二、想愛追憶
――少女と少年の出会いから十年の時が経った。
八州国が北東、柏州のとある村の一角――
広い庭の数人の子供が遊んでいる傍らで、木剣を片手に互いに睨み合う少女と少年がいた。
精悍な若者になった少年はやや余裕のある表情で。
まだ幼さが残るものの、女の片鱗を示し始めた少女は真剣そのものの表情で。
互いに距離をとりじりじりと身体を揺らしつつ動く機会を探る
二人の間を一匹の蝶が横切る。
今、と少女が小さくつぶやき地を蹴った。
少年も小さく笑い音もなく駆けだす。
少女はまっすぐに少年に突きを放つが少年はするりとよけ下から上へ腕を狙って剣を振るう。
それを少女は僅かに剣を当て軌道を逸らしつつ回避する。
次の瞬間には腕をうまく運んだ少年の横薙ぎの一撃が来る。
それを剣で受けた少女は顔をわずかにしかめ後ろに飛びながら身体を回転させ次の攻撃に入る。
一合、二合、縦横無尽に腕や身体を回転させながら二人は木剣で打ち合う。
木剣はそこそこ重いはずだが、二人の動きは目で追うのがやっとといった速さである。
この歳にしては、という段階でなく、二人の剣技はそこらの大人を大きく上回っていた。
互角に見えた勝負であったが、時間が経つにつれ傾き始めた。
少女の方が牽制をしながら距離をとることが多くなり始めているのだ。
明らかに彼女の顔に疲労の色が見られる。
「もう降参したらどうだ? 」
連続して突きを放ちながら少年は笑う。
彼は余裕に満ち、楽しげに剣を振るう。
対して少女は防戦一方となっていながらもその大きな瞳を歪めて怒鳴る。
「だっ誰が降参するもんか! 」
しかし端からみれば、それは精一杯の強がりでしかない。
技量の差は歴然としている。
少年も少女もそれは承知の上である。
だが少女は勝ちたいのだ。
「ならいいが。容赦はしないぞ」
少年はにやりと笑い一気に距離をつめる。
「望むところ! 」
数合打ち合うがやはり形勢は変化せず少女は防戦一方である。
少女は怯みつつも木剣の一撃をかいくぐり、自らの木剣を横薙に振るう。
少年は身体を逸らし身を低くし下から上へ薙ぐように彼女の首筋を狙う。
彼女は身をひねって避けるが肩ほどで切りそろえられた髪を掠る。
「達者なのは口だけか! 」
その攻撃に少女は黒目がちの瞳を見開きひっと息を飲む。
その様子を見て少年はさらに彼女を挑発する。
少女はふるふると首を揺らし口をとがらせ反論する。
挑発にいちいち反応するのはやはり子供故か。
「何おぅ! 」
その瞬間、彼女の動きが矢のように速くなる。
少年は驚き剣を薙ぐが、少女は少年の攻撃を見事にかいくぐり背後を取り、木剣を突き入れる。
「やっ! 」
「ちっ」
少年は素早く腕を後ろに回し身体を回転させながら彼女の剣を右から左に軽くはじき軌道を逸らす。
木剣は彼の頬をかすり髷を結った髪の余り毛を揺らした。
いつの間に強くなりやがって……
少年は心の中で呟き剣を振るう。
次の瞬間彼女の小手を木剣が打った。
「っ痛」
手加減された一撃だったが疲弊した彼女の腕から木剣を引き剥がすのには十分だった。
乾いた音と共に木剣が地面に落ち、コロコロと転がっていった。
「あ……」
少女の口から思わず声が漏れる。
次の瞬間に彼女の喉元に木剣が突きつけられた。
「何か言う事は? 」
少年、舜水はにやっと笑う。少女は唇を噛み締め悔しそうに肩を震わせた後、そして諦めたように溜め息をつく。
「こ、降参……」
「素直でよろしい」
そういって彼は満足げに笑い剣を引いた。
「……舜、本気になりすぎ」
少女は地面に転がった木剣を拾い、少年、舜水を見上げる。
そして出会ったころにはたいして背丈は変わらなかったがずいぶんと差がついたものだと思う。それに体格も力もかなり差がついてしまい、仕方ないと分かっていながらも地味に悔しいと思っていた。
「一番本気になってたのはお前じゃないか」
舜水は呆れた様子で彼女を見下ろす。
そんな彼を見上げ彼女は頬を膨らませる。
彼女の黒目がちの瞳が、ほんの少し潤んでいる。
相当悔しいようである。
「でもぉ……」
「でもじゃねえ。ま、今回は割といい線行ってたがな」
舜水は先程木剣がかすった頬を撫でる。
ちょっとばかりは痛かったらしい。しょぼくれる彼女に舜水は苦笑しつつも、まだまだ未熟だ、と呟き地面に腰を下ろす。
「でも結局私負けちゃったし」
「そりゃこっちも簡単に勝ちを渡すわけにはいけないしな。一応俺は師匠だぞ」
「そうだけどさ」
彼女もつられるように地面に腰を下ろし回りを見回す。
庭の向こうには木造の屋敷といってよい大きさの家が建っている。
その回りを数人の子供たちがじゃれあいながら走り回っていた。
孤児院――
王都を追われた役人夫婦が営む小さな孤児達の居場所。
親に捨てられたり戦乱で親を失った子が戸籍と土地をもらえる十八になるまで暮らしている。そして、彼女をここに導いたという事は舜水も孤児であった。
少女と出会う三年前、禁軍右将軍であった彼の父は隣国侵攻の際の不手際を責められ、家族もろとも処刑された。
前々から王に疎んじられていたので、良い口実にされたのだろう。
李家、この国では五本の指に入る武門の家であった。
舜水は妾腹の子であり、正式な嫡子もいたため、李家での地位が高くなかった。
だから事態を察知した彼の母が、出入りの商人に託し、その結果持て余されてここに預けられ、生きていられるのである。
そのことは王に知られていたようだが、見逃してもらっていると言う状態で、彼の立場は不安定である。彼はこの孤児院の中でもかなり特殊なのだろう。
彼女はそのことを知ったとき、思わず同情の言葉を吐いてしまった。
「同情なんざいらねえよ。死んじまった人間がどうだというのだ。胸糞悪い」
その言葉に舜水はかなり不愉快そうに吐き捨て、そっぽを向いて去って行った。
あのあとそれが原因で彼は一週間ぐらい口をきこうせず、彼女も意地を張って二度と話すもんかとへそを曲げていたが、結局いつの間にか仲直りしていた。
二人は喧嘩をよくするが、喧嘩するほど仲が良いといった様子であり、どんなに本気で怒ろうと、絶交することができない質であるようだった。
彼は確かにもう自分の出自、親のことなんか忘れたようにふるまっていた。
しかし、流れの剣客に師事しがむしゃらに剣を学んでいた姿をみると、やはり武人であった父の影を追っているようであった。
血筋のせいか、はたまた才能か、瞬く間に腕を上げ今では剣の扱いで右にでる者はほとんどいないと評されている。
「……あれから十年か……黎に出会ってから」
「そうだね」
舜は木剣を傍らに置き地面に寝そべる。
彼女もそれに合わせその横に寝転がり、彼の方を向く。
黎、名前がなかった少女に舜が与えた名である。
黎明、夜明けという意味の言葉からとられたその名はあの時、彼女が夜(死)を抜け朝(生)へ向かうことができるように夜明けの名を与えようとつけられた名と舜水はいっていた。
単に呼びやすいからという本音もあるようだったが。
それと合わせて孤児院の主である老婆の姓を貰い、彼女は秦黎と名乗っている。
「舜には感謝してる。私を連れて帰ったのが原因で高熱を出す羽目になってまで助けてくれたしね」
あれだけの雨の中彼女に着物を貸し、そしてずぶぬれになりながら山を降りたのだ。
風邪をひかない方がどうかしている。案の定熱を出して衰弱していた彼女の横でうなされていたことを彼女は昨日のことのように覚えている。
このことは彼の中で汚点として残っているようで、現に今も何でもないふりして眉間にしわを寄せ、こめかみに手を当てている。
「当然のことをしたまでだ……見捨てて化けて出られちゃ困るしな」
しばし沈黙した後舜水はそう冗談めかして言った。
「ひどっ」
「冗談だよ」
彼は楽しげに笑いながら彼女の額を人差し指ではじいた。
「……ところで何であのときあんな人通りの少ない山にいたの? 」
ふと疑問に思ったのか彼女は彼にあの時のことを尋ねる。
彼女はあの山で数日間彷徨ったが、出会った人間は彼一人。
もともと人通りがほとんどない所でさらに土砂降りだったので、彼に出会えたのが不思議でならなかったのだ。
「……院長あたりから聞いてなかったか? 」
何かいやなことでも思い出したかのように彼の顔が引きつる。
記憶を巡らせ、そんな記憶がなかったことを確認し、彼女は首を左右に振る。
「何か聞いちゃまずいことでも? 」
「いや、その……院長と喧嘩したんだよ。家に帰るっていって、あの山を越えようとしていた。今考える馬鹿だよな。お前を拾ってなかったら俺もどうなっていたかわからないな。その点こっちも実は感謝している」
ははっ、と彼は照れ臭そうに笑う。
彼女は思わずへぇ、と感嘆の声を漏らす。
その話は初耳だったからだ。
そりゃ言い辛いはずだ、自分も一時の疳癪であんなところに来てたということは確かに隠したい事実なのかもしれない。
何の言葉をかけていいのかわからず二人の間で気まずい沈黙が流れる。
「……じゃあ私達お互い助けたことになるのかな」
先に口を開いたのは黎だった。
ぽつりぽつりと言葉を選びつつ言い繕う。
「……かもな。天の采配ってやつか」
彼も言葉を選ぶように返していく。
よく考えれば二人が出会った時のことについてこんなに話すのは初めてのような気がする。
「天は何もしてくれない。ただ、お互い偶然運命をきり拓いただけじゃないかな」
天、この国は神に対する信仰は厚い。この荒れたご時世、そのくらいしか頼るものがないからである。だけど彼女は結局神様は何もしてくれるわけがなく、運命なんてものは自分たちが動いた結果だと思っている。
「いいこというじゃねえか」
二人ははくすくすと笑いあった。
「しかし……お前が剣を習いたいとか言い出したときは、驚いたな。」
流れる雲を見つつ舜水は呟く。
この国は女は基本的に剣を手に取ることはほとんどない。
流れの剣客はかなりいるが、彼女が小さい村にいるせいか女性の剣客は少なくとも会ったことがない。
「だって、剣を習ってる舜を見てるとやってみたくなったんだもん」
彼女は立ち上がり木剣を手に取り剣を振る。
この国の剣術はどれだけ速く剣を運び、全身をいかにうまく操るかにかかっているため、剣の軌道は球に近く、かなり様式美を重んじる。
結局斬り合いになったらそんなのはどうでもよく、いかに早く相手を戦闘不能に陥れるかにかかることになるが、基礎はそんなところだ。
女の身であっても剣を習いたい、この気持ちに嘘はなかった。
彼は何を思って剣を振るかそれはわからないが少なくとも私は自分の弱さを憎んで剣を振る。
弱ければ己の手でつかめる物もその指をすり抜け、傷つかなくていいことに傷つく。
強ければ、親に捨てられることは無かったろうし、この腐った世の中をどうにかできるかもしれないと思っていた。
己が敵が現われたとき突き立てる牙を彼女は無意識のうちに欲していたのだ。
強ければ舜水のそばにいられるかも……そんな気持ちもあったことも否定はできない。
「それにしてもお前は変わってるよな」
「何が? 」
彼女は突きの姿勢で静止し上体を起こした彼を見る。
「……髪も男みたいだし、いつも袍しか着ねえし。本当に女なのか疑いたくなる」
袍はこの国でよく着られている男性用の衣服である。女性用は襦裙と呼ばれる。襦裙は動きにくいので私は嫌いである。
「女らしくなくて悪い? 」
「いやそうじゃないけどさ」
「それは偏見。襦裙じゃ剣を振れないよ。私は剣を振るうことでしか強くあることができない。確かに公主様のような煌びやかな服に憧れることもあるよ。でも、私はあんまりそういうの好きじゃないし」
彼女はその考えが異端であるのはよく理解していた。
「見てくれはいいのに惜しいことだな」
舜水はそんな彼女をまじまじと見つめつつ。
彼女は確かに髪を女らしく結うことも、化粧も施すことは無かったが、強い印象に残る黒目がちの目や、あっさりとした顔は着飾れば美人といえる部類であった。
その負けず嫌いな性格や、剣の腕などでそのような印象を抱く人間はなかなかいないようであったが。
「世辞は結構よ」
本気ととったか冗談ととったのか。
彼女は溜め息を吐き木剣を彼の鼻先に突きつける。
「さいですか」
そんな様子に彼は肩をすくめる。
彼女は木剣を引き再び型の確認に戻る。
「そうよ。そういう舜こそ剣術バカじゃない」
別に自分だけに言わなくていいだろうに。そう思いつつ木剣を振るう手を止めることなく言い返す。
「そんなバカから剣を習っていて未だに一本も取れねえのは誰だ」
舜は腕を振るい横から彼女の木剣の流れに腕を合わせ、一気に跳ね上げる。
虚をつかれて彼女の手から取り落とされた剣は宙を舞う。
「ちょっと卑怯じゃない? まあ、確かに舜の言う通りだけどね……」
剣を拾いに走りつつぶつぶつと抗議する彼女に彼は苦笑する。
「まあそれも黎の生き方なんだろうな。だが、男の強さと女の強さは違う。俺は女はかなり強い生き物だと思うぞ。お前は男の強さを選んだが、院長や雪娥を見てみろ。剣が振るえなくても間違いなく俺らより強い。俺はあの二人に頭が上がらん」
「同じく」
雪娥とは三年前に独立した少女である
黎と舜水の姉のような存在で、人に好かれるさっぱりとした性格の反面喧嘩は力じゃないということを体現している口が達者な人物であった。
彼らはよく二人で何かやらかしては彼女に院長以上に長く怖い説教を聞かされる羽目になった。院長もいつも穏やか、怒ると般若の如しといった様子だったが雪娥はさらにそれを超えていた。
彼女は今は十八の時に戸籍と共に土地を支給されたが、それを売り払い行商をやっている。
割とここ出身の子供は院長の自由な気風に触れた為か、土地に固定されず商人などを始めとする流れの仕事に就き活躍している者が多い。
いつか王に目をつけられるんじゃないかと院長は洒落にならない冗談を飛ばしていた。
そんなことを思いつつ彼女は自分の将来のことを考える。
彼女も十五。そろそろ先のことを考えねばならぬ年頃である。
そして舜水は彼女より二つ年上なのでここに居られるのはあと一年。
彼女はどうするのか聞いてみたかったが怖くて聞けなかった。
将来のこと、それは禁句とも言えるものであった。
土地を与えられ、伴侶と共に平穏に暮らすか、それとも、土地を捨て不安定ながらも自由に生きるか。
彼女はただ舜水と一緒にいたいとだけ思っていた。
命の恩人であり友であり、師でもあり、そして……
「なあ、大事な話があるんだ」
「な、何? 」
黎が剣を拾い、地面に腰かけた彼の横に座ったそのとき、彼は唐突に口を開いた。
不意を突かれ、彼女は慌てて視線を向ける。
彼女の意識がこちらに向けられたことを確認し、自分の掌をじっと見下ろしつつ話し始める。
「俺、ここを出ていくよ」
静寂――
彼女は目を見開き彼をじっと見つめる。
僅かなしぐさ、顔に現われる僅かな反応が動揺のあまりに反応に窮していることを匂わせる。
「………………何、で? 」
心の中に広がる動揺を押さえやっとのことで言葉を絞り出す。
「やっぱり驚いたか」
舜水は苦笑し、彼女の頭に掌をおきくしゃくしゃとなでる。
その声はどこか寂しそうだったが決意を秘めた響きだった。
彼女は彼が本気だと理解する。
「当たり前よ。そんな話聞いてない」
彼女は頭をふって彼の手を握りしめる。
彼女は彼がいなくなると考えただけで半身が引きちぎられたような気分になる。
自分の中で彼の存在の占める比重は己にも代えがたいほど重いのはよく理解していた。
ただ彼女は心の中で叫んだ。
嫌だ、と。
我が儘といえばそれまでだが、彼女はそう強く思わざるを得なかった
「話したのお前が初めてだからな」
恐らく悩んだ末に決意したんだろう。
どこか苦々しい表情であるが彼はごくごく落ち着いている。
「ひょっとして寂しいのか? 」
「寂しくないわ。せいせいする」
彼自身、彼女がどう思っているかはわかっていた。
二人は本当に互いを理解していたが故。
強がって軽口をたたく彼女の顔を見て、今まで伝えなかったことを後悔する。
その顔はすぐに背けたのだが、彼女の表情を見て心苦しさを感じた。
「……舜はまだ十七でしょ。戸籍を貰えないよ? 」
それはせめてもの懇願。
「俺がどういう立場にいるかわかっているだろう? 」
しかし、彼は瞼を閉じ首を左右に振り、言い聞かせる。
その言葉に彼女ははっとし、彼の置かれている立場を改めて思い出す。
李家の唯一人の生き残り。
戸籍上はとうに抹消された筈の人物。
今は見逃されているだけ。もしかしたら明日にでも危険視されるかもしれない不安定な立場。
「だから出来るだけ早いうちにここを出た方がいいんだ。皆を巻き込んでしまう前にな。本当はもっと早く出るべきだったがな……」
「……ここを出たら何するつもり? 」
呟く彼に彼女は小さく頷き尋ねる。
戸籍も何もない状態、まだ十七程度の人間が何をできるのか。
答えはわかってはいたが彼女は尋ねてみた。
「剣客として生きるつもりだ」
彼の答えは彼女の予測通り。
剣客、剣の腕一本で仕事を引き受ける何でも屋、当然危険な仕事である。
「そんなの! 」
「危険は承知だ。だがそう簡単に死ぬほど俺は弱くない。そうあろうと努力したんだ」
彼が何故、剣を志したのか。確かに父の影を追っていたのかもしれない。
だがそれ以上に、一人でより早くここを出て生き抜く術を得るためだったのだ。
彼女が剣をならいたいといったとき、酷く驚いた理由もそこにあるのかもしれない。
それが己の独立を遅らせることとなるのは目に見えていた。
しかし、彼は嫌な顔一つせず彼女に剣の手ほどきをした。
予想外といえばそうであったが、やはり、自分とどこか似ているのだと彼はどこかこそばゆい気分になったものである。
瞬く間に腕を上げていく彼女を見て、己を切磋琢磨することもできた故、彼はそのことを後悔はしていない。
対して彼女は責任を感じたのかうなだれている。
恐らく己の鈍さ、不甲斐無さを悔いているのだろう。
彼は慈しむように彼女を見つめその肩を抱き寄せる。
「……お前の気持ちもよく分かる。出ていくのはすぐにって訳じゃない。だからそんなにしょげないでくれ」
彼女は一瞬驚き目の縁に溜った涙を拭き、彼を見つめる。
舜水は彼女を見詰めつつ静かに告げる。
「生まれがどうとかの前に俺には夢があるんだ」
「夢? 」
首をかしげる黎に彼は静かに頷く。
「この手で世の中を変えたいんだ」
「……本気なの? 」
確かめるように、彼女は問う。
彼女自身もこの荒廃した世の中をどうにかしたいとは思っていた。
自分と彼が似ていることは分かっていたし、彼もそんなことを考えるのだろうな、程度は思っていた。
だが、彼の口から直接それを聞くとやはり驚かずにはいられないようだ。
「今の王朝を打ち立てた興王は剣客だったんだ。動乱の時に世の中を変えようとしたのはまず彼等だった。俺もそうなりたいんだよ」
「……」
「とにかくここを出るのは手始めだ。俺はいつか世の中を変える。この青い空が、悲しみの上でなく、喜びの上に在れる世の中にしたいんだ。お前はどう思う? 」
彼の目は真剣そのものだ。
彼女は今まで近いと思った距離が遠くなったように錯覚した。
しかし、同時に理解していた。
どんなに止めても彼はその夢をあきらめることはないだろう。
だから彼女も決意した。
彼の夢を応援し、いずれ己もその後を追うことを。
「……応援するよ。私もこの世の中が変わってほしいと思うから」
未だ波立つ心を沈め彼女は彼に激励の言葉を贈る。
「本当か? 」
「……当たり前じゃない」
舜は彼女の言葉に年相応に目を輝かせる。
「私が舜の味方じゃなかったときなんて無いでしょう。舜が国中を敵に回しても私は舜の味方になるつもりよ」
そんな彼の言葉に彼女はそう言って笑い、彼の頬をつつく。
「お前なら、わかってくれると思った」
彼はその返事に満足そうに笑う。
彼女はその表情にまた複雑な心境になる。
背中を押したいようで、行かないでとすがりつきたくなる。
本音が顔に出てしまいそうで、彼女は顔をそむける。
しかし、その瞬間、抱き寄せられ唇を塞がれた。
しばしの静寂。
「っぷは。突然何?! 」
目を白黒させて、彼女は硬直し腕を突っ張って彼から距離をとる。
「ごめん、つい……」
舜水は申し訳なさそうに頭をかきながら謝る。
彼女は彼の真意を測りかね眉を顰める。
「……いや、別にいいよ」
彼女は彼から視線をそらす。
だが、心の中では彼が接吻したことによる僅かに高揚していた。
「……出来心だ。本当にごめんる」
本当に申しわけなさそうに謝り舜水は走り去って行った。
彼女は呆けた顔で彼を見送りつつ、思った。
己れは舜水のことを異性として好きだったようだ……
今までは何と無くもやもやして、胸にかかえた違和感と向かい合った事はなかった。
しかし、彼の行動から己の気持ちを確認できた。
それから一月――
あれからは別に進展もなく、時だけが過ぎた。
ただ、いつ彼が出ていくかだけが彼女の心配事だった。
その日彼女はいつもと同じようにちびっこ達の面倒をみたあとここに居ついている猫とじゃれていると、後ろに気配を感じた。
じゃれていた猫が心底嫌そうな顔をして彼女の手をすり抜けて逃げて行ったのを見て彼女は、後ろの気配が、その猫になぜか嫌われている舜水だと悟り、振り向いた。
「舜水」
「別れの挨拶にきた」
彼女は恐れていた時が来たのを知った。
「そっか」
「ああ」
交わされた言葉は別れの時とは思えないそっけないものだった。
ただ彼女は思い出したかのように立ち上がり、庭の奥へ駆けて行った。
「……ちょっと待ってて」
それからしばし首をかしげた彼のもとに何かを手にした彼女は戻ってきた。
「これ」
彼女は手に持っていた花を押しつけるように差し出す。
その顔はどこか紅潮しているようにも見えた。
「餞別」
「これは、桔梗か? 」
彼女の細い指と彼のがっしりとした指が触れ合い、小さな花は渡される。
彼の手の中で紫色の五弁の花が揺れた。
「ありがたくもらっておくよ」
彼は目を細めながら花を見つめる。
艶やかな紫色の花弁は質素ながらも、特有の上品さを持つ。
「いつかまた会えるといいな」
舜水は彼女に静かに背を向ける。
「うん、次に会った時はきっと一本とってやる」
その背中に彼女は大きく手をふる。
彼は後ろを振り返らない。
これからやろうとしていることに迷いを感じないと誓うように。
彼の姿が見えなくなるまで見送った後、彼女は己が泣いていることに気付いた。
目に溜った涙を拭き取り、彼女は溜め息をつく。
桔梗―
この花には、こんな花言葉がある。
『変わらぬ愛』
その想いは花と共に彼にそっと手渡された。
気づいてくれなくてもいい。
ただ彼への思いをつたえるかわりに密やかに形にしたかった、それだけだ。
小さな花に託した思い、二人でいた時の記憶。
それは二人の人生の中で何にもかえがたい想い出となる。
そう、彼らの行く末に待つ運命を知った時も――
恋愛ものは得意じゃないのですがどうでしょうか。
ぐだぐだと長く書いてすみません。
というか、真剣じゃないにしろ木剣でどつき合うと普通に死ねるような……
気に入っていただけると幸いです。
感想お待ちしています。