三十七、兇手演武
どんな痛みにも動じることなく。
動じることさえ知らず。
求められる答えのみに口を開く。
「御意」
平時と変わらぬ感情のこもらぬ声。
たとえ己が殺されるといわれても、顔色を変えないどころかそれが彼女の命令なら従うと頭を踏みつけられ、剣を突き付けられたまま啼鵲は答えた。
夜哭党の暗殺者、特に参謀としての能力に秀でた彼は彼が幼少より仕込まれた通りの答えを言っただけだった。
彼だけではない、夜哭党に所属する暗殺者は己の感情を持たない。
確かに黎のことを酷く嫌悪したりする点から心はないわけではないが、彼等は己の感情を持つことを知らなかった。
彼らはただ夜哭という名に従い、命じられた情報を運び命じられた人間を殺す道具なのだ。
「本当に不快だな……」
黎は心底見下した様子でその眼を歪めた後、さらに踏みつける力を強める。
布の靴とはいえ、底は木である。
踏まれればかなり痛いはずだが啼鵲は頭の骨が軋む音を感じつつも眉ひとつ動かさない。
その様子を見てさらにかすかな音とともに不快そうに噛みしめられる白い歯が彼女の唇の間から覗いた。
――まるで別人だな。
舜水は己の心のうちのどす黒い感情を曝け出す黎を悲痛な表情で見ていた。
彼は彼女から協力を頼まれたものの彼女がどう動くかは聞かされていなかった。
まるで別人のような様子の彼女、その動きには迷いは見られない。
そんな彼女を見ているだけなのには耐えられなかった。
気づいた時には彼は彼女の剣を握った腕を握りしめていた。
「やめろ……」
小さく舌打ちをして彼女は舜水に向きかえった。
その眼には明らかに怒りに歪んでいたが、心配そうに見つめる舜水の顔をみてわずかに表情を和らげる。
「……私を信じろ」
私はあの頃に戻りはしない。
たった一言ではあったものの彼女の声からは確かにそんな思いが伝わった。
舜水はしかし彼女を信じることができずその手を離さない。
彼女に無用な殺人などさせたくないが故に。
ほんの一分でも懸念が残るならば……その手を離せないのだ。
「私はお前の半身。信じてくれぬとは悲しいな」
そして彼女は啼鵲の頭から足を放す。
「ただ試しただけだよ。奴らが変わらず道具であることを確かめるために」
内心では先ほどの襲撃への制裁もあるが、内心呟くその声には彼らへの憐れみすら混ざっていた。人でありながら人でない己の命すら惜しまない道具。
それを証明するかのように啼鵲は無駄な動き一つなく再び額を擦りつけ叩頭した。
「憎きものとはいえ許されざる非礼を詫びよう」
しばし何かを考え込んだ後、変わらず剣だけは突き付けたまま黎は啼鵲に対し謝罪する。
啼鵲は抑揚のない声でただありがたく存じますとだけ言った。
「黎! 」
舜水の表情がぱっと明るくなる。
そんな彼にとりあえずこれで許せ、と黎は苦笑した。
そして彼女はいまだ地面に伏したままの啼鵲に対して口を開く。
「顔を上げろ」
顎をしゃくって黎は剣先をゆっくりと上に動かす。
彼女の剣の先の動きに合わせるように啼鵲は顔を上げた。
彼女を見据えてはいるが何の感情も抱いていないその眼を見つめつつ、黎はその様子に一度大きく息を吸って口を開いた。
声の音が一段低くなり彼女が今から言うことが最も問いたいことであることが容易に知れた。
「一つだけ問う」
ただの眼は啼鵲を見据え、言葉を終えた後に他の男たちを一巡した。
当然と言えば当然であるが他の暗殺者達は微動だにしないどころか気配すらも消している。
相変わらず人とは思えぬと思いつつも現状、彼女はそれで満足なようであった。
「夜哭の名は佩玉に受け継がれるものなのか? 」
――どういうことだ?
舜水はその意味についてどういう意味なのか測りかねた。
黎はあの時確かに佩玉を夜哭の証と言った。あの表情はとても嘘を言っていたとは思えない。
今更必要は…………そこまで思って彼も勘付いた。
「あんなもの玉と腕の良い細工師さえいればいくらでも偽造できる。あの時お前たちは確かに佩玉を渡したのを見たのか? 私が持つのは偽物かも知れんぞ」
そう、佩玉の所有者が夜哭というのは王の直轄の暗殺者集団の長にしては……ずいぶんと安っぽい。黎は佩玉の真意をしるとともに疑いを抱いた。
彼等は彼女が夜哭に叛意があることを知っていたし、彼女を嫌悪していた。
現に夜の襲撃もあわよくば死んでくれればと思ったのだろう。
しかし、本当に殺す気なら双子を向かわせるはず。
殺したいが殺すわけにいかないという規律と個人的判断の矛盾があったのだろう。
それが示すは……
「ですが貴女が夜哭様であることは変わりません」
啼鵲はただ機械的に返答する。
黎は再び踏みつけてやろうかと考えるが咎めるような舜水の視線に思いとどまり、目を閉じて咳払いをする。やはり舜水には完全に譲歩しないものの逆らえないらしい。
再び開かれた眼は穏やかではあるものの強い光が宿っていた。
「何故私が次代の夜哭であるのか……答えろ」
有無を言わさぬ命令。
啼鵲はここにきて僅かに眉を跳ね上げるがすぐに一礼して口を開いた。
「それは――貴方様が先代を弑したからでございます」
そしてその言葉を引き継ぐかのように彼の後ろで叩頭していた双子が口を開く。
「夜哭の名は死によって受け継がれるもの」
「すなわち先代を弑した貴女様こそ」
『次代の夜哭に他なりません』
我々をどうするのか、それは貴方様の思うままに。
最後の言葉は三人とも同時に紡がれた。
は、と黎は呆れたように息を吐いた。
「つまり、自業自得ってわけか」
剣を取り落とし、ふらりとよろめく。
すかさず支えた舜水に対して黎は笑みを見せた。
しかしその笑みはその瞳に宿る光はどこか虚ろであった。
「あの野郎、わかっていて殺されることを望みやがった」
もう今となっては夜哭があの彼女を殺すことを躊躇した刹那、彼女に殺されることを望んでいたと考えるのは自然だ。
彼女が夜哭を刺す前に、夜哭の握った短刀は確かに彼女の首を捉えていた。
あの時、王に変わらぬ忠誠を誓っていた夜哭は間違いなく王を裏切り死を受け入れた。
彼女がその名をどうするかはどうでもよい。
とにかく彼女にその重責を与えたかった。
それにより夜哭は彼女の脳裏に存在し続けることとなる。
己の衰えを感じていたのだろうか。
確かに彼の年齢から言ってそれもあり得る。
とにかく言えるのは今、彼女が夜哭の名を背負わされたこと。
「もう帰ろう。こんな事に関わらなくていい」
不意に掛けられた声に思考の淵に落ちかけていた彼女は弾かれたように顔を上げる。
顔を上げた先には舜水がいた。
その眼はその鋭さに反してとても優しく、それ故に黎にとっては淀んだ心をさらに苛んだ。
「……ならば私を殺して全てを背負ってくれるか? 」
彼女は笑みを崩さなかったが今にも砕けそうだった。
その言葉に、その表情に彼は唇をかみしめる。
――しばしの沈黙。
「嘘だ。今、私が終わらせるしかないんだよ」
彼の手を払い、黎は呟く。
その鋭く細められたは決意の強さを宿し、つかつかと啼鵲達の元へ歩み寄る。
旅装束の青色の襦裙が闇に紛れ、彼女は思う。
それが殺した相手に対するせめてもの情け。
人を殺すことを躊躇わないが、殺した人間のことを決して忘れない。
確かに夜哭を殺したときは混乱と怒りのためか死者の遺志を無碍にしそうになり舜水に諫められたのだが……彼女は殺した人間のことを遺志もすべて背負っていくつもりだ。
『故に……』
彼女は懐に手を入れ、つかんだものを啼鵲の目の前に放った。
地に転がったのは割れた佩玉。
音につられてそれを目にした夜哭党の面々の顔が確かに強張った。
佩玉が形にしかすぎなくとも、彼女の意図を理解するのは容易であった。
「やっとまともに驚いたか」
黎はそう言って彼らの様子を面白く思ったのか笑みを見せる。
唇の合間から白い歯を見せ笑う姿は人を惹きつけるものでありつつもどこか禍々しい。
「それが私の答えだ」
佩玉ではなく、彼女の行為が夜哭の名を背負わせることになったとしても関係はない。
彼女はすでに答えを出していた。
「私は夜哭の名を捨てる」
その証がそれだ、と彼女の声は凛と夜の闇に響いた。
淡い桃色の唇が過去を断ち切り確かな未来への道しるべを示す。
結われずにのびるがままに延ばされた黒い髪がその動きに合わせて踊り、舞う。
夜哭党の暗殺者達は完全に思考が停止しているようで彼女を見上げぽかんと口を開けていた。彼らにとっての唯一の世界がなくなることは彼らの理解を超えていたのだ。
「お前たちは自由だ。旅に出るのもいいし畑を耕すのもいい。もちろん王の元に下るのもいいだろう」
力強い笑みとともにと彼女はさらに続ける。
「一人の人間であることを思い出せ。一人人間として生きてみろ」
それこそが彼らにとって最も苦しみを伴うだろう。
彼女はそう宣言し夜哭党の面々に指を突き付ける。
襦裙の裾がはためき、力強い声が夜空にそして彼らの心に突き刺さった。
彼女はその名を捨て去るこの瞬間だけであったが彼らの頭となったのだ。
「もし私が憎いのなら殺しに来るがいい」
刹那、彼女の表情が邪悪に歪む。
彼女は確かに舜水を愛する一人の女である。
しかし同時にわずか二年で夜哭党の中でのし上がった暗殺者の顔も持っていた。
「その時は容赦はしない……夜哭とは違うからな」
何度も殺そうとして敗北したにもかかわらず、彼女を殺さなかった夜哭への当てつけであるかのように彼女は笑う。
「名を捨てる前の最後の命だ。お前たちの仲間、一人残らずこれを伝えろ。全員に伝わったことを以て夜哭党は消えてなくなる」
「行け! 」
言葉が終わるや否や、彼等は弾かれたように顔を上げる。
次の瞬間にはそこには夜の闇が残るだけであった。
取り残された舜水と黎はしばし沈黙する。
「……信じろって言っただろう? 」
ため息をつきつつ初めに口を開いたのは黎であった。
その顔は先ほどの様子とはうって変わり優しいものである。
「ごめん。だが本当に心臓に悪かった……」
舜水もいつもの彼女に戻ったことを確認し、安堵の息をつく。
しかし、本気になった彼女があれほど怖いとは。
己も本気で相手を憎んだときにはあれほど変わるものだろうか。
「そうか……」
黎はそう言って苦笑しようとしたが途端、足の力が抜けへたり込んだ。
今になって先ほどこらえた震えが指先に戻るが、力が抜けているため抑え込むことはできなかった。
「っどうした? 」
突然の変化にどうするべきかしばしおろおろと迷う。
「……怖かった。二度とあんな真似はごめんだ」
俯いたままため息をつく黎の眼には涙さえ滲んでいた。
相当気を張っていたらしい、それも当然である。夜哭党の面々が彼女の言葉を受け入れない可能性も無きしもあらず。
そうすれば戦闘になっただろう。
今の彼女は確かに無理をすればできないこともなさそうだがまともに戦える状態ではない。
舜水はそんな彼女にくすりと笑って手を差し伸べる。
「……二度とやるなよ」
「二度とやらないさ」
力なく返答しつつ彼の手を取る彼女にとってその手はとても大きく見えた。
「頑張ったな」
「必死だったんだよ。過去を捨てるのはなかなか大変だ……」
手を握り、彼女を立たせつつ彼は労う。
それに対し仮に忌まわしいものでもな、と頬を掻きながら黎は苦笑した。
「しかしこちらも怖かった。あの時のお前が」
二人で手を握り夜の道を行く。
やはり広途から離れているせいか人通りは非常に少ない。
そんな中、不意に舜水は口を開いた。
「それは……悪かったな」
黎は心底疲れたように一度目をこすり口を開く。
言葉とともに生まれた吐息はその心中に宿る思いを如実に表していた。
「……やっぱり変わったな。昔のお前じゃあんな真似は出来ない」
そう言って彼女を見下ろす舜水の眼はどこか悲しげであり、脳裏には啼鵲の頭を踏みつけ冷酷な言葉を吐く彼女がよぎった。やはりあの二年間は彼女の何かを壊してしまったのだろうか。
「そりゃあ変わるさ。例え、夜哭党に身を置かずとも七年という年月は大きい」
彼の前に歩み出て、その手を彼の頬に当てつつ彼女は顔を近づける。
頭一つ分の身長差がほんの少しだけ縮まった。
「だから舜も、何かしら変わったはずだ。戦い、殺め、武勲をあげつつも過去のままでいられるほど人は強くはない」
「そうかも、な」
舜水は己の頬にあてられた手に己の手の平を重ね、夜気に冷えつつもたしかに存在する温もりを感じる。
次の瞬間彼の視界を彼女の占める割合が急に増えた。
「なっ」
唐突の接吻。
柔らかい感触から伝わったのは……先ほど唇をかみしめた時に切ったのだろう、全てが終わったときに交わしたのと同じ鮮血の味だった。本当に小説などに比べ不粋な味ではあるが……実に自分たちらしいとは思う。
離された唇とともに紡がれるは照れを隠すような、懐かしい過去を思わせる笑みと……
「確かに私は変わった……だが……舜水が好きという気持ちだけは変わってない」
むしろ深くなったかもしれない、黎のその言葉には嘘偽りなどなかった。
「そうだな……それがあったからこうして二人で立っていられる」
敵として相対した時。その気持ちがなければどちらかがどちらかの首を刎ねていただろう。
夜哭の元へ黎が向かった時。その気持ちが消えなかったからこそ、舜水は彼女に利用される形となったが結果として助けることができた。
笑い合った後不意に舜水が呟く。
「その男そのものの言葉づかい……治らないな」
「癖になったからな。当分は抜けまい」
まるで何かを誤魔化すかのような言葉に黎は小さく鼻を鳴らし口角を上げた。
「それに、女らしいのは嫌って言うのは昔っからだ」
彼女は確かに昔はもう少し女らしい口調であったが基本的に襦裙は身につけずに男のなりをしていた。守られるだけなんていや、そんな言葉が彼女の口癖だったな、と舜水は思い当った。
しかし同時にふと意地の悪い考えが思い浮かび、にやりと笑って口を開く。
「そっか……だが今、お前はあれほど嫌がった襦裙を着ているな」
「……やかましい」
彼女は顔を逸らして吐き捨てた。
その眼には悪意はなく、どちらかというと照れ隠しの色が強い。
どっちにあるべきか彼女とて迷っているのだろう。
武人としては男としてあるべきで。
舜水のことを想えば女である己に気づく。
きっぱり女としての己を肯定し、同時に武人たれる蛛露が羨ましく思えた。
うんざりとした顔で黎は額に手をあてようとした。
――その時彼女の袖の間から何かが転げ落ち、地面を跳ねるように転がった。
「佩玉……全部奴らに渡したんじゃ」
驚きを隠しきれない舜水をよそに彼女は無表情でそれを拾い上げる。
そしてポンと一度放りあげつつ掌にのせた。
精緻な彫刻は半ばより砕け、未だ装飾品の役割を残そうと絡みついた黒い紐が皮膚を通してなめらかな感触を伝える。
「保険だよ。否定されたものの佩玉によって夜哭が受け継がれるのならば、全部渡すのは愚かだ」
「なるほど」
彼女の狙いは夜哭の名を盾に取った夜哭党の解体。
「それに……もう一か所回るべきところがある」
佩玉の欠片を懐に仕舞いつつ彼女が目を伏せてため息をつく。
「……まさか」
相変わらず無茶をやる、彼女の意図に気づいた舜水は思わず呟き、黎の眼をじっと見る。
彼女の眼は本気であった。
「厄介ではあるが先ほどよりは大分楽だ」
なあにこれは私の得意分野だ、と彼女は喉を鳴らして笑った。
「お礼参りってやつだよ」
舜水も一度は会っておきたいだろう? と彼女は問いかけた。
長い文をお読みいただきありがとうございます……遂に二十万文字突破、読了時間四百分ですか……長く書いてしまったものです。黎は結局夜哭党を放逐することにしました。まあ、継ぐわけがないですし。そして、お礼参りとは……おおよそ予想できるかもしれません。しかしそろそろ区切りのよいところで作品を分割した方がいいかもしれませんね……御意見御感想お待ちしています。