三十、洟傑策動
皓州州都にして王都遼明が一角、家の廊下にて十傑に名を連ねる二人が対峙する。
「あの蛛露が州候夫人とな。初耳だ」
「そりゃそうですわ。二年前に嫁いだばかりですもの。まあ要は政略結婚というものです」
拘束された状態にもかかわらず不敵な笑みを浮かべる舜水に蔡琅、いや十傑が一人蛛露は優雅に微笑む。
「なるほど」
舜水は警戒の視線を向けつつとりあえず目の前にある事実を受け入れる。
「今回は……わが主の命により貴方に会いに来たんですの」
彼女の指先から伸びる糸は舜水の全身を拘束し、戒瑜の首に巻きついている。
「それにしては物騒すぎじゃないか? 」
舜水の体に巻きつく糸はいつの間にすり替えたのか木綿のやや太い糸となっており、彼は何とか拘束から逃れようと動くがまるで鎖で縛ったかの様に一向に緩まずほとんど動くことができない。
戒瑜の方はと言うと彼の首に巻きつくのは先ほどの金属糸で、他の部分が自由とはいえ、首を落とされかねない状況に動けない。
どう考えても会いにきただけというには物騒すぎる。
「ああ、動かない方が得策ですわ。私の糸は拘束術としての用途が主ですから無駄です……それにあまり動くのならうっかり手が滑ってそこの匪賊の首を落としてしまうかもしれないですことよ」
戒瑜につながる糸を彼女は指をほんの少し引く。
すると戒瑜の首の皮一枚が裂け一筋の血が流れ、彼の表情が恐怖に強張った。
「何なら落として差し上げましょうか? 本来我が主より討つように貴方が命じられた相手ですものね」
彼女にとって戒瑜の命などどうでもよいし、どちらかといえば主に歯向かう不届き者として殺した方がよい思っている。
「やめろ! 」
ほとんど反射的に舜水は怒鳴る。
蛛露の様子は冗談を言うようにごくごく軽いが、その指先の動きがそれを実行するのも躊躇しないことを彼にまざまざと見せつけていたのだ。
「おや、庇うんですの? 」
「詳しくはまだ聞いていないがあんたが色々助けてくれたのは感謝する……」
舜水は絞り出すように言葉を紡ぎながら彼女を見据える。
通り名に違うことなく指から伸びた糸を自由自在に廊下に張り巡らす様はまさに蜘蛛。
丸腰の己には非常に分が悪い。しかし……
「こいつは危険を承知で黎を助けるのに手を貸してくれた大切な友人だ! 助けるのは当然だ」
「……侮辱することは許さん」
「葵沃……」
あまりに予想外な言葉に戒瑜は驚いたように呟く。
舜水はただ小さく頷き己の言葉に嘘がないことを伝える。
もちろん彼にとって戒瑜率いる盗賊との戦いを忘れたわけでない。
しかし、それと同時にあの森にともに向うと申し出た時点で戒瑜は彼にとって頼もしい仲間であり友人であるのだ。
「お前がそう思っていないのならすまん」
「いや……」
ありがとう、と戒瑜は呟こうとしたがその前に蛛露が口を開いた。
「ふうん。面白いこと言うんですのね」
心底感心しているようでどこか嘲ったように彼女は呟く。
「馬鹿にするなら馬鹿にしろ……阿婆擦れ」
「あら、仮にも州候夫人に対しずいぶんな口を聞きますのね」
阿婆擦れという言葉が気に障ったのか口の端を痙攣させながら、蛛露ぎりぎりと舜水を絡める糸を引き絞る。
二人はしばし睨みあう。
戒瑜は声を殺して囁き舜水を何とか宥め様とするが彼は聞く耳を持たない。
「今、どちらがこの場を握っているのかお忘れでなくて? 」
「……ああ、分かっているさ、格下。今この場を握るのは……俺だ」
すさまじい殺気を放つ彼女に臆することなく舜水は宣言する。
その瞬間、蛛露の何かがぶちりと音を立てて切れた。
「言わせておけばぬけぬけと! 」
「……感情に任せていいのか? 」
一瞬喉が圧迫されるが、それに耐え舜水は問う。
その言葉にハッとしたように蛛露は糸を緩める。
「取引にはできる限り応じよう」
「うっかりするところでしたわ。そう、実は主より貴方に提案があるんですの」
続いてかけられた言葉に彼女は本来の目的を思い出したのか、一瞬にして殺気をかき消し、元通り優雅な笑みを浮かべる。
その様子にどこか呆れたように舜水は安堵のため息を吐いた。
「全く回りくどいことを……俺の口から取引に応じるって言質を取りたかったんだろう? 」
「え、ええ。そうですわ」
いつの間にやら場の主導権は舜水に移っている。
本来なら戒瑜の首を落とすと脅した時点で舜水が彼女の待つ言葉を吐くと考えていたが、彼が怒鳴ったことで彼女の計算は狂った。
彼が計算したのかはわからない。だが結果として彼は取引に対して絶対的に応じなければならないという状況を脱した。
「一応言っておくが、考えておくという段階の話だ」
「いちいち腹の立つ男ですわね」
彼女はそう言って、その優美な容姿に似合わずちっと舌打ちした。
「提案というのは……貴方に鵬とのつなぎを取ってほしいんですの。そして、貴方に州城に出向いていただきたい」
彼女は返事を聞く前に逃げられることを恐れ、拘束を解かぬまま提案とやらを話し始める。
「は? それはどういう意味だ? 」
舜水は拘束が解けないことについてはあきらめているようで、彼女の話に耳を傾けながら眉を顰める。
「そのままの意味、鵬に協力したいと申しておりますの」
「お前は州候の命で動いているんだろう? 」
その提案の真意が理解できない。
無理はない、洟州は特に前州候が謀反を起こし一族郎党に至るまで惨たらしく処断され、さほど時間の経ってない場所。
当然州候にもそれなりの人間を付けているはずである。
確かに彼の本名を知っている時点で鵬との関係も知っていてもおかしくはない。
しかし……
その提案には明らかな王への叛意が感じ取られた。
もしくは彼に仲間を売れということであろうか。
それとも、実は彼女の身分が全て嘘でただ州候の名を借りているだけか。
「ええ、全ては禮爾様の御意向ですわ」
彼の疑念を悟ったのか、彼女はそう言って改めて州候の名を告げる。
どうにも彼女が州候からの使いであることは紛れもない真実であるが……それならそれで……
「……まさか」
「州候殿は正気か? 」
先ほどまで黙っていた戒瑜も舜水と同じことを思い浮かべたのだろう。
彼も舜水から鵬については聞いていて事情は分かる。
だが蛛露の言葉に込められたある可能性はあまりに信じられなかった。
『洟州は王へ反逆するつもりか?! 』
「……声が大きいですわ。医者も手の者ですが誰が聞いているかわかったもんじゃありません」
そう言って彼女は黙れとばかりに糸を引きほんの少し舜水の首を絞める。
しかしそれは彼らの言葉を肯定することと同義であった。
「ええ、どれほどの範囲かは教えられませんが、我らがただ暗君に恭順するだけの腑抜けと思わないでほしいですわ」
驚愕する二人をよそに彼女は、逆転の発想ですわと淡々と告げる。
叛意を抱くはずないと思われる故に、動きやすい。
そう言うことだろう。
「愁鳳殿の協力を取り付けております」
「師匠も……」
剣の師の名を出され、彼は小さく唸る。
それが信頼できるものか、彼は悩む。
確かに洟州と繋ぎが取れれば彼らにも十分な利益が望める。
しかし、それはあくまで彼女の言葉が真実ならだ。
そう、義慶達のため、彼らの目的のため安易な返事は出せないのだ。
返答に窮する彼に蛛露は小さく鼻を鳴らし、何とか説得できないかとある事実を告げる。
「それに禮爾様は李将軍の旧友ですのよ」
「父上の? 」
いたずらっぽく笑う彼女の言葉に予想道理に思わず彼は食いつく。前王の世に禁軍将軍であった彼の父、李欧祐は一族郎党もろとも処刑された。妾腹故、末子故に彼にとって父の存在は非常に遠いものであったのだが、いつもどこか父のことを意識してしまっていた。
「父上と親交のある人間が何故、洟州なんかの州候に……」
彼の父と親交のあった人間は処刑こそされなかったもののほとんどが左遷され、もしくは官位を剥奪された。謀反が起こった後の州の最高責任者などに任じられるはずがない。
よほど狡猾な人間か、それとも……
「その点については私も存じ上げてはいませんわ。しかし、李将軍との思い出話は何度か聞いたことがあるので嘘ではないですわ」
相変わらず口から上の部分が髪に隠れた彼女であるがその声はどこかやさしいものにある。
「ただ一度、貴方に会ってみたいとも申しておりました」
父親の名まで出され、どう動くべきか舜水は非常に悩む。
「……今、返事しなければならないだろうか? 」
「ええ、できれば。貴方を助けた対価として即急な返答を要求させていただきます」
返答をするのみ、そこまで譲歩いたしますわ、と彼女は続ける。
舜水は彼女を、彼女の後ろにつく洟州候を信用しきれない。
彼は祷州で黎が目覚めた後に義慶に告げられた。
――鵬は今からしばし地下に潜ると。
全員身支度が整い次第すでに場所が割れた紅華楼を彼らは捨て、各地に散る。
紅蘭達は残るから黎が回復するまで彼はいてよいと。
結局黎の逃亡のためにその予定は早まってしまったのだが。
つなぎを取るのは簡単だが……
洟州候の叛意が偽りならそれはあまりに愚かな行動である。
だが、下手な返事をすると、己と戒瑜の身体に巻きつく糸が引かれかねない。
それに黎が心配だ。
しばし彼は悩むがやがて一つの答えを出す。
「洟州へ出向くことを確約する、それでどうだろうか? 」
「ふむ……我が主の人となりを見てそのあとの提案について考えるということですの? 」
そして二人は口を噤み互いを見据える。
舜水はそれ以上譲らぬ、という決意に満ちた表情で。
蛛露は表情こそ分からないが彼の真意、その言葉を信用してよいか図ろうと。
二人の間に相手の懐を探り合うような緊迫した空気が流れる。
戒瑜は下手に動けぬ状態であり、状況として口出しできないのでそんな二人のやり取りを見守るばかり。
「わかりましたわ。貴方を信用しましょう」
「ありがたい」
ため息をつきつつ蛛露は彼の言葉を容認する。
瞬間指を動かして糸を回収し、彼と戒瑜の拘束が解かれた。
「ただし」
糸を巻き取りながら彼女は付け加える。
「約束を違えしときは地の果てまで追い、落とし前をつけさせるので覚悟はよろしくて? 」
糸玉を腰の巾着にしまいつつ蛛露は踵を返す。
「付いてきて。あの娘に会わせてあげますわ」
そう言って歩き出す彼女に、どうすべきか拘束から解放された二人は顔を見合わせる。
「来ないんですの? 」
「いや……」
「そこの男も手当てが必要ですわ。来なさい」
振り向いた彼女はそう言って手招きする。先ほどの屑だのなんだのと言って人として扱っていなかった様子から打って変わって彼女が纏う雰囲気は穏やかだ。
「先ほどの非礼、申し訳なく思いますわ。特に戒瑜殿」
仕方なくついていく二人にぽつりと彼女は背を向けたまま呟く。先ほどの二人を拘束していた時と比べてその様子は非常にしおらしく同一人物とは思えない。
その歩く様子は気のせいだろうか、少しふらついているように見える。
「主に預かりし仕事を果たさんとするばかりにあのような真似をしてしまうとは……」
「蛛露様……」
「蛛露でいいですわ。主ももうあの峡谷から去った以上は貴方をどうこうする気はないですし。舜水殿との交渉が終わればただの十傑の一人でしかないので」
「ま、それはこっちもそうだ。俺も貴女のことをさんざん言ったしな」
「そう言うことにしていただけると後腐れが無くてよいですわね」
静かに言って彼女は壁に手を付きつつ丁度角を曲がったところの部屋に入った。
部屋に入った時に三人の鼻をついたのは鉄に似た匂いと消毒のためか、強い酒の匂い。
そして部屋の中心の卓子には血に染まった小刀やら針が、液体を満たした桶につけられていた。
「お、ちょうど良い所に」
部屋を入ったところで桶から器具を引き上げてはてきぱきと片付けていた男が声をかける。
左頬に大きな傷がある彼は、黒烏とは別の氷の様な冷たさをその顔に張り付かせ血にまみれた手を桶に入った湯で洗い、水分を手近な布でふきつつ部屋を片付ける。
「黎は!? 」
「すべての処置は終わった。ここに連れてきたのが蛛露様でよかったな。俺は縫合がどうにも苦手で……」
あんなにメッタ刺し状態はさすがにあなたがいないと直せる確証がなかった、と告げる。
「……彼女の体力にも感謝せねばならんな。ここに運ばれてきたときもかろうじて意識を保っていた。人外と言ってもよい段階だ」
男はそう言って顎で黎を指す榻の上で包帯を巻きつけられて眠る彼女は、その痛々しさに反して容体は落ち着いているようだ。
「助けてくださりありがとうございます」
「金さえもらえれば助けるのは当然だ」
彼女の顔を見て先ほどまで消えることのなかった緊張が取れ、安堵の息をついて礼を言う舜水に男はただ当然のことをとばかり笑う。その笑みは本人は笑っているつもりなのだろうが引き攣っている。
「ただ、安くはないぞ」
その様子から舜水は彼が普通の医者ではなく、訳あり専門、いわゆる闇医者の様なものであることを悟る。蛛露とは友人のようであるが……王都の闇医者と知り合いとは彼女の人脈もなかなか広そうだと彼は思う。
しかし……困ったことに今、彼は金を持っていない。
宿に戻れば荷物はすべて置いてあるのであるにはあるのだが、果たしてそれを許してくれるか。
「……立て替えておきましょう。で、状況は先ほどと変わりませんの? 」
そう言って彼女は懐から巾着を取り出し、金子を数枚渡し、足りるかしらと問う。
男はそれから必要な分をとり、余分な分は彼女の手に戻す。
彼女は受け取っておいていいのにというが、受け取れんと男はぶっきらぼうに返した。
「で、状況は? 」
「好転しているな。確かにしばし安心はできんが……あと数刻で目を覚ますだろう」
その言葉には何の感慨も含まれず、さぞ当然といった様子で男は黎を見やる。
「よかった……」
舜水はその言葉に安堵しかがみこんで彼女の顔に手を近づける。
紙の様に白い顔、全身に巻かれたそれよりさらに白い包帯。
呼吸は弱くとも彼女は生きていた。
そして、医者は目を覚ますのもそう遠くないと告げる。
喜ばないわけがなかった。
彼は僅かに涙すら浮かべて彼女の無事を喜んだ。
残る三人はそんな彼の様子をただ黙して見守っていた。
しばしして、医者が不意に何かを思いついたように顔を上げ、舜水に声をかける。
「そうだ、俺がこんなことを言うのも変だが……お前さん、えっと……」
「葵沃だ」
舜水の方を見て一瞬名を言いよどむ彼に、ただ彼は本来の舜水と名乗るわけにいかず日ごろ使う葵沃の方の名を名乗った。
「ああ、そうだったか。あの御高名な……まあいい。ちょっとこい」
手をさしのばし黎の脈が安定していることを確認して男は舜水を手招きする。
「え? 」
「話がある。彼女の容体も安定していることだし、しばし蛛露と戒瑜殿に見ていてもらう」
無愛想にそう言って部屋から出ていく医者についていくべきか考えるが、まだ蛛露については完全に信用し切れておらず彼女を任せておけるのか、不安である。
戒瑜は信頼できるがいざという時は蛛露に楽にねじ伏せられる。
「行ってこい。多分対して時間はかからんだろう」
「ご安心を。私も意識のないお嬢さんに危害を与える気はありませんわ」
戒瑜は包帯でおおわれていない右目で彼をまっすぐ見据え。
蛛露は唯一見える唇で笑みを浮かべながら。
舜水の懸念を悟ったのか二人はそう言って彼を送り出そうとする。
「……わかった」
男の話も医者からの直接的な話ということで気にはなる。
とりあえず彼はこの場は二人に任せることとし、男を追いかけ部屋を出る。
男は部屋を出て先ほどまで舜水が寝かされていた部屋の方向の廊下で待っていた。
「おい、あんた……えっと」
「嬰、と言う」
彼はそう言って、蛛露の地獄耳に入るのは嫌だからと言って、廊下の先を行く。
「お前はあの女の何なんだ? 」
二人で肩を並べて歩いていると、男、嬰は淡々と問う。
「え? 」
その言葉に舜水は明らかに動揺し返答に窮す。
「家族か、それにしては似てない……友人と言うならそこまで返答には窮さないし、配偶者も同様か」
嬰は淡々と何も答えない彼をよそに分析する。舜水の知る鵬に与する医者、昭庸に比べ随分と冷徹な印象を抱くのは決して気のせいではないのだろう。ただ医術以外に興味を抱かないという性格なのかもしれない。
「さしずめ、恋人と言うが近いか。ただ後ろめたいものを感じているようだが」
「……間違ってはいない」
「まあ、気にするな。ただ確認がとりたかっただけだ」
そんなやり取りをしつつ、二人は突き当りの部屋、舜水が先ほどまで寝かされていた部屋に来る。
「俺の部屋だ。お前さんを運んできたときに片づけたつもりだが、少々散らかっているのは勘弁してくれ」
そう言って彼は部屋の一角の箱から布の塊を出す。
投げ渡されたそれを広げると、煤けた色の袍であることが分かった。
「着ろ。裸に襖だけでは寒かろう」
「すまん」
そういえば上半身は包帯を巻きつけたうえに先ほど身体に掛けられていた襖を適当に羽織っていた自分に気が付き、一気に寒くなる。
一応は雪の降り始めるような季節なのだ。
「戒瑜に多少は事情を聞いたが、あの女、ずいぶんと無茶な人生を送っているようだな……」
着替える彼をよそに卓子の上の書物に目を通しつつ嬰は呟く。
「どこまで聞いたんだ? 」
「戒瑜にお前が話したところまでだ。まあ、あの身体に刻まれた傷を見ればいやでも分かる。名は黎という程度しかわからん」
「そうか」
「で、お前さんに言いたいことは、その彼女のことだ」
彼は舜水に背を向けたままで改まった様子で口を開く。
舜水は彼の言葉に息をのむ。
先ほどまで気にならなかった部屋の黴の臭いが、まるで動揺から意識を逸らさんとするように急に気になりだした。
「彼女を本当に大切に思うのなら、しっかり捕まえておけ。無理をさせるな」
医者としての見地から忠告させてもらうと彼は告げる。
その背中は舜水に対して否定の言葉を紡ぐことを許していないことを明確に表す強い威圧感を放っていた。
「確かに彼女の体力は人並み外れている。だから今回もこのまま安静にしておけば助かる確率は五分五分から一気に跳ね上がるだろうな」
だがな、と振り向いてさらに続ける。
その表情にはわずかな呆れが混ざっていた。
「それが何度も続くことはない、ということだ。彼女は己の身を顧みぬところがあるようだしな」
それは彼の憶測にすぎなかったが、舜水の心に大きく突き刺さった。
その言葉に舜水は俯く。
全くもって言うとおり、何故、初対面の癖にそこまで見通すと心の中で呟き唇を噛み締める。確かに彼女は生き延びた。そしてほとんどの人間に対しては彼の助けが要らぬほど強い。
だが……それでいいのか?
「お前さんの手の中にある玉が思うほか脆いものだ。それを忘れるな」
嬰は顔を上げぬままの舜水に告げて、部屋を去っていった。
「あの二人何を話しているんでしょうね」
「さあ、予測できるようなできないような」
黎の眠るそばで蛛露と戒瑜は壁に寄り掛かって会話する。戒瑜はきっちりと言われたとおりに黎の様子を気にかけているが蛛露は特に気にかけていない。
もともと盗賊という職業柄か丁寧な言葉を話すのが苦手らしく戒瑜の口調はいつもの調子に戻っている。
「そう言えば……何であんたはあんな技術があるのに十傑の中でそれほど名が出てこないんだ? 」
どうせ聞こえぬ会話、予測してもしょうがないと戒瑜は不意に疑問に思ったことを口に出す。蛛露の糸は室内ではおそらく舜水が剣を持った状態でも圧倒できるだろう。
しかし、十傑の中ではあまり名が出ていない。
現に、戒瑜は知る由もないが、とある村で十傑について語った嘉煕も蛛露については葵沃に対して時と場合によっては勝てる余地があるかもしれないが、とだけ言っている。
「きついこと言いますのね……はっきりは言うわけにはいかないわ。自分の弱点をばらすようなものですもの」
喉を鳴らして笑いつつ彼女は意味深な言葉を呟いた。
「まあ、蜘蛛は巣の外では弱き虫けらにすぎないってことですわ」
戒瑜はその意味が示すところを考えたが、糸という扱いにくい武器のためであろうということくらいしか思い浮かばなかった。
そんな彼を見詰めつつそれにしても、と彼女は呟く。
「まさか、葵沃とともにいたのが彼女だったとはねぇ。貴方の話と総合すれば実に面白い状況ですわ」
己のことを言及されることを避けるためか壁から背を放し、黎の側まで寄る。
血の気の無い顔は目覚めの徴候が見えるもののまだ目を覚まさない。
「彼女を知っているのか? 」
戒瑜はと言うと舜水が彼女のことを大切な人間だといったことから、彼の恋人であるくらいは予想できてもそれ以上は分からない。
「ええ、とんだ大物よ」
くすくすと笑いながら彼女は黎の頬を撫でる。
失血で体温を失っているのだろう、蛛露の指先に触れる彼女の肌はひんやりと冷たい。
しかし、生きてる証をしめすかのように蛛露の指が離れた瞬間に目の端がぴくりと動いた。
「そうなのか? 」
「そもそも実力がないと、貴方が伝えてくれたような馬鹿な行動にでないわ。そして……夜哭党の暗殺者を罠にはめ、貴方達に引き合わせるのも難しいですわ」
戒瑜の問いに、ちっちと人差し指を振りつつ彼女は続ける。
「本当は、手配書を見て気がついたんだけど……彼女は……」
蛛露が黎のことについて語り始めた、その時。
「う……ん……」
小さく唸り声を上げ、黎は閉ざされていた瞳をゆっくりと開いた。
「ほら、血濡れた姫君の御目覚めですわ」
どこか嘲りを含んだ声で蛛露は静かに呟いた。
長い話を読んでいただきありがとうございました。記念すべきかわかりませんがとにかく三十話。黎の出番がほとんど無いのは話の進行上の仕様です。
今回は蛛露と舜水中心。果たして彼女の意図はどこにあるのか。彼女の言葉が真実なら結構とんでもないことに……医者の嬰は昭庸とのキャラがかぶりかねんのでだいぶん無愛想な人間に。次の更新はできるだけ早めにします。御意見ご感想お待ちしています。