十六、悲壮恋々
黒鵺、いや秦黎は闖入者が舜水だと気づいた瞬間激しく動揺していた。
夜哭の命により殺さねばならない、という心と彼に抱きつき再会を喜びたいという心が拮抗する。
確かに彼女は殺すと決意すると容赦ない質であるし、目の前の人間に対しどうやればもっとも効率よく殺せるかということを常に思考する。
女故、非力であるもののその動きの速さ、効率の良さ、そしてほとんど完全に気配を消すことができることから暗殺者に非常に向いていた。
故に夜哭党という暗殺者の最高峰と謳われる集団で瞬く間に頭角を見せたが、ただ、殺すと決めるまでに非常に躊躇う質でもあった。
『標的以外は殺さない』
それは彼女なりの信念であったが同時に躊躇に対する弁明でもあったのだ。
命令、約定、護身、それらで自らを言い聞かせ彼女は夜哭の下で人を殺めてきたのだが、夜哭はそれを見抜いていた。
『殺すのを躊躇ってはいないか』
図星をさされたとも言えるその言葉は彼女の心に確かに突き刺さった。
だが、夜哭の向けた冷徹な眼差し、いやでも感じる圧倒的な力量差を前にしては否定の言葉すら出なかった。
それ故なのか、やはり舜水に想いを寄せる一人の女としての感情のせいか、彼女はとっさに判断を下せなかった。
ただ脳裏にあの思い出の中の光景が幻燈のように揺らめいていた。
しかし、彼を殺さなければならないという心の深層の叫びがその幻影をかき消さんとし、彼女の心は大いに揺れる。
僅かによろめいただけで、特に表情に変化が無いのはやはり彼女が一流である故か。
「なあ……黎なんだろう? 」
おそるおそる困惑とどこか願いを込めて問いかけた舜水の言葉に心中での葛藤が中断される。
目を見開き剣を握ったままの拳を強く握りしめる。
心の中で一瞬止まった葛藤が再び開始される。
黎として彼に両の手を差し伸べるか、黒鵺として剣を突き立てるか。
しかし、その葛藤はすぐに終わりを告げた。
『これ以上、私を惑わせるな』
心の中で彼女は強く静かに呟く。
それは思い出の幻と、殺意の怨嗟に対する言葉。
どちらにも動かされない、己のことだ、己の意志で全てを決める。
思い出や性質に身を任せるなぞ、舜水に失礼だ。
「舜水……私の最愛の人」
ゆっくりと走り寄りながら、彼女は笑みを零す。
その裏で淡々と呟く。
――私は黒鵺、黎ではない
――故に彼を舜水ではなく葵沃として相対そう
彼のことは今でも愛しい。
今の今まで彼と共に生きられるのなら全てを捨ててもよいと思っていた。
夜哭との約定すらも反故にしてよいと思っていた。
だが場が悪かった。
もしかしたら義慶を暗殺した前や後なら彼を殺そうと思わず、夜哭を裏切ったのかもしれない。しかしよりにもよって彼の仲間である義慶を殺さんとする時に再会するとは……
彼の仲間と敵対し、彼と敵対せぬなど甘いにもほどがある。
所詮は星が違うたのだ。
全ては二年前。
いやあの別れの時から決まっていた。
「死に候え」
――死ね、という言葉ではなく、敵として最大の敬意をこめて。
かつての少女、暗殺者である黒鵺の声はどこまでも冷たく悲しく響く。
その瞳には一瞬青き炎が瞬く。
それは殺意なき殺意ではなく、決意の上の殺意。
彼女の動きが急に加速する。
そして彼女を包む夜の闇に溶けるように長剣がただ一点を目指して振るわれる。
目指す先は――
――かつて、いや今も想い続けている男
刃の向けられし者、かつての少年、葵沃はその言葉を聞き、その瞳が絶望に見開かれ、そして閉じられる。
しかしそれは一瞬。
歯を食いしばりつつ二本のうち一本の剣を鞘ごと引き抜き、黒鵺の刃を鞘で受ける。
「何故! 」
「剣を抜け。葵沃」
黒鵺は淀みなくただただ彼を斬り殺さんと剣を振るう。
まるで舞いを踊るようにその動きに淀みが無い。
己の非力の代わりに持つ速さを存分に生かし、その剣は幻影を思わせるものとなっているがその奥にはかつて舜水の授けた剣筋を宿す。
灼けつくような殺意に葵沃は苦々しげにそれを受け止め続ける。
しかし、舜水は剣を抜かない。
彼女をまだ信じている故。
彼女を幼き時より見つめ続けた彼は、彼女は己が半身とも言える存在であった。
彼女のことは何よりも分かっているつもりであったし、同時に異性としても意識し、いつの間にか好きになっていた。
だから師と仰ぐ人物から示唆され、実際に直面してもこの現実を信じたくなかった。
そしてただただ鞘で彼女の斬撃を受け続ける。
その動きは先を読むように、速さは彼女に劣るが、力と技量でそれを補填する。
「断る。俺はお前と戦いたくない」
そして血を吐く様に絞り出すように彼は叫ぶ。
その言葉にほんの一瞬黒鵺の瞳の奥が揺らぐ。
だが、それ以上何の変化も見せずただ剣を振るう。
「貴方は仲間が傷つけられても構わない腑抜けか? 」
嘲るような調子で彼女は彼を挑発する。
「腑抜けではない! だがお前と躊躇いなく戦うことができるほど冷血ではない」
彼女が自分に戦わせようとしていることは理解できる。
状況を鑑みるにそうせざるを得ないのも痛いほど理解できる。
だができない。
彼はただそう思いつつ叫ぶ。
「お願いだ! もう止めないか! 」
彼の叫びは絶望のためかかすれ今にも血を吐きかねないものとなっている。
しかし、黒鵺はふんと小馬鹿にしたように笑う。
「もうその段階ではない」
「だが戦えない! 」
「なら死ね。安心しろ。一人で逝かせはしない」
剣先を真っ直ぐに彼に向けながら、黒鵺はふっと笑みを浮かべる。
それはあまりに美しく悲しい笑み。
それはもうどうにもならない隔絶の証。
ただ音もなく剣を振るう。
ギンッ
その時先ほどまでの音と毛色の違う音が響く。
「そうなる前にお前を止める。誰も死なせはしない」
僅かに鞘から抜いた剣身で黒鵺の斬撃を受け止め、すっと葵沃の目が細められる。
どこまでも哀しいがどこまでも強いその眼光。
涼しげな音とともに葵沃は剣を抜く。
抜く剣は一本。剣の柄についた長穂が風に揺れる。
己の教えた剣で彼女を迎え討ち、叩き伏せる。
「そうでなくてはな」
彼女もすでに得物はこの剣一本のみ。
先ほどの戦闘の疲労はもう無い。
彼女は今まで戦いにおいて高揚を感じることは無かった。
己の意志で戦う、それが彼女を高揚させ、疲労を消し去っているのだ。
彼女も彼から手ほどきを受けた剣で彼と戦い殺すことを心の中で誓う。
そして彼の後を追うことも……
思いを胸に二人は一気に距離を詰める。
それは七年前の孤児院での最後の手合わせに重なるような情景であった。
しかし、二人は歳を重ねそれぞれ男と女として成長し、その手で人を葬り戦士としては大成している。
そして互いの手に握られるは人を殺めることのできる真剣。
互いの顔に浮かぶのは高揚と悲壮。
国の波乱故に引き裂かれた悲劇である。
「舜水」
「黎」
二人の視線が重なる。
そして、悲壮を湛えたその瞳に暖かい光が灯る。
互いの手には月に白む刃と、月の光りをも塗りつぶす黒い刃。
低く温かみのある声と高く涼やかな声が唱和する。
『愛している』
互いに殺し合う時になって初めて明確に伝えることができた思い。
しかし彼等は後悔はしない。
ただただその瞳を細める。
そして――
音もなく二人が交差した。
交差した瞬間、二人の間に火花が散る。
一瞬背中合わせになり、次の瞬間互いに後ろを向いたまま剣を合わせると同時に向きなおる。
それと同時に再び火花が闇を照らす。
まさに剣花乱舞。
時折剣の軌道を搔い潜り、手刀や足刀が撃ち合わされる。
同じ剣術を会得したにもかかわらず、七年の間に随分戦い方が変化している。
黒鵺はやはり、彼には腕は劣るようだが、それを何とか補っているようだ。
黒鵺は相手を惑わすように剣だけではなく腕や足を自在に操る。
葵沃は長い穂を持つ剣の持つ特性を生かし、力強く柔軟に冷静に黒鵺の攻撃を読み受け流し、穂を使い間合いを操り撹乱する。
過去ではあるがお互いを知る故にどのように剣を振るうかわかる。
互いの瞳に宿る悲壮と敵意を除けばまるで剣舞のようである。
故に勝負はつかない。
「相変わらず強いな」
「お前こそ」
剣を合わせながら二人は笑う。
その間にも剣花は煌き続け、二人は自在に動き続ける。葵沃の蹴りが彼女の腹を抉り、彼女は一瞬むせる。
しかし瞬きする間もなく、彼女はすぐに続けて突き出された刃を受け、接近する。
その顔には悲しいながらも対等の相手に会えたという喜びがある。
――だが、所詮は敵
――殺さねばならない相手
だが。すぐに表情を消し、手に持った剣を振るう。
もう迷いはない。
剣を合わせ拳でいなしただただ互いに戦う。
闇に白の小衫が揺れ、それを追うように無造作に束ねられた髪が流れる。
剣の柄に結わえられた白い布、そこに描かれた五弁の紫花が流れ、耳下あたりで断たれた髪が揺れる。
剣客と暗殺者。
同じ剣の道といえど光と闇、真逆の道を歩む者。
真逆故に強く惹かれて止まぬ者。
惹かれて止まぬが、すでに敵。
一方は仲間を傷つけられ戸惑いつつも憤り
一方は片割れを弑す勅命を受け
玄人にも負えぬ動きで二人はただ舞うように戦う。
その剣先に思いを乗せ。
互いに剣を捧げると誓った未来ではなく、血塗りの現在をその眼に映し。
足を払われ葵沃が体勢を崩す。
そしてそこに黒鵺の追撃が来る。
それを剣で防ぎつつももう一方の腕で体勢を立て直し、足刀を彼女の頸部に叩き込もうとする。
頭を僅かに動かし難なくそれを回避する黒鵺。
次の瞬間には彼女の首筋を剣刃が掠る。
そして剣花が一度散り、二人は僅かに距離をとる。
瞬間、二人の目があった。
奇しくも互いに相手を剣で貫こうとしていた。
互いに苦笑しそのままためらいなく突き出される刃。
互いに剣を持たぬ左手を剣を払わんと振るう。
しかし、互いの剣に互いの手は触れることは無かった。
するり
その手を搔い潜るように、二人は本当に狙いし所に剣を動かす。
葵沃の剣は黒鵺の首筋に。
黒鵺の剣は葵沃の首筋に。
互いに剣を交差させるようにぴたりと刃先を当てる。
ぷつりと刃の添えられた動脈を覆う皮膚の表面が裂け、血玉が滲み一筋の流れとなる。
ほんの少し刃を動かせばたちまち血は奔流となり、互いに死ぬであろう。
戦いの高揚が急激に冷めたように二人の顔には悲壮が貼りつく。
そんな中、二人は互いの顔を見据え微笑む。
「相討ちか」
「それも一興」
互いへの賞賛とこうなってしまったことの諦念の混ざった言葉が交互に紡がれる。
それは始めから決まっていたかのように、彼らの顔は満足げであった。
長い文をお読みいただきありがとうございました。
今回は短めの話になりましたがやや電波気味なのはわかってます。すみません……
ちなみにこの話は魔法、妖術の類は絶対に使用禁止というルールがあったりします。
膂力が人外な気がしますが。
恋愛なのかなんなのかよくわからない状態ですがご愛顧いただければと思います
もし道をたがえたときに早めに気付くのに非常に役立つのでご意見ご感想寄せていただければと思います