三十一、誓盟覇道
「お前さんの手の中にある玉は思うほか脆い。それを忘れるな」
嬰は部屋を去る前にそう言い捨てる。普段他人に干渉することのない彼らしからぬ行動の真意は彼自身よく分かっていなかった。
むしろそれについて考えることを厭うように舜水を置いて部屋を出る。
舜水は彼の言葉が効いたのか俯いて床を睨みつけ、嬰を追うことはない。
嬰は廊下を数歩歩いたところで立ち止まり、振り返って呟く。
「失った後ではもうどうしようもない」
無意識のうちに頬の傷を撫でながら呟く彼はどこか寂しげだった。
「確かにあんたの言う通りだ。嬰さん……」
しばし床を見つめ考えを巡らせた後、俯いたまま舜水は呟く。
確かに彼女は自分から突っ走るところがあるし、祷州で彼女をみすみす逃がし今の状態に陥っているのはある意味不可抗力だ。
逃げたり隠れたりは素早い彼女の方が一枚上手だ。
しかしそれは所詮は言い訳に過ぎない。
彼女が死んだとき聞かせられたときの嘆き。
暗殺者として彼女生きていると師から聞かされた時の僅かな希望と不安。
それが現実となり敵として相見えた嘆き。
互いの刃を互いの首筋に当てた時の絶望と諦念。
そして和解した時の安堵と何かを取り戻した喜び。
それほど間を開けずに彼女が失踪した時の喪失感と焦燥。
戒瑜の協力を得た時の頼もしさ。
彼女に罠にかけられ夜哭党の暗殺者と相対した時に浮かんだ彼女への疑念。
そして、夜哭に殺されんとする彼女を見た時に急激に沸き上がった怒り。
彼女に再びその手で人を殺させてしまった時の空虚と罪悪感……二人を引き裂いた全ての事象の終焉への安堵。
彼の脳裏に今までのことが思い出される。
何分、いや何十分たったのかはわからない。
実はそれは一分にも満たなかったかもしれない。
彼のそれぞれの時に感じた想いは決して否定したくないものであった。
言い訳をして悩み続ける、それはそれらの道を通って辿り着いた答えを否定するも同義。
故に彼は、それを終えた時一言だけ呟いた。
「全くもって馬鹿馬鹿しい」
そう、嬰に言われずとも彼はあの瞬間その問への答えを見つけていた。
嬰、あの医者が何を思ったのかわからない。
ただ一つ言えることは、舜水はまだ失っていない、そして一度失ったと思い二度失いかけた今、失う気など毛頭ない。
それだけだ。
「……答えは一つしかないじゃないか」
一瞬でも惑った己が馬鹿のようだ。
――ただ彼女に手を差し伸べ続けること、それだけだ。
彼にもう迷いは存在しない。
嬰という一人の人間にとって再びかけられた覚悟への問いは結果として彼の心の中の決意をより強めることとなった。
それよりほんの数分前。
黎の意識は眠りの淵からゆっくりと覚醒していった。
――ああ、何とか生き残ったのか、今回も。
意識が戻ったとき、茫洋とした意識で彼女は始めに思った。
舜水と和解し、そばを離れぬことを誓った。
故に死ぬわけにはいかないと思ってはいたのだが……どこか己の運のよさと普通に考えて尋常でない体力に呆れないわけではなかった。
次第に焦点を結んでいく視界は彼女の傍らに立つ二つの人影を捉え、木の鈴を鳴らしたような柔らかい声が耳朶を打つ。
「ほら、血濡れた姫君の御目覚めですわ」
どこか嘲りの様なものを含んだその声の主と、その傍らに立つもう一人の人物の姿を見て彼女は期待していた人物でないということにわずかに失望する。
同時にそれが面識はないものも知っている人間であり、あまりに珍妙な組み合わせに思わずため息を吐いてしまった。
「目が覚めたとたんにため息をつくなんて、いったいどうしたんですの? 」
彼女の傍に立つ女、蛛露がそんな様子に首をかしげる。
「いや……珍妙な…………組……合わ……せだと思って」
話すたびに胸が痛み、唇が痺れ上手く話せない。
「あら、それを言うなら貴女達こそ実に変わった組み合わせじゃないかしら? 」
「舜……いや……葵沃は? 」
彼女にとって目の前にいる人間よりもまず知るべきことがあった。
己を抱きかかえて森から出て行った後、もともと満身創痍の上に人一人を抱えあげるという無茶をしたためか舜水は突然意識を失った。
彼女はほとんど消えかけつつある意識で彼を引きずって何とか街に行こうとしていた時、何者かが助けてくれたことだけは覚えている。そのあとは意識はあるのだが認識能力が著しく落ちており、どこまで意識がありどこで意識を失ったのか彼女には分からない。
彼女を助けてくれたのは多分目の前の二人とあと一人か二人だろうが……舜水はどうなったのだろうか。
その言葉に蛛露は微笑む。
「本当に二人とも互いのことが一番なのですわね。全く羨ましいものですわ」
「奴は無事だ。今、少し医者と話をしているがじきに戻るだろう」
蛛露の言葉をに割り込むように彼女の後ろに立っていた戒瑜はそう言って無理やり身を起こそうとしていた黎を寝かしつける。
「起き上がれば痛みでのたうちまわることになる。とにかく葵沃は命にかかわるほどじゃないし動くこともできる。だから落ち着け」
黎は包帯だらけの戒瑜の姿を見て何かを悟ったように頷いて厚手の布をかけた榻に背を預け、首だけを二人に向ける。
「……戒瑜殿…………が彼……に協力……して……くれたのか……ありが……そして……すまん」
舜水から彼女を追う時に協力し、舜水が森の奥まで来るために倒しきれなかった夜哭党の人間を引き受けた人間、それが彼であることを彼女は悟った。
「いや、もう済んだことだ。この通り五体満足だし……何故名前を? 」
戒瑜はそう言って気にしていないと、本当に申し訳なさそうな顔をして、今にも土下座でもしかねない表情の黎をなだめようとする。
しかし、名乗った覚えの無い名前を知っていたことに不意に眉をひそめた。
「それは……私が…………」
「夜哭党の暗殺者、黒鵺だから、ですわよね」
どこか忌々しそうに痛みのせいだけではなく言葉を濁す彼女に、蛛露はすっぱりと言い放つ。夜哭党は彼女らの目的の上で立ちふさがる最も大きな障害、その中で急激に力をつけた彼女の存在を調べていないはずがなかった。
「そう……蔡琅……いや…………蛛露殿なら知っている……か」
黎は彼女の返答にぴくりと眉を動かしたのちに納得したように呟く。
「ええ、貴女もよく知っているわね。私の本名も含めて」
「……一応は…………に……身を置いていたから……それにしても……奇妙……だ」
黎の情報は祷州に向かう前、つまり舜水が戒瑜たち盗賊を潰す前のものである。
故に州候夫人とその州に居ついた盗賊頭領という組み合わせがとても奇異に映った。
「まあ同意するわ。とにかく今はあまり話さずゆっくり養生した方がよくてよ」
喋るのがつらくなったのか浅く息を吐く彼女の唇に人差し指を当て蛛露は呟く。
「……戻ってきたみたいね。どうやら一人みたいだけど」
蛛露は呟いて振り向く。
戒瑜は何がと問いかけるがそれより前に近づいてくる足音を捉えた。
「おかえりなさい。一人? 」
「もうすぐ戻ってくるはずだ。目が覚めたのか? 」
部屋の入口より現われたのは嬰一人。
嬰は二人の向こうで首だけ動かして彼を見る黎の姿を見とめ、二人を押しのけて彼女の傍に立つ。
「大分意識ははっきりしているようだな。調子はどうだ? 」
「あ……なたが……医者、か? 」
黎は僅かに唇を震わせて嬰に問う。
嬰は彼女の具合を診察しつつ小さく頷く。
「まだ喋るのには無理があるみたいだな。当然といえば当然だが」
「礼を…………」
「何か言うのなら回復してからでいい。今何か言葉をかけるべき人間がいるのならそれはただ一人だろう」
無理にしゃべって悪化したら笑えない、と半ば叱りつけるように彼女に告げる。
そのまるで射抜くような冷徹な視線に彼女は苦笑するかのように口の端を歪めたのち口を噤む。舜水のことを思ったのかその顔色は僅かに良くなったように見えた。
「先に状況を教えておこう。君が眠っていたのは八時間ほど。今は朝だ」
彼女はその言葉にまだ夜哭を殺したあの時から半日も経ってないことを悟り嘆息する。
あの瞬間がもう何日も前の気がする。
「まあ治療は蛛露もいたおかげで六時間ほどで済んだ」
運が良かったよ、という彼に黎はぼんやりと思う。
運が良いんだか悪いんだか。さっぱりだと。
できることは生きている現実を受け止め、目の前の人間の言葉を信じるのみ。
しかし同時に身体を激しい疲労感と刺すような痛みが蝕む。
「……何日も眠っているのが当然だ。奴を心配してか、奇跡的に目を覚ましたのだろうが……治療で体力を消耗したのだから無理はない」
彼女の僅かな変化を目ざとく見つけ嬰は淡々と呟き、眠れ、と促す。
その言葉に彼女は小さく首を振る。
「奴の顔を一目見るまで眠る気はない、か」
それもいいだろうと彼は呟いた。
「そういや彼、遅いわね。嬰、いったい何を言ったんですの? 」
蛛露はとりあえず黎から視線をずらし、嬰に問いかける。
「教えられん……まあ、彼にも思うところがあるのだろう」
「貴方が伝えそうなことは予想できるけど……早く来たらいいですのに。一番喜ぶのは彼のはずですわ」
彼女は嬰の事情を知っているようであった。しかし問うべきではないと考えたのか、それ以上は話さず、部屋の入口を再び見詰めつつ呟いた。
「噂をすれば、ですわ」
廊下で部屋の中の会話を聞いていたのか、蛛露がとらえた足音はしばししてその速さと大きさを増して接近する。
「黎! 」
勢いよく三人の視界に現れた舜水はその向こうで彼を見つめる黎の顔を見とめ彼のどこか決心した顔つきは一気に緩む。
「そんなに急なくでも大丈夫……」
慌てて駆け寄ろうとした舜水。
苦笑しながら落ち着かせようとする戒瑜。
それをわきによけつつ見守る蛛露と嬰。
そして彼の姿を見て瞠目し、その表情を安堵に緩め笑みを浮かべた黎。
次の瞬間、全員の眼が大きく見開かれる。
床にあったほんのわずかな縁。
そこに不幸にも舜水のつま先はひっかかる。
「あ」
舜水は一体何が起こったのか理解できず、反応が遅れてしまった。
あとの結果は言わずともわかろう。
非常に痛そうな音がした。
「痛っ……」
手についた埃を払いつつ舜水は顔をしかめつつすぐに立ち上がる。顔を上げた先の四人の反応は様々だった。
ただ、その反応は舜水をへこませるには充分であった。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
「しばらく二人でお話ししなさいな」
舜水の心情をいち早く悟ったのか、はたまた傍から見れば十分に恋人同士ともいえる二人に気を使ったのか戒瑜と蛛露は口々に言って部屋から出ていく。ほんの数十分の彼女らの関係を考えれば考えられないほどにその息はぴったりだった。
「……………………」
医者としての責任感がそうしたのか二人の息の合いように呆れたためか。それとも単に出遅れたか、嬰は沈黙したまま部屋の入口と残った二人を交互に見る。
二人もどう反応していいのかわからず、互いに顔を見合わせる。
そんな二人を見て嬰は頬を緩め、卓子の上に置いておいたまだ血の付着した布やら針やらを入れた桶を抱えあげつつ二人に告げる。
「俺もちょっとこれを片付けて来よう……容体も安定しているようだから、舜水、しばらく彼女を見てやっておいてくれ」
その目に宿るは彼と大して面識のない二人でも驚くほどの優しさとどこかどうしようもない喪失を感じさせる懐古。
「今度こそは決して離れることのないように、な」
ただ最後にかけ言葉は二人の心に痛いほど突き刺さった。
「大丈……夫? 」
二人だけが残された部屋で始めに口を開いたのは黎だった。
その言葉は怪我を慮ってのものか、気まずさをほぐすためか。
「大丈夫だ。とっさに受け身を取ったからな」
舜水は彼女にそう言って安心させるかの様に笑みを浮かべる。
無論全身の体重を手で支えたため、腕の傷やら何やら響いてかなり痛いのだが。
「しかし、何かみっともないところを見せたな」
照れを隠すかのように彼は笑いっぱなしだ。本当に治療が終わり意識を取り戻した黎に見せた最初の姿が慌ててすっ転ぶ姿とは悲しくなる。
黎はただその様子に首を左右に振る。
「昔……の仲……じゃな……い。何を……」
今更と言おうとしたが言葉が続かなかった。どうやら医者の腕が良かったらしく綺麗に縫合されているようだがかなり内臓を損傷していただろうということは容易に彼女に理解できた。あまり喋ると傷口が開きかねない。
代わりにあまり負傷していなかった左腕をの掌に載せゆっくりと文字を書く。
『しゅんがぶじならじゅうぶん』
「……俺も黎が無事なら十分だ」
『ほんとうにいままでごめん……こんなにけがをさせてしまって』
彼女は心底申し訳なさそうに彼に謝る。
刃をむけたこと、罠にかけたこと、心配をかけたこと。
全てが申し訳なかった。舜水に心配させまい負担をかけまいとした結果がこの体たらく。
「いいんだ。怒っちゃいない」
彼の言葉に黎はその大きな瞳を細める。
「謝ってすべて済むと思われたくはないし、な」
言葉は厳しくとも、舜水の顔は笑っていた。
舜水は床に座り込み、彼女の掌を自分の掌に重ねたまま呟く。
「本当に……ここまでたどり着くまで長かったな」
本当にここまで沢山の修羅場をくぐりぬけ続け、血に塗れ、あるいは他人を血に濡らす人生を歩む人間なんてそうはいないだろう。
「本当に多く傷つき、多くを殺した」
その言葉に彼女は頷き目を伏せる。彼女の心の中に彼女が殺めた人間の顔が次々によぎる。剣客を目指して、彼を追うように孤児院を出た時も。そして孤児院で夜哭党と戦い敗北し、夜哭の下についた後も。守り切れなかったもの、己の意思で殺した者、夜哭との約定でやむなく殺した者。その数はあまりに多すぎる。
もう会わぬと誓い、それでもあきらめきれなかった舜水すらも殺しかけた。その罪は一生償いきれないだろう。
「お前だけでない。俺も本当にたくさんの人間を殺した。覇道は無血で築けるもんじゃないさ」
言って彼もため息を吐く。彼が国一の剣客といわれるようになるためにはその剣技のみだけでは不可能だった。剣はどんな大義があるにしろ人を斬らねばただの棒切れだ。
罪悪感、それを感じないことは一度もなかった。だが進むためにはそれしかなかった。
そして彼はこれからも進まなければならないだろう。蛛露との約束もある。
「前に進み続ける……それは俺も正直怖い」
瞬間、彼の掌に置いた彼女の手が彼の手をゆっくり握り締める。
その気持ちに賛同する様に、彼の不安を受け止めるように。
「だけど、さ……止まったら全部だめになると思う」
「全てを投げ打って黎と二人で柏州に戻って畑でも耕せて暮らせたら……正直そうしたい気持ちもなくはない。お前と別れる少し前にした決意覚えているか? 」
黎は小さく頷く。
あの七年前の日に彼が告げた決意。
――この手で世の中を変える。
この国を興した王がそうであったように剣客として。
それに対し彼女は答えた。
――舜が国中を敵に回しても私は舜の味方になる。
彼女にとってその一月後に別れ際に彼に渡した一輪の花に込めた想いとともに、敵として対峙した時さえも消すことのできなかった決意。
「その決意を捨てたら今までの苦難も犠牲も無駄になる」
それはすでに黎への問いではない、彼自身を意地でも奮い立たせるための言葉。
今までの犠牲に報いるために投げ出すわけにはいかない。
「そう……だね」
黎は何とか声を絞り出す。
「だが、お前はどうしたい? 」
もう、彼は彼女と別れ別れになることを望んでいなかった。
だが決意を優先すれば彼女を危険にさらす。
全力で守る所存だが……守りきれる自信はない。
「舜……一緒に戦おう…………」
「黎」
「私……だって……決意したの……覚え……う? 」
彼女はそう言って笑みを浮かべる。彼を傍で支えたいから彼女も剣の道に踏み込んだ。
あの決意とあいまって彼女の中でそれは譲れなかった。
「ああ、覚えている」
「わ……」
彼女はそこまで呟いて顔をしかめ、彼の掌に続きを書く。
『わたしはあなたにどこまでもついていく』
「そう言うと思った……」
彼女の性格からいって彼が挫折することは許してくれないだろう。いや、挫折しないと信じてくれているのだろう。
『わたしもつよくなったんだ』
「それは散々思い知らされたよ」
舜水は苦笑する。
あの時から素質はあるとは思っていたがここまで強くなるとは思わなかった。
そこまで強くならざるを得なかった環境を考えるといたたまれない気持ちになるが……だからこそこうして二人再び話せるのかもしれない。
『どちらにしろわたしもへいおんではいられない』
一応夜哭を殺してしまった彼女はこの国一の暗殺者ともいえる。
実際におそらく夜哭党の残党からそのことは王に伝わるだろう。
全てのしがらみを断ったにしろ、彼女はこの国の動乱にいやでも巻き込まれるのは必至。
『あしでまといにならない。だからつれていって』
そう彼に伝える彼女の眼には強い決意と闘志の光。
「わかった。絶対についてこい」
「挫折は許さん、もう二度と消えるな」
『そっちこそ』
すかさず返された返事に舜水は思わず吹き出し、それにつられて黎も今できる精一杯の笑みを浮かべ笑った。
愛している。
その言葉はもう伝える必要はない。
言わずともその気持ちは互いの心に深く染みついている。
ただ二人はこの瞬間心底願った。
――嵐が来る前、動くことができないけれどささやかな安息。
――それが少しでも続きますように、と。
長い文章をお読みいただきありがとうございました。さて、今回は黎と舜がメイン。結局全てが終わったものの多分すぐに二人は動乱の中に引き戻されるでしょう。しかし、今度は二人で。と言うか今回かなり早く書き上がりました。調子がよいときは良いんですけど……御意見御感想お待ちしています。