二十七、娥影散華
黎は仰向けに倒れたまま空を見上げる。
いつの間にか厚い雲に覆われた空の切れ目から冬の月が僅かに顔を見せていた。
今にも降り出しそうな雲に差しのべられた一筋の光。
彼女は呼吸を整えつつその優しい光に僅かに目を細め、同時に自分の身体の状態を確認する。
全身がどこと言わず痛み血を流し過ぎたせいか思考がはっきりとしない。
その流れの多くは彼女自身の処置により流れを止め、何とか失血死は避けられそうだ。
やはりそれは彼女の実力と、その肉体の丈夫さのためか。
しかし、意識は今にも闇に沈みそうである。
彼女の意識を繋ぎ止めているものは痛みと夜哭への憎悪のみ。
「っつ」
半身を起こすと一際全身が痛む。
その中で彼女は先ほどのことを思い返す。
一番深い傷が仕込み刃によるものであったのは運が良かった。
鞭の柄に仕込むためにその刃は匕首より短く錐の様な形状でありそれは彼女に重傷を与え、最終的に動きを止めるに至った。
しかしそこで留まることができた。
いつまでこの命が持つかわからないが、とりあえず失血死のみ防げれば上等である。
『初めに使っていた匕首で刺されたら危なかったな』
歯を食いしばりつつ口元を強引に笑みの形に歪める。
意識が途切れそうになる中、彼女は意識をつなぎ止めようと何か考えようとする。
過去、現在が彼女の脳裏に渦巻く。
混沌として何を考えているかも判然としない。
ただその大腿にぽたぽたと透明の雫が落ち濡らしていく。
『泣いているのか。私は』
その意味を考えまいとするように彼女はゆっくりその場から動こうとする。
しかし背筋に凄まじい痛みが走り動きを妨げる。
この痛みを取り去れたらと彼女は思うが静かに首をふり、自分に言い聞かせるように口を開く。
「だ……ど、そ……私がい……な……いる証拠」
――だけどそれが私の生きている証拠。
だから取り去るわけにいかない。
言葉を紡ぐたびに口元が痺れ呂律が回らないが不思議とだんだん思考がはっきりしてきた。
「私は……生き……て……いる」
彼女は確認するようにもう一度言葉を紡ぐ。
始めの時よりその言葉ははっきりしたものになっていた。
確実に迫った死から逃れ得た理由はただ一つ。
もう二度と会えぬ、いや、会わぬために囮として利用したはずの『彼』が助けてくれたから。
『舜水』
心の中で彼の名を呟く。
先ほどの頬への接吻の感覚をおぼろげながら思い出し彼女の頬は血を流し過ぎたにもかかわらず薄紅色に色づいた。
彼女からやや離れた場所では銀閃に混じり剣花が煌き剣戟の音が響いている。
最強と最凶の双璧。
その名に恥じぬ戦いがそこでは繰り広げられていた。
肩で息を吐きつつ彼女の眼はただ冷静にその状況を判断する。
『舜なら勝てる』
心の中で呟く。
それは確信であり願望。
同時に心の底で思っていた。
もう身体はろくに動かない、どちらにしろ自分には何もできないと思いつつなおそう思うのは彼女の殺人者としての本能か、武人としての矜持か。
それとも復讐者としての決意のためか。
そう彼女は……
――己が無力を呪い続け、未だこの手で夜哭を殺したいと思っていた。
「ちっ」
夜哭は舌打ちを振るわれた剣を短刀で受け流し空いた手で流れるように長刀を横に薙ぐ。
その軌道からいち早く身をかがめてすり抜けた舜水は足を薙ごうと剣を振るう。
夜哭は獣のように跳びいつの間にやら拾った先ほど黎が投げた金票を彼に投げた。
その戦い方を見る限り黎の戦い方にも似通っている部分がある。
しかし、その技量がやはり段違いである。
決して冷静さを失わず、ただ相手を切り刻む。
双方全く譲らず時折髪や服の切れ端が闇に舞い消える。
舜水の方がもともと満身創痍の状態に対し、夜哭は右胸と数か所に傷を負っている程度で軽傷といえる。
それで互角、という訳はやはり夜哭にも年齢の衰えがあるためか。
恐らく二人は表情の冷静さに反して自分の持てる限りの力を出しているのだろう。
その剣技は神業と言える。
「名に恥じぬ素晴らしい技量ですね」
「貴公こそ、その年齢に見合わぬ強さだ。流石師匠を破っただけある」
「愁鳳の弟子、でしたか。貴方は李家の血筋とあの男の技術の申し子といったところですか」
剣を振るいつつ二人は声帯を震わせる筋力すら惜しいとほとんど声に出さずに会話する。
二人の会話はその刃の動きに反してごく軽い調子である。
「何故、鞭を使っていたんだ? 」
そんな中、彼は不意に疑問を口にする。
夜哭の刀はそれだけで黎を圧倒できるだろう。
彼は確かに万能と言ってもいい戦闘能力を有するが本来刀術を得意とする。
刃を合わせて舜水は初めて気がついたが恐らく暗殺者と枠組みでなくとも刀使いとしてもこの国で右に出る者はいないだろう。
夜哭党の暗殺者が刀を使うのは剣より人を斬ることに長けていることもあるが、夜哭が幼き頃より刀術を仕込んだことにある。
彼女を処断するなら刀で十分だったはずだ。
しかし、彼は鞭を使った。
最凶と謳われる暗殺者、様々な得物が使えて然りではあるものの彼はほんの少し疑問に思った。
「まあ単に鞭が好きなんですよ。黎が剣を使い続けるのと同じく」
疑問が声に出ていたのか舜水の心中を読み取ったのか夜哭はそう言って苦笑する。
確かに夜哭から戦闘技術を盗んだ黎は刀を握らず剣を握った。
それは彼等は知る由もないが、彼女にとって剣は舜水と己をつなぐたった一本の糸だった故だ。
夜哭に仕え彼にもう会わぬと決めてもなおそれだけは手放せなかった。
「貴様にあいつの名を呼ぶ資格は無い! 」
黎、という名を出され舜水はひときわ強く剣を突き入れる。その一撃は夜哭の長衣を抉り、腰につけていた匕首が吊り紐を断たれ地面に落ちる。
舜水はそれを遠くに蹴り飛ばした。
「ふん、この二年間、彼女に相対するまで何もしなかった人間がよく言いますよ」
匕首の行方を目で追わず、舜水の冷静さをそぎ取らんと夜哭は彼にとって最も痛い部分をつく。
そう、彼にとってその事実は最大の失態。
愛しい人を血と苦痛の道に歩ませてしまったという事実。
死んだという報を疑うべきであった。
必死に探せばきっと彼女を見つけることは出来たはずである。
『落ち着け、相手の策に乗るな』
彼は相手の狙いに気づき、唇を噛みしめ何とか冷静さを保とうとする。
「貴方が今さら何をやろうとそれは己の罪悪感故。所詮は偽善ですよ」
柔和に見えてどこまでも酷薄な笑みを夜哭は浮かべ、彼の首をめがけ刃が振るわれる。
「違う」
舜水は否定の言葉を吐き、目を見開き刃の軌道から頭をそらす。
一瞬彼の言葉に惑ったためか、髪が一房ほど持って行かれる。
しかし、彼は怯むことは無い。
死角より振るわれた短刀を視界に入れることなく身をひるがえし回避し、剣先を夜哭に向かって突き出す。
「俺はただ己に従い戦うのみだ。偽善だろうが一向に構わん」
夜哭に向けた視線はもう惑うことは無いということを雄弁に語る。
「貴様は雪娥姉さん達の仇でもあるからな」
そう言って舜水は強くそして凶暴な笑みを浮かべる。
長刀で剣先を受け止め彼の額を狙って金票を投げ距離をとりつつ、眉を僅かに跳ね上げた。
雪娥、という名前に一瞬夜哭は思い当たらなかったがすぐにあの二年前の孤児院の主であったことに思い当たる。
『ああ、あの女か』
同時に商人であり、情報屋であった女。
初期の鵬に力添えしその勢力拡大に一役買ったため、逆賊として処刑された。
鵬の頭の居所が夜哭党の情報収集能力を以てしても最近まで割れなかったのは彼女の情報操作によるものである。
「雪娥、ですか。いちいち手にかけた人間を覚えていませんよ」
しかし紡ぐ言葉は記憶にないという嘘。
彼にとって重要なのは主である永寶の勅命を果たせるかどうかの一点である故。
しかし一瞬だけ彼女の言葉が脳裏をよぎる。
――私は木偶人形に物を教える趣味は無くてね。傷めつけたいだけ痛めつけなさい。
処刑の前に尋問にかけたところ彼女は指を一本ずつ折られる中悲鳴の一つも上げず彼らにそう言った。
「下衆が! 」
夜哭が脳裏によぎった記憶を不快と吐き捨てる前に舜水が突貫を仕掛ける。
夜哭は目を細め迫り来た舜水の動きを阻むようにぼろぼろになった長衣を影に数本の金票を放つ。
そして舜水がそれに気を取られた隙に長衣を空蝉に彼の背後に回る。
気配を消した一撃。
そして時折短刀と長刀を握る手を入れ替えるため、間合いが非常に測りづらい一撃。
紙一重で舜水も勘づき身をよじるが間合いを見誤ってしまった。
風を切るととともに刃は彼の左腕の肉を僅かに抉り、彼はその顔を苦痛に歪めつつも剣を振るう
振るわれる剣を受け流しつつ、夜哭は歯ぎしりをする。
刃はとどまることなく舜水を弑さんと闇に銀の軌跡を残す。
「貴様に言おう」
身を反らし、剣を振るいつつ舜水は黎の方に一瞬目を向ける。
彼女の状態は落ち着いているようだが油断はならない。
一刻も早くけりをつけねば彼女が死んでしまったら元も子もない。
「俺は貴様を黎に代わって殺す。命請いは受け付けん」
純粋なる殺意。
猫のような目を一際細く鋭くし彼は己の為に彼女の為に夜哭に殺気を向ける。
それは殺気だけで人を殺せる、そういって過言の無いものであった。
夜哭はここで初めて僅かに怯む。
すぐに我に返るが目の前に迫っていた剣先を避けることは叶わなかった。
鈍く濡れた音と共に右の肩に剣が突き刺さる。
夜哭の顔が苦痛に歪み、剣が引き抜かれると同時にその腕に握った短刀を振るう。
舜水は防ごうとするが防ぎきれず、柄に巻き付けた紫花の描かれた布が裂かれる。
「貴方も黎も不愉快です。勅命、そんなもの無くとも殺してやりたいですよ」
切れ長の目を大きく見開き、口をまるで裂けた様に吊り上げる。
個人に対してここまで強く殺意を抱くのは夜哭とて初めてである。
強者は一人で十分。
心の中で夜哭は呟いた。
「殺す」
「死ね」
呟いた言葉は心を現わす純然たる一言のみ。
互いの得物を構え二人は駆け出した。
『私は二年間何のために泥をすすり両の手を赤に染めてきた? 』
動け、と身体に命じ続けながら黎は自問する。
舜水は夜哭と確かに互角以上に戦える。
少なくとも己れに比べては勝つこともそう無理なことではないだろう。
そして彼は彼女の半身でありその思いを請け負うに足る存在。
『だが、私はそれは許せない』
彼女が殺したくもない人間に刃を突き立て殺してきた数は二十を下らない。
その中には鵬の活動に影響を与える者もいただろう。
その者達の為にも彼女は夜哭を殺す責任があった。
身体はほんの少しずつ動きつつある。
這いつくばるようにゆっくりとゆっくりと身体を動かす。
恐らく先ほどのように戦うのは無理にしても数歩なら駆けることもできるだろう。
しかし、舜水から渡された剣を振るうほどの体力は残っていない。
彼女が男であったならここまで無力に嘆くこともなかったかもしれない。
夜哭自身も彼女が男であったならとっくに己を殺すことができたでしょうねといつか彼女の神経を逆なでするように言ったことがある。
『だけど、女であったから舜水を好きになれた』
彼女はだからそのことを悔いたりはしない。
『しかしどうしようか、剣を、まともに触れる体ではない』
夜哭を殺すには急所を貫く必要がある。
だがその貫く体力が今の彼女にはない。
せめて祷州の時の毒があればと思うが、あれは抜け目なく没収されていた。
彼女が囚われている時昭庸がやたら目を輝かせながら毒について聞いてきたので、恐らく彼が研究するなりなんなりしているのだろう。
そもそも毒は諸刃の剣、今の彼女だったら下手せずとも返り討ちにあうだろう。
それでは手段がないのではないか、と思った時彼女の指先に硬い何かが触れた。
『これは……これならなんとか』
彼女はそれを握りつつ呟いた。
そして舜水達の方を見る。
舜水達は何事か言葉を交わし、そして舜水の腕をによって僅かに抉られていた。
『やはり、私が動かねば』
これは己の戦いであるから。
その眼には再び闘志と殺意が戻っていた。
舜水は彼女がほんの少しずつ動こうとしていることを知っていた。
夜哭もそのことは分かっていた。
しかし二人とも彼女はもう戦えないと思っていた。
それ以上に目の前の敵に集中する他なかった。
双璧と謳われるだけあって互いの実力は軽視できずすべきでなかったから。
――しかし精神力というものは時に肉体の限界を超える。
月の光が翳ったその時。
質量を伴った何かが放り投げられ、舜水の背後に転がる。
それが地面をひっかく音に極限まで集中していた二人は僅かに気を取られた。
その隙に黎は夜哭の死角に潜り込むように十歩もない距離を駆けだす。
地面に転がったのは小さな鞘。
その正体を確認すると共に夜哭は背後に迫る気配を感じる。
『まだ動けましたか』
長刀で剣先を受けつつあまった左腕ですぐ後ろまで迫っていた彼女の喉を掻き切ろうとする。
彼女は袖に隠した凶器を彼の背につき立てようとする。
しかし一瞬早く夜哭が彼女の喉に短刀の刃があてがう。
それを一気に引こうと夜哭は腕に力を入れる。
――鈍くかつ濡れた音が響いた。
彼女の指はゆっくりと凶器を放す。
それは先ほど舜水によって斬り落され蹴り飛ばされた夜哭の匕首。
夜哭の指もゆるみ短刀をはなす。
乾いた音が一つだけ響く。
月が再び雲間から出たときゆっくりと崩れ落ちたのは夜哭。
折り重なるように黎も崩れおちる。
そしてゆっくりとゆっくりと血だまりが広がり始める。
月の光が彼らを照らした瞬間、勝負の結果は明確になった。
「……何てことだ」
唯一立っている舜水が目を見開き呟く。
黎の首は皮一枚が裂かれたのみ。
そして――
夜哭の背には匕首がつき立てられ、それは正確に心臓を貫いていた。
――致命傷であった。
長文お読みいただきありがとうございました。
結末に文句ある方もいるかもしれません。
しかし私の技量じゃこう締めるしか……泣。
これであらかた夜哭編はクライマックス。
黎はやはりあまり女らしくはないキャラですね……
まだまだ連載は続きます。もうすぐ開始一周年。
ご意見ご感想お待ちしています。