三十四、旭日旅思
――二日後
「お願いだ」
「頼む」
窓の無い薄暗く埃の匂いの立ち込めるまるで独房を思わせる嬰の私室にて、舜水と黎はそろって頭を下げた。
黎は舜水の肩を借りているもののもう杖をついておらず、その言葉も随分と滑らかになっている。二人が身に纏うは戒瑜が去る前に置いていってくれた袍と襦裙、優美さより機能性に比重を置いた旅装束。
頭を下げられた相手、机に向かっていた嬰は小さくため息をつき筆を置いて二人に向き直った。
「どうしても、というのか」
眉間にはっきりと皺を浮かべた彼は淡々と問う。
左頬の大きな傷が彼の顔つきをなお険しくしているがそれはいつものことである。
「ああ、黎もまだまだといえど回復した」
力強く頷きつつ嬰の言葉に答え、同意を求めるかのように黎を見下ろす。
黎はそんな舜水の顔を見つめ、微笑んだ後に嬰に向き直った。
そして、強い光を宿した瞳を笑みの形に歪めて口を開く。
「本当に世話になりました。しかしこれ以上世話になるわけにはいけません」
声に宿るは信頼と心からの感謝。
嬰は最初から最後まで無愛想を貫いていたが時折、その姿勢が和らぐのを二人は気がついていた。彼の過去に何があったのか、二人に何を見ているのかは彼からは一度も語られることはなかった。しかし、二人にとっても嬰はどこかしら共感するところがあったらしい。
「……ここで許可して野たれ死なれると気分が悪いのだが」
嬰はそう言ってさらにため息を吐く。
その眼には冷徹さの中にどこか諦めに似た笑みが浮かべられていた。
「わかっているだろうが死ぬつもりはないよ」
「何があろうと生きるつもりです」
二人で。
口々に告げた後に交わされた視線はそれを言外に告げていた。
「一応言うがまだ万全ではない。無駄な戦闘は避けることだ」
傷口が開いても知らんからな、と言って嬰は二人から視線を逸らし再び筆を手に取って机に向かう。
医師として言えることはそれだけだ、としばしの沈黙の後彼は呟いた。
するとその意味を理解したのかその表情を一気に明るく変化させた。
『じゃあ! 』
顔を見合わせる二人に嬰は筆を握っていない方の手をパタパタと振る。
「ああ、多少の懸念はあるが……もう出て行っても大丈夫だ。荷物はそこにある。」
『ありがとうございます! 』
頭を下げる二人に嬰はただ静かに告げた。
「本分を果たしただけだ」
筆を止め、両の眼を閉じ、吐き捨てるように呟く。
「行け」
お前さんたちを見ていると胸に悪い、と苦笑する様に彼は肩を揺らした。
嬰の言葉に二人は顔を見合せ、揃って恩は忘れないと返す返す礼をいい、一まとめにされた荷物を受け取り別れを告げ去っていった。その間、嬰は全く言葉を返すことも振り返ることもしなかった。
そして部屋に静寂が落ちる。
日の差さない埃と黴の匂いに包まれたこの場所は刹那、本当に監獄となったような雰囲気を纏った。
それは嬰を閉じ込めるためのものか、彼が自分から閉じ込めるためのものか……
しばらく彼は目を開けることさえせずに俯いていた。
筆先を付けたままの紙に次第に黒い染みが広がっていくがそれを気にする様子がない。
二人の気配が完全に背後から消えたことを確認したころやっと彼は表情に変化が現れた。
「なあ……睡花」
頬の傷を撫で、今にも泣きそうなくしゃくしゃの笑みを浮かべつつ彼は返されることのない問いを紡ぐ。
「何を期待しているんだろうな。俺は」
叶うことの無かった幸せな未来か。それとも過去への後悔への投影か。
無意味なことは分かっている。
「全てはあいつらが決めることだ。何を思ってもしょうがない」
ただ己はかつて彼女の家だったここにとどまり続けるのみ。
前にも戻れぬし先に進む勇気も未だない。
故に、二人が旅立つなら贈ることのできる言葉はただ一つ。
「生きろ。どんな苦難があろうと二人で」
ちょうど外は東の空に日が昇ったころであった。
「久しぶりの外だな」
「ああ、一体何日位閉じ込められていたのか……考えたくないな」
さえずりながら晴れ渡った空を飛ぶ雀を見上げつつ二人は呟く。
朝のひんやりとした新鮮な空気が実に気持ち良い。
舜水の腰には二本の剣、背中には荷物を入れた麻袋。
黎の腰には小さな巾着、中から銀の光が覗いているのは彼女が森を出た時に握っていた金票だろうか。あの日、蛛露は夜哭の遺品のみを渡したのだが他にも荷物は残っていたらしい。
黎の腕はまだ自力で歩くのがきついのか、やっと手に入れた幸せを噛みしめたいのか、舜水の腕にしっかりと絡められていた。
「これからどうする? 」
「……そうだな」
戸口に立ったまま相談しようとしたその時。
「お待ちなさいな御二人さん」
唐突に掛けられた木鈴の鳴るような柔らかい声。その声の出どころをすぐに悟り、黎と舜はその方向に視線を動かした。
『何やってんだ。そんなところで』
二人の呆れた様子の問いに煤けた木でできた屋根の上に腰かけた女、蛛露は軽く会釈する。
「見送りにきただけですわ」
何か問題でも? と屋根の縁に腰かけたままパタパタと手を振った。
彼女は性格が悪いことは言うまでもないが根本的にそう悪い人間ではないようである。
「ってことは、お前はついてこないのか? 今までここにいたのも俺らを監視していたんだろう? 」
舜水は驚きに目を見開くがすぐに目を細め、彼女を睨みつける。
その体勢は黎と腕を組んでいるものの、蛛露の出方次第でいつでも動けるようにしている。
黎も彼の動きを察知し、彼が動きやすいように僅かに体勢を変えていた。
「はじめはそのはずだったのですけど……仲の良い貴方達を見ていると、一緒に旅をするのは申し訳なくて」
二人の懸念に反して蛛露は足を揺らしつつ穏やかに告げる。
確かに初めは彼女は主であり夫である洟州候の命で、舜水に対し何らかの言質をとり彼を洟州まで連れてくることであった。故に二人が回復するまで嬰の家にいたのだ。
確かにもともと気が短いためか時折危うい面があったが基本的にその任はしっかりと果たし、そのことを公言していた。
舜水もそれ故に彼女が旅の道連れとなると踏んで若干うんざりとしていのだが……
「貴方達を信用いたしましょう、ということですわ」
蛛露はそう言って人差し指を立ててにっこりと笑った。
二日前の黎との会話、そして一番始めの舜水との会話。
あの時の二人には明確な敵意があったが、同時に確約したらそれを確実に守るという意思もあった。何より二人の様子を見ていて信用してもよいかという気持ちになったのだ。
さらに……もう一つ彼女は共に旅をするべきでない理由があった。
「それに……事情が変わりましたの」
その言葉は途端に柔らかさを失い、憂鬱な色がにじみ出る。
唇が真一文字に引き結ばれ、髪の向こうにある眼はその視力にかかわらず険しく細められていた。
黎と舜水はその言葉の意味するところに思い当り表情が陰りを見せた。
「知っていたのか」
黎の問いに蛛露は肩をすくめて苦笑する
よく見れば彼女の右の袖口から覗く手には包帯が巻きつけられていた。
「昨日の夜中ちょっと色々とあったんですの」
その口ぶりは、昨夜交戦した相手が何者か理解しているようであった。
朝日に輝く黒絹の様な髪を背に彼女はただ告げる。
「……貴方達、万全でないとわかってここを出たのって、あれのせいですのよね? 」
「そんなことはない」
黎は蛛露の腕の傷に気づき、罪悪感を抱きつつも力強く答えた。
そして心の中で蛛露に礼を言う。佩玉に込められた意味が何にせよ、昨晩二人が安心して眠れたのも彼女が『奴ら』を追い払ってくれたためだろう。
蛛露は黎を見下ろし、しばしその顔を見つめた後、視線をそらして小さく鼻を鳴らしつつ腰の巾着に手をかける。
腰の巾着の中身が何なのかは嫌というほど知っている二人は彼女の動きに警戒の姿勢を強める。
屋外のここなら、糸から逃れることは可能。
彼女の指が動くより早く、糸が届かぬ所へ飛ぶことのできるように。
しかし。
糸は張り巡らされず代わりに小さな銀色の塊が宙を舞いながら朝日を照り返し、思わず差し出した黎の掌に落ちた。
「これは」
飾り結びの為された小さな糸の束、金属糸でできたそれはあの糸玉の断片か。
「お守り。多分武器としては使えないでしょうけど、ほんの気持ちですわ」
「え……? 」
黎は唐突のことにどう反応すべきか迷った。少なくとも蛛露は黎のことを大嫌いと宣言し、そのあとの二日も一触即発ともいわずもありありと敵意を向けていたため今の行動が信じられなかった。
「勘違いしないでほしいですわ。貴女のことは大嫌いですの」
蛛露は膝の上で頬杖を突き意地の悪い笑みを浮かべる。
よくよく考えればこの彼女、ほとんど唇の動きで自分の抱く感情をほとんど伝えている。
実に器用なものである。
一旦言葉を切り、再び逆説の言葉とともに口を開く。
「簡単に野たれ死なれると舜水殿との確約が揺らぎかねませんもの」
言葉とは裏腹にとてもとても優しい声色であった。
「……ありがとう」
黎は掌に目を落としながら感謝を込めて呟き、笑みを浮かべた。
どういたしまして、と蛛露は言って立ち上がる。
遼明の街を吹き抜ける風が彼女の頬を撫で、ゆるく束ねた髪が風に踊る。
山吹色の襦裙を靡かせるその姿は彼女のすらりとした体型もあってか非常に幻想的であった。
「あんたはこれからどうするんだ? 」
舜水の問いに蛛露は風になびく前髪を押さえつつ向き直る。
「まっすぐ洟州へ、と言いたいところだけどあと一日はここにいるつもり」
万が一を考えて、と付け加えた。
「そっか。じゃあそろそろ俺達行くわ。確約したことは必ず守るから安心しろ」
舜水は黎の手を取り、歩きだす。
黎も一瞬蛛露を見やったのちに歩き出す。
「当然。破った時は……」
「わかっている」
背後から掛けられた声に苦笑しつつ、二人はもう一度振り向く。
「息災を」
「再会を」
爽やかな笑みとともに口々に紡がれた言葉は、同じ言葉にて同時に結ばれた。
『願って』
蛛露も背を向けて去る二人に手を振りながら何かを言ったが間の悪い事に風が一際強く吹き、かき消された。
彼女はすぐにそのことに気づき振り続ける手を僅かに止めるが、苦笑して再び振り始め、二人の姿が見えなくなるまで振り続けた。
蛛露との再会、それはしばしの時間を要することとなる。
舜水と黎、二人にはまずやるべきことがあった
それは――
長い文章を読んでいただきありがとうございました。今回は二人の旅立ち。夜哭党のことはかなり引っ張ってます。なんかこのペースでいくと完結するのに五十話じゃきかない気がしてきます……
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