしく足音を鳴らしつつ近付いてくる彼より頭一つ分小さいその影に、彼は胸の内に高鳴る感情に反して穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。

「遅いぞ、黎」

「まだ夜明け前だ。遅刻はしていない」

からかいまじりの舜水の言葉にザクザクと雪を踏みしめつつ黎は反論して歩み寄る。束ねられた髪が緩やかに彼女の動きを追い、言葉に反して彼女の顔には興奮を隠しきれない笑みが浮かんでいた。

「私の墓か……見ていて妙な気持ちだな」

「お前が死んだときに埋めてもらえばいい。予約ってわけだ」

黎は舜水の傍らに佇み、白い息を吐きながら己の名が刻まれた墓を見下ろす。実に複雑な表情な黎に舜水は軽口を叩いて彼女の肩に手を乗せる。

「いや、私はここには眠らないよ」

言って、彼女は口角を上げた。

私が眠るのは舜の隣だ。あまりに気恥ずかしいため続く言葉を噛み殺し、黎はむすっとした表情になり顔をあげる。

「そっか」

彼女が何を言いたいのか理解し、舜水も微笑んだ。

そして二人は急に真顔に戻る。二人がここに来た理由は他でもない、刃を合わせるためなのだ。

「じゃあそろそろ始めるか」

「ああ」


刹那、黎の右袖が揺れ舜水の首のあった位置に銀閃が疾る。しかしすでに舜水は後ろに飛びのき剣を抜いて再び間合いを詰めていた。

朝靄が銀に裂かれ、連続して音が鳴り響く。

次の瞬間、背中あわせの形で二人は距離を取り、たがいに向き直る。黎の襦裙の裾が浅く裂け、舜水の髪が僅かに斬られていた。

「さすがに暗殺者としてはこの国一だな」

「剣客としてはどうかな? 」

「剣客としては俺が国一だ」

舜水の軽口とも取れる賞賛の言葉に黎はにやりと笑い、呼び動作なしに再び地を蹴り、舜水もその瞬間身を低くして駆けつつ剣を横薙ぎに振るう。

そう、今は剣一本だけの勝負。

互いに殺さず傷つけるつもりはないのだが祷州の時とは違い迷いがない分、容赦がない。

腕と相手の人格を信じているから為せる業であり、それは剣舞と言った形式的なものというより実戦に近いものである。さらに非常に気温が低いのにもかかわらず防寒着を纏わないごく普通の旅装の二人の動きは寒さによって妨げられる様子は無い。

黎は白い息を軽く吐いて横薙ぎの一撃を舞うように剣の先でいなし、そして剣を彼の胸に向かって突き出す。

しかしすでにそこには舜水の姿は無く、黎は僅かに目を見開くが次の瞬間には剣で背を防御した。

「ぐっ! 」

次の瞬間金属音が響き、剣を握る手に凄まじいまでの負荷がかかり彼女は歯をくいしばって耐えきり身体をひねる。視界の端に舜水の実に楽しげな笑顔を映しつつ、彼女は直感に任せ剣を振るったが正解だったと内心胸をなでおろす。

今の一瞬……完全に舜水の姿を見失っていた。

当り前ではあるが国一というのは伊達では無いというわけだ。

しかし黎も随分と成長を遂げており、ただでやられるつもりはない。黎も笑みを浮かべさらに繰り出される追撃をくぐりぬけつつ、地面に積もる粉雪を蹴りあげる。

「わっ」

顔に向かって跳んできた即席の煙幕に思わず舜水は怯み、そして顔を庇いつつ大きく跳び下がる。黎は剣を幾重にも振るいつつ左に跳び、雪をぎしりと音を立てつつ踏みつけそして次の瞬間には大きく右へ、音を立てずに剣を振るわずに移動して剣を振るう。

見事に舜水は初めの音に騙されるが、ぎりぎりのところで真の斬撃を防いだ。

「卑怯な」

「策と言え」

剣筋を見せないように複雑に振るわれる黎の剣、本当に斬る気があるのはその内の何手だろうか。舜水もさすがに予想以上の彼女の力量に驚きつつ本気を出し彼女の斬撃の網を掻い潜るように剣を操るが、黎の動きがあまりに速く時折見失いそうになり、剣先が虚しくも空を切る。

黎も的確に斬撃を見切って刺突と斬撃を繰り出す舜水を厄介に思いつつ、斬激をまともに防ぐと疲労の因となるために受けないように気を配る。しかし同時に己の斬撃の精度がずれていることに焦りを感じていた。

祷州の時は混乱と嘆きで互いに本気を出せなかったが、今本気を出して戦ってみるとお互いここまで厄介な相手はいないと改めて感じる。

純粋な剣技と腕力では舜水が上。

速さと複雑性では黎が優れる。

お互いに剣筋は見透かしたつもりであっても時々読めないもどかしさ。

「だが、すっげえ楽しい」

「私もだ! 」

舞うように、踊るように墓地の間を動きつつ二人は歯を見せて笑い合う。随分と時を重ねてしまったが、七年前と変わらぬ無邪気な笑み。

『いざ、尋常に勝負! 』

ここまでたどり着けて良かった。そしてこれからも。

そんな思いを込めて二人は叫び、地を蹴った。

再び始まる斬激の応酬。

あの七年前の時よりははるかに洗練され、そして祷州の時より躍動感に溢れる。

白み始めた東の空がその斬激を煌めかせ、大地を覆う銀雪が剣花を照り返す。

余りに速いがその動きは誰が見ても息を呑まずにはおれないものであった。




「すごいな……」

そんなとき、墓地の片隅に何者かが走り寄ってきた。

しばしわたいれを羽織ったその者は肩で息を吐いていたが、剣を交える二人の姿を目にして感嘆の声を上げた。そう、朝起きた時にすでにいなくなっていた二人の姿を探しに出ていた白桂である。黎と舜水は、彼に告げずにこの墓地まで来たのだろう……おそらくそれほどしないで戻るつもりだったのだろうが夢中になりすぎて時を忘れているようである。

彼自身、二人が刃を合わせるのを見るのは七年前の模擬戦以来である。

あの時も随分と常軌を逸した技量であったが、今はさらに数段技量が上がっており彼には何が何だか理解できない。

しかし、思わず息をのむほどの迫力と、二人の楽しげな顔を見れば全てを理解できた。

ああいう関係もあるのだな。

二人の関係は確かに見ているこちらがイライラするほど不器用な恋人同士だ。

彼は舜水の背中を押そうとしたが、どうにも見当違いだったらしい。恋愛というものに限らず、彼らを繋ぎ止める関係はそれ以上に複雑で強固なのだろう。おそらく片方が欠けてしまえば生きていけないくらいに。

「まあ、羨ましいかと言われれば微妙だがな……」

白桂は苦笑しつつ呟き、邪魔するのも難だろうと踵を返した。



一方、日頃はどんなに気配を消している相手でもその存在に気づくはずの二人は、去っていった白桂の存在に全く気付いていなかった。

黎の振るう剣が、舜水の首すれすれを通過し、舜水の剣がちょうど黎の左胸のすぐ脇の空間を貫いていく。下手すればお互い死にかねないほどの剣戟の応酬が繰り返されるが無論二人ともわざとやっているのだ。その証拠に二人の表情はきらきらと輝いており、楽しかったあの頃と同じようにただ純粋に剣を合わせることを楽しんでいた。

しかし、静かにその剣舞にも終わりの時が来る。

二人とも表情は変わらぬもののその動きに次第にキレがなくなっていく。

それはそうだ、戦闘というものは短期決着、一時間も同じ相手と力を抜かずに戦っていること自体が稀なのだ。

『そろそろ決着の着け時か……』

二人の脳裏に同じ考えが過ぎり、互いに刃を合わせた後に大きく跳び退って互い意識を向けたまま息を吐く。奇しくも二人は雪娥の墓を挟み向かい合う形で対峙することとなった。

この真冬にもかかわらず二人の頬を汗が流れ落ち、疲労が押し寄せたのか肩で息をする二人の視線が一瞬交錯する。

すっと二人の口元が引き結ばれ、笑みの形に変化する。

「次で決着を付けないか? 」

「ああ、それがいい」

黎の提案に勿論とばかりに舜水は頷き、剣を下ろす。

黎の方も剣をすでに下ろされており、傍目からは未だに二人が戦っているとは思えず、しかも所詮は手合わせであるので二人が疲労したなら切り上げるのが自然かと思われる。

……しかし、二人はそんなつもりはさらさらないらしい。

あくまで決着をつけるつもりなのだ。

「それでは」

「いざ! 」

二人は地を蹴り、一瞬あとには交差する。

ギンッ

一際高い金属のぶつかる音が響き、一方の剣が宙を舞って地面に突き刺さる。



――得物が弾き飛ばされ敗北を悟り、膝をついて剣を突き付けられたのは……黎。

「あははははっ舜には敵わないや! 」

片膝を付きつつ鼻先に剣を突き付けられた彼女は心底愉快そうに天を仰いで笑い声をあげる。その様子は実に楽しげで晴れ晴れとしていた。

「さすがに今回は負けるかと思った……師匠の面目は保てたがな」

突き付けていた剣を鞘に納めて黎にてを差し伸べつつ舜水は苦笑した。さすがに今回は彼もきつかったらしく、その表情には七年前とは違い余裕の色は無く相手への称賛の意が滲み出ていた。

「あーでもやっぱ悔しいな」

「俺に勝とうなんて百年早い」


笑顔のまま黎は遠くに跳ね飛ばされた剣を拾いに行く。丁度剣は月影と墓碑銘の刻まれた墓の前に突き立っていた。黎は剣を拾いつつ横目でそれを見る。

月影、その名を持つ少年が死んだときはまだ十二歳になったばかりだったか……彼女が駆けつけてきたときには他の少女をかばって事切れていた。しかし、彼女の胸の内には彼に最近あったような何やら奇妙な感情が沸き上がっていた。

気のせいか、それとも昨夜の夢の断片か……

「黎。どうしたんだ? 」

遠くから彼女を呼ぶ舜水の声に記憶を辿ろうとしていた黎は弾かれたように顔を上げて振り向く。

「何でもない。今行くよ」

もう一度月影の墓を一瞥して彼女は彼の方に走り寄って行った。

「一体何やってたんだ? 」

「秘密だ」

「……まあ言いたくないならいいが」

駆けよって来た黎に舜水は息を吐いて、再び腰の剣を抜く。

柄に巻きつけられた桔梗の染め抜きのされた白い布が彼の拳を滑らかに滑る。

「ん? 」

まだ戦うつもりでは無いらしい。

彼の意図を測りかねて黎は抜き身の剣を持ったまま、少女のようにきょとんと小首を傾げる。

舜水はそんな彼女の様子に苦笑し、黎の剣を指さしたあと下段に構えた剣身を指さす。

「なるほど」

それだけで彼女は得心が言った様子で頷き、舜水と同じように彼女も剣をちょうど剣身の中ほど同士が交差するように構えた。


そして舜水は黎と剣を交差させたままで口を開く。

「我が生命にかけて誓う」

「我が剣は汝のために、我が身は汝の盾とならん」

どんな時も己の剣はお前のために振るおう。そしていつも傍にいて、お前を守ろう。

それは男女という仲に拘らない強く確かな剣客としての契約。

義兄弟の誓いなどに近いといえば近いし、剣客の誇りである剣に誓うことからそれよりも強いものである。黎はその言葉に信じられないものでも見るかのように舜水の顔を見つめ、息をのむ。

彼女とて夜哭党に囚われる前の数年間剣客をやっていた身、その言葉を理解せぬわけでは無かった。

「いいのか? 」

それは今までの単なる口約束とは比べ物にならないほど確かなもの。よっぽど求婚の言葉の方が不確かだといえる。

「もちろん。嫌か? 」

「否」

舜水は淀みなく頷いて黎に問う。もちろん黎は首を左右に振り、重ね合わせた剣をその感触を確認するかのようにカチャリと鳴らし、息を一度大きく吸い込む。

「我が存在にかけて誓う」

まっすぐと舜水を見据え、強く確かな笑みを浮かべつ彼女は誓う。

「我が剣は汝のために、我が身は汝の盾とならんことを……そして汝のために生命を費やさんことを」

もともと彼女には舜水の存在が全てだった。確かに彼女にとって孤児院の主であった秦夫妻や雪娥、そして子供達の存在はこの上なく重要だろう。

しかし、言っては悪い気もするが舜水の存在はそれ以上に大切だった。

親に捨てられ死にかけていた彼女を拾ったのも、名前の無かった彼女に名前を与えたのも、剣を教えてくれたのも彼なのだ……誓いの言葉を嫌だと思う理由がどこにあろうか。

こうして二人は初めて形式に則り誓いを立てた。

それは以前よりお互いに心の内で決めていたことであり、この二人の分岐点となった場所で誓うことが最も適当であった。

「愛している」

そこで黎は形式から外れた己の意思を伝える。

「俺もだ」

舜水も照れた様子で答え、二人はもう一度剣を打ち合わせた。


***


そして二人は白桂の家に戻り、朝食を終えた後に出立することとなった。

「次に会う時はお父さんか」

「その時は見に来てくれよ」

朝食を終えた舜水と白桂が楽しげに言葉を交わす。

本来なら戸口で別れを告げるべきであるが、なにしろ黎と舜水は大逆人。村人も全てが信頼できるとは言い難いのでうだうだと戸口でその姿を晒すわけにはいかない。

白桂にはもう早くも父親の貫録が出てきていると舜水はほんの少し羨ましく思いつつ、傍らの何か言いたげな耀徇の頭に手を置いた

「お前らも元気でな。白桂困らせんじゃねえぞ」

「もちろんだよ」

耀徇は即答し、他の二人もこくりと頷く。

どうにもこのチビ三人組では耀徇が年齢的にも性格的にも親分の様である。

「どうだか……おい飛燕、あんまり燕淑一人にすんじゃねえぞ」

どうにも舜水は燕淑がまだ立ち直っていないことに気づいていたようで、耀徇の頭から手を離したあと、横に座っていた飛燕の耳元に顔を近づけ囁く。

「兄貴って奴は妹を守ってやんなきゃ駄目だぞ」

「じゃあ僕が傍にいるよ」

少し不安げな表情をしつつ頷く飛燕の横から延芝が実にのんびりとした様子で言葉を紡ぐ。

いつも呑気な彼だから特に何も考えず言っているのだろう。しかし、舜水ははっとした様子で彼の顔を見る。

「……将来大物になるかもな」

予想道理ののんびりとした笑みを浮かべる彼の頭を舜水はくしゃくしゃと撫でた。


舜水達がそんな話をする傍らで黎は蓮霞と少女達に別れを告げる。

「蓮霞さんもあまり無理しないように」

「ええ、杏児達に私の分も働いてもらうわ」

気遣うような黎の言葉にうふふと蓮霞はまだ膨らみの目立たない腹を撫でながら笑う。

「えー」

「どっちにしろあなた私がいなくなったらきっちり働かなきゃならないんだから」

「わたしも手伝う」

不満そうな表情の杏児を翠瑚が小突き、その傍らで燕淑がひょいと手を上げる。

黎はそんな仲の良い彼女達の様子を瞳に映しつつ頬を緩め、三人を順に抱きしめて行く。

「翠瑚、お前はここを出た後は大変だろうが……頑張れよ」

「杏児、翠瑚の後釜はお前だ蓮霞さんの分も働けよ。なに大丈夫さお前ならやっていける」

春を過ぎた頃にはここを出る翠瑚には激励の言葉を。その言葉に翠瑚は実に素気なく、杏児は少し不満げながらも明るく頷く。

「燕淑も……色々とすまない」

燕淑小さな体を抱きしめる黎の表情は非常に申し訳なさそうである。まあ結局黎も気づいていたというわけだ。特に黎にとっては負い目に感じているのだろう。

「ううん。わたしは大丈夫」

燕淑はそう言って黎の頬を撫でる。おどおどとした様子ではあるがその動作はとても優しく黎は、目を細めてありがとう、と囁いた。


「何にせよ二人とも息災で」

「そちらも、無理をしないでくれ」

まだ話したいことは山のようにあったがあまり遅くなると不味い。

白桂と舜水のそんな言葉を別れの言葉に二人は旅立った。


***


二人は孤児院跡地の裏手の山の中を行く。

山自体は昔とは異なり道も整備されて子供ならまだしも、土地勘のある大人なら半日もあれば越えられる程度であるが、雪が降った後なので道の状態が良くなくおそらく二人以外に山を行くものはいないだろう。

しかし、二人には行かねばならないところがあった。

「十七年前のこと、覚えているか? 」

旅装の上から分厚い外套に身を包み山道を行く黎は舜水に問いかける。無論、彼女は鮮明に覚えている。あの瞬間彼女の人生は始まったのも同然だから。

「まあ、断片的には。実のところそこまで鮮明には覚えていない」

「そっか」

舜水は適当な返事をし、黎はその適当さを責めることなく呟いてさくさくと積もった雪を踏みつつ白い息を吐く。

やはり冬の朝は寒い、特に今日は朝から青空が広がっているのでなおさらである。

彼女の手には、民家からくすねてきたと思しき椿の枝が二本握られていた。彼女は花が落ちぬように細心の注意を払いつつその香りを嗅ぐ。

椿特有の癖のある香りが彼女の鼻をつき、それに満足したのか黎はそれを胸元まで下げて捧げ持つ。

「やっぱ冬は花が少ないからかなわんな」

「楼州あたりだとまだ結構花が咲いているんだけどね……仕方がないさ」

黎の仕草を視界の端に捉え、舜水はその日頃あまりしない女らしい様子に頬を緩ませる。彼女自身、花に思いを込めたりするところを考えると花は好きであるようだ。

そう言えば、あの夜哭の屋敷にも花が沢山植えられていたな、と舜水は思い当たる。そんなことを口に出そうものなら黎が不機嫌になることが見えているので決して口には出さないが、もしかしたら夜哭も園芸の類が好きだったのかもしれない。

あの男はどうしようもなく下衆であったが……確かに黎に似た部分があった。

全くもって別の出会い方をしていれば黎と夜哭は良い友になれたような気がする。

そうならばそうで舜水はあまりいい気はしないが……

そんな舜水の思いに気づかずに黎は椿を片手にかなり遠く離れた所からこちらに笑みを向けていた。

「舜、置いてくぞ」

「先に行くなよ、もう」

舜水はそんな彼女に苦笑し、急いで歩を進めた。




やがて二人が辿り着いたのは、山の中腹の拓けた断崖。

非常に景色がよく、南峯村を一望できるその場所には二つの墓があった。

黎と舜水は吹き上げる突風に顔を顰めつつも、葉を落とした木の間を抜けてまっすぐそこへ向かい墓碑を見下ろす。

秦靖康(しんせいこう)

秦風琴(しんふうきん)

それぞれの墓碑にはそれぞれそのような名前が刻まれており、人があまり来ないであろういわば秘密の場所ともいえる場所であるが奇妙なことに二つの墓の周りは綺麗に手入れされ、そして墓石も磨きあげられていた。

黎は舜水に持っていた椿の一方を手渡して跪き、己の持つ椿の枝を秦風琴と刻まれた墓に供える。舜水も、同じく敬意すら籠った表情で秦靖康と刻まれた墓に椿を供えた。

「院長……いや、義母さん」

「義父さん」

そう、黎と同じ氏を持つ二人はかつての孤児院の主、先々代の王の時代に王都を追われた官吏の秦靖康がこの地で孤児を預かって我が子の様に育て始めたことより孤児院は始まった。黎と舜水が過ごし始めた頃には随分と高齢だった彼等は常々子供達に言っていた。

私達が死んだらここに一緒に埋葬してくれと。

そして舜水が出て行く数年前には靖康は鬼籍に入り、そして黎が出て行った次の年に風琴が他界し子供達の手によって二人はここに埋葬された。

二人にとって彼等はどちらかというと祖父母に近い感覚であったが、恩義ある存在であり、雪娥達のような深い負い目は無いから印象としては薄くなりがちであるが大切な存在である。それは黎が秦黎と名乗っていることからも分かることであろう。

二人は花を備えて手を合わせる。

お久しぶりです、二人ともこんなろくでなしに育ってしまいましたが何とかやっています。

どうかゆるりとお休みなってください、と。


しばしの間、髪が突風に煽られることも気にせず二人は祈る。いつも秦夫妻は言っていた。

誇りを持てる生き方をしなさい、と。

己等の生き方はどうなのだろうかと二人は思う。後悔はしていない、前を向いていける生き方だろうか……そしてこれからそうするにはどうすればいいか。

ひとしきり手を合わせた後に、二人は互いに目くばせし立ち上がって踵を返そうとする。

「わっ」

しかし、寒い中しばらくしゃがみ込んでいたためか、黎はたちくらみがしてと同時に突風にあおられてよろめいてしまった。

「大丈夫か? 」

すかさず彼女を引きよせ、舜水は彼女を抱きとめる。

「ありがとう」

黎は笑みを浮かべ、礼を言った後に彼の身体から己の身体を引き離して今度はしっかりとした足取りで歩きだす。

舜水もそんな彼女の様子を見下ろしつつ、その後を歩きだした。


そして彼女に追いつかんとしたとき、不意に足を止めて崖の向こうの故郷の景色をじっと見つめる。

この景色もしばらくは見納めである。

そんな感傷に浸りつつ顔を前に向けると黎も同じように故郷の景色をその瞳に映しており、舜水と目があった瞬間照れくさそうに口元を曖昧に緩め、彼に手を差し出す。


「行こう……祷州へと」


己等は生きているが故にまだやることがある。

その先には楽しいことも、勿論苦しいこともあるだろう。

だが、二人で乗り越えて行けば何とかなる。


言外に込められた思い。

舜水は頷いて差し出された彼女の手をしっかりと握った。



長い文をお読みいただきありがとうございました。これにて帰郷編は完結。二人はこれから祷州に向かいます。

実に剣を打ち合わせるのが楽しそうな二人です。これからゆっくりと数章かけて完結に向かっていきます。

何話かかるだろうなぁ……

御意見ご感想お待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ