改札口
その次の日も、また彼がいた。
ほんっとーに、今までおんなじ電車にずっと乗り続けていたらしい。今日は彼はホームに立っていた。
智が今日習った歌を歌いながら階段を下りていくと、首の後ろに手を当てていた彼がこちらをふっと見た。
「おにーちゃん!」
智は私と手を繋いだまま、彼の姿を見ると急いで階段を降り始めた。
「智! 急ぐと転ぶよ!」
引き留めるけど、そんなのお構いなしに急ぎ足だった。ホームに降りると、ぱっと私の手を離して走っていった。
「またいっしょだ!」
智が嬉しそうだった。彼の前に立って、リュックサックのベルトに手をかけてにかっと笑った。
「おにいちゃんも、おかえり?」
智の中では、グウちゃんをもらったから彼はいい人の部類に認定されたのだろう。わが子ながら、物欲に弱い子だ。
彼はそんな智を見て、クッと笑った。
「まーた、お前か!」
智の頭をくしゃくしゃと撫でる。智はえへへと笑っている。そして、私を見るといつものようにちょっと真顔になって一礼した。
「ごめんなさい、また智が」
「あー、全然」
彼が智の相手をしながら、左手を小さく振る。これ、彼の癖なのかな。
「つか、全然謝んなくていいっす」
照れたように鼻の頭を触りながら、彼が言う。
「お前、ほんとにそれ気に入ってんのな」
リュックにつけられたグウちゃん人形を見て、彼が笑う。
「まえね、ママにいらないっていわれたのー。ぼく、ほしかったのにー」
恨みがましい声で智に言われてしまった。そこまで欲しがるんだったら、買ってあげたよ……と心の中で反論する。あの時、智は何も言わなかった。だからてっきり、次の日になれば忘れてしまうと思っていた。それが、人が持っているのを欲しがるほど、欲しかったなんて思いもよらなかった。
「いやー、俺もいらねっていうかな~」
意地悪そうに言う。すると智は心底驚いたように目をぱちくりさせて、彼を見上げていた。
「ええー! おにいちゃん、センスないな」
「それを言ったら、お前のかーちゃんだってセンスねえじゃねえかよ」
笑いながら智と普通に会話している。
「ままはねー、ぼくのすきなカメンガメレオンのシャツもかってくれないし、おしゃれじゃないんだよ」
頬を膨らましている。
「ちょっと! カメンガメレオンのシャツは絶対買わないよ。ママ、キャラものだけは絶対着させないからね!」
それだけは、私のポリシーだ。幼い時、お下がりのアニメキャラのズックをずっと履かされていて、本当に嫌だった。あの時、自分の子どもが出来たら絶対アニメキャラだけは着させないと心に決めたんだ。洋服をワンサイクルごと買い換えられない。来年のことを考えたら、今流行っているキャラのシャツなんて絶対着させられない。来年には時期外れになってしまうんだから。
「カメンガメレオン――、智、それはやめとけ……」
彼は笑いをこらえるように、ぷはっと息を吐きながら言う。「カメンガメレオン」は何もできない男子高校生がカメレオンの仮面を謎の組織から偶然手に入れ、それを着けることによって、カメレオンのようにいろいろな正義の味方に変身し、敵をやっつける。いろいろな戦士に変身して、敵を倒すうちに主人公は自分のアイデンティテーを確立して成長していく。そして、どうしても倒せない敵が現れた時は、最終形態カメンガメレオンに変身し、悪に鉄槌を食らわせる――という特撮番組だ。今、ちびっ子たちのハートを鷲掴みにしているんだけど、カメンガメレオンの顔って、緑色のまんまカメレオンで、かなりシュールなんだよね。
子どもの世界って、ほんとに分からない……。お母さん、智が生まれてから自分が理解できない世界を理解するように、頑張ってるんだよ、これでも。
智はむうっと頬を膨らませている。
「もう、ママもおにーちゃんもだめっていうの~?」
「当たり前だろ?」
「当たり前でしょ!」
二人の声が、被って、思わず顔を見合わせた。
しばらくお互いの顔を見合わって、同時に吹き出した。
「ないよね?」
「ねえよな?」
その言葉も同時で、またまた吹き出してしまった。
なんか、この子、話しやすいな。今時の高校生なんて、「うるせーババア」とか、「うるせーくそガキ」とかって言うのかなって思ってたけど。いや、偏見だってのはわかってるんだけど。
電車がプラットホームに入ってきたのを見て、彼が電車に乗ろうとする。それに続いていいのか、ためらっていると、智はさっさと彼と一緒に電車に乗ってしまう。
「ちょ、智!」
引き留めようとしたけど、智は彼の手を自然に繋いでる。智、それは警戒心がなさすぎでしょ! でも、二人が顔を見合わせて仲よさそうに話しているのを見て、ダメだよ、と言いそびれてしまった。一歩下がって、智の後ろに立つ。気がついたら、電車がゆっくりと走り出していた。
それにしても、彼は、智の相手なんて嫌じゃないのかな?
「智、おにいちゃんの迷惑になるから行こう」
そう言って手を引こうとする。
「なんで?」
彼がそう言ったので、ぱっと顔を上げた。彼が何を言っているのかわからなかった。私が不思議そうな顔をしていたから、彼がむっとしたのか、もう一度「え? なんで?」と言った。
「全然、迷惑だとは思ってないけど?」
あんまり彼が当たり前にそういうから、思わず体を起こしてまっすぐ彼を見つめた。だって、高校生の彼がこんな小さな子どもと一緒にいるのが迷惑じゃないなんて意外だったから。
「えっと……、迷惑じゃないの?」
言ってから間抜けな言葉を返してしまった――とはっとした。
「はあ、まあ。あ、こいつに、ガムやってもいい?」
そう言いながら、ポケットの中をがさがさと探る。そして、ミント系の板ガムを出した。
「ミントはダメ」
即答すると、
「じゃあ、かーちゃんの方に」
そういうと、はい、とガムを一枚差し出してきた。
「ありがとう……」
ガムを受け取った。
すると、彼が笑った。その笑顔が、智の笑顔みたいに何の屈託もなくて、見ているこっちまでつられて笑顔になりそうになった。
「あ、そうだ」
カバンの中をごそごそと探る。白い包装紙に赤のリボンと、青のリボンのラッピングをしたプレゼントを二つ彼に渡した。
「何、これ?」
差し出されたものを素直に受け取った彼が、袋を見る。
「グウちゃんの、お礼」
短く言うと、彼は、ん? と首を傾げた。
「なんで、二個?」
「えっと、君と、彼女の分と二つ」
すると、彼はむうっと顔をしかめた。
「俺、彼女いないっす」
白状するようにはい、と手を上げる。
「あれ? グウちゃんくれた子って彼女じゃないの?」
すると彼の顔が真っ赤になった。
「あれは、ただの同クラなだけ」
真っ赤な顔をしてムキになって言い返してくる。
……って、もしかして、あの子のこと好きなのかな??
そう思ったら、なんか、胸がきゅんとした。高校生の男の子が、クラスメートの子が好きって、青春じゃないですか。甘酸っぱいな~。
「青春?」
首を傾げると、
「何が!」
って反論された。
次の駅に止まった時、電車が大きく揺れた。少しよろけた私の腕を、彼が自然に掴んだ。
「大丈夫? って、前も同じシュチュあったね」
左手で智と手を繋ぎ、右手で私の腕を支える彼を見て、高校生と言えど男っすね、と感心してしまった。
「あの時も、ありがとうございました」
真面目な顔をして頭を下げると、彼がいえいえ、と笑った。
「ちょっとー! ふたりだけでおはなししないのー! さとるもいれるのー!!」
二人の間に智がにゅっと顔を突き出してきて、その言い方がかわいくてつい笑ってしまった。
「悪い、智!」
彼が智の頭をポンと叩いた。ごく自然に智に接するしぐさがとても嬉しかった。
「もう、なかまはずれはだめなんだよ」
保育園でいつも言われているのだろうセリフを智が言う。
「仲間外れなんてしねえよ。ほれ、智。次で降りるぞ」
彼は当たり前にそういうと、智の手を繋ぎ直す。なんか、すごく物慣れている。
「君、何でそんな小さい子の相手してくれるの?」
今時の高校生でそんなことできるのなんて、珍しい。
「――栄一」
ぼそっと彼が呟いた。
「え?」
「や、俺、田所栄一って言うんで。君ってやめて?」
意外な返事が返ってきて戸惑った。
「田所君?」
「まあ。えーっと、俺、友達から栄一って呼ばれてるんで、そっちで呼んでもらえると、嬉しいっす」
そっぽを向きながら、彼の横顔がちょっと照れた気がした。今にも沈みそうな夕闇のせいか、頬が赤い。
「えーいち?」
智がひょこっと顔を出して言う。
「お前がえーいち言うな。お前はおにいちゃんって呼んでろ」
智の頭をぐりぐりすると、智が痛い―とふざけて叫んだ。
その様子がまるで小さな子どもたちがじゃれ合っているようで、とても可愛かった。なんか、本当に智みたい。
「ママ、えーいち、おこる!」
子どもって、こういうところだけ順応力高いんだよね。
「っと、私も栄一君て呼んでいいかな?」
そういうと、彼はちょっとだけ真顔になって頷いた。それからすぐに、笑顔を作ると智に、おら! と掛け声をかけて、頭をわしゃわしゃと撫でていた。
銀色の車体のオレンジラインの中央線が、ゆっくり八王子駅のプラットホームに流れていき、ブレーキをかける。
ああ、もう終わりだ。
電車がついて、ホームに降りたらそれでおしまい。
それは少し、寂しい。
もう少しだけ、彼とのこの空間を共有したい気がした。
このまま別れてしまうのは、なんだか少しもったいない。
扉が開く。人の流れがホームへ向かい、私たちもそちらへ足を向ける。
栄一君は、今日は足早に人を縫って行かない。
私たちに歩調を合わせて、付き合ってくれている。
人ごみが途切れてから、智を真ん中にして、三人で手を繋ぎ、階段を上る。
お互い、だんだん無口になっていく。
何か話そうか、話してももう別れの時は近づいてくる。そう考えると、言葉は出てこなかった。
階段を上りきって改札が見えるとき、ふと栄一君を見た。
栄一君は智に保育園の話を聞いている。今日何して遊んだんだ? とか、そんな感じで。智が笑顔で答えている。
二人の会話をもっと聞いていたいと思う。
だけど、現実は目の前に合って――。私はバイトに行かなければならない。
楽しい時間は終わる。
改札を抜けたら、手を振って、そこでお別れ。
「あ、あのさ、栄一君」
勇気を振り絞って声をかける。
「ん?」
「私でよければ、恋バナとか聞くよ! 好きな子、いるんでしょ? 相談ってほどじゃないけど、一応栄一君より年の功だからね!」
ちょっと偉そうに言うと、栄一君がぷはっと笑った。
それから少し首を傾げてこちらを見る。
「えーっと、俺、好きな子いるって言ったっけ?」
「同クラの!」
「……」
栄一君の動きが止まる。それから少し逡巡してからため息を一つ吐いた。
「年の功、ちょーあやしっす……」
ちょっと呆れながらそういうと、
「じゃあ、メアド教えてくれる?」
と言ってきた。
「え? メアド!?」
私はその言葉にびっくりして、立ち止まってしまった。腕を引かれた智が驚いて私を見上げる。
「じゃないと、相談できないじゃん」
「あ、そっか」
私は鞄をごそごそと漁ると、携帯電話を取り出した。
高校生って、ほんとにすぐメアド聞くんだ~と感心してしまう。そういえば、合コンでメアド交換とかも結構あるもんな。二人で携帯を突き合わせて、赤外線の送受信をし合った。
「うっす。じゃ、また」
ちょっと照れたように彼が片手を上げると、改札を抜けていく。改札を抜けてから、智と手を繋ぎ直して、栄一君と別れた。
「智の相手をしてくれてありがとう」
そういうと、少し振り返って、片手を上げる。智が「おにいちゃん、ばいばーい!」と手を振った。栄一君は笑顔だった。
そして、まっすぐ歩いていく。
かちんと万華鏡のように、改札の向こう側の風景が自分と重なり合ったような気がした。
繋がるはずのない栄一君と私が、繋がったことが不思議で、携帯のメアドを何度も見返した。