二十九、剣書と黎明
『――こうして彼女、黎は復讐を果たした。そして彼、舜水はついに失ったものを取り戻した』
『二人の離別の物語はこれにて終焉した』
何処までも一様で、方向という概念が存在していない、そんな奇妙な空間。
そこに胡坐をかいて座する、まるで闇に溶け込むかのような黒く長い蓬髪を持つ語と名乗った者が語るたびに、絵巻物のように映像が浮かんでは消え、語り終えるとともに切り替わっていた幻影がふっと消え去った。
『語り部たる我にとってはただ一つの物語が終焉したのみ、何の感慨もない』
そう言った瞬間語の膝の上に広げられた巻物がまるで砂の様に崩れ去り消失する。
黎と舜水の離別が生む物語がひとまずの終焉を迎えたため、それが記された巻物は役割を終えてしまったからだろう。
『だが、これを聞いた汝は何らかの思いを抱くはずだ。それが肯定的であれ否定的であれ』
それを長い髪の間から片方だけかろうじて覗いている漆黒の目で見送りながらほんのわずかに口の端を歪める。
『まあどちらにせよここは物語に干渉できぬ場所。君がどう思おうとこの物語に何ら影響はないがね』
皮肉、と言うより相手の神経を逆撫でする様な物言い。しかし、その者には悪意も何もない。その者に生物がもつような感情を期待してはいけない。ただ語るだけ、それ以上でもそれ以下でも無いのだ。
語はその何の感情も浮かばぬ、目として機能しているのかさえ怪しい漆黒の目でまっすぐと見据え再び語りだす。
かつての少女、兇手黒鵺こと秦黎。
かつての少年、剣客葵沃こと李舜水。
恋愛というものに対しひどく不器用な二人、特に秦黎が引き起こした事象は二人の住まう国、八州国の動乱における情勢に少なからず影響を及ぼした。
国主永寶は右腕である夜哭を失い、同時に彼の下についていた夜哭党は舜水、戒瑜、そして黎により大きく力を殺がれることとなった。
そして王に叛旗を翻す者たちの中で最も有力な趙義慶率いる鵬もそれに先んじて黎、黒烏
の二人により死者こそ出なかったものの損害を受け、同時に王に本拠を知られたため一時地に潜ることとなった。
さらに、この国における強者と謳われる者、十傑の内の最強と謳われる夜哭が斃された報はいずれ国内を駆け巡り新たな波乱を呼ぶのは必至。
そう、物語は終わらない。
物語の中心にあるものの命潰えるまで。
そう、まだ物語を片づける時期ではない。
国を包む波乱の行方。
腹心を失った国主永寶は何を思うか。
各地に散った鵬の者達はどこへ向かうか。
黎が夜哭に託された物とは。
蠢き始める新たな意図達。
そして――
七年という隔絶を経て再び和解し、手を取り合った二人。
しかしかつての少女、黎は夜哭との戦いで瀕死の重傷を負った。
彼女を抱え、一刻も早く医者の元へ向かうかつての少年、舜水。
刻々と迫る彼女の命の刻限、彼はそれに間に合うことができるか。
『変わらぬ愛』
花に籠められし想い。
それは交わした瞬間潰えてしまう儚いものか。
それとも……
「さあ、続きを語るとしよう」
語がそこまで語り終えた瞬間、形を崩しあたりに漂っていた書物の断片が再び動き始め彼の膝の上で再び巻物の形をとる。
それは先ほどのものとよく似ていたが、先ほどのものが紅い巻物であったのに対しこの巻物は蒼い巻物であった。
別離と再会の物語『華書』
それに続く物語『剣書』
互いに揃いて一つの物語となす。
語はそう言って巻物を開く。
開いた瞬間その末端は闇に溶け込みそれの長さがどれほどのものか隠してしまう。
だが分からないのは当然である。
その物語は今から語られるとともに記される物語であるのだから。
『さあ、語るとしよう』
その先に何が待つか――
それはお楽しみということとしよう。
闇色の髪が揺れ漆黒の闇がその中に湛えた闇を一層深くする。
再び語りはその腕を差し伸べ闇に幻影が浮かび上がった。
『華は想いを抱き 剣は願いを叶えんとす
野に咲き誇るもの 己が敵に振るうもの
それは異にして同一 すべては己と想い人のために
忘ろうものなら光は途絶え 離さぬのなら光は消えぬ
我が君よ 我が半身よ 我は貴方に全てを捧ぐ
あの氷雨の振りしあの日の邂逅の日より 幾年経とうとも――』
語は歌うように滑らかに呟き、にやりと笑った。
復讐を果たした少女。
失ったものを再び取り戻した少年。
二人の物語、華と剣の一対の巻物に刻まれし物語は再び開幕する。
――皓州が州都にして八州国王都遼明。
夜半より降り出した雪は街に白い薄化粧を施していた。
王宮のくすんだ赤色の屋根も、遼明近郊の薄暗い森も。
そしてその中にある一軒の屋敷も。
全てが白に染まっていた。
やがて夜が明け、登り始めた朝日によってその白い景色はきらきらと煌めき、ゆっくりと融けていく。
遼明の一角のある家、そこで一人の男がゆっくりと目を覚ます。
一瞬目の焦点が定まらず、ぼんやりと天井を見つめるがすぐに焦点を取り戻し上体を起こす。
その時寒さをしのぐように掛けられていた襖が滑り落ちるがそれを拾うより先に男、舜水は身体を走った鈍痛にその釣り目がちの目を歪め、歯を食いしばる。
「痛っ」
身体を見下ろせば上半身にはぐるぐると包帯が巻きつけられていた。おそらく、夜哭というより夜哭党の連中と戦った時の傷だろう。確かにピリピリとした痛みが走っている。しかし今、全身を蝕む鈍痛とは質が違う。
「夜哭と戦った時か……」
戦闘による高揚状態にあったためわからなかったが相当身体を酷使していたらしい。
全てが終わった後に身体に相当ガタがきたというわけだ。
だが、動けぬというわけではないな、と判断する。
「それに、黎を抱えて走った……ん? 」
そこまで言ってあたりを見回す。
どう見ても屋内だ。襖を拾って立ち上がり振り向くと榻が視界に入る。
しかも見回すと薬草やらなんやらがつるしてあり、内装を見る限り医者の家の様である。
「どうにも医者の所についてはいるようだが……」
呟いておかしい、ということに気が付く。
そう、あの時は必死で気がつかなかったのだが、遼明をはじめとした街を囲む城壁の門は夕方には閉められるのだ。田舎なら閉門後でも意外と街に入れるのだが、遼明に限ってそれはあり得ない。
誰かが手当してくれたことはわかるがどうにも記憶がない。
そして何より己よりずっと重傷の、手当をしなければ確実に死ぬであろう黎のことが心配だ。
それを考えると、いてもたっても居られず手に握った襖をはおり、部屋を飛び出そうと部屋の入口へ向かう。
彼が部屋を飛び出す瞬間、入口の向こうから人影が現れ、二人はちょうど鉢合わせする。
互いに互いの存在に気がつくが時すでに遅し、ちょうど同じくらいの身長出会った二人は勢いよく互いの額をぶつけてしまった。
ごんっ
鈍い音とともに二人は互いに尻もちをつき、痛みを噛み締めうめき声を上げた。
「いきなり何だ?! 」
痛みが先に引いたのか舜水は毒づきながら顔を上げ、相手の顔を見て目を見開く。
「目覚めたのはいいが……いきなりこれか」
その相手は、ちょうど手当した傷口に当たってしまったのかなんとも言えない顔で、包帯でおおわれていない方の右目を細める。
舜水は信じられないとばかりにごしごしと眼を擦ったり頬をつねったりするがいま目の前にいる人間が幽鬼の類ではなく生きている人間であることを理解した。
「人を化け物みたいな目で見るな」
相手は引き攣った笑みを浮かべる。顔の左半分は勿論、あらゆるところに包帯を巻きつけ、長かった髪は舜水と最後に会った時に比べて半分ほどの長さになっていた。
「……生きていたんだな。戒瑜 」
「死ぬつもりはない、といったろう。葵沃」
多分なんだかんだで生き残っているだろうとは思っていたが、実際に目の前にいる姿を目にし、舜水、表向きには葵沃は安堵する。
ま、得物はまた新調せねばならんがと、かつての敵であり、森に同行しともに黎に押し付けられた夜哭党の面々と戦った隻眼の男は苦笑した。
舜水は本当に良かった、ともう一度呟いたあと突然ハッとしたように眼を見開く。
そしてどうした、と問う戒瑜の肩に手を置き、がくがくと揺らす。
「お前がいてちょうど良かった! ここは一体どこだ? そしてどうやって閉門後街の中に入った? 」
その目は真剣そのもの。突然揺さぶられ白目を剥きそうになっている戒瑜に立て続けに問いかける。よほど不安が心の中に燻っていたのだろう。
「ちょっ揺さぶるつ……」
何とか宥めようと戒瑜は口を開くが舌をかんだのか顔を思いきり顰める。しかし、舜水はそれを気にすることなく、自分の身よりも先ほどから心配でならないあることを口にする。
「俺と一緒だった女、黎はどうなった!? 」
そこまで言うともともとガタが来ていた筋肉がずきりと痛み指の力が緩んだため、戒瑜はやっとこさ彼の手から解放される。
戒瑜はふらふらとしばし揺れたあと、目は焦点を取り戻す。
「と、突然何する……」
「で、どうなんだ」
「……とりあえずここは遼明の郊外の医者の家だ。二番目の質問に関してはある人が手を貸してくれてな……長くなるから今は説明しない」
次は首でも絞められかねんと、戒瑜は息を吐きつつ判断し、別に答えても困ることはないようで淡々と彼の質問に答える。
「あの女は治療中だ。医者は全力を尽くすと言っていた」
言った瞬間、舜水の表情が一瞬安堵に変わり、次の瞬間には曇る。
彼女も助けられた、それは最悪の状態、彼女が行方不明ということは避けられた。
だが……治療中とは……
「まああの状態でよく生きていたと思う。確率としては微妙の一言だそうだ」
俯いてどこか苦しげに答える戒瑜。
その言葉に舜水は瞠目し、戒瑜の横を通り抜け部屋を出ようとする。
しかし、その足を戒瑜ががっちりとおさえる。
「放せ」
「貴様が行っても何にもならん」
「何もならんでも行かずにおれん」
舜水自身医術の知識なぞ応急処置程度にしか知らない。だがいてもたっても居れなかった。
そういって取りすがろうと戒瑜を気にすることなくそのまま歩いていこうとする。
戒瑜の安静にしろ、言っても無駄だなどという声は彼の耳にはほとんど届いてなかった。
しかし、部屋の入口の向こう、小さな物置にされた場所を通り過ぎ、廊下に出ようとしたとき、舜水は足を止める。
「何だ……」
入口の所がどうにも不自然に光っている。
軽く触れると指先がうっすらと切れ、血がにじみ、すぐにそれは治まる。
「糸? 」
非常に細い糸がまるで蜘蛛の巣のように張られ、入口を塞いでいる。よく見れば廊下にも縦横無尽にそれが張り巡らせられている。どうやら見た感じでは金属糸だろうか。
ほとんどは繊維製や毛髪を使うことが多いが、たしかに糸は立派に武器として使える。
舜水自身も罠を張る時など使うこともあるが……
「貴様が勝手に逃げ出さぬように、だそうだ……俺も巻き込まれているわけだが」
「誰が……まさか医者が? 」
「そんなわけなかろう。医者は普通のごくごく普通の男だよ」
「じゃあ……」
言って、素手では指が飛びかねないとごちゃごちゃと置いてあるものの中から糸を払うのに適当なものを探しだそうとあたりを見回す。
「街に戻るのに協力した人間がいるといったろう。そいつだ」
舜水の行動に協力する素振りすらも見せず、戒瑜は淡々と答える。
「そいつは今彼女の治療を手伝っているだろうな」
「まあ邪魔されても困るのだろう」
腕を組み廊下の先の闇を見詰めつつ若干嫌そうな顔になる戒瑜を舜水は不審に思う。付き合いが浅いとはいえ明らかに見たことのない表情、そう、例えるなら精神的に苦手な相手に対するもの。その相手とはいったい何者か?
「その人間とは誰だ?」
「えっとな……非常に言いにくいんだが」
なおも言葉を濁す戒瑜に舜水がさらに問おうとした。
そのとき。
風を何かが切り裂く音が連続的に響く。
二人が目を見開き音のした方、廊下に視線を向ける。
入口を塞ぐ糸はすでにそこにはなく、代わりに人影が佇んでいた。
女。
作業をしていたためか襦裙の袖はたすきでまくられ、束ねていない状態なら地面に着こうかという長さの艶やかな黒髪は綺麗にまとめ上げられている。
さらに彼女を特徴づけているのは……
身長に対し明らかに長い四肢。
それは醜さを感じさせぬものであるが独特の雰囲気を彼女に纏いつかせる。
そして長さが顔の口の上まで達し、その顔の大部分を覆い、彼女の年齢を隠す前髪。
「治療はとりあえず一通り終えましたわ」
回収したと思しき糸の束を綾取りをするように弄びながら穏やかに呟く女。
「後は本人の体力次第。助かる確率は五分五分でしょう」
その声に舜水は警戒を露わにするが、まだ様子見のようでただじっと身構えているだけである。対して戒瑜は、彼女の顔を見て正直うんざりした様子で隙あれば逃げ出したいようであるが、彼女から発せられる穏やかではあるが確かな威圧感がそれを阻む。
「それでも十分跳ね上がった方だと思いますわ。ねぇ、葵沃殿、いえ、李舜水殿」
その言葉に舜水の表情は凍りつく。
わざわざ言い直された名前、本来の名は決して表に出してはならないはず。
彼の父、一族郎党に課された災禍故に、李舜水という名は黎以外が呼ぶはずがないのだから。
それを呼ぶということは……
「何者だ? 」
返答次第では、という意思を含ませて問い掛ける。
女はその様子に一瞬あっけにとられたように言葉を切るがすぐに彼の問いに込められた意図を否定する様に糸を絡めたままの手をパタパタと振る。
「いえいえ、私は貴方の敵では無いので心配しなくても大丈夫ですわ」
そして尚警戒を緩めぬ舜水に対して、名乗らぬと信用していただけませんか、と呟き再び口を開く。
「私の名は蔡琅。洟州州司馬が息女にして洟州州候第一夫人」
穏やかさと優雅さを兼ね揃えた女はそう言って会釈すると同時に糸を絡ませた指をすばやく動かす。
舜水と戒瑜がそれを目にしたのはほんの一瞬。
次の瞬間には舜水は全身にぞわりとした嫌悪感を感じた。
「御二人には蛛露と言ったほうが分かるかもしれませんわね」
十傑のうち未だ現役とされるものの一人。
風変りな武器を使うという者。
そう名乗った女、蔡琅は顔の内唯一他人の目に触れる血のように紅い唇を歪ませ微笑んだ。
長い文をお読みいただきありがとうございました。
三話で登場した語の再登場です。忘れていたわけではありませんが……今の今まで出せなかった。
彼の名前だけ中華風じゃないのに違和感を感じるかもしれませんが、よい名前を思いつかなかったのです……
そして蛛露。どこかの話で一応名前だけは出てましたが登場させてみました。糸使いってある意味非常に扱いにくい……下手するとチートキャラになりかねんので
メインキャラには持っていきませんでした。どう扱っていこうか……
御意見御感想お待ちしています。