ホーム
本屋のバイトは結構体力勝負だ。今日も搬入されてきた雑誌をひもで縛って平面棚に重ねていく。
「お、今日かわいいじゃん。夜デート?」
一緒に入っている伊藤ちゃんに言われて、顔を上げた。伊藤ちゃんはフリーターで、小さい劇団の女優をやっている。24で芽が出ないから諦めようかな~っていうのが口癖だ。
「デート……じゃないけどさ、ちょっと待ち合わせをしておりまして」
いつもはTシャツにGパンだったりするんだけど、今日はシフォンのブラウスなんかを着てみた。下にはカーキのショートパンツを合わせている。
「ほう! 男?」
「ま、一応」
「いいね! 智と――とかいったら承知しないけど」
束にした雑誌を順に並べながら伊藤ちゃんが言う。
「智じゃないよ」
「おお!」
グっと言いながら伊藤ちゃんがサムズアップしてみせる。ラブ話は伊藤ちゃんの大好物だ。
こうなると、根掘り葉掘り聞かれるので、伊藤ちゃんの話に水を向けてみる。
「伊藤ちゃんは? 一緒に住んでる脚本担当の子とはどうなったの?」
「――ああ?」
明らか不機嫌になった伊藤ちゃんの眉間に皺が寄る。
な、何があったの!? 伊藤ちゃん……!
「あいつ、新しく抜擢された女優と浮気しやがった……」
おおー、地雷を掘り起こしてしまった……。いや、前から話を聞いていると伊藤ちゃんの彼氏、浮気性なんだよね。で、浮気しては伊藤ちゃんに戻ってくるという、まあなんというか、典型的な「男」ってタイプ。彼氏の理屈からすると、女の子はみんな好きだから味見をしたいんだけど、彼女として愛しているのは伊藤ちゃんだとかなんとか。
ほんとに男って、しょうもないね!
「しかもさ、その子に新しい作品一つ書いてやがんの。今回こそは、もう堪忍袋の緒も切れるっつうの」
やってられない! と側にあった本を持ち上げて乱暴に置く。こら、商品に八つ当たりしちゃだめだー。ということで、乱れた本を直す。
「私のことはいいから、あんたの方だよ。どんな男? 智知ってんの?」
「あー、うん。智のことは知ってるし、智とも知り合い」
「いいじゃん、いいじゃん」
伊藤ちゃんは嬉しそうに目を細める。
「あんた、頑張ってるもんね。いい出会いがあったら、それに乗っちゃいなよ」
伊藤ちゃんは私と智のことを知っている。というのも、元彼の知り合いだからだ。元彼に一回だけ、BARで紹介されたことがあった。すっかり忘れていたけど、バイト先で顔を合わせた時に伊藤ちゃんが私のことを覚えていて声をかけてきた。その時はもう元彼と別れていたし、智のこともバイト先にはごまかせなかったから言うことにしたんだけど、伊藤ちゃんは智のことを元彼やその友達には言わないと約束してくれた。それ以来、親しくさせてもらっている。
それにしても、世間は狭い――。伊藤ちゃんと元彼は地元の遊び友達だったらしい。その伊藤ちゃんとバイト先が同じとは。
「んー、でも向こうはそんな感じじゃないよ。智と遊ぶ方がメインみたいな?」
「はあ? なにそれ?」
「智が懐いてるんだよね。で、それに付き合ってくれてる感じ」
「子どもが懐いている方がいいじゃん。付き合ってくれるってことは、憎からず思ってるんじゃないの?」
「そうかもしれないけど……恋愛対象ではないよ。お互い」
「なんで? すっごい年の差とか?」
「すごくはないけど……5つ差」
「じゃあ、ちょうどよくない? 27でしょ? あー、でもそれくらいで子持ちってキツイと思うかー、男的に。27なら初婚だろうし」
伊藤ちゃんは腕を組み考えている。いや、あの、ガッツリ勘違いしてるんだけど――
そうだよね、年の差って聞いて、高校生とは思わないよね。普通に考えて。やっぱりそれくらい恋愛フラグは立たないよね、普通。
「まあ、少ししたらほとぼりも冷めるよ。久々にメールのやりとりとか、待ち合わせしたりして、ちょっと雰囲気を楽しんでいるだけ」
栄一君にしたら、智がきゃっきゃ懐いてくるから面白いだけだろうし。だんだんほとぼりが冷めて、お互い元の生活に戻っていく。彼には彼の生活があって、私には私と智の生活がある。本来なら交わることのない道になんとなく乗り合わせてしまっただけだ。また道は分岐していく、交差点みたいなもの。
「なんせ、ここラブ成分少ないからねー」
あっつー、と言って、手をうちわに見立ててぱたぱたと顔の前で振ってみせた。バイトばっかりなのに、バイト先には全然出会いがない。この本屋にいる男は店長、既婚子持ち。社員、一人――なんていうか、例外。バイト、学生率高し。他にはフリーター、バンドマン一名と、バックパッカー一人。二人とも恋愛フラグを立てると、家に転がり込んできそうでパスです。学生バイトには、子持ちって知られているので……姉さん呼ばわりされてます。
「少ない。男をもっとよこせー!!」
って叫びたくなるね。
「合コン?」
伊藤ちゃんに言われる。……伊藤ちゃんの知り合いの男紹介してもらうと、元彼に繋がってそうでいやだ。
「パス」
「えー、なんでー。私が行きたいのー!」
って叫ぶ伊藤ちゃんに、慌てて人差し指を立ててしーっと言う。朝だから少ないけど、お客さんがいますよー、伊藤さぁん。
「新しい男漁りのダシにしないでよ」
横目でちらっと伊藤ちゃんを見ると、伊藤ちゃんがばれたか、と舌を出した。
「まあいいけどさ。でも、ラブ成分ほしくなったら声かけてよー。合コンセッティングするよー」
伊藤ちゃんがそういった時に、店長がこっちをみてコホンと咳ばらいをした。二人して慌てて荷台をバックヤードに戻した。それからは忙しくなって、休憩も一緒に入れなかったし、帰りも伊藤ちゃんの方が一時間早かったので、会うことはなかった。
帰り道、智を迎えに行くと智は嬉しそうに駆けてきた。見送りに来た麻子先生に、「今日お出かけですか?」と聞かれて、答えに困った。えっと、やっぱりそんなに気合入ってたかな、今日。ナチュラルな女子大生風を目指したんだけど……。普段がちょっとあんまりにも外見を気にしてなさ過ぎな格好なので。
智は嬉しそうに駅に向かう。
改札口に定期を通すと、なんだかものすごく緊張した。
なんで私、おしゃれしてるんだろう。
栄一君は、智に気を使ってくれるんだろうし。それなのに、私が張り切ってて、馬鹿みたいかも。
栄一君は高校生で、もっとおしゃれな女の子とかクラスや学校にたくさんいて、私みたいなおばさんなんか興味なんてないだろうに。
なに私一人、張り切ってるんだろう……。
今朝はすごくドキドキした。何着ていこうかな? 可愛く見える服ってなんだろうって思ったり、髪形も、前髪をいつもはピンでとめるだけなのに、アップにしてみたりとかして……気合入ってる。
何やってるんだろう、私。何やってるんだろう。
朝は確かに心が弾んでいたのに、今になって急に怖気づいてる。
恥ずかしい。って思ったら、急に足が遅くなる。
「ママ、どーしたの?」
歩調がゆっくりになる私を訝しんで、智がこちらを向いた。
「ううん。なんでもないよ」
慌てて笑顔を作る。智には今日、栄一君に会うことは言ってない。驚かせるつもりもあるし、もしかしたら――からかわれているだけかもって気もしているから。
ホームに降りていくと、栄一君の姿はなかった。そういえば、おんなじ電車とは言ったけど、どこでとか、そんな話はしてなかった。なんとなく、昨日と同じ場所って漠然と思っていたけど。
「きょうは、えーいち、いないね」
すっかりえーいち呼びが気に入ってしまった智が、辺りを見回しながら言う。
「そうだね、いないね。お兄ちゃん、そんなに毎日来ないよ」
笑顔を作りながら言うと、智はあからさまにがっかりした顔をした。
「智、栄一君に会いたかった?」
何気なく尋ねてみると、智が振り返る。
「うん。ぼく、えーいちすきー」
にこにこと笑う智に、私も笑顔を返した。
屈託のない智の笑顔。羨ましかった。智のように嘘のない笑顔で栄一君に会いたい、と思えない私はどこを取っても、ただの保身ばっかり考える「大人」だった。あくまでも自分が傷つかないように、もともと約束をしたわけじゃないから、あんなのからかわれていただけで、自分だって本当は分かっていたから――なんて、頭の片隅で考えている。
結局、高校生の子に振り回されているなんて、思いたくないんだ。
五分経っても、十分経っても、栄一君がホームに降りてくる様子はなかった。
やっぱり、からかわれていたのかも――。そう思って、辺りを見回した。もしかしたら階段の影とか、柱の隅で高校生の子たちがこちらを見て、ほくそ笑んでいるのかも――とまで考えてしまった。そんなことするような子じゃないと思いながらも、――きっと彼はモテる、そんな子が、いい大人がその気になっているのをからかって友達同士で笑っているのかもしれない、そんなふうに考えてしまう。
そうしているうちに、電車がホームに入ってきた。銀色の車体に、オレンジ色のライン。電車が走る風で、髪の毛がふわっと揺れた。同時に心の中がざわりと揺れた。
「智、いこ」
何でもないように、努めて明るく智に声をかける。智は私の手をきゅっと繋ぐと、うん、と一言言って一緒に電車に乗った。
やっぱり、からかわれていただけなんだ。
発車のベルが鳴ると、胸が痛くなった。電車の扉が閉まる。
しまる直前に、扉が一度開いて、それからすぐに閉まった。一度開いた扉からは、誰も乗ってこなかった。電車が走り出して、お決まりの「駆け込み乗車はおやめ下さい」のアナウンスが流れて、車窓を流れる景色は見慣れたものだった。
閉まってしまった電車の扉。
期待していた私の心。
胸が痛くて、鼻の奥がつんとした。
恥ずかしい……私、ほんと、何浮かれていたんだろう。昨日の夜正座しながらメールを打ちかえした時、確かに私、ドキドキしていた。何着ていこうなんて、年甲斐もなくはしゃいでた。朝になって、いつもしないオシャレなんてしちゃって、浮かれてた。間違いなく、今日一日浮かれてた。
でも、からかわれていただけなんて――。
カバンから携帯を取り出してみたけど、メールは一件もなかった。
「ママー、すわるー?」
席が空いていたみたいで、智が座席を指さす。
「ううん。今日は立ってる」
向かい合った人に顔を見られたくなかったから、扉の前に立って、外を眺めた。いつもの景色を見ながら、涙が出そうになった。
「――ごめん、ちょーギリギリだった」
切れた息の声が、後ろから聞こえた。
え?
振り返るより先に、智の声がする。
「えーいちだー!」
弾んだ智の声に、ばっと振り返った。
そこには、両ひざに手を当てて、息を切らせている栄一君の姿があった。
「バス、途中で止まりやがって、走った――、超ー、走った!」
息を整えながら、栄一君が言う。
そんな姿を見て、ほっとして涙が零れそうになったのをごまかすように、吹き出した。
「来ないかと……思った……」
途切れ途切れ言うと、栄一君が顔を上げる。
「ごめ、――約束。俺、今日、超楽しみにしてた」
そして、私を見て笑った。
「――私も、楽しみにしてたんだよね、実は」
栄一君の笑顔を見て、私も笑う。
「マジで!?」
そう言った栄一君の声が大きくて、周りの人がこちらを見る。栄一君がやべぇっと言いながら首をすくめるので、また笑ってしまった。
「でんしゃのなかはしずかに」
しぃっと人差し指を当てる智のしぐさに、栄一君が智の頭をぐりぐりと撫でた。
見上げる栄一君の顔が少し赤くなっているような気がして、私は拳を口に当てて微笑んだ。そんな私の顔を見て、栄一君が笑う。
なんか私、好きになってる。
こんな、会えるのを期待しておしゃれしたり、会えないかと思ったらがっかりしたり、そんなのもう好きなんじゃん。いつの間にかもう、私、栄一君のことを好きになっていたんだ。
「ヤベえ、――超嬉しい、マジで」
智と遊びながら、顔を真っ赤にしてそんなことを言う栄一君の言葉に、心の中で、私もだよ――と呟いた。