四十三、風明遠景
長らく更新を停止しており申し訳ありませんでした。
「いただきます! 」
「おう、遠慮なく食え」
夕飯を目の前にした少年の元気な声に、彼と向かい合う形で同じく食事にありつこうとしていた青年はにやりと笑った。お世辞にも流行っていなさそうな飯屋。夕飯時からは随分とずれていたためか、店内には二人を除いて黙々と厨房を片付けている店主しかいない。
少年は年の頃は十代半ば、ざんばら髪を無理やり束ねた彼は小動物を思わせる目を輝かせて麺を啜っている。
青年の方は三十近く、まずし引き締まったしなやかな長身と複雑に編まれた髪が印象に残る彼は、少年から視線を己の飯に落としてもそもそと食事を始めた。
ここは寧州州都、瑛彰。
この州の特徴は、南からの荷が立ち並ぶ市場の規模である。それは闇市も同様で故に表通りから裏通りまで様々な人種が集まる。訳ありの人間にとっては潜伏しやすいという顔も持っており、かの有名な鵬もささやかながら南部での活動の拠点にしていた。そして今、彼らがいるのはその……裏の方である。
「なあ、覇玉の兄貴」
「何だ、蒼旋」
不意に少年蒼旋は食事をする手を止めて、青年覇玉に向かって口を開いた。
「何で兄貴は鵬に入ったんだ? 」
何気ない言葉に覇玉の箸が止まった。
二人は国内で最も規模の大きい叛民の集団『鵬』に属している。舜水との戦いの前に黎が起こした義慶暗殺のための襲撃、揚動役であった黒烏を迎え撃ったのは彼らと昭庸を加えた三人であった。その件により本拠を知られたため鵬は潜伏状態にあり、二人はというと蒼旋の鍛錬も兼ねて国中を放浪していた。
「十傑として名を上げた俺がわざわざ謀反人に手を貸す所以は無い。葵沃と違ってそんな必要性無いのに、か」
そう、覇玉には葵沃、舜水の様に王に叛意を抱く必然性が全くと言って無いのだ。近しい者を殺されたわけでもないし、もともと義侠心に厚いというわけでもない。
蒼旋の真意を汲み取って覇玉は違うかとばかりに目を細める。
そもそも彼は気ままに一人旅の予定であった。しかし義慶を訪ねて祷州州都漓岳を訪れた時に蒼旋を押し付けられる羽目になった。予定外のお荷物を始めは煩わしいと思ったものの、共に旅をして稽古をつけているうちにまあ当初よりは邪魔には思わなくなってきた。
「……ちょっと興味があって」
あまりに露骨すぎる言葉に気まずくなったのか無意識のうちに視線をそらし、蒼旋は言葉を濁した。問うてはならぬことであったかと一瞬思ったが、視界の端から覇玉の様子を覗うにそういう訳ではないらしい。
「そうだな……」
蒼旋を焦らすかのように覇玉は天井を見上げる。そして隅の方に張り付いていた大型の蜘蛛が視界に入った瞬間、蜘蛛が嫌いなのか若干顔を引きつらせつつ視線を蒼旋に戻した。
「……義慶のことが気に入ったからかな、勿論妙な意味じゃなしに」
「義慶は人望あるもんな。統率者の才って奴? 」
「そんなところだ」
そう、鵬が散り散りになってもその組織を維持し続け、計画を進行させることができるのは義慶の人望が大きい。今の国の状態、それが鵬に集うものを増やした一因ではあるのだが。
「まあ、たまには話してみるのも悪かねえか……」
いつもなら適当にうやむやにして話題を逸らす彼であるが、今回は違った。
不意に呟いた彼は何かを懐かしむかのように目を細めて、言葉を紡ぎ始めた。
「…………俺は旅芸人の倅でな。その生活に飽きてこの世界に飛び込んで、いつの間にかこんなザマだ。確かに名声を得た、そして力を得た……だがそこまでだったんだ」
その眼に宿る光は僅かに翳り、蒼旋は彼の言葉に小首を傾げた。
「要はただ好きなように生きただけ、何を為したわけでもないことに気づき、唐突に虚無感に襲われた」
彼の独白は続く。あの時心の中に過ぎった己の人生への疑問、それを彼は虚無と捉えた。
あまりにも彼らしくない、蒼旋は相槌を打つことすら忘れ、彼の言葉に聞き入った。
「そんな時だった。義慶達と出会ったのは」
覇玉の瞳を翳りが和らぎ、彼の口元は静かに安堵に似た笑みを浮かべていた。
そう、そんな時まだ鵬と名乗る前の義慶達と出会い、彼は改めて己に為せることを見定めるために彼らに力を貸すことを決意した。
それはいままでの名声を失うことであり、同時に己の命をも危険にさらすことと同義であった。しかし今、そのことを語る彼の表情はそれを欠片も後悔していない様子であった。
「……初めて聞いた」
覇玉の言葉が終わり、蒼旋はしばしの沈黙の後に感嘆の息とともに呟いた。
己らは王に歯向かう者、誰にだって何かしら事情があるとは思ったが、目の前の軽薄が服を着て歩いているような男にもそのような『理由』があると聞くと不思議と現実感を抱くことができなかった。
「当たり前だ。ほとんど人に話したことがねえからな」
「いいの話して? 」
蒼旋の態度に苦笑する覇玉。蒼旋は聞いてはいけないことを聞いてしまったかと、気まずそうに口元をもごもごと動かす。己にはそのような繊細な部分に平気で踏み込む悪癖があることを嫌というほど知っていたし、それが喧嘩の元になることもしばしばだった。
「ま、減るもんじゃねえから構わんさ。実は嘘だったりしてな」
しかし覇玉は特に気にしている様子は無く、ぴんと人差し指を立てる。いつもどおりの調子に戻った彼の言葉が嘘か真か、それはその表情から窺い知ることはできなかった。
「ひっでえ」
おちょくられたことが不満な様子の蒼旋に覇玉はけらけらと笑い、椀に残った伸びきった麺を啜った。
「で、お前はどうだったっけ? 」
「……義慶が居場所をくれたからだね。弟の件もあるし」
自分も話したからそちらも話せと問う覇玉。いつもなら嫌だ、という彼だが珍しく素直に口を開いた。歳から言って彼は北の地で黎達と談笑している耀徇や杏児と同じくらい。彼も同じ孤児であったがその状況は随分と違った。
祷州州都にいた蒼旋の最初の記憶はネズミが駆けまわる汚い路地。両親は物心ついたころにはおらず、さほど年の変わらない弟のみが傍らにいた。
名前の無かった彼は己が生きるために弟を生かすために追い剥ぎを生業としていた。
そんな折に彼が標的にしたのが道を通りかかった義慶だ……それが彼の運命を大きく動かした。
案の定彼は素手で打ち負かされた。しかしそんな彼に義慶は特に咎めずに彼と弟に名前と居場所を与えた。始めは知り合いの夫婦に預けられた蒼旋と弟であったが、蒼旋は弟を義理の両親に託して再び義慶の元を訪れた。
俺も仲間に加えてくれ、再び義慶を訪れた彼はそう言った。
義慶に恩がある、というのが今の彼の理由なのだろう。
「その歳で苦労人なんだな」
その言葉と共に、ぽん、と彼の頭を覇玉の掌が優しく叩いた。
「そう言われると何かむかつくなぁ」
「怒らない怒らない」
まるっきりの子供扱いに彼は不満そうにぴくりと眉を跳ねあげる。
子供と大人の境の年頃、周囲から見ればまだ子供であるが背伸びしたい年頃である。
「そろそろ出るか」
その後色々うだうだ会話した後に覇玉が顔を上げて立ちあがる。蒼旋もそれに続き、立ち上がった。
「これで足りるか? 」
蒼旋の見ている横で覇玉は財布を取り出して勘定を支払う。
蒼旋は目でその金を数えて首を傾げた。
多い?
麺二杯の料金にしては随分と多い額、店の佇まいから言ってぼったくりと言ってよい値段である。不思議そうに彼は覇玉の顔をじっと見るが、覇玉はそんな彼の視線に気づいてかまあ見ていろとばかりに片目を閉じた。
「足りているな……ちょっと待っててくれ」
店主は勘定を確認すると店の奥に消え、さほど経たぬうちに戻ってきた。
「ほれ、これだ」
彼の手から渡されたのは何の変哲もないただの書簡。
差し出された書簡を覇玉は受取り、その裏側の差出人の名を確認して小さく口笛を吹く。
「八咫からか」
「まあな」
その書簡を受け取りつつ二人の間でそんな言葉が交わされた。
多くを語らない彼ら、置いてきぼりを食らった蒼旋はその中で八咫というどこかで聞いた名に疑問を覚えつつも、先ほど渡された勘定はこれの分も含まれていることを何となく悟った。
「じゃあ、図南の時まで」
「いずれ訪れる図南の時まで」
疑問が氷解する間もなく交わされる別れの社交辞令。
それを聞いて蒼旋はやっとこさ得心がいった。ここの主人も鵬の協力者なのだ。その事について彼は何か考えようとしたが、いつの間にか覇玉の姿が消えていることに気が付いた。
「してやられた……」
その状況を認識するや否や蒼旋はまたかとばかりに舌打ちした。
時折覇玉は置いていこうとするかのように突然姿を消す。宿に戻っているだけなので問題ないといえば無いのだが……それが信頼から来るのかそれとも単に日ごろの鬱憤をほんの少し晴らしているだけかは分からない。彼は店主に軽く一礼してから店の外に飛び出した。その瞬間不意に大きな羽音が背後から聞こえ、一度振り向く。
梟。
夜空を舞うように去っていくその鳥を見送り、彼は街中なのに珍しいと言った感想を抱きつつ再び走り出した。
宿屋――
「置いて行っちまってすまんかったな…………ほれ、義慶からの文だ」
蒼旋が部屋に戻ってきたとき覇玉は窓際で煙管を咥えていた。ちょうど火を入れたばかりの頃合いだったらしい。彼は少し不満げな顔で、額に青筋を浮かべて戻ってきた蒼旋に形ばかりの謝罪を呟きつつ先ほどの書簡を開いて見せる。
「……差出人が義慶じゃないじゃん?」
その悪びれない様子に蒼旋は拍子抜けし、目を瞬かせて覇玉の顔を見る。
煙管をくわえて煙を吸い込む様子……明らかにはぐらかす気である、しかしそれより書簡の中身が非常に気になった。差出人は義慶であるのに差出人名が異なる書簡。
しかし同時にある名詞に思い当り、眉をひそめる。
八咫烏。
そんな名前の伝説上の鳥がいたはずと思う彼の思考を読んだのか、覇玉は煙を吐きだしつつ口の端を釣り上げた。
「そう、八咫は鳥使いの女だ、こうやってよく伝書をやる」
「鳥? 」
これは鵬の間の文書である符号だよと続ける覇玉に蒼旋はそう言えば先ほどあの店を出た時に梟を見たことに思い至った。確かに梟も賢い鳥であるがどうやって正確に文を届けているのだろうか……伝書の役を担えるのなら複数の場所を教え込んでいるはずなのだろうが。
「まあ、どうやって複数の鳥を使うのかは俺もよくわかんね……名は知られていないが奴も化け物の類だ。あの黎や黒烏という奴らみたいに」
蒼旋の心中に浮かんだ疑問を全て肯定し、書簡を投げ渡しつつ煙管を口の端に加える覇玉の顔は渋面を形作っていた。
その八咫という女には酷い目に合わされているらしい。十傑以外にも化け物のような強さを持つ者はいることを彼は鵬に来て嫌というほどに知った。しかし、彼自身は十傑としての名声の中で佇んでいるよりも、今の状況の方が数倍楽しいということも自覚している。
「とにかく読んでみろ。なかなか面白いことになっている」
そう言って覇玉は思い切り煙を吸い込み、吸い込みすぎたのか咳き込んだ。
「俺、まだそんなに文字読めないよ」
書簡を手に取り、彼はゆっくりとそれを開いて顔を引きつらせる。かなりびっしりと文字が書いてあった。彼はもともとの生活が生活だったので最近まで読み書きがまったくできなかった。そしてそれではまずいと昭庸や紅蘭に文字を習いやっと最近文字を読める様になったばかり、この量の文章を読むのはちときつい。
「読み書きは鍛錬あるのみだ。読めねえところは後から教えてやる」
覇玉の方を見やるが、とりあえず自力で頑張れと突き放された。
仕方がないので、肩に力を入れて書簡を凝視した。墨で描かれた線の意味を記憶と照らし合わせ文章を読み解いていく。正直言って蒼旋の読解力に対してきついものがあるが、伝達手段がしっかりしているためか暗号化されていないのが唯一の救いである。
覇玉を一瞬見やるが、彼の顔は窓の外に向いていた。
眉間に皺をよせて実に真剣な様子の蒼旋。
手を貸さぬとばかりに夜空に浮かぶ月を見上げながら、一歩先んじて書簡を読んでいた覇玉はにやりと笑い煙管をふかした。おそらく蒼旋が馬鹿でなければその書簡の内容に驚かざるを得ないだろう。
書簡そのものは定期報告に近いものではあるものであるが……問題はその報告の中身。
あの二人が生きているばかりか…………十傑の一、夜哭を倒したとは。
とんでもない化け物だ。
そして……おそらく今後の動乱の中心に彼等は巻き込まれていくのだろう。
そう、書簡に記されるはあの二人からの報告。夜哭を倒し、夜哭党を潰した。それは王の右腕をもぎ取り鵬にとっては追跡者がいなくなったも同然。そして別の王宮の一角に賊が入ったという報告、これも無関係ではないだろう。
鵬にとっては吉報中の吉報……全くもって天晴れである。
彼は友人たちの活躍に内心賞賛を送りつつも、煙管の端を噛み締めていることに気づいた。
嫉妬、か。
馬鹿馬鹿しいと彼は苦笑した。
そもそもあいつ等はその名声の代わりに平穏というものを犠牲にせざるを得ないのだから。
それが分かっていようとも二人は呪縛から逃れることはできない。
そう考えると哀れとさえ思えるのだ。
――柏州。
「このままこの村で平和に暮らせればいいのに」
食事が終わり、そして後片付けも済んだ団欒の時。
居間の卓子にことりと茶器を置きながら黎は息をついた。
「じゃあそうすればいいんじゃないかしら。皆歓迎すると思うわ」
心の底からそう思っているであろう言葉に白桂の妻、蓮霞は茶を注いだばかりの茶器で己の手を温めながら柔らかい笑みを浮かべる。もともと黎より年下の彼女は、顔のそばかすもあいまって少女の様に見えた。始めは黎に警戒の念を抱いていた彼女はもうこの時にはその姿勢を緩めており、黎の方も穏やかでどこか懐かしさを思わせる彼女に旧知の仲の様に接するようになっていた。
今、黎を除いてこの房室にいるのは白桂夫妻、そして翠瑚と加えて房室の端でうとうとと眠る猫の小鈴である。
そのうちの一人、この家の主である白桂はそんな彼女らに視線を向け、今いない他の人間について考えを巡らせる。
舜水は耀徇、飛燕、延芝と共に風呂に入っている。まあ、大方浴室ではしゃいでいるのだろう、舜水がそこそこおさえると思うが彼もなんだかんだ言ってはしゃぐのが嫌いではないので期待はできまい。現に水音と笑い声が浴室の方から響いている。
燕淑は眠くなったためもう子供部屋に戻っており、杏児はそれに付き添っている。
二年前のあの時の傷痕は未だ消えておらず、生き残った子供達、その中で一番年下だった燕淑は心に酷い傷を負い、一時は闇を異常に恐れて夜になると理由もなく泣き叫ぶほどであった。今はその症状は治まったのだが一人で眠ることができなかった。
白桂は黎にそのことは言うつもりはない。確かに今まで行方をくらませて許されざる所業を行った彼女を許せないが……必要はないだろう。
「そうしたいのは山々なんだが、そうもいかんからな」
「だろうな……黎姉も苦労人だ」
「望んでそうしているからしょうがないさ」
たまには後悔するがな、と呟いて黎は苦労人と言った白桂の言葉にその大きな眼を細める。
「望んで、というよりいつの間にか退路を断たれていたって感じかしら。その感じだと」
その言葉に何やら繕い物をしている翠瑚がぽつりと呟く。彼女は一切事情を聞いていないがある程度は察しているのだろう。
「痛いとこつくな……」
頬杖をつきつつ黎の口の端がひきつる。
確かに望んでいった先がかなり予想外で妙な状況にはまり込んだことは否定できない。
退路はもちろん無い、目の前には幾つもの道があるがつながる先は同じ、今の状況を言うならそれだろうか。全く舜水と再び手を取り合うだけで随分と代償を払ってしまった。
しかし……黎は思った。
「……舜とともにいることができる、それだけで何でも乗り越えられる気がする」
「まあ」
自然に言葉が零れ出してしまい、蓮霞の声でそのことに気づいた。そして思わず漏れてしまった本音に黎は赤面して頭を抱える。
「今の言葉は無かった事に……」
舜水と再会したころは気恥ずかしさから、舜水には明かしても、その感情を特に他人の前ではっきりと言葉に出すことを無意識に避けていた。
どうやら己の心にも少しずつ変化が起こっているらしい。その変化が吉とでるか凶と出るかは分からないが……今は己の失言に実に愉しそうな笑みを浮かべる目の前の三人をどうにかせねばならない。
「無かった事にすると思う? 」
しかし黎の切なる願いは虚しくも砕け散った。
完全に裁縫の手を止めた翠瑚は、にまっと意地の悪い笑みを浮かべた。
その様子に黎は、ああ……こりゃ次の日には皆に知られることとなると悟った。
「舜に言ってやったら面白いことになりそうだな……黎姉が惚気てたって」
白桂も昔から少年の様に剣を振るっていた姉貴分の意外な一面に実に楽しそうである。唯一の歯止め役がこの状態では絶望的と黎は頭を抱え、同時に失言とはこのようなことをいうのだと実感した。
「……後で覚えていろ」
「おお怖い」
負け惜しみのような黎に白桂は肩をすくめ、しばらく沈黙が下りた。
何と言うかどう反応したら分からないと言った状況。
互いに視線を交わし、その沈黙に耐えかねたのか誰ともなしに吹き出し、四人ともくすくすと笑い始めた。
そんな中、一体何だろうと眠っていた小鈴は毛皮の間にうずめていた顔を上げて小首を傾げ、再び毛皮に顔を埋めた。
「そうだ、黎姉にぜひ報告しておきたいことがあった」
「ん? 改まって一体何を? 」
しばらく雑談を続けた後、不意に白桂がぽんと手を叩いて口を開き、その改まった様子に黎は何だろうと目を瞬かせ、彼の顔を見た。
「実は……」
「ここからは私が言いたいわ」
「……蓮霞が言うのなら」
白桂が何かを言おうとしたが、蓮霞がそれを制して白桂はそれに従った。
「まだ言ってなかったの」
「言う暇あったと思うか? 」
何を言わんとしているのか知っている翠瑚の呆れの混ざる言葉に白桂は苦笑する。再会の後、ごたごたと夕餉の準備に黎が参加し、久しぶりの御馳走に楽しくも騒々しい夕餉まで改まって『そのこと』を言う暇なぞなかった。確かに言う覚悟ができていなかったのも否定はできないのだが。
「無かったわね」
翠瑚もそこら辺は何となく察してくれたように先ほどからずっと中断していた裁縫を再開した。蓮霞はとりあえず二人が口出ししない姿勢になり、口を開いても大丈夫と判断したのか小さく深呼吸をし口を開いた。
「あと半年後、もう一人増えるんですの」
黎はその言葉の意味を捉えきれず小首を傾げ、他の三人の意味ありげな笑みと言葉からだんだんと何を言わんとしているのか理解し、その眼が驚きで次第に見開かれた。
「まさか……本当か? 」
無意識のうちに彼女の表情が驚きと疑念、そして喜びをないまぜにしたものに変わる。実に信じられない、だがもし彼女らの言うことが本当ならばそれはとても喜ばしいことである。
「本当だよ、黎姉」
「もうすぐ四月になるの」
その言葉を肯定するかのように蓮霞の肩を抱きよせながら白桂は笑みを浮かべ、蓮霞は愛おしそうに己の腹を優しくさすった。まだ四月であるのでそれほど目立たないが、確かに意識してみれば僅かに張っているようにも見えた。まだ普通に家事をしているが、もうすぐ安静にせねばならないようになるだろう。
決して豊かではなく、かなり苦労していることは白桂のやつれ具合から分かるほどだが、互いに肩を寄せ合う二人の表情はとても幸せそうであった。
黎はただその二人の様子に心の底からの笑みを浮かべ、白桂の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「でかした! 弟よ」
蓮霞を大切にしてやれよ、と彼女は言った。
己には決して届かない普通の幸せ、だが嫉妬という思いは無く、手放しに祝福したいという思いだけがあった。
同じ親の愛を知らぬ孤児、己が身を削ってまで守った者が人並みの幸せを手に入れ、それだけでなく新たな命が宿り、次に繋がっていく。
この国の先行きは暗く、そして己にそのような普通の幸せが来ないことは分かっている。
だから彼らには己の分も幸せになってほしかった。
そう、要は……
――――決して届かない己の望む未来を彼らに投影していたのかもしれない
長い文章をお読みいただきありがとうございました。そして多忙のためとはいえ更新が遅れて申し訳ありません。今回は覇玉&蒼旋の話と黎達の話。いろいろ書いてしまったが後悔はしていないと思います……そろそろ話も大きく動かさなきゃいけないです。