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改札口の向こう側  作者: maruisu
第一章
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高尾駅発

駅名は実際の駅名を使用させていただいていますが、公共機関以外の建物を含め、あらゆる人物・団体等は全てフィクションですので、ご了承ください。

「お疲れ様でーす」

 声をかけて、外したエプロンをカバンの中に入れながら、スタッフルームから出る。

「お疲れ様―」

 事務室にいた店長と、チーフの神田さんに声をかけられて片手を上げた。

 やばい。もう6時10分過ぎてる。早くしないと、30分には園に着かないと、まずい。

 外に出ると、急いで保育園まで走った。

 

 私は、今から3年前、男に捨てられた。

 捨てられた後に自分が妊娠しているのを知った。自分を捨てた男に連絡をしようと思ったけど、どうしても連絡する気は起きなかった。


 だって、別れた元彼は最低野郎だったし。


 かなり軽い奴で、いろんな子と浮気してた。浮気だけなら構わなかった。

 だけどお決まりの「彼女の友達」に手を出すようなやつだったから、キレてこっちから別れた。それに関しては後悔してない。

 ほんっとに。あいつはただのヤリチン野郎だって、その時にはもうわかっていたから。


 最後の「彼女気取りでウザ!」って言葉には、怒りを通り越して涙も出なかった。彼女だと信じていたし、そう言っていたじゃないか。ウザがられていたとは。

 結局、私の独りよがりだったってことだ。


 だけど、子どもが出来てたら話は別だ。


 別れたことを後悔した。したけど、どうしようもなかった。

 子どもが出来た――私がそう告げたとして、奴が「じゃあ結婚しよう」とか「子どもを産んでくれ」とかって言うはずもないのは簡単に想像できる。


 しかも想像できる奴の言葉としては「は? それほんとに俺の子?」「金なら出すからさ、堕ろしてよ」そういうのが、関の山だった。


 ……なんていうか、人として最低?


 だから子どもには父親が必要だと思ったけど、奴が父親というのはどうしてもダメフラグにしか思えない。よりを戻す気にはどうしてもなれなかった。だから、連絡は出来なかった。


 そうなるとやっぱり一人で育てるしかない。

 別に、子どもに思い入れがあったわけじゃない。どうしても産みたかったわけでもない。ちらっと、堕ろそうかな……って思ったこともあった。けどね、私はどうしても人殺しにはなりたくなかった。

 命は大切――そうやって育ってきたのに、自分にとっていま必要な命かどうか分からないから、とりあえず堕ろそうっていう考え方が、どうしてもできなかった。きれいごとみたいだけど、本当にそう思ったんだよね。だから、一人で育てるしか道はなかった。


 もちろん両親は大反対だった。まだまだいろんな未来が私にはあるんだから、子どもに縛られるのはどうか、と言った。両親の主張ももっともだったけど、堕ろした罪悪感を抱えるのは自分だ。いくら両親が私のことを嘆いても、親が堕ろすわけじゃない。私の中に生まれるであろう罪悪感や、焦燥感を肩代わりしてくれるわけじゃないから、頷くことがどうしても出来なかった。


 そんな私に両親が業を煮やしていたのも知っている。だけど、自分で決めた事だから仕方なかった。


 産まれた(さとる)も本当に可愛かった。子どもが大事かどうかわからないなとか、産まれてから可愛がれるかな、と言った不安は産まれてしまったらどうでもよくなった。

 可愛かった。これが私の子か~ってしみじみした。

 その日から智は私の一番の宝物だった。


 陳腐な言葉だけど、それ以上の言葉は浮かばないんだよ。

 本当に、可愛くてかわいくて、世のお母さんたちが「子どもが大事。わが子は半身」っていうのが分かった気がしたんだ。


 智は私の一番だった。


 で、その智を迎えに行かないといけない。今日は雨が降っているから、カサが必須だ。ロッカーに入れておいた私のビニル傘と智のカエルの傘をちゃんと持って、走った。

今傘を差しちゃうと、ガードレールの脇をすり抜けて走れないから、傘は二本とも手に持ったままだ。

 少し雨に濡れてしまったなと思いながら保育園のベルを鳴らすと、担任の麻子先生が顔を出した。


「あ、智君のお母さんお帰りなさい」

 と言って、智を手招きした。麻子先生は一つ上の23歳で、まだ新任の先生だけど優しくて智は大好きだ。

去年一年間智のクラスの副担任で、そのまま三才児クラスのきりんぐみの担任に繰り上がった。そのおかげで子ども達は混乱することなくすんなり先生に懐くことができた。こういう配慮をしてくれる保育園だから、無認可だけどここにしたんだ。ちょっと料金高いんだけど。


 智がお帰りの支度をして、ママーと玄関に飛び出してきた。

「智!」

 手を広げると、まっすぐに腕の中に駆け込んでくる。その姿がかわいくて、ぎゅっと抱きしめた。

「今日、智君お母さんの絵を描いたんです。カバンに入ってるんで、おうちで見てあげてくださいね」

 麻子先生がにっこりと笑った。


「え? 智、ママの絵を描いたの?」

「うん! ママのね、ごはんつくってるとこ。さとるのすきなハンバーグ、こねこねしてるの!」

 はにかみながら、少し胸を張る。褒めてもらいたくて仕方がない智の様子に、頭をぐりぐりした。

「あとで見せてね」

 智のほっぺに頬をくっつける。智がにっかりと笑う。麻子先生も私たちの様子を見て、微笑んでいる。


「智君とお母さんは本当に仲良しですね」


 麻子先生が笑う。そりゃそうだ。私たちは母一人子一人ってやつだ。お互いがお互いを必要としているんだから、仲良くならないでどうするってところだ。

「智は、私の宝物ですから」

 私が智を見て微笑むと、智は鼻息を荒くする。

「ママはさとるのだいじだいじなの!」

 にっかりと笑う悟がかわいくて、またも頭をぐりぐりした。

「智くんは、お母さんに大事にされてるのが分かります」

 麻子先生の言葉が、少し引っかかる。


「……あの、大事にされてないような子でも、心当たりがあるんですか?」

 つい、聞いてしまった。確かに、同じクラスの子どもの一人にちょっとだけ、虐待らしき跡を見ることがあって、気にはなっていた。

だけど、お母さんが否定していて保育園の方でもフォローに入っているのなら、保護者としては大騒ぎしてはいけないくらいの分別は私にもあった。


 私の言葉に、麻子先生ははっと笑顔を作り、「そういうわけじゃないんですよー」と白々しく否定した。その一瞬で、こっちは読み取ってしまった。口には出さないけど。智が出来てから、そんな人間関係が増えてきた。

 見て見ぬふり、じゃないけど、必要以上に首を突っ込まない。話題にしない、スルーするような関係。所詮保育園でのママさん関係なんてその場限りといったルールで動いている。仕方がないんだけど、繋がりがちょっとだけ寂しいなと思ってしまう。

 それを先日友達に話したら、「おばさん思考だよ、それー」と笑われてしまった。

 最近、学生の友達と話が合わない。みんな就職活動真っ最中だしね。仕方ないよね。


「やば、智、急ぐよ」

 保育園を出て、空を見上げてから携帯の時間表示を見た。

「ママ、きょう、おしごと?」

 智に聞かれる。


「うん。智は駅でおばあちゃんとおうちに帰ってくれる? ママはそのままお仕事だから」

 智の頭を撫でながら言うと、智は憮然とした顔をしている。「ん?」と顔を覗き込むと、むっとしていた。

「……ママ、えをみてくれるっていったのに」

 あ、そっか。さっき保育園で約束したっけ。

「みるみる。大丈夫だよ。電車の中で見ようか?」

 そういうと、智は憮然とした表情のまま頷くしかなかったようで、小さく頷いてみせた。


 ――いつも、こうやって智に我慢させているのも知っている。だから、智も最近は無理を言わない。助かるなって思う半面、智のためにはこれじゃよくないってのも知ってる。

 だけど、我慢しないと生活ができないから、智に無理やり飲み込ませているんだ。いい子だねって言って。


 ごめんね、智。そうしないと、ママお仕事行けないから。お仕事しないと、智ご飯食べられないんだよ。保育園にも行けないんだよ。そう言って、智にいろんなことをあきらめさせている。


 智と私は、二人で一つの智の小さいカエルの傘を差して駅まで歩いた。改札を抜けると、通路はいつもより混んでいた。

 今日は雨が降っているし、ちょうど六時頃は帰宅のサラリーマンや高校生で、溢れている。

 高校生が、ちょうど部活が終わる時間か――。そうすると、電車が混むからいやなんだよね。しかも、学生はうるさいし。あんまりおんなじ電車に乗りたくないな。


 ふぉんと音を出しながら、オレンジ色の中央線がホームに入ってくる。混んでいるといやだな、今日は雨だし、そんなことを考えながら、智の手を引いて電車に乗り込んだ。幸い智は電車が好きだから、座れなくても扉の窓から外を覗いて喜んでいる。

 私が高校生の頃は、車窓からOKAのマークが良く見えたんだけどな。もうなくなっちゃった。

 その跡地を見るたびに、もっと老けてから思い出しても、ここにはOKAのマークがあったんだな、って思うんだろう。


 外の景色を見ていた智が、カバンをごそごそと漁り出した。

「あった!」

 勢いよく出したのは、保育園で書いたという絵だろう。高々と腕を上げて取り出すと、「ママ、はい」と渡してきた。

 私を見る智の顔が、「見て、見て!」と言わんばかりで私を見るので、また可愛くなってほっぺを両手で挟んだ。

「みゃみゃ、いひゃひ」

 むごむごという智がかわいい。紙を受け取って、中を見るとクレヨンでカラフルに書かれた女の子の絵が描いてあった。にこにこと笑う女の子の顔からびよんと腕が伸びている。

 かなりシュールだけど、この年頃の子はこういう絵を書く子も多いみたいで、参観日に壁に貼られた子どもたちの作品を見ると、結構そういう絵が多かった。顔から手足が伸びていて、シュールでかわいい絵だった。


「わー! これ、ママ?」

 真ん中の大きく書いてある顔を指さすと、智が「うん!」と元気よく返事をした。

 智が頷いたのとほとんど同じタイミングで、電車が進行方向から向かって右側に揺れた。手すりにつかまっていなかった智は「わ!」と小さく驚くと、足がもつれて右側に転がって行ってしまった。

「智!」

 人にぶつかって、転ぶかという時に、智の体がひょっと支えられた。智はいきなり腕を掴まれてびっくりして掴まれている腕を見てから、掴んでいる相手の腕を下から見上げていった。


「ママ!」

 怖がる顔をして私の方へ顔を向けた。

 私も驚いて、智の掴まれた腕を見上げると、そこには同じ駅の改札口を挟んで私の職場とは反対側にある高校の制服を着た男の子が立っていた。

 ぐっと智の腕を掴んでいる。


「すみません」

 慌てて頭を下げると、高校生は耳につけていたヘッドホンを外した。

 智を掴んでいた腕を離す。すると、智は怖かったのか私にしがみついた。

「ママ!」

 ぎゅっと足を抱きしめている。


「転ばなくてよかったね。お兄ちゃんが助けてくれたんだよ」

 智に言い聞かせるように言うと、智は私の足ごしにちらっと男の子の顔を見た。

 今時の少し茶色い髪の、背の高い男の子だった。右肩に学校のカバンをかけて、夏服の白いシャツの裾を出してた。

 そんな今時の男子高校生が智を助けてくれるとは思わず、少し驚いてしまった。けど、それを顔に出さないように一礼する。


「ありがとうしようね」

 そういうと、智は「ありがと」と短く言って、そっぽを向いてしまった。

 転がった拍子に落っこちた絵を拾ってくれると、はい、と手渡された。

「あ、ありがとうございます」

 お礼を言うと、彼は小さく頭を下げた。

 その時、また電車が大きく揺れた。

「わ!」

 私は頭を下げていて、手すりや吊革にも掴まっていなかった。電車が揺れた拍子に、転びそうになった。

 やばい! このままじゃ、智と一緒に転がっちゃう。

 咄嗟に何かを掴もうとした。こんなところで転がったら、智が潰れちゃう。

 慌てて手を伸ばそうとしたら、それより早く、今度は男の子が私の腕を掴んでいた。


「大丈夫?」

 

 そういうと、電車の揺れが落ち着いてから、ぱっと手を離した。

 咄嗟のことに、言葉が出なかった。


 転ぶかもっていう心臓のバクバクと、智が潰れるかもっていう冷や汗と、こんないまどき風の高校生の子が助けてくれるなんて思わなかった驚きで、いつもの三倍以上心拍数が跳ね上がってる。

 それより何より、こんな電車の中でこけそうになったのが恥ずかしかった。


 多分、顔が見る見るうちに赤くなっていると思う。顔なんて上げられなかった。

 年下の男の子に、助けてもらうなんて。


 バクバクしている。

 深呼吸して落ち着こうとしていると、

「ママ、ありがとうでしょ?」

 智に言われ、はっと我に返った。


 そうだ、さっき智にそう言ったばっかりだ。


「すみません、ありがとうございました」

 慌てて頭を下げると、彼はまた小さく頭を下げて、ヘッドホンを耳につけた。

 彼の音楽プレーヤーからシャカシャカと軽快な音が漏れていた。

 彼はその音に没頭するように、無心に窓の外を見てリズムを取っていた。


 これ以上は、話しかけるなってことか。


 私は小さく頭を下げて、智の手を引いて反対側に移った。


 立っている彼を智に話しかけるついでのように、さっと見る。

 彼は何事もないように吊革に無造作に手を突っ込み、音楽を聴きながら窓の外を見ていた。


 彼にとってはいつも乗っている電車の、いつもの帰り道。

 変な親子がコケそうになっていただけの、何気ない日常。

 

 そう、私にとっても何気ない日常になるはずだった。


 電車はちょうど八王子駅に着いて、降りる人の流れに智とはぐれないように、しっかりと手を繋いだ。

 何気なく、男の子の方を見る。彼はちらっと智を見る。智は彼に手を振っていた。

 私も智と一緒に少し頭を下げた。

 そして、電車から降りる。


「智、行くよ」

 ホームに降りると、人の流れがすごいから気合を入れて歩き出した。

 智も一生懸命大人の足の速さに合わせて小走りで進む。

 

 ごめんね、智。ママがお仕事してなかったら、こんな時間にこんな混んでいる電車に乗らなくても済んだのにね。

 いつもレジから見る児童書のコーナーを思い出す。


 カラフルなお母さんたちの洋服と、幅を取る大きなベビーカー。その中で、幸せそうにまどろむ子どもたち。

 お母さんに本を読んでもらうことをねだる子どもに、お母さんたちはその願いをかなえてあげる。

 とっても優雅なしぐさで。


 おんなじ母親なのに、なんだか別の世界の人たちのようだった。

 まるで別の世界の親子のようだった。


 考え事をしながら歩いていたら、人ごみに押されてしまい、流れに逆らわないように智と歩いた。


 その横を、彼が通り過ぎていった。

 人の流れを縫うように、ヘッドホンをつけてポケットに手を入れて歩いていく彼。


 その姿がとっても自由に見えて、つい、その後ろ姿を見送っていた――。


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