二十五、飛刃と走狗
――祷州にて
「どうか安らかに」
「くれぐれも化けて出るんじゃねえぞ」
日が昇る前、霧に包まれた北鶴の外れの墓地。
そこに屈みこんだ二つの影は手を合わせて静かに目を開けた。
栗色の髪の少女と複雑に編み込んだ黒髪の青年。
鷹姫と覇玉である。
二人は立ち上がることなく先ほどまで手を合わせていた眼前の墓を見つめる。
盛り土に墓標代りに鞘に収まった異国の剣がつきたてられ、一輪の花が添えられていた。
「これでよかったのかな」
不意に鷹姫が口を開く。
その視線は墓標がわりの剣に注がれ、隠しようの無い悲しみと困惑を湛えていた。
そんな様子に覇玉は小さくため息をつく。
「いいんじゃねえの? やらなきゃ俺らやられていたし」
彼自身もあの結末は望んではいなかった。
その表情は苦々しいもので無意識なのか唇を噛みしめている。
彼も十傑に挙げられるほどの実力を有する故、人を殺めることも少なくない。
しかし、人を殺すことには常に罪悪感を抱く。
人であるために。
そんなことを考えつつ一旦言葉を区切り言葉を濁しつつ話を再開する。
「戦ってのはそんなもんなんだよ。なあ、手前は何のために弓を持つ? 」
胡坐を組み後頭部を掻きつつ彼は彼女を見つめる。
対して彼女はその視線を険しくし自分の両手を見下ろす。
今にも泣きそうな顔である。
「今まで考えたことが無かった……あんなことになるなんて」
彼女の人生も決して穏やかとはいえなかった。
両親が死んでから西の地からここに来る前も後も獣を射ては生きる糧とし、人を射ては己が身や仲間を守った。
故に彼女には人を射ることに対し何ら抵抗感もなかった。
しかし、あの黒烏が凄絶な笑みを浮かべ己が刃で死したとき彼女は初めて恐怖を覚えた。
意識していないようであるが彼女の肩は小刻みに震えている。
彼はそんな様子を見て僅かに目を細めそして未熟だな、と心の中で呟く。
覇玉は彼女をなだめるようにその肩にポンと掌を置く。
「武器を振るうことが怖くなることなぞ誰にでもある。大いに悩めばいいし、つらくなればやめればいい」
「でも」
覇玉の手をさりげなく払い落しつつ鷹姫は言葉を濁す。
心の中ではもう人を射たくないと思っていたが、鵬の弓手として途中で落伍することに大きな抵抗があった。
「確かに手前は優秀な弓手だ。だがそれが故に挫折できないなんてふざけていると思うぜ」
「…………」
その言葉に鷹姫は目を見開いた後、俯き沈黙する。
彼女の心の中では様々な葛藤があるのだろう。
そんな彼女の様子に苦笑しつつ覇玉は立ちあがる。
「まあ年長者としてはこの程度の助言しかできないがな。せいぜい悩め」
そしてそのまま背を向け歩き出す。
彼女はただ墓標の剣を見つめたまま振り向くことは無い。
二人は、いや鵬の仲間はしばし散り散りになる。
覇玉は柏州の鵬の仲間のもとへ。
鷹姫は舜水の帰りを待つために紅華楼に残る。
夜哭党、ひいては王に居場所を知られた故、鵬は一旦地下へ潜る必要が出たのだ。
ほとんどの人間がそれぞれの行くべき場所に散った今、二人は最後に此処へ来たのだ。
覇玉はただ黒烏への敬意を示すために。
鷹姫は心の中にわだかまる想いを晴らさんとするために。
遠ざかる気配を感じつつ彼女は僅かに目を細め、口の端をふるふると震わせる。
そして、弾かれたように振り返る。
「あ、ありがとう」
戸惑いの色の混じる声で霧の向こうに消えつつある彼に向かって彼女は叫んだ。
その言葉に覇玉は足を止め振り返り、すぐに踵を返して再び歩き出す。
その顔がどのような表情を浮かべていたのか。
霧か己が視界を揺らめかせる涙のせいか彼女には確認することができなかった。
――夜哭邸にて
「詰みです」
夜哭は鞭の柄に仕込んだ刃を黎の左下腹部に突き立てた瞬間彼の視界の端には複数の黒い影を映し、刺されてもなお剣を振るおうとする黎の手首を掴み動きを封じた。
彼女も背後の気配に気づいているが僅かに身をよじらせることしかできない。
連続して鈍く濡れた音が響き彼女は目を見開く。
「かはっ」
背に数本の矢と投槍が突き刺さり、小さく苦悶の息が吐かれ口の端より一筋の血が伝う。
彼女の失態、それは冷静でいるようでどこかで復讐の念に熱くなり過ぎていたこと。
そして夜哭の言葉を無視することができなかったこと。
しかしそれを悔いるような素振りは無くキッと夜哭を睨みつける。
彼は未だ戦意を失わぬ彼女の視線に僅かに目を見開き、心の中で感嘆の息を漏らす。
その隙に彼女は彼の手を振り払い己の腹に刺さった刃を半ば腹を引き裂く様に抜き大きく横に跳んだ。
庭の砂利が軋んでギチギチとなる。
内臓を引きずり出されるような凄まじい痛みが彼女を襲うが立ち止まることは無い。
彼女を追うようにさらに矢が放たれるが、体をひねりつつ逃れ避けきれぬ分はぼろぼろになった手甲で弾く。
返す拳で間髪入れず地を這うように迫り来た夜哭の鞭の先端を受ける。
手甲が砕け散ったが何とか防ぎきった。
安心するもつかの間、二つの影が彼女を襲う。
刀を手にした全く同一としか思えない容姿をした彼女と同じ年頃の青年。
剣を抜きその斬撃を防ぎ、隙が生まれた方に剣を突き立てようとするがもう一方によって防がれ同時にもう片方から斬撃が来る。
その手にはそれぞれ二本の刀が握られている。
舜水の双剣は同じ長さのものを使うに対し長刀と短刀を一本ずつ手にしている。
彼女が飛びさがる今も目にもとまらぬ速さで互いに最良の動きをもって彼女を斬らんと地を蹴り剣を振るう。
その眼は他の暗殺者の例にもれず何の感情も宿らない虚ろなものである。
悪化しつつある状況に彼女は舌打ちをして後退し、夜哭の鞭の射程より逃れる。
それから間断を置かず夜気に風を切る音が響き数本の矢が散る。
矢を払い小さく息を吐き、彼女は背に突き刺さったままの投槍を引き抜いた。
「ぐっ」
苦痛に顔がゆがみ傷口より血が噴き出すがすぐにその流れは止まる。
そのまま駆けだしつつ、抜いた槍を牽制として距離を詰めようとする青年たちに投げた。
二人の顔に目を向け彼女は面倒なのが来たなと内心舌打ちする。
双子――その青年たちの存在は彼女も耳にしたことがある。
単体では彼女に遠く及ばぬが二人ではかなり厄介な存在だと夜哭の話からそんな印象を抱いた記憶がある。
一旦後退すべきか。
そのまま駆け彼女は相手の出方を見る。
腹の刺し傷から熱い痛みと血を失っていく冷たさが彼女の表情を僅かに歪ませる。
夜哭と眼が合う。
鞭の射程外に逃れられたにもかかわらず彼は動揺を見せずゆっくりと目を見開き、口を三日月の形に歪める。
「狩れ」
歪んだ唇から言葉が紡がれると同時に双子は刀を手に駆けだし夜哭が距離を詰めつつ腕を振った。
『一旦後退』
即座に判断を下しそのまま宙返りをするように跳び鞭の先端を回避する。
彼女の胴に巻きつこうとしたそれは行き場を失い重力に従い落下しようとするが、夜哭は腕を跳ね上げ彼女の動きを追う。
そして鞭の動きを掻い潜りつつ双子が突貫を仕掛ける。
黎は二人にありったけの金票を投躑し、そのまま完全に背をむけぬように注意しつつ一気に駆けだす。
途中矢が腕を掠めるが彼女は止まらない。
そのまま塀を乗り越え森の中に転がるように跳び込んだ。
しばし駆けた後灌木の下にもぐりこむように伏せ周囲に警戒しつつ息をつく。
その時うっかり傷口に指先を突き立ててしまい苦痛の表情を浮かべるが唇を噛みしめ声を殺す。
傷の具合を見るが咄嗟に致命傷は避けたものの芳しくない。
特に腹の傷が酷く、今にも臓腑がこぼれ出しそうだ。
裾よりもしもの時にと携帯していた包帯で応急処置をする。
まだ戦える。
どれほど持つかわからないが。
自分に言い聞かせ周りに意識を向けると暗殺者達らしき気配が彼女を探していることがはっきりと分かる。
泥が顔につくのも構わず目を閉じ耳を地面に押し当て相手の数を数えた。
相手の数は夜哭、そして双子を除くと五人か。
夜気に響く符丁の音からしてまだ見つかってはいないようである。
そして走り抜ける際に見たとき、一人だけ見覚えがある人間がいた。
その顔を思い浮かべながら苦虫を噛み潰したように表情を歪める。
『まさか奴がいるとはな』
黒烏よりやや年上らしき禿頭の男。
確か名を啼鵲と言ったか。
彼女が夜哭の下にいたとき彼と仕事をする時があった。
別動隊の指揮、それが彼の役割であった。
――戦闘力なら黒烏、指揮能力なら啼鵲
さらに指揮能力が皆無に等しい黒烏と違い啼鵲は戦闘能力も低くはない。
非常に均衡のとれた能力の持ち主であると彼女は知っていた。
それは相手の統制は取れており夜哭が戦闘に集中できることを示していた。
『舜水は大丈夫だろうか』
息を殺しつつ己が他の暗殺者の足止めに利用した思い人のことが頭をよぎる。
その顔は苦虫を噛み潰したようになっている。
彼女は知る由が無いがこの時点ではまだ足止めを食っている。
『……彼を信じるしかないか』
彼なら死なないと彼女は分かっている。
好きだから、死んでほしくないという願いも込められていた。
後からさんざん怒られそうだなと苦笑した。
『どうするべきか』
こちらは手負い、逃げきれる保証はない。
啼鵲がいるというのもなかなか面倒であり、多分逃がしてはもらえなさそうだ。
何より夜哭、いや夜哭党は今片付けておかねばならない。
彼女は背に隠した武器を引き抜き決断を下す。
『引きつけて一気に仕掛けるしかない』
彼女の意識は近づきつつある一つの気配に向けられていた。
暗殺者達の中の一人であるその男は弓を背に戻し代わりに槍を手に逃げた裏切り者を探していた。
彼が裏切り者、かつて黒鵺と呼ばれた女に矢を放った時実に無駄のない動きで彼女は追撃を防ぎ森の中に姿を消した。
「追撃してください」
落ち着き払った声で夜哭は命じ、それに従い啼鵲は彼らに指示を出した。
双子の片割れが彼のもとに残り、残りは全員森へと駆けた。
彼等は符丁を交わし状況を伝える。
しかし、なかなか見つからない。
彼自身も黒鵺という女のことは知っていたし、その存在を他の暗殺者の例に漏れず不愉快に思っていた。
裏切りという格好の制裁の場に心なしか感情の高ぶりの様なものがあったが、一向に発見できない状況にいら立ちを覚え始めていた。
しかし暗殺者の最高峰という存在に恥じることなくその感情は表に出ず非常に冷静に彼は動いていた。
不意に彼の鼻が血の臭いを捉える。
そして彼は視界の先に灌木を捉える。
すぐさま歩みより、念のためと灌木の下に槍を突き入れた。
その瞬間槍の穂先の感覚が消失し、次の瞬間には彼の全身から紅い飛沫があがる。
刹那何が起きたかもわからぬまま今度は首筋に衝撃が走り暗殺者の身体が小さく痙攣し崩れ落ちた。
その時には彼女は森を駆けだしている。
冷たい中にも熱さを宿したその瞳には実に楽しいとばかり光が揺れ、その薄紅色の薄い唇は笑みを形作る。暗く見通しの悪い森、恐らく別れて行動している敵。
殺意なき暗殺者と呼ばれた彼女の独壇場である。
静寂を斬り裂く様に鳥の鳴く音に似た符丁が響く。
先ほどの状況と指示と取り交わすものではなくそれは状況が急変したことを示していた。
『標的発見。損傷の程度軽微、反撃に出た模様』
『想定内。ただしこのままだと非常にまずい。即刻撤退夜哭様の元へ戻れ』
符丁は言葉にするとそんな意味だろうか。
その音は三人目を片づけた黎にも聞こえていた。
恐らく相手は彼女に傍聴されていることを想定に入れているのだろう。
あえてこちらの動きを知らせ誘導するために。
そんなことを考えながら手にした凶器を一閃、血を払う。
目を細め薄い笑みを浮かべ袖のうちにそれを仕舞う。
そして一瞬森の入口の方に目をやる。
『舜水』
来たことの無い者なら間違いなく迷う森。
あの暗殺者達を片づけた所であらゆるところに致死の罠の仕掛けられた森を抜けられるか。
『ごめんね』
風が吹いた瞬間彼女の姿は掻き消えていた。
夜哭邸、いまだ動ける五人が彼女を警戒し陣を張っていた。
夜哭は先ほどの戦闘で荒れた庭の中心で佇み、他の四人は気配を消し得物を構え彼女を待つ。
「来ませんね」
夜哭は鞭を弄びつつ呟く。
数を減らして戻ってきた啼鵲達に対しては特に咎めずすぐに指示を出した。
ただ相手が動く時を待ち佇みつつ彼はその眼をゆっくりと開き月光をその瞳に映す。
一瞬いつの日か彼の主である国主永寶と見た月夜の光景が脳裏に浮かぶ。
しかし、今はそんな時ではないと苦笑する。
彼でも僅かな気配しか感じない。
そう思った時風を切る音がし鈍い音が響く。
姿を現した黒い影に双子が剣を手に駆けるが闇より刃の身が飛来し一方は肩から腹にかけて裂かれ動きを止める。
残った片割れは何とか刃を防ぎ大きく飛び退った。
同時にその場所に黒い影が着地しゆっくりと顔をあげる。
右手にはべっとりと紅い血が付着した刀というより鉈に近い肉厚の刃渡りの短い刀。
半眼に開かれた眼はどこまでも冷たい様でいて抑えきれぬ熱を秘め。
黒い衣装は所々黒い染みを作り。
血を流したため脆さを感じさせるその顔はそれでも戦意を失わず。
「戻ってきましたか。秦黎」
夜哭はその様子を見て実に楽しげにくくっと喉を鳴らした。
長い話をお読みいただきありがとうございます。更新が遅くなりすみません。しかし、戦闘が終わる気配がないですね。結果はきめてますがなかなかうまく流れが組めません。今回は舜水は登場しません。なんとなくどういう状況から彼女の内心から語られる状況から想定出来ますが。彼女のサブウェポンは何話か前で購入したもの。某ノベルゲームだか漫画だかにでる鉈より、グルカナイフかごつい刀を想像してくれればありがたいです。のんびり更新になるかと思いますがお付きあい下さい。ところでこの作品、恋愛なのか武侠ものか今だ悩みます……