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華と剣―fencer and assassin―  作者: 鋼玉
第四章 望郷追想
44/50

四十四、双華夢想

ぶっちゃけ長いです。

雪が降りしきる中、暖かい灯を宿した北国の家の夜は静かに更けていく。

二年の時を経た再会、和解、そして新たな出会い。

多くが失われ、多くの者が変わろうと変わらないものが確かに存在していた。



黎はただ一人洗濯物が山と積まれた部屋に立って、呟き息をついた。瞬きするその眼はどこか安堵があり、それであって緊張感を失っていない。彼女は回廊に続く戸の脇に剣を置き、素早く髪が濡れないようにまとめてそっと扉を開く。

「……まあ誰もいないよな」

扉の先はさほど広くなく白く霞み、その先に石を組んで作った湯船があった。この国では中部および南部は入浴の習慣はあまり浸透していないのだが、北の二州は比較的浴室を持つ家は多い。おそらくは行水するには外が余りに寒すぎるというのが理由であろう。

一旦扉を閉めると帯を解き、襦裙を脱いでいく。幾重もの布が床に衣の擦れる音を残し落ちて行く。夜に動くことが多かったために日に焼けず白が染みついた肌が露わになっていき、それと同時に彼女の消せぬ過去を露わにする。


傷傷創傷創傷創。


腕にも足にも服に隠れていた数多の傷痕がびっしりと刻まれていた。

それは彼女が未熟であったときに負った傷、そして強くなるために重ねた傷、それは白い肌であるために一層目立ち実に痛々しく他人の目に映るだろう。

そして胸に巻いていたさらしが解かれるとともに彼女の背に一際大きな傷が現れた。

背を袈裟に走る刀傷、そして乳房の下、肋骨の隙間にすべりこませるように刻まれた刺し傷。


その傷を視界に入れた瞬間、黎の表情が僅かに曇った。

背の傷もこの傷も憎くて仕方のない者達につけられた傷。一人は争いの中で自決し、一人は彼女自身が手を下し、すでにこの世にない。

二人の顔が脳裏をよぎり、彼女は唇を噛みしめた。

後悔は無いはずだが、傷痕を見るたびに心の奥底で何かが揺れるのだ。結局、憎いということはその分彼女の心の奥底に刻みつけられているというわけなのだろう。

未だに吹っ切れない己に呆れつつ彼女は浴室に足を踏み入れ扉を閉めた。


「あ〜気持ちいい……」

身体を洗い、湯船に身を沈めると思わず言葉がこぼれた。

暴れたい盛りの少年達と加えて舜水の後なので随分と湯が冷え、量も減っているが彼女にとっては十分である。

「風呂なんてほんと数年ぶりだもんな……」

もちろん彼女の名誉のために言っておくが柏州生まれの彼女は比較的風呂は好きな方である。しかし、そもそも北部以外では入浴ではなく川や桶に入った湯や水での行水が主なのである。夜哭党にいたころはもちろん、舜水とここまで旅をしていた間も入浴する機会は無かった。

柏州や祷州の大きな街に行けば大衆浴場のようなものは必ず一つはあるのだが、この傷だらけの身体だ、男ならまだしも女なら非常に目立ちうっかりすれば身元がばれかねない。

まあ北部の高級な宿なら風呂が部屋についているが、基本的に舜水との旅は金さえ出せばだれでも泊めてくれるような宿に泊まっていたし、彼女は夜哭党の仕事で何度か忍び込んだ際に目にした程度で縁が無かった。

「要は、白桂に感謝だな」

こうやって久しぶりの入浴にありつけるのは彼のおかげである。舜水とのことについていらんことをさんざん言っていたが、この一点だけですべて水に流すこととしようと彼女は思いつつ、黎は湯船に背を預け天井を見上げる。

湯気によって白く煙る天井、黎は髪が湯につかないように気をつけつつ天井を映す瞳を細め、声に出さずに呟く。

これからどうなるのだろうか、己達は。

普通の生活は送れないだろうが、一体どこへ突き進めねばならないのだろうか。

夜哭党にいた時は夜哭への憎悪故にあまり将来への不安というものを感じるほど精神的に余裕がなかった。それを考えると状況は好転しており、彼女は先ほど白桂に言ったとおり舜水がいるならどんなことがあろうが乗り切れると思っているが……いかんせん不安だ。


「今はあまり考え込むべきではない、か 」

為すべきことを終えそして今は新たな出発点に立っている状況、不安ではあるが安らぐべきところまで気を張ると、体に悪いと思いとりあえず今は温かい湯に浸かったまま足を伸ばし身体を解す。今まで冷えた外気によって凝り固まっていた筋肉が解されて、彼女は体が軽くなるのを感じ、無意識のうちに鼻歌を歌い始めていた。

「ん……? 」

やがて身体を解し終わり、気分よく伸びをした時、ふと違和感を抱き彼女は意識を浴室の戸の外に向ける。

気配を消しているようだが……誰かいる? 

何奴?

緩みきっていた彼女の表情が一瞬にして引き締まる。脳裏には幾つもの可能性が浮かび、彼女は風呂桶の上に置いていた物に手を伸ばす。

白桂達のような一般人にはここまで器用に気配を消すことは出来ない。

ならば王の追手か。

それとも放逐した夜哭党の残党が仇討ちに来たか。

「誰だ? 」

殺気すら籠った問い。

しかし、扉の向こうの気配はそれに答えずに気配を隠そうとだんまりを決め込む。

「こちらも丸腰では無い、害意あるならば問答無用で殺す」

彼女の手には黒い曲刃と何故かお守り代わりに肌身離さず持っている、暗色の玉片を括りつけた金票が握られていた。

扉を隔てて緊張の糸がピンと張り、黎はどう動くべきか、もともと備わった殺人の本能を頼りに考えはじめていた。

しかし。


「……俺だ俺。くつろいだ状態からのその華麗な転身はさすがに怖すぎるぞ、黎」

「……舜? 」

「ああ」

予想に反して聞こえてきたのは聞きなれた声。黎は目を瞬かせ、たった今吐いた言葉が急に恥ずかしくなったのか、その顔がみるみる赤く染まっていき頭を抱える。

「何でそんな所にいる? 」

舜なら舜で害がないから大丈夫だが……何で人が風呂入っているところにいるのだろうか。

しばらくして気分が落ち着いたのかそんな疑問が浮かぶ。

その言葉に扉の向こうの気配はあー、と非常に気まずそうに唸り口を開いた。

「……白桂達に追いやられた。男は度胸だ何とか言って」

返ってきたのはしどろもどろの返事。

まあ気を利かせたのだろうが、いらんお節介というわけの様である。己らがあまりに不器用な関係すぎるのが彼らにとって、もどかしいのだろう。

舜水も放っといてくれと思ったのだが、結局追いやられ、しかし折角くつろいでいる黎には申し訳なく気配を消してじっとしていたらしい。何とも気の毒な話である。

「……あの野郎」

黎も舜水の言葉を信じたようで、額に青筋を浮かべながらやっぱり白桂を一回絞めとくかとまだ刃を持ったまま決意を新たにしていた。



「まあ、一宿一飯の恩義だ。大目に見てやれ」

浴室からの不穏な決意に赤面していた舜水は顔を引きつらせ、黎を宥める。

彼女も分かっているだろうが白桂達には悪意はないし、一応己等は泊めてもらっている身だ。いや……ひょっとしたら黎に対して軽い意趣返しのつもりなのかもしれないが。

「……大人気ないな、私」

どうやら黎も思い直したらしい。扉の向こうの怒りの気配が和らいだ。

「そういうところは黎らしいよ」

舜水は直情的なところは昔と変わらない恋人に苦笑して、立ち上がる。

「ここにいたら黎も落ち着けないだろうし、何とか戻ってみる」

追いやられたといってここにいても黎がくつろぐ時間を邪魔するだけである。白桂がしばらくうるさそうだが戻ろうと考えて舜水は黎に告げた。その言葉に返答はなく、彼は迷うことなく戻ろうとしたとき、扉の向こう側から声が響く。


「……別に…………いても………………構わない」

扉の向こうの彼女の表情が容易に思い浮かばんばかりのしどろもどろの返答に舜水は心底驚き目を見開く。相変わらず手が触れるほど近いようでしかし鉄壁と言える壁が存在する彼女らしからぬ言葉であった。

「いいのか? 一応俺も男だが」

もちろんそんな気はない……いや己も一応男だから無いわけではないがとりあえず今は無い。しかし、からかい半分で舜水はそんな言葉を吐いてみて彼女の反応を覗ってみることにした。

「開けようものなら覚悟しろ」

どすのきいた声で扉の向こうから聞こえる返答。それを聞いていつもどおりの彼女だ、と舜水は苦笑した。





一体何を話してよいのやら。

黎はとりあえず舜水にそこにいていいと言ったものもこんな状況何を話したらよいのかわからず、刃を湯船の淵に置いて、気を紛らわすかのように湯船に口まで沈めて腕を組んだ。こぽこぽと唇の間から空気が漏れ、水面に気泡が生じる。それをぼんやりと見つめながら彼女は考えこむ。

舜の方はどうやら扉に背を預けて座りこんでいるようだ。何か話すなら良い機会ではあるし、数時間ぶりに二人きりになったばかりだが話したいことは山のようにある。だがどれから話すべきだろうか。

『なあ』

取り敢えず湯の中から顔を上げ、口を開いてみたがそれと時同じくして、あちらからも全く同じ言葉が響く。全く半身とはよく言ったものだ、こう言ったどうでもいい時に妙に同じ行動に出てしまう。

「……お先にどうぞ」

黎は吹き出しながら、舜水に言葉を譲る。

「おう、ありがとう……まあそれほど押しのけてまで言いたいことじゃないんだが」

扉の向こうから笑いを噛み殺すような声が聞こえ、舜水は浴室の扉に背を預けつつ口を開く。 


「白桂達、楽しそうだったな」

舜水は彼らの楽しそうな様子、そして先ほどの弟分達との楽しい一時を思い浮かべながら呟く。彼は定期的に彼らに会っていたが、やはり今日は黎がいたためか彼らの様子も一際楽しそうだった。

「ああ」

あれだけ悲惨な経験をしてまだ二年しか経っていない状態。よくもあそこまで立ち直ったと思い黎は息を吐き、舜水は目を閉じつつ同意した。

「白桂の奥さんもいい人だしな」

蓮霞といった白桂の妻は最初は警戒こそすれ、初対面かつ明らかに堅気ではない二人にとてもよくしてくれた。白桂との仲睦まじい様子に舜水も己の持ち得ない幸福を羨むとともに、正直に祝福できた。

「そう言えば思ったんだが……蓮霞さんって」

黎はそろそろ髪を洗おうと湯船から出つつも扉の向こうに向かって問う。そう、彼女は蓮霞と出会った時からある感覚を抱いていた。

「黎も同じこと思ってたか。何というか顔は似ても似つかないが、似ているよな」

「うん」

舜水は閉じていた目を開いて扉に視線を動かす。当然扉の向こうは見えないが、黎の小さな同意の声を聞き、楽しそうに目を細めた。

そして二人は言葉に出さぬが同じ言葉を心の中で呟く。

『雪姉に』

そう、蓮霞は顔こそ似ていないもののその造作や性格が二人の姉替わりで、そして秦夫妻の後に孤児院を継いだ雪娥の生き写しであった。雪娥のことは忘れることは決してできないだろう。彼女は二年前の時、孤児院を襲撃した夜哭党に連行され舜水の目の前で処刑され、これが二人の道を光と闇に二分することとなった。

二人は思う。ひょっとしたら白桂は雪娥に想いを寄せていたのかもしれないと。

雪娥は孤児院を出た後に出会った景邑と夫婦になったためにその思いは仮に彼女が生きていても叶わなかっただろうが、やはりどこかで面影を追っていたのだろうか。

「まあ、それを改めて聞くのは」

「野暮だがな」

そう言って二人は扉越しに笑った。



「そう言えば……舜は聞いたか? 」

ふと黎は髪を念入りに洗いつつ先ほどの白桂のもたらした知らせが思い浮かび、舜に問いかける。

「信じられないよな。あいつが父親なんて」

舜は頭の上で手を組んでにんまりと笑う。

「だが奴ならいい父親になるだろう」

黎も俯いて髪を洗う手を留めないものの優しげに目を細めた。黎は父親、いや両親の記憶がほとんどない。覚えているのは彼女を捨てた時の父親の謝罪の言葉だけで、顔すらも曖昧である。対して舜水も父親は禁軍将軍としての姿は見ているものの、妾腹の末子という立場からほとんど触れ合うことは無かったので父というものを知らない。

だが二人とも白桂が幸せな家庭を築くであろうことは確信できた。

「本当に……彼らの言葉に甘えたくなっちまうよな」

白桂達は二人に何日でも泊まってくれていいと提案してくれた。それは社交辞令ではなく、彼らの心からの言葉であったが二人は丁重に断った。

「だけどそういうわけにもいくまい」

髪を洗い終えた黎は、再び紐で髪を纏めつつ苦笑する。この家にいると、昔に帰ったような気持ちになりその温もりに身を委ねたくなるのは否定できない。

故に彼女もその言葉に甘えたいところだが、そうはいくまい。

夜哭党は解体され、当分の間、己等の足取りを掴ませないように工作したが危険を回避するに越したことは無い。

二度と繰り返してはいけないのだ、あのような惨劇を。



しばしの沈黙。

黎が再び湯船に浸かるちゃぽん、という音を皮切りに舜水は呟く。

「……あまり会わない方がいいかもしれないな」

「…………そうかもしれん」

舜水の言葉に黎は絞り出すような声で同意した。

その声は苦々しくもあり、新たな出発点に対する不安がありありと出ていた。


「ま、まあ、たまに会いに行くだろうがな」

さすがに黎の重々しい様子に舜水は慌てて言葉を取り繕う。

すると扉の向こうからふっと笑った気配が伝わり、舜水はほっとした様子で笑った。



彼等は明日旅立つ。

すでに全てのあらましは義慶に宛てて文をしたためて鵬の連絡役に託した。二人の生存と夜哭党の壊滅は鵬に伝わったはずである。

確かに文をしたためなければ、己達は死んだこととして二人で平穏な生活を送れたかもしれない。

しかし、舜水と黎は共に血河の道を歩むと決めた。

次の目的地は祷州が北鶴。



「なあ、黎」

「何? 」

しばしの沈黙の後、舜水は黎にある提案をした。



「夜明け前に墓地まで来い」

「どういうこと? 」

逢引の誘いにしては場所が場所であるので妙である。

今更改まって何なのだろうと、黎は湯船の縁に頬杖をつきながら訝しげに首を傾げた。

舜水は彼の意図を理解できない黎に、いたずらっぽい笑みを浮かべ彼女が壁に立て掛けたままにしている剣を手に取り鞘から抜き放つ。

音もなく抜き放たれた長剣。

よく手入れされているために曇りの無い銀色の剣身はそれを見つめる舜水の顔をはっきりと映す。彼女が王都の北の街の店で購入した剣、どうやら彼女は一度訪れたことがあるようで、店主の初老の男と助手の青年が男連れで現われた彼女に対してあり得ないものを見るような目で見ていた光景を思い出すと思わず笑えて来た。

黎も非常に気まずそうにあの時は済まなかったなぞ言っていたのだが何かやらかしたのだろうか……まあどうでもよいことであるが。

銘があるものではないが中々良い剣だ。

己の剣より小振りで軽量な剣は黎の戦い方に向いているのだろう。

夜哭に授けられた戦い方は不本意ながらであるものの黎を恐ろしいほどに強くした。

どれほど強くなったかは確かめたことがない……だが剣客としては是非一度その実力を推し量ってみたい。

彼は彼女を恋人として見るとともに、一人の好敵手としても見ていたのだ。

「皆への鎮魂の意味を兼ねて一つ手合わせしないか? 」

その言葉に彼の意図を測りかねていた黎は、ほぅと息を吐いて望むところだと実に楽しそうな笑みを浮かべた。一人の女である以前に彼女も一人の武人なのだ。

「いいだろう、たまには本気でぶつからないと腕が鈍る」

「良い考えだろう? 」

剣を鞘に戻し胡坐をかいた膝の上で弄びながら舜水はにやりと笑う。たまには互角に近い状態で本気を出してかつ殺さずに戦わないと剣の腕はすぐに落ちてしまうからたまに本気で戦わなければいけないのだ。

だが、純粋に剣だけで互角に戦うものはなかなかいない。

しかし二人は幸運だ、お互いがそれに値する腕の持ち主なのだから。

ここら辺は二人とも色恋沙汰が絡んだときとは反対に、実に己の気持ちに正直である。

夜哭は黎を生れながらの殺人者の様に評したが舜水も生れながらの剣客なのだろう。

「一度くらいは私も勝ちたいし、な」

「勝たしゃしねえよ。師匠に勝つなんて百年早いと思い知らせちゃる」

「そう言えば私の師匠は舜だった」

「師匠を忘れるとは酷い弟子だ」

お互い冗談交じりで言葉を交わす。相棒として、恋人として、好敵手として……これほどの相手はおるまいと二人は思っていた。

「じゃあそろそろ明日も早いし、寝るわ」

舜水は立ち上がり居間の方の様子を窺い、黎も着替えねばならんし戻っても大丈夫かと判断する。

「ああ、また朝に」

「寝坊すんじゃねえぞ」

黎は湯船に浸かったままぱたぱたと扉の向こうに向かって手を振り、名残惜しむかのように湯に肩まで浸かり足を組んで天井を見上げる。

湯気に霞む木製の天井は日頃の換気を怠っていないせいか存外黴が生えていない。

小さく息を吐き黎は目を細める。濡れた前髪が張りつく顔には実に楽しげな笑みが浮かんでいた。




夜、黎は翠瑚の眠る(ながいす)の隅に身体を横たえて、剣を抱きしめて目を閉じる。日頃の疲れもあってか本人も気付かぬ間に眠りに落ちていった。



――そんな中、彼女は夢を見た。


さらさらと水の流れるような音。


黎は気付いた時には昔の孤児院の縁側に腰かけていた。

「隣、いいかしら? 」

「雪姉……」

不意に頭上から声が聞こえて見上げると、そこには懐かしい顔があった。黎はその顔に驚きの色を浮かべるが首を左右に振る。

「雪姉がいるわけ……」 

「雪娥本人かも知れないしそうじゃないかもしれないわ」

黎の隣に腰掛けつつ雪娥はいたずらっぽく笑った。その様子は幻にしては実に鮮明で、あの日のままの蘇芳の襦裙に身を包み、結いあげたやや色素の薄い髪の合間から夫から贈られた珊瑚玉のついた簪が揺れた。

「……私、死んでしまったしね」

この世に在らざるもの、雪娥もよく分かっているようであった。彼女は己が雪娥と言うことを否定も肯定もしなかったが、もしかしたら彼女自身かもしれない。そのような世迷言を信じない性質である黎ではあるが、全く都合のよいことに目の前の彼女に対してはそうであってほしいと思った。

「雪姉……」

黎は胸の内に熱いものが込み上げるのを感じ、顔をくしゃくしゃにして唇を震わせる。そして感極まった様子で彼女に抱きついた。

「ずっと会いたかった……」

力及ばず彼女を死なせてしまい、申し訳なかった。

もう一度会いたかった。

そして。

夢の中でも良い、もう一度会いたかった、黎は嗚咽の混じる声で涙を流す。柔らかい感触と懐かしい匂いが彼女にとって目の前の存在が雪娥である確信を確かに持たせた。

雪娥はそんな妹分に優しげな眼差しを向けて静かに抱き寄せ頭を撫でる。

「私もよ、黎。今までよく頑張ったわね」

今まで、その言葉に黎は肩を大きく震わせて顔を上げて、涙でくしゃくしゃになった己の顔を袖で拭い首を左右に振った。

「でも、私、雪姉達を守れなかった……そればかりか……」

「あなたは自分にできることをやったのよ。それでいいじゃない」

小さく首を左右に振り雪娥は微笑んだ。

「仇敵にかしづき、白桂達の命と引き換えに多くの人を殺めた。愚かだけれどあなたはそれが分かっているもの」

罪を知り、心を苛むのもまた償いであるとばかりに雪娥は笑顔でピンと黎の額を弾く。

「あんまりウジウジしているのはみっともないわ。こっち側の皆はあなたを恨んじゃいない、むしろ仇をとってくれて感謝しているわ……たぶんあちら側の子たちも、ね」

そして黎の身体を己から引き剥がして雪娥は彼女に言い聞かせる。

昔よく悪さをした黎を叱るように、そして壁にぶつかってしまったときの彼女を励ますように。

「この先、あなたはまだまだ大変な人生を送るでしょう。あの時死んでいれば良かったと思えるくらいにね」

「ええ、多分……だけど舜水と一緒なら」

黎は頷いて呟こうとするが、雪娥は違うとばかりに首を左右に振って彼女の両の肩に手を乗せる。やや目元が腫れぼったく、優しげではあるものの美人とは言えない雪娥の顔がまっすぐ黎を見据えた。

「あなたが身を置くのは戦場よ。あなた自身が正しいと思った道を進まないと駄目よ」

舜がいつも傍にいるとは限らない。あまり彼に依存しすぎるな。

彼女は暗にそう言っていた。どこまでも語る声は柔らかいが、その言葉は厳しく、黎の胸に鋭く突き刺さる。

「うん……分かっている」

愛を依存とはき違えてはならない、それを理解していたつもりであったがどうにも心のどこかでは依存しつつあったことに気づかされる。

雪娥は彼女の思いを理解したのか彼女の肩から手を離し、ぽんと頭に手を乗せる。

「もちろん、舜水と共に在るのも選択肢の一つだけどね。あなたも舜も互いに必要としているみたいだし」

困惑した様子の黎に向かってそう言って彼女はにまっといたずらっぽく笑った。

「おめでとう。あんだけ不器用だったあんたらがくっつくことができるなんて夢にも思わなかったわ」

お幸せにね、と彼女は告げる。

「とにかくあなたはまだ生きている……後悔しないように前に進んでいきなさい。皆だってそれを願っているわ」

そして彼女は頭から手を離し視線を庭先に映す。黎もつられて視線を動かして眼を見開いた。

――そこには二年前の事件で失われた者達がいた。

雪娥の夫に、黎より年下の弟、妹代わり存在だった子供達。二年前、黎は黒烏と夜哭を残すほとんどの者をただがむしゃらに切り捨て子供達を逃がそうとしたが、半分以上間に合わなかった。

彼女がもう少し強ければ守れた命もあったのかもしれない。

しかし、彼等は誰もが穏やかな表情で恨みなど何もない様子だった。

「黎姉、守ろうとしてくれてありがとう」

揺籠(ようらん)という名前だった少女が彼女に歩み寄り微笑む。

「でも」

「うん、黎姉は守れなかったよ。でもあたし達は恨んでない……それだけは分かって」

「雪姉を連れて帰ってきてくれたしな、あの連中に従ったからできたことだし」

傍らにいた月影(げつえい)という名の少年が笑う。そう、雪娥の墓に唯一埋まっている簪、それは祷州に向かう前の黎が埋めた、夜哭から手渡されたものだ。


「ね? 誰も恨んじゃいない」

彼らの言葉に雪娥も微笑み、黎の頬を撫でてゆっくりと立ち上がる。そして、襦裙についた埃を払って口を開いた。

「そろそろ行くわね」

「え? 」

その言葉に黎は行かないで、とばかりに名残惜しそうに手を差し伸べるが雪娥によって振り払われる。

「生者と死者は共にいるわけにはいかないのよ」

そう言いつつ雪娥は夫の手を取り黎に振り帰った。

「舜とお幸せに。私はこの子たちで手一杯だから当分来るんじゃないわよ? 」

あなたや舜は特に手がかかるからね、と片目を閉じ、その言葉に黎はふっと息を吐いて笑った。

「分かっている。雪姉怖いから、当分は離れていたいし」

「言うわね」

鼻を鳴らして雪娥は笑い、そして別れを告げる。

「じゃあね」

そして雪娥は手を振って踵を返し、歩きだす。ほぼ同時に黎の視界が揺らぎ目の前にあった景色が急速にぼやけて消えて行く。

再び聞こえるさらさらと水の流れるような音。


『私達の分も……生きなさい』

揺らぐ意識の向こうで黎はそんな言葉を確かに聞いた。






「ん……」

ゆっくりと眼を開き、黎は身を起こす。そして次第に回復する視界と意識と共に彼女はここが白桂の家であることを思い出す。

眼のあたりに違和感があり、拭ってみると水が指の腹についていた。

「私、泣いていたのか? 」

思えば何かとても懐かしい夢を見た気がし、胸の奥が今でもジンと温かく彼女は無意識のうちに胸を手で押さえた。


私達の分も生きて。


何とか思いだそうとして浮かんだのはそんな言葉。それ以上は何も思いだせなかった。

彼女自身、日頃はいつも周囲に意識を傾けたまま眠るため夢をほとんど見ないし、見たとしても罪悪感からか悪夢であることがほとんどであるので夢というものがあまり好きでは無い。

しかし、今見た夢は……彼女の心に優しく暖かい欠片を残した。

『ありがとう』

眼を閉じて己の夢の記憶の断片に向かって、言葉をかける。

ふふっ

近くで誰かが微笑んだ気がし、双眸を開き見回すが傍らで眠っている翠瑚ともう一つの榻で熟睡中の杏児と燕淑以外に人影はなく彼女は不思議そうに首を傾げた。

「あ、そう言えば舜と約束していたのだった」

ふと傍らに転がる己の剣に指が触れ、彼女は昨日の約束を思い出し剣を手に外の様子を窺う。日が昇りはじめる前、ちょうど良い頃合いか。


行こう。


服は何時もの旅装であるので問題はなく、外套も必要ない。

ただ解いていた髪の毛は動きやすいように一つに頭の上で一括りにして、部屋の中を一巡する。

随分と馴染んできた新しい剣の柄の感触を肌に感じながら黎は静かに歩み出す。


この先何があるのかわからない。

だが、改めて彼女は舜水と歩んでいきたいと思う。

それは依存ではなく、責務でもない……彼女自身の決意。

その先何が待っていようとも、例え闇しかないとしてもかまわない。


黎の表情は実に晴れ晴れとしており、同時にとても美しかった。


長い文章をお読みいただきありがとうございます。今回、風呂などという小説を書く上ではじめての試みをやってみました……なんとなく。あとはありがちながら夢の中で死者との対話。夢の中の雪娥が本物かどうかは想像にお任せします。

あと、秘密基地にてイラストの募集を開始しました。

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