十一、滅王と図南
虚無なる絶望、それは滅びへの渇望
揺るがぬ忠誠、それは過去への思慕
八州国中央に位置する花の様な形をした皓州、その州都であり同時に王都でもある遼明。その中心部の丘に存在する官府の上に存在する優雅な宮殿、琳明宮。
その深部、王の寝所である正寝に一人の男がいた。彼は臥牀に腰かけ、傍らの部屋を照らす燭台をぼんやりと眺めていた。
裾の長い被衫に身を包み、背中のなかほどまで伸びた髪は解かれ、そのどこか冷たい印象を与える顔は年齢を悟らせない。彼はしばし明かりを眺めた後、溜息をつき、明かりを吹き消そうとして、ふと止まる。
そして明りから顔を放し、手の平を軽く開いた膝の間で組んで呟く。
「夜哭、いるんだろう? 」
その顔には僅かな笑み。
「ここに」
すると燭台の向こうに人影が姿を現す。
先ほどまでこの部屋には男以外はいなかったはずだがいつ入ってきたのか。
白の地に紅色の萩の染め抜きの長衣は床に敷かれた敷物に広がり、緩く束ねた髪は左の肩から床に垂れる。
そして静かに持ち上げられた顔は狐を思わせる造形をしている。
そう、夜哭である。
明らかに闇にまぎれることに適さない装いに関わらず、難なく王城の奥に忍び込めるのはさすがといえる。
しかし、夜哭の突然の出現に男は特に驚かず、ああ、やっぱり来ていたか、と呟く。
「今戻ったのか? 」
「その通りでございます。主上」
主上、と呼ばれ部屋の主、八州国国主永寶は僅かに口角をあげる。
夜哭もその切れ長の目を細め微笑む。
それは何度となく繰り返されたやり取りであることが見て取れる。
「では、お伝えすべきことを」
夜哭は一礼し改まった様子で楼州でのことを話す。
「……寧州に謀反の疑いがありますが、調べたところどうにも囮の様な気がいたします。どうなさいますか? 」
黒鵺が奪いし楼州の商人劉の書状。寧州州府の謀反を匂わせる内容があったが、どうにも露骨。彼のところから北方、祷州への不自然な物流があったため夜哭はそう判断した。
「今は泳がせておけ」
「御意」
王はほんの少し思考し、同意する。
「……あの命はどうなった」
一通り報告が終わり、王は身を乗り出し、夜哭に問う。
あの命とは鵬が頭領義慶の暗殺である。
他にもいくつか命は下されているが現在最も優先すべき事項。
鵬という集団は、いまいち規模がわからず、しばらく前はその頭領の名すらわからなかった。しかし、その存在は祷州全域にわたり、王が州候へ命じて弾圧しても肝心の中枢には逃げられる、そんなどうどう巡りが続いていた。
州候が使えぬわけではない。何度か首を挿げ替えてみたが全く改善が見られないのが理由といえる。
よって夜哭党に調査するように命じ、やっと頭領の居所を突き止めた。
夜哭党は黒烏、黒鵺をはじめ暗殺を受け持つ者が多いが、諜報も立派な仕事である。
その報告にはこうある。
鵬の目的はただ一つ。
その鳥の名が出てくる故事の通り、南を目指すということである。
何があってもその大事業を成し遂げる。
図南――
ただただ南を目指し、王を斃す。
王は当然危険とみなし頭領を暗殺するよう夜哭に勅命を下したという次第である。
「手練の者共を向かわせております」
一層深く叩頭し、夜哭は答える。
黒鵺と会話していた時と違い、非常に丁寧な口調である。
当然だ。夜哭党は王の子飼い、そして今、彼は王の御前にいるのだから。
「失敗は許さぬぞ」
夜哭は王の念押しにただ静かに頷く。
「して、どの駒を動かした? 」
「黒烏と黒鵺でございます」
夜哭の答えに王はほう、と非常に興味深げに呟く。
彼自身も夜哭党の者共についてはある程度は知っている。
しかし、彼にとってはその人選は意外といえるものであった。
「黒烏は分かるが……黒鵺といえば二年ほど前に連れてきた女だろう? 使えるのか? 」
「ええ、あの女は化け物ですよ。本当に女であるのが惜しいほど」
そして夜哭は楼州での二人の戦いの様子を語る。
王はその話に聞き入り、相槌を打ちながら聞き入る。
「……二年程度で運が良いとはいえ、あっさり負けた相手に勝つとはな」
一通り聞き終わり、王は非常に興味深げに頷く。
「そこがあの女の化け物たる所以です。鵺とは私も実に的を射た名を与えたものです」
「所以とな? 」
その一言に王は非常に興味深げに尋ねる。
「ええ、あの女の性質は……」
淡々と淡々と楽しげに夜哭は黒鵺の心の奥底、無意識の魔物について話し始める。
彼女の強さの根底にあるそれを。
それは殺人の鬼として生れついたものであり、舜水によって武人として変化せしめたもの。
ただの一剣客、しかも女があの焼き討ちの時、彼と黒烏を除いた一流の暗殺者五名を一撃で葬るなぞ尋常の技ではない。
そしてその時に一太刀も浴びせることができなかった相手を二年程度で追い詰めるほどの恐るべき成長率。
恐らく、あと数年で彼女は夜哭を殺すことができるだろうとも彼は予想している。
「……とんでもない者もいたものだな。二年前のお前の行動一体何を血迷ったかと思ったぞ」
お前も女に惚れることがあるのかと后と笑ったぞ、と冗談めかして王はそう言って片目を閉じる。
「いえ、だいぶ駒を減らされましたからね」
夜哭は若干ひきつった笑みでそれを受け流す。
あの時は確かに彼らしくない決断だった。
夜哭にしては、減った駒の補充かつ純粋にその強さに興味を覚えただけだが。
単に無感情な暗殺者達の中で若干退屈していたというのもある。
少なくともあの女は女として舐めてかかると、間違いなく首を刎ねられる。
惚れたのどうのはそれ以前の問題である。
「王の御前に嘘は無いだろうな」
しかし、永寶はまだ夜哭をからかう気でいる。
その表情は、朝議の場を始めに様々な場所で見せる暴君の表情である。
「そして今回あの女にはもう一つ命を下しました」
王宮に巣食う奸計に通じた古狸をおびえさせ、嘘偽りを全てはぎとる恐ろしさを秘めたその表情に彼は動じることなく微笑みつつ受け流し、話題を変えようと楽しげにあることを話しだす。その表情はいつも部下に見せる酷薄な笑み。
「……まさか」
王は彼の性格を読んで呟く。
「ええ、そのまさかです」
「葵沃、いえ、李舜水の暗殺です」
くっくと夜哭は心底楽しそうに笑う。
愛する者を殺させる、あの女はどんな顔をするのだろう。
彼は人の命に対し一切の感慨を浮かべない。
むしろ遊戯をするように弄ぶ。
「相変わらず酷い人間だな」
そんな夜哭の様子に王は心底呆れたように溜息をつく。
「お褒めの言葉と受け取っておきます」
夜哭はただ恭しく優雅に微笑んだ。
そして二人は見つめ合う。
顔こそは違えどその瞳に浮かぶ色は同じ。
全てを喰らいつくさんとする闇の色――
しばし沈黙が流れふっと王が笑みを浮かべる。
「……本当にお前のことは信頼しておるよ。使えぬ臣下共とは大違いだ」
「もったいなきお言葉」
滅王と呼ばれる王の本音ともいえる言葉に、夜哭はさらに深々と叩頭する。
伏せた顔に浮かぶのは心の底からの笑み。
恐らく黒鵺などが見たら我が目を疑うであろう。
そんな夜哭の様子を見ながら王は尋ねる。
「地獄の果てまで俺について来てくれるか? 」
「元より」
何度となく繰り返されたやりとり。
悪逆非道と呼ばれる二人はこの瞬間のみは小説に出てくる賢君と側近の様に見えた。
八州国北東部祷州中央部、州都漓岳の近傍の街、北鶴――
州都近傍故に賑やかなこの街の外れの『紅華楼』という名の酒楼。
街外れ故かその造りは通常の酒楼とは違い質素である。
そこに一人の男が現われる。
長い髪を頭頂付近で一つに縛り、紺色の袍に身を包む。
氷を思わせる冷たい光をその瞳に宿した能面のような表情に乏しい顔。
そして腰には細身の一風変わった意匠の曲刀。
見るものが見ればそれは東の島国の刀であることが分かる。
そう、黒烏である。
彼は一度上を見上げ看板を確認し酒楼に入る。
そして目の前に活気ある空間が広がる。
様々な年齢、職業の人間が酒や菜を楽しみ、談笑する。
五人ほどの娘が給仕をし、時に酌をする。
その中で一際目立つのは、髪の一房を紅く染めた女性。
紅と橙を基調にした襦裙を身にまとい、やや癖のある髪を艶やかに纏めた彼女はまるで大輪の牡丹の様な華やかさと美しさを併せ持つ。
彼女は他の娘たちに指示を出しつつ、ある男に酌をしていた。
がっちりとした大柄のその男は背後の壁に布に包まれた大刀を立てかけ、酌をする女と談笑している。
厳つくはあるが相手に恐怖を与えない顔の彼は、頼りがいがある兄さんといった風情だ。そんな彼らに一瞬目を向けた後、黒烏は店に足を踏み入れる。
帯刀しているものの、この場では珍しくないようで咎められることはない。
「お客さん、ご注文は何にしますか? 」
ひときわ目立つ二人から遠くもなく近くもない十歩ほどの距離にある席に着き、ふうと一息ついた時、右手から声がかかる。
突然ことに彼は刀の柄を右手が触れるが、小首をかしげた少女の姿を目にして手を放し、驚かせるな、と溜息をつく。
「あの……何か失礼なことが……」
十代後半と思しき少女はその丸い瞳を困惑の色に染める。
「皆無。適当なものを頼む、酒はいらぬ」
「は、はい」
無愛想に即答し、慌てて走り去る少女を横目に手を顔の前で組み、俯く。
どうにも彼はこういう場が苦手なようである。
「風月! また注文間違ったね! 」
しばらく経ち、運ばれてきた菜をつまみつつ、突然上がった声に彼は顔をあげる。
すると先ほどの美女があの席を離れ給仕の娘を叱りつけていた。
「申し訳ありません! 」
娘はただただ頭を下げる。
「ったく、入ってから何回目だと思っているのかい? もう一月経つんだよ。飲み込みが悪いにもほどがある。芙蓉が葵沃追っかけてどっかいっちまったから代わりに雇ったものの……」
「その辺にしてあげたらどうだ。紅蘭」
「義慶殿。確かに貴方の言うことはわかりますわ。ですが私にも我慢の限界というものがあるのですよ」
柳眉をしかめつつ紅蘭と呼ばれた女は左手を腰に当て、右手を頬に当て溜息をつく。
「まあまあ落ち着いて」
義慶と呼ばれた男は苦笑しつつ彼女をたしなめる。
「……貴方が言うのなら。風月、もう二度とするんじゃないよ」
「はい……」
念押しされ彼女は肩を震わせ厨房に消えて行った。
そんな様子を見て、黒烏は俯き、心の中で呟く。
あれが……趙義慶。
周りの人間もただの客ではない奴が数名混ざっている。
全体の二割程度だろうか。
彼はそれから自分がどう動くべきか考える。
一月と少し前、皓州と東の州、榎州の境の村で黒鵺と交わした言葉を思い出しつつ。
あの女がたてた策は現在の状況の中で最良に近い案であった。
だが、うまくいくのかわからない。
その時、何者かが彼の背後から囁きかける。
人でごった返しているため誰が話しているのかはわからない。
だが、彼の耳はその声をしっかりと捉えた。
「今が時期だ。できるか? 」
「無論。そのつもりで来たる」
問いかけにほとんど唇を動かさず呟く。
おそらく相手には伝わった。
僅かに後ろに視線を向けるがそこには特に不自然なところのない人々。
だが、彼はわかっていた。
どうやらこの場にあの女もいるようである。
栄えていた酒楼も時間が経つとだんだん人が減り、気づけば客は趙義慶とその周りの人間、そして黒烏のみとなっていた。
娘たちは不要な蝋燭を吹き消し、皿を片づけ始める。
「さて、南を目指す諸君……」
義慶は改まった様子で、残った人間を見回す。
そして、黒烏が目にとまり、近くにいた娘に耳打ちする。
娘は頷き、黒烏のもとへ歩み寄る。
黒目がちの瞳が印象的な彼女は黒烏に一礼し、申し訳なさそうに口を開く。
「申し訳ございませんお客様。店を閉めねばならぬ時間となりましたので……」
声と服装からして先ほど紅蘭にどなられていた風月、という娘のようである。
黒烏は顎で義慶たちを差し、尋ねる。
「疑問。あの者たちはよいのか? 」
「ええちょっと事情がありまして」
風月は申し訳なさそうに一礼する。
そんな彼女に対し彼はその眼を細める。
その瞬間――
一閃。
白銀の何かが煌いた。
風月の右の肩口が裂け紅い液体が吹き出す。
風月は目を見開きそのまま崩れおちる。
「風月?! 」
紅蘭が叫び、それを合図にしたかのように何かが飛来し、蝋燭の明かりが消えあたりは闇に包まれた。
そして黒烏は抜き身の刀を手に目にとまらぬ速さで走りだした。
目指す先は――
――驚きで息をのむ趙義慶
長い駄文を読んでいただきありがとうございました。
今回は主人公ズはほぼ出てきていません。
祷州の酒楼には潜んでいるのでしょうが。
次からは戦闘になります