三十八、夜明刻々
――遼明が中央部、そこに聳え立つ宮殿。
――かつて大陸の宝珠と呼ばれた時代を思わせるそれは琳明宮と言った。
王の寝所である正寝にて。
明かり一つ灯されていない、しかしそれでも調度品の影やうっすら見える装飾、そして部屋というにはいささか広すぎる空間はそれだけで部屋の持ち主の身分が知れる。
そんな暗闇の中で対峙する男女がいた。
「夜哭は死んだ」
「ああ、汝がやったと聞いた」
初めに互いに交わされたのはある男の死。
女は淡々と事実を告げ、あらかじめ聞いていたのだろう男はさほど驚かなかった。
「いつか会いたいと思っていたよ、黒鵺殿」
「それは過去の名だ……会うのはもう少し先にしたかったのだが」
「しかし、夜哭の時といいこうもあっさり忍び込まれるとはな……夏官庁の予算は削った方が良いかな」
「さらに忍び込みやすくなるだけだ」
互いに笑みを浮かべているものの決して好意的ではないことが嫌というほどわかる。かといって悪意もほとんど見られないのは不思議としか言いようがない。
臥牀に腰かけた男、八州国国主永寶は闇に溶けるように庭園に面した窓辺に佇む女、秦黎の返答に息を吐いて口を開く。
「……その様子では、もうこちらにつく気はないみたいだな」
「当然。この瞬間より貴様の敵だ」
「だろうな」
永寶の顔は恐ろしく生気がなく周囲に怜悧な印象を与えている。彼女は初めて顔を合わせたものの、その顔を初めて見た気がしなかった。
彼女はその感覚の正体に思い至り無表情ではあるものの内心舌打ちをする。
そう、舜水にどこか似ているのだ。確かに舜水の出身である李家は将軍の家系、多少の血縁関係はあるのかもしれない。
どうでもいい。
不快感の増す心の中で彼女は己の心を鎮め判断を誤らぬように呟き、その眼を険しく細める。
――奴こそが元凶。
この国の荒廃を加速させるもの。
彼女の大切な者を奪いし者。
確かに実行者は官吏や兵士、そして夜哭党。
かつて黒鵺と呼ばれた彼女自身もそう。
だが、それを命じていたのは目の前にいる男なのだ。
夜哭と彼が出会ったことで彼は力を得た。
そして夜哭が先代を殺すことで夜哭党を掌握し、彼の政治的手腕もあいまって王となった。
何が目的なのかはわからない。この男は馬鹿でないのは分かるし、己が決断が国を滅ぼすことも理解しているはずだ。
一体何をもってこの男は滅王たらんとするのかは彼女には理解できない。
しかし元凶であることには変わらない。
「ああ」
不敬としか言えない口調、そしてその眼に宿る光は好意も悪意もないがどこまでも鋭い視線を彼に向けていた。しばし口を噤んだ後、彼女は佩玉の欠片を放り投げた。
全ては渡さない。再び夜哭を任じさせることがないように。名を捨てると言っても結局は彼女が墓の中まで持っていくしかないのだ、と黎は内心己を嘲笑った。
闇の中の僅かな光を照り返し、欠片は永寶の骨ばった手の中に収まった。ただ彼はそれを手の中で弄ぶ、夜気に冷やされたそれの感触はすでに戻ってこない臣下を思わせた。
「そうだろうな……夜哭もそう言っていたよ」
夜哭は彼女と戦う一週間ほど前に永寶の元へ出向いた。
それは祷州より伝えられた、義慶並びに葵沃暗殺失敗と――黒烏死亡、黒鵺つまり黎の裏切りの報。夜哭は告げた、近々黎が己を殺しに来るであろうことを。
『当然私も彼女を始末する所存であります。ですが……』
しくじった場合。それから先を永寶は聞くことを拒んだのだが夜哭は告げた。
もししくじった場合は規範に乗っ取り黎が夜哭となること……そして確実に王に離反するであろうことを。その言葉はその最悪の事態すら納得の上であると言うことを語っていた。
そして、この事態。
暗色の欠片を弄びながら永寶は僅かに目を細める。
夜哭の死を見届けた夜哭党の暗殺者達から事の子細は聞いている。
最期の瞬間の裏切りとも取れる行為についても聞いているが今更それをどうこうする気はない。
「奴はお前のことをそれは楽しそうにいつも話していたよ」
「嘘をつけ」
「本当だ」
永寶はしばし俯いて沈黙し何やら考え込む。
「本当にいなくなったんだな。奴は」
沈黙を破って紡がれたその言葉にはわずかな嘆きが混ざっていた。政敵や反逆者いや善良なものさえも虐げ処刑を命じることに躊躇いを見せず、その冷酷さと悪政から滅王とさえ呼ばれた彼とて公子の折より影となって支えた臣下の死には何かを感じるのだろうか。
「貴様とてやはり悲しむのか? 」
「戯言を。どうせいずれは不要になる駒、何も感じぬよ」
永寶は唇を釣り上げる。
それが本心なのかはわからない。しかし、あまり嘘を言っている風ではなかった。
「夜哭によく似ているな、屑なところは」
「汝は奴が言うほど似てはいないな」
「それはありがたい言葉だ」
互いにとげを含んだ言葉を交わす。よく見れば永寶は手に鞘に収まったままの剣を握り、黎の袖からはほんの少し銀が覗いていた。
先ほどより明らかに事態は深刻化しているようである。
しかし、そんな様子に気がついた永寶は何を思ったのかその頬を緩めた。
黎はその様子を訝しむが、彼は構わず口を開いた。
「さて、今宵はただ挨拶に来たわけでないのだろう。背信者」
かといって殺しに来たわけでもあるまいし、何が目的か、と身を乗り出しつつ彼は問う。
夜であるため結われていない髪はその動きに合わせて揺れた。
「背信? 心外だ。元々私は貴様の敵だ」
言葉とともに彼女は歩を進め始める。
殺意があるのかないのかよくは分からない。殺意があるにしても彼女はそれを隠すことは容易である。恐怖どころか驚きの色さえ見せずに永寶はそれを待った。
一歩、二歩と狭まる距離はやがて残り一歩を残すところとなり、袖の内より凶器がはっきりと見えた。
次の瞬間、彼女は眉ひとつ動かさずに手に持った凶器を背後に向かって投擲する。
それは目標に向かって正確に闇を裂いて飛来したが闇より伸びた腕によって停止させられた。
「もう一人……客人がいたか」
永寶は入口に立ち黎の肩越しに己を睨みつけている新たな侵入者を見つめ微笑んだ。
侵入者は歩を進めつつゆっくりと口を開く。
「お初にお目にかかる。主上……いや、そう呼ぶ必要は無いか」
金票を挟み込んだ指をゆっくり下ろしつつ侵入者、舜水は笑みを浮かべた。
「お会い出来て光栄だよ。葵沃、いや李舜水」
落ち着いた様子で微笑む永寶の視線の先で舜水の短い髪が夜気に揺れる。いずれ訪れる邂逅、それは黎という因子により今となった。
「ああ、実に光栄だ」
会釈しつつ淡々と呟く舜水の顔にはひた隠しにしているものの隠しきれていない深い憎悪があった。
「家族の仇、雪姉たちの仇。こんなに早く会えるとはな」
連れてきてくれた黎に感謝だ、と彼はつづけ足を止めた。
黎はただ彼の言葉に耳を傾けつつ、脇に避ける。
「お前の家族のことは父の所業なのだが……」
永寶も舜水の見上げつつ苦笑した。
彼が公子時代不遇だったのは彼の母が李家の出身だったことがある。李家の処刑の前に彼の母は亡くなっていたものの、彼自身の立場をかなり危うくさせた。有能であったが故に、謀反人の一族と血縁があるために彼自身も処刑の危機はなくとも暗殺の危機にさらされた。
「どちらかというと孤児院の件はあの女の所業と……お前にある」
「俺が剣客となり名を上げたことか」
その言葉に永寶は首肯する。
「いずれ反乱分子となることは見えておった。唯一残った親類故に情けをかけてやっていたのだが」
その温情を無碍にしたのは貴様だ、とばかりの言葉に舜水の額に青筋が走り、その手は血がにじむほどに強く握られる。
「言わせておけば……」
先に口を開いたのは黎。歯を食いしばり凄まじい形相で永寶を睨みつける。彼女にとっても永寶の言葉は怒りを抱かずにおれぬのだろう。
「今となっては貴様の言葉の真偽は意味を為さん。むしろ立ち止まれば貴様の思う壺」
しかし、それ以上言う前に舜水は落ち着いた様子で怒りをあらわにした彼女を制し口を開く。その顔に浮かぶは笑み、そう笑みとしか言えぬ表情であるが同時に相手を戦慄させるほどの激しさを秘めていた。黎が怒ったときよりもこちらの方がよっぽど恐ろしい。
「そう、俺が貴様の敵であることは変わりはない」
しゃんと金属が滑る涼やかな音がしいつのまにか永寶の首筋に剣先があてがわれていた。
「今、ほんの少し剣先を動かせば貴様は絶命する……貴様が剣を抜くより早い」
永寶は剣の柄に指を這わせるが、それ以上の動きを見せる前に舜水はさらに剣先を彼に突きつける。
「夜哭の元へ行くのも……悪くはない」
諦念の混ざる息を吐き、永寶は目を伏せる。その動きに従うかのように結われていない髪が彼の顔を隠した黎はその光景を目にしながら一瞬どうすべきか悩むが、とりあえず見守ることとする。
「俺は貴様を殺したい。夜哭党も崩壊し、黎のおかげで警備をうまくすり抜けた今は実に好機ではないか? 」
その言葉には今まで抱き続けてきたであろう暗い感情が見え隠れする。一族を滅ぼしたのが彼でなくとも、彼は後に得た舜水の大切なものを奪った。そして間接的とはいえ黎に苦難の道を歩むことを強いた。
許すことなぞ……できるはずがない。
「黎……俺は間違っているか? 」
「さあ? ただ私には止める権利なぞない」
小さく首を振って彼女は彼を止めることはしない。
確かに彼は彼女が間違った道を歩まぬように必死に止めてくれる。
彼女もいざという時は彼を止める所存である。
しかし……今回は別。
彼女にとっても王は憎き者。舜水の心の奥に隠した闇も知っている。舜水があと一刻でも遅く来ていればそうしていたのは彼女だから、止める権利も、止めたいと思う感情も……存在しない。
「感謝する」
剣を当てた首筋よりつうっと血が流れ始める。
あとほんの少し引けば全てが終わるのは明白。
舜水はその猫の様な眼を獲物を定めるかのように細め、その瞳に宿す光は憎しみに、そして追憶に大きく揺れ動く。
黎はただそれを見守る。
己の半身にして愛する者、彼を代行者とするのは心苦しいがこれを為すのは彼が誰よりもふさわしいのもまた事実。
次の瞬間。
舜水の瞳孔が収縮し、黎の瞳孔が驚きに広がった。
床の敷物を打つ乾いた音。同時に響く重い打撃音……そして永寶はわずかに首をひねったまま腰かけていた臥牀に弾かれたように倒れ伏す。
そして肺が圧迫されたのか苦悶の混じった息が漏れた……しかし生命に別条はない。
「舜」
「今は……これでいい」
握りしめ突き出した拳を引き、もう片方の手で押さえつつ息を吐く。
渾身の力で殴ったためか血が滲んでおり、骨は折れてはいないようであるが実に痛々しい。
「何故、殺さ……ない? 」
左の頬を押さえつつ永寶は起き上がる。口の中を切ったためか口の端から臥牀に血が一滴、二滴零れ落ちた。
「大義がないからだ」
放り捨てた剣を拾い上げ彼は呟く。
その声には憎悪の念が変わらず宿っているが、同時に英雄と呼ばれるに足る揺らぐことのない強さも確かに感じ取られた。
圧倒的な存在感を宿し、彼は言葉を続ける。
「今、貴様を殺すことは簡単だ。しかし、それでは感情に走った私怨に終わる」
「俺達、そして鵬に必要なのは……簒奪者と呼ばれぬだけの正義と大義」
そうせねば、お前たちと同じになってしまう。
頭だけ殺してはい終わりでは、民の支持なぞ得られぬ、国なぞ変えられぬ。
「それを得た時こそ、貴様の時代は終わる」
そして彼は傷を負っていない方の手で黎の腕をつかみ、踵を返す。
「後悔するぞ? 今殺さなかったことを」
去っていく二人の背に永寶の声がかかる。
二人は一度だけ足をとめて振りかえる。
しかし何も言葉を返すことなく二人は手をつないだまま微笑んだ。
絶対に後悔しない。
首を洗って待っておけ。
その眼は確かにそう語っていた。
もうすぐ夜が終わる薄闇の中二人は駆ける。
警備の穴は黎がおおよそ理解しているし、もし見つかっても一人か二人、万全の状態でないとはいえ黎と舜水の敵ではない。
「そっちの首尾はどうだった? 」
いったん休憩とばかりに庭園の物陰に隠れ息をつきつつ黎は問う。舜水も同じく横で休みつつ笑顔で親指を立てる。
「完璧。連中も日が昇るまで気付かないだろうな」
「私たちの本当の目的を、か」
楽しげに笑いつつ黎は彼の右手、永寶を殴った拳をそっと包んで己の顔の近くに持っていく。一体どうやって切ったんだろうか、彼の拳には切り傷が走っていた。
「また随分と力いっぱい殴ったんだな」
「つい、な」
「責めはしないさ」
彼女はそう言って未だ流れる血を軽く舐め取った。そして僅かに赤面する彼をよそに懐から布きれを取り出し彼の拳に巻いてやった。
「傷から毒が入ってはいけないだろう? 」
「……だな」
そう言って二人は笑い合う。
だが、遠くより聞こえる喧噪が二人の笑顔を凍りつかせる。
少し声を立てすぎたか、それともやはりあちらも無能ではないのか。
「行くか」
「ああ」
次の瞬間には二人の姿は消えうせ、その場には揺れる草木のみが残った。
***
報告を受け永寶が駆けつけた時にはすでに手遅れであった。
官庁の一角、夏官長の管轄にありつつ王の直轄であるその部屋、すなわち夜哭のこの城での執務室。
「やられたな」
本来そこは夜哭党の管轄の資料が置かれている部屋であり、彼らの管轄である機密の宝庫。
夜哭はほとんどの情報をこの部屋に置いていた。
例えば李家のこと、孤児院のこと、そして鵬のこと。
通常何重にもわたって厳重に錠が掛けられていたそこはごく自然にしかし見事に開けられていた。
「奴ら、これが目的だったか」
黎が時間を稼ぎ、舜水がその裏で処理を行う。
逆なら間違いなく永寶は人を呼び、それは失敗に終わっただろう。
火を使えば手早く処理できても気づかれるのが大幅に早まってしまう。
確かに二人は彼と話すと言う目的もあったのかもしれない。
しかし、本当に為さねばならないことはこれだったのだ。
頬に青痣を作ったままの永寶はしてやられたとばかりに額を押さえて、実に愉快とばかりに乾いた笑い声を上げた。
彼の視線の先、そこには引き裂かれ、あるいは墨で塗りつぶされるなどして読むことができるどころか、復元不可能な状態の元は機密の書かれた書物の山があった。
二人の大逆人と滅王。
この邂逅に次があるのかは不明。
ただ彼等は王に告げた。
いずれ彼を追い詰める敵とならんことを。
それがこの先にどんな影響を与えるのかは語り部すらもあずかり知らぬところである。
長い文をお読みいただきありがとうございました。多忙ゆえに更新が遅れて申し訳ありません。さて舜水と黎、厄介なところに忍び込んだ上にいろいろやらかしています。結局気性がかなり激しいところは二人とも似た者同士なのでしょう。これから更新速度が落ちるかもしれませんがどうぞよろしくお願いします。
御意見御感想お待ちしています