十八、睡淵伝心
蝋燭の薄明かりのみが照らす部屋の臥牀にて女が眠っていた。
ふと部屋に二十半ばほどの青年が姿を現わす。
黒い短髪に猫を思わせる釣り目、首には包帯を巻いている。
入口で足を止め、彼女が目を覚ましていないことを確認し、小さくため息をつく。
そして臥牀に腰かけ、改めてその顔を見下ろす。
数日前、彼を相殺し合い遂に殺せず涙を流した彼女は、彼の腕の中で糸が切れたように意識を失った。無理はない、と彼はその顔を見つめながら思う。
顔色は化粧が落ちた今でも幽鬼のように青白く、眼もとには隈が深く刻まれている。
時折震える瞼や、苦しげに歪む顔は悪い夢でも見ているからか。
おずおずとその顔に指を伸ばし、頬を、髪を撫でる。
七年、時間はその造形を多少は変えたがあの頃の面影は残っている。
「……無理をしていたんだな」
彼女が己を多少顧みない、いや、自ら壊してしまおうと突っ走る癖は理解していた。
そして、目の前の者を望まずとも葬ろうと考える性質も。
何もしてやれなかった己が憎い。
もう少し己が歩み寄ってれば、こうなる前に彼女を救えたのかもしれない。
そう思いつつただ、彼女を見つめ続ける。
「黎」
小さく呼んでみる。
しかし、彼女はうなされるだけで目を醒まさない。
「黎」
もう一度読んでみる。今度は彼女を見下ろす形で。
彼女は僅かに瞼を動かした。
彼は僅かに頬を綻ばせ、もう一度呼んでみた――
――彼女は夢を見ていた
彼女と彼はまだ十を過ぎたくらいの子供であった。
彼と二人で好き勝手に暴れて、雪娥に二人揃って怒られていた。
一通りしおらしいふりをして、終わった瞬間、顔を見合せて全く反省の無い様子で笑う。
彼女と彼は兄弟のように親友のように笑っていた。
そして彼女は屈託のない笑顔で彼に小さな花を渡す。
『ありがとう』
彼はその花、桔梗に鼻を近づけ一度匂いを嗅いだ後、彼女の頭をポンポンと軽く叩く。
彼女は子供扱いしないで、と頬を膨らませつつもその顔は嬉しそうであった。
場面が移り変わり、雪娥が悲しげに二人に手を振りながら、去っていく。
二人は理解できずに追おうとするが不思議なことにそこから足が動かない。
雪娥が消えた後に珊瑚の珠が一つだけついた銀の簪が転がっていた。
彼女がそれを拾って顔を上げたとき、隣にいたはずの彼の姿も消えていて、背後の孤児院は炎に包まれていた。彼女は混乱と突然訪れた孤独に戸惑い、あたりを見回し、彼の名を必死に呼ぶ。しかし誰も答えることはない。
ふらふらと焼け落ちつつある孤児院に向かうと、そこには黒く燻る屍の山があった。
それを目にし、思わず彼女の喉がひぃっと鳴る。
『何故我らを殺した! この化け物が』
その中の一つが荼毘になりつつある腕を伸ばし、地獄の底から響く怨嗟の叫びをあげる。
皮膚が爛れたその顔は楼州で葬った劉という男。
彼の他にも恨みのこもる声で唸るおぞましい屍の顔にはどれも見覚えがある。
そう、全てが全て彼女が屠ってきた者達。
二十歳ほどの女になっていた彼女はたまらず悲鳴をあげる。
『いやぁぁぁ! 』
『今さら何を恐怖しているんですか? 黒鵺』
背後より掛けられた声に振り向くとそこには夜哭の姿。
白い長衣が血に濡れ、その腕には屍が抱えられている。
『舜! 』
その顔を見て彼女の顔色は紙のように白くなり、歯をカタカタと震わせる。
いつの間にか彼女の手には血が滴り落ちる抜き身の黒剣が握られていた。
『貴方が殺したんですよ? 』
『違う! 』
しゃがみ込み目を閉じ耳を押さえ首を左右に振り続ける。
その時、どこからか声が聞こえた。
『誰? 』
彼女はあたりを見回す。
そして声のする方へ走りだす。
後ろから夜哭が、亡者が彼女を引き止めつなぎ止めようと絡みつく。
彼女は構うことなくただ走り続ける。どこか懐かしく、聞くだけで心が温まる声の方向へ。
そして手を伸ばす。
『舜! 』
――伸ばした腕が何かに触れる。
彼女の目がゆっくりと開かれる。
だんだん焦点が定まって行き、己を見下ろしていた青年の顔をその瞳にはっきりと映した。
「舜……」
「おはよう、黎」
黎は、呆けたように呟く。
舜水はそれに答えるように笑いかけた後で、はっと、自分が今かなり誤解されても文句の言えない体制であることに気づく。
しばしの沈黙。
二人の顔が一瞬にして紅くなる。
「何で目の前にいるんだ! 」
叫びつつ彼女は己の身体にかけられていた (ふとん)を頭からかぶる。
「ご、ごめん! 」
慌てつつ、彼は部屋の外まで一気に逃げる。
しばししてそうっと衾褥から、壁から互いのことを恐る恐る観察する。
そして、溜息をつき、黎は上体を起こし、舜水は再び部屋に入ってくる。
「……あの日から何日たった? 」
彼から目をそらすかのように己が両の手を見下ろしつつ黎は思う。
あのあと眩暈がしたかと思ったら、次に意識を取り戻したのが今である。
爪の伸び具合から数日が経っていることは確実であろう。
「六日だ。よほど無理をしていたんだろう」
再び臥牀の傍に歩み寄り舜水は指を折りつつ日数を数える。
「そうかもしれんな」
黎は意外にも時間が経っていたことに驚きつつも自嘲気味に笑う。
「……ここは紅華楼だな」
不意に黎が部屋を見回しつつ呟く。
部屋の造りや、調度には一月の間ここで働いた彼女にとっては見覚えのあるものであった。
衾褥を揺らしつつ彼女は足を動かし、手を目の高さに持ち上げ僅かに顔を顰める。
「そうだが……」
「何故、私は拘束されていないのだ? 」
彼の返答に両の手を下ろしつつ静かに問う。
彼女は状況からして、捕虜。
ここの者達を蹂躙したものと共犯にして彼らの頭を弑そうとした罪人である。
彼女の後ろにつくものを吐かさせるためにすぐに殺されることなくとも、何の拘束もないこの待遇はおかしい。
監視は舜水がになっているのだとしてもだ。
舜水は、えっと、と言葉に詰まる。
そのとき。
「葵沃がさんざん土下座して頼みこんだからさ」
艶やかな声が響き、部屋に新たな人物が姿を現す。
年の頃は三十路に届くか届かぬか。一房だけ紅く染めた黒髪を流れるままに、妖艶に笑う。
「紅蘭」
「嘘は言ってないだろう? 」
非難がましくその人物、紅蘭を舜水は睨むが、彼女はその抗議を一言のうちに叩き伏せる。
「ただ、お前の罪を許したわけじゃないさ、風月。いや黒鵺といったかね」
そしてつかつかと臥牀に歩み寄り、黎を見下ろす。その顔は微笑んでいるようではあるものの同時に強い怒りがにじみ出ている。
「わかっているかい? 」
「わかっている」
黎は少し俯きつつも淀みなく答える。
「ならいいさ」
紅蘭はそう言って腕を組む。
「……そちらの被害はどのくらいになった? 」
俯いたまま黎は彼女に問い掛ける。その声は心ならずか震え頼りなげなものとなっている。
黎は夢に見たようにどこか自分の罪におびえ続けていた。
「ほとんどは軽いもんさ。覇玉と昭庸は重傷だがもう歩きまわっているし、義慶もまあ丈夫なんだろうさぴんぴんしている。ただ命に係わるまでいかずとも、蒼旋は全く起き上がれない状態だよ」
紅蘭は溜め息をつきつつ被害の状況を語る。
そして、何かを言おうとする黎を遮ってさらに言葉を重ねる。
「あんたが何か言う権利は無いさ。すべての判断はあたしらが下す。弁明なんてしようものなら文句なしに死んでもらうよ」
「お前、何を! 」
ぴしゃりと言い放った紅蘭に対し舜水は立ち上がり抗議の声をあげる。
「世の中にゃケジメってもんがあるんだよ。お前さんに敬意を示してこの扱いをしているだけさ」
「だが」
「紅蘭さんの言う通りだ」
まだ抗議の意思を失わない彼を今度は黎がたしなめる。
「……とにかく、義慶を呼んでくるよ」
裁断を下すのはそれからだ、そう黎に告げて紅蘭は背を向け部屋の外へ歩き出す。
「紅蘭さん、本当に済まない」
その背に向かって黎は謝罪する。
「別にいいさ。ただケジメはつけてもらうがね」
そして、と紅蘭は付け加える。
「せいぜい葵沃と久闊を叙しな。どうにもあの時足を痛めたようでね、呼んでくるまで時間がかかるだろうから」
振り向き、にやりと笑い、淀みの無い足取りで彼女は部屋を去っていった。
しばし沈黙し、舜水は気まずそうに黎に話しかける。
「ごめんな。気分を悪くしただろう。あいついつもはあんなんじゃないんだが」
「わかっている。私がやったことを考えれば、あれくらい言われて当然だ」
彼女は自嘲気味に笑い、彼に向きなおる。
その顔はどこまでも寂しげなものであった。
「変わったなお前。昔はもっと明るかった」
そんな彼女を見詰めつつ彼は少し寂しげに笑う。
男の様な言葉遣い、そしてどこか影ある振舞い。
月日は人を変えるといってもその変化は彼にとってとても痛々しく映った。
「失望したか」
「いや、色々背負わせてすまん」
「私こそ、できぬと心の中で分かっておきながら剣を向けた。侘びをどんなに入れても足りぬ」
二人は目を合わせる。
どこまでもまっすぐな瞳。
それはどんなに二人が変わろうが絶えず存在し続ける信頼が宿るものであった。
「綺麗になったな」
「そちらこそ男前になった」
くすくすと二人は笑い合う。
そしてふっと六日前のこと、正確にいうと剣を交えたときに交わした言葉を思い出し、その笑みが引きつる。
「なあ」
「なんだ」
「六日前のあの時」
「言うな」
互いに赤面し俯く。
恋愛沙汰には不器用にもほどがある二人にとっては思い出せば穴があったら入りたい気分になるようである。死を覚悟した状況というのはそのような二人の強固な心の箍を外してしまっていたらしい。
だが、二人が思い口に出した言葉は混じり気のない本心である。
時折逃げようとするように身体を揺らすが、逃げては駄目だとぴたりと身体を静止させる。
それが一刻ほど続いた後黎が、顔を赤らめつつも口を開く。
「……あの言葉に偽りはない」
「俺も。やっとあの花の意味を知ったことだしな」
舜水もぎこちなく笑みながら答える。
やはり気づいていたんだな、と黎は彼の腰の剣の鍔に結わえられた布に描かれた模様を見つめ苦笑する
それからしばし言葉が交わされる。
舜水の今、彼女の夜哭党に組み込まれる前の様々な出来事、昔のように語り合い、笑いあった。それは恋人というより親友といった風情であり、互いの感情を知ることにより恐れていた距離感の変化なぞどこにもなかった。
「あの時私がもう少し強かったら……」
そして会話は次第に二年前のことになる。
己が非力を詫びる黎。自分がもう少し強ければ、雪娥を逃がすことくらいできたのではないか。それはいつも思っていた。
そんな彼女を彼は悲しげに見つめる。
彼女のせいだけではない。己も雪娥が無残な死を遂げるのを見ているしかなかった。
「お前のせいじゃないさ」
慰めるようにただ彼女の背を撫でる。
そして何かを思いついたように口を開く。
「なあ、もし義慶達がお前を生かしてくれ、自由になれたらどうするつもりだ? 」
確証なぞ何もないただの願望。だが彼は彼女にそれだけは聞いておきたかった。
「え? 」
自分が裁きを受け、命を失うことになることを覚悟していた彼女は、想定外の提案にその眼を大きく開く。
そんな彼女に頷き、舜水はあることを提案する。
「もし、もしよかったらだが……一緒に旅に出ないか? 」
それは求婚ともとれる言葉。
黎は完全に硬直し、返答に窮する。
駄目か、と舜水は問う。
彼女はいや、と首を左右に振る。
「……少し考えさせてくれ」
そう言ってふっと笑った。
その時、部屋の外の回廊から音がし、回廊の明かりが僅かに陰り人影が現われる。
全身をくまなくと言っていいほど包帯を巻いた人のよさそうな三十半ばの大男と、髪をこれでもかと複雑に編んだそれより少し若い満身創痍の青年。
義慶と覇玉である。
「失礼するよ」
恐らく、それほど大きな声を出していなかったため、黎と舜水の会話は聞こえていないはずだ。紅蘭の仕業か、実に絶妙な頃合いにきたものである。
義慶は一言断りをいれ、部屋に入る。
覇玉は彼女に警戒の視線を送りつつ義慶につき従うように続いて部屋に入ってきた。
黎は、そんな二人を姿勢を正し静かに見つめる。
やっときたか、と思いつつ紅蘭の気遣いに感謝する。
その視線は先ほどの舜水の言葉があれど、どんな裁きでも受ける心づもりができていることがはっきり分かるものであった。
「さて、風月、いや黒鵺殿。覚悟ができているようでなによりだ」
そんな彼女の態度に義慶は感心したように頷き、笑う。
そして続けて彼女に静かに告げる。
「では、君の所業に対する俺の判断を告げさせてもらう――」
黎と、舜水二人は息をのむ。
そして非常に落ち着いた態度で彼の言葉の続きを待った。
長い話を読んでくださりありがとうございます。
二人の不器用度合いには呆れたものがありますが、お付き合いいただければと思います。
ご意見ご感想お待ちしています。
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