「あの子は体が弱いから」と幼馴染みを優先する婚約者に、隠していた余命を告げてみた
「エミリア、君がそこまで思いやりのない人だとは思わなかった」
舞踏会が始まってから一時間も経たないうちに、私の婚約者はそう言い放った。
今日は王宮で開かれる舞踏会の日だった。王族をはじめとする高位貴族たちが出席する重要な催しということもあり、私も数日前から準備に余念がなかった。
アクセサリーを選び、髪型を決め、婚約者と最初の曲を踊るのが慣例だったため、彼が好きだと言っていた色まで考慮してドレスを仕立ててもらったほどだ。
そうして迎えた今日だった。
そして今、私の婚約者は別の女性と一緒に会場を出ようとしていた。
「ごめんね、急に具合が悪くなってしまって……」
「君が謝る必要はないよ、マリアン」
マリアンの顔は青白く、唇からはほとんど血の気が失せていた。片手で胸元を押さえ、まともに立っていられずノエルに寄りかかっている様子を見る限り、体調が悪いという言葉自体は嘘ではなさそうだった。
婚約者の幼馴染である彼女が、実際に病弱だということは私も知っていた。幼い頃から何度も病気を患い、季節の変わり目には何日もベッドから起き上がれなくなることもあると聞いていた。今日のように大勢の人が集まる場所では、突然体調を崩すことも珍しくないらしい。
けれど、いつもこうだった。
最初の曲が始まる直前、ノエルはマリアンを支えながら私のもとへやってきて、当然のように、途中で退席すると告げた。周囲の貴族たちの視線が私たちに集まり始めたのは、当然の成り行きだった。
婚約者である私を一人、舞踏会場に残して幼馴染の世話をしに行こうとする彼を、私は小さな声で引き止めた。すると返ってきたのが、先ほどの言葉だったというわけだ。
「ノエル、でも最初の曲くらいは踊ってから出るのが礼儀じゃないかしら? それに、婚約者の私を置いて、ほかの女性と二人きりで会場を出るのは、あまりいい印象を持たれないと思う。だったら、私が侍従を呼ぶから……」
「マリアンは知らない人に世話をされるのが苦手なんだ。僕がそばにいてあげたほうがいい」
「それなら、マリアン嬢のご家族か専属侍女に連絡するのはどう? あなたが直接行かなくても、適切な対応はできるはずよ」
「エミリア」
ノエルの声が一段低くなった。
彼がそんな声を出すときは、決まって話が悪い方向へ進む。
表向きはいつも礼儀正しい彼だったが、自分の意に沿わないことがあると、途端に我慢が利かなくなるところがあった。
「マリアンは体が弱いんだ。少しくらい理解してくれてもいいだろう?」
少しくらい理解してほしい。
彼からその言葉を聞くのが何度目なのか、今となっては数えることさえ難しかった。
約束を取り消すときには、決まってその言葉がついてきた。
あの子は体が弱いから。
彼にとっては、いつだって私よりマリアンが優先だった。二人が長年の友人であることも、ノエルがそんな友人を放っておけない性格であることも知っていたから、最初のうちは素直に譲っていた。
けれど、私が一歩引くたびに、譲ることはいつしか当たり前になっていた。
それを指摘すれば、私は決まって自分のことしか考えない、わがままな女になった。
「マリアンが毎日どれだけ大変な思いをしているか、君だって知っているだろう? 健康な君が、もう少し気を遣ってあげてもいいんじゃないか?」
その言葉を聞くたびに、私は奇妙な気持ちになった。
彼が、私の健康をそこまで信じ切っていることに。
我が家の歴史を遡れば、代々、膨大な魔力を持って生まれた魔法使いが少なからず名を連ねている。
その素質は特に女児に現れやすく、その中でも私は特別だった。
生まれつき、異常なほど魔力量が多い体質。
魔力を扱うことに関しては天賦の才といえるけれど、その分、身体にかかる負担も大きい。
私の病は、そこから始まった。
幸いなことに、我が家ではこの病を代々管理してきた。
完治は難しい病ではあっても、定期的な検査と治療を欠かさなければ、十分に寿命を全うして生きていくことができた。私も同じだった。
ただし、それは何の制約もなく生きられるという意味ではない。
それに――。
「……エミリア?」
「あ、ごめん。少し考え事をしていたの……そうね、マリアン嬢はずいぶん具合が悪そうだし、早く行ってあげて」
私があっさりと引き下がると、ノエルはかえって眉をひそめた。
「最初からそう言ってくれればよかったのに」
「……え?」
「いや、もういい。今はマリアンが優先だから。この話はまたあとでしよう」
ノエルはこれ以上話す必要もないとばかりに、マリアンの肩を抱いて背を向けた。
彼の腕に寄りかかりながら歩き出したマリアンは、ふとこちらを振り返った。
私と目が合うと、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。けれど、その表情にはどこか見慣れた余裕がにじんでいた。私がまた譲ってくれると、すでにわかっている人の顔だった。
彼女は見せつけるように、ノエルの腕にいっそう強くしがみついた。
二人の姿が会場の外へ消えるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
やがて、オーケストラが最初の曲を奏で始めた。
私はしばらく音楽に耳を傾けながら、考えにふけった。
今日なら、ちょうどいいのではないかしら。
私は近くにいた侍女を呼んだ。
そして、彼女に一通の封筒を手渡した。
中に何が入っているのか、彼女はすでに知っていた。
この数か月、一緒に準備を進めてきたことなのだから。
******
どれほどの時間が過ぎただろう。二人が姿を消してから、三曲の演奏が終わった。
いつもなら、ノエルが戻ってくるまでおとなしく壁の花になっていたはずだ。
けれど今回は、三曲とも別々の男性と踊った。
三人とも、私がノエルの婚約者だと知っていた。
それでも、ダンスを申し込むことにためらいはなかった。舞踏会で婚約者が少し席を外したからといって、ほかの人と踊ってはいけない理由などない。
むしろ、婚約者を一人残して別の女性を連れ去ったノエルのほうが、礼儀に反する振る舞いをしたことになる。
やがて、ノエルが姿を現した。
彼はマリアンの肩を抱きながら、ゆっくりと会場へ戻ってきた。マリアンの顔色は先ほどより少しよくなっていたものの、相変わらずノエルに身体を預けていた。
二人は会場を見回し、すぐに私を見つけた。
「エミリア、こんなところにいたのか」
「踊っていたのよ。ふふ、久しぶりに楽しかったわ」
「……そうか」
私がほかの男性たちと踊ったと聞いて、ノエルは一瞬、どこか不快そうに眉を寄せた。
すぐに表情を取り繕ったけれど。
「ねえ、ノエル。少し話したいことがあるのだけれど」
「マリアンはまだ完全に回復したわけじゃないんだ。長くここを離れるわけにはいかない。話ならあとで……」
「それなら、ここでも構わないわ」
「え?」
「大切な話なの。本当なら、こんな人目のある場所でするつもりはなかったのだけれど……どうやら、二人の考えは違うようだから」
周囲の人々の視線がこちらへ向き始めたのを感じた。
王宮で開かれる舞踏会だ。多くの貴族が集まる場で声を荒らげるのは、あまり好ましいことではない。
けれど、私が静かに話そうとするたびにノエルはその場を離れ、あとで話そうと言うたびに、その約束を忘れてしまう。
だから今回は、彼がこれ以上先延ばしにできない場所で話すほうがいいのかもしれなかった。
「ノエル様、どうか私との婚約を破棄してください」
音楽は止まっていない。それなのに、不思議と周囲が静まり返ったように感じた。
ノエルは何を言われたのか理解できなかったように、瞬きをしながら私を見つめた。
「いきなり何を言い出すんだ、エミリア!」
ノエルの声には、困惑と不快感が同時ににじんでいた。周囲から囁き声が上がり始めた。
舞踏会場の豪奢なシャンデリアが、その歪んだ顔も、マリアンの青白い顔も、容赦なく照らし出していた。
「婚約破棄だなんて、こんな人前でする話じゃないだろう! それに、僕がマリアンの様子を見に、少し席を外したことがそんなに気に入らないのか? いくら嫉妬しているからって、限度があるだろう!」
彼は、私が子供のように駄々をこねているだけだと思いたいらしい。
その傲慢な態度に、胸の奥が冷えていくのを感じながら、思わず笑いそうになった。
「嫉妬、ね……。ノエルは、病人を優先すべきだと考えているのよね?」
「当たり前だろう! マリアンは体が弱いんだ。いつ倒れるかもわからない、かわいそうな子なんだぞ! 君が当たり前のように手にしているものを、あの子は手に入れることさえできないんだ。それなのに、たかが最初の曲を一緒に踊れなかったくらいで婚約まで破棄するって? 本当に君には思いやりというものがないのか?」
「そう。病人はかわいそうだから、いつだって優先されるべきなのね」
私は頷いた。
「それならよかったわ。私も残り少ない人生を、気兼ねなく過ごせそうだから」
「……は?」
ノエルの顔から不快そうな表情が消え、代わりに戸惑いと不安が浮かんだ。隣に立っていたマリアンも同じだった。
「残り少ない人生って、どういう意味だ……? そんな悪趣味な冗談はやめてくれ、エミリア!」
私はゆっくりと手袋を外してみせた。
手は誰の目にもわかるほど震えていて、肌には黒ずんだ赤い斑点が浮かんでいた。
最初はごく薄かったそれが、最近では次第に色を濃くし、手足の先から身体の中心へと広がってきている。
どこかで、ひっ、と怯えたような声が聞こえた。
「こんな姿を人前にさらすつもりはなかったのだけれどね。私にだって、それなりに恥じらいはあるのよ」
「き、君……! 丈夫だったじゃないか! いったいいつから……!」
「さあ……生まれたときからかしら?」
顔を歪める二人を気にも留めず、私は話を続けた。
「我が家に生まれる子供、特に女の子は、身体が耐えられないほどの魔力を持って生まれることがあるの。私はその中でも、特に魔力量が多かったのよ」
幼い頃は、まだ問題なかった。
けれど、成長期に入って魔力量が急激に増えると、過剰な魔力が正常な魔力回路や臓器まで傷つけるようになってしまった。
私は再び、ゆっくりと手袋をはめた。
別に人にうつる病気ではないけれど、怖がる人もいるから。
「我が家では昔からこの病気を管理してきたから、無理さえしなければ日常生活に大きな支障はないの。完治する病気ではないし、体調を崩したり、何日も療養しなければならなかったりすることは多かったけれど、少なくとも病気のせいで若くして命を落とす運命ではなかったわ。結婚もできるし、子供だって産める。だから婚約もしたのよ」
ノエルの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「魔力の流れが不安定になるほど身体は傷つき、身体が傷つくほど、魔力の流れはさらに不安定になる。ストレスがたまるたびに、身体は自分を守ろうとして、より多くの魔力を放出する。そうして、身体が自分自身を壊していく悪循環に陥るのよ」
その悪循環が、この数か月で急速に悪化した。
婚約破棄の準備に、思った以上に時間がかかってしまったからだ。
そして、ようやく一段落して診察を受けたときには、余命を宣告されてしまった。
いつの間にか、多くの人々が足を止めてこちらを見つめていた。
楽団がいつ演奏をやめたのかさえわからないほど静まり返り、広間の中央に立つ私たちを、気まずい沈黙が包み込んでいた。
「どうして……! どうして、そんな大切なことを前もって話してくれなかったんだ!」
「話していたら、何かが変わったのかしら?」
私はノエルを見つめて問い返した。
彼は唇を動かしたものの、何も答えられなかった。
「それに、私は何度も伝えていたはずよ。体調が悪いことも、最近は少し無理をしただけで耐えられなくなることも、以前のように魔力を扱うのが難しくなっていることも。あなたには何度も話したわ。まあ、ろくに聞いてくれていないようだったから、こんなものかとは思っていたけれど」
「それは……!」
「それに何より、私は自分の病気を言い訳にして、あなたを引き止めたくなかったの。私が病気だと言えば、あなたはマリアン嬢の代わりに私を選んでくれる? 私が死ぬかもしれないと言えば、そのときになってようやく、私のそばにいてくれるの? そんなふうにして得た関心には、何の意味もないと思ったのよ」
私はわずかに顎を上げ、彼をまっすぐに見据えた。
不快感に歪んでいた彼の顔は、今や恐怖に歪んでいる。それを目の当たりにして、私は呆れるほどわずかな解放感を覚えていた。
「ほら、ここ数か月で急に痩せて、ドレスだって何度も仕立て直したのよ。化粧でどれだけ隠しても、顔色を心配されることが増えてきたわ」
「エミリア……」
「マリアン嬢が病気だということは知っているわ。彼女が苦しんでいることもわかっている。私は一度だって、それを否定したことはない。けれど、彼女が病気だという事実が、どうして毎回、私が譲らなければならない理由になったのかしら?」
ノエルは何か言い返そうとするように口を開いては閉じ、私の隣に立つマリアンも、先ほどまでのように彼の腕に寄りかかることすらできず、硬直していた。
「その気持ちは、よくわかるわ。病気になると、心まで弱くなるもの。誰かに慰めてほしいし、譲ってほしいとも思うでしょう。でも、だからといって、健康な人が犠牲になるのが当たり前ではない。そのくらい、私にだってわかるわ」
心臓が少しずつ速く鼓動していた。
ただ緊張しているからだろうか。それとも――。
「本当に都合のいい婚約者だったわよね? 体調が悪いと言っても大したことではないと片づけられて、約束を破られても許してくれて、あなたがほかの女性と何をしようと、結局はあなたのそばに残ってくれる人」
「そんなつもりじゃない!」
ノエルの声が高くなった。
「僕は本当に君を愛しているんだ!」
「ええ。もちろん知っているわ」
ノエルの顔に、ごくかすかな希望が浮かんだ。
「だからこそ、余計に吐き気がするのよ」
私は彼が何を言いたいのか、わかっていた。
自分は本当に私を愛しているのだと。傷つけるつもりなどなかったのだと。ただ、マリアンが病気なのだから、もう少し気を遣ってほしかっただけなのだと。
その言葉は、すべて本心なのだろう。
彼が私を愛していることを、疑ったことなどないのだから。
問題は、その愛が私に何をしてくれたのか、ということだ。
今この瞬間も、彼は心から私を心配しているのだろう。
私が死ぬかもしれないという事実を恐れ、自分が私を失うかもしれないことに絶望しているのかもしれない。
そのことが、何よりもおぞましかった。
「とにかく、そういうわけだから、私の余命は長くて半年。治療次第では一か月ももたないかもしれないし、意外と長生きできるかもしれないけれど、今のところはそういう状態なの。もう、両家とも婚約を維持する必要はないでしょう。だから、婚約は破棄するわ。さっき話したことはすべて、侍女を通して両家に送ってあるから、もう届いている頃じゃないかしら?」
「ま、待ってくれ! 助かる可能性があるのなら、もう少し……!」
「ああ、それから、もう一つ。別館の奥まった部屋とマリアン嬢の病室は防音があまりしっかりしていないから、これからは気をつけたほうがいいわ。二人が仲良くしているのは喜ばしいことだけれど、思っていたよりも大勢の人に聞かれていたみたいだから」
「っ……!」
ノエルとマリアンの顔色が、瞬く間に土気色になった。
マリアンは口元を押さえて震え、ノエルはまるで世界が崩れ落ちたかのような顔で、ただ呆然と私を見つめていた。
「たぶん私は……残された時間を、家専属の医療団のもとで静かに死を迎えることになるでしょうね。でも、万が一、本当に万が一にも、生き延びる奇跡が起きたなら……」
私は少しだけ言葉を切った。
指先は震えていたけれど、もうそれを隠そうとする必要もなかった。
「そのときは、今度こそ優しい夫と結婚してみたいわね」
「エミリア! 頼む、僕の話を聞いてくれ! エミリア!」
「今までお世話になりました。ノエル様、マリアン様」
私はもう彼の声に耳を傾けることなく、背を向けた。
背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、足を止めることはなかった。
「舞踏会を台無しにしてしまったわね……責任を問われたりしないかしら? それ以前に、こんな騒ぎを起こしただけでも家の名誉に傷がつきそうだけれど……。まあ、いいか。今回は王室主催の舞踏会だもの」
王妃様は不貞をひどく嫌っていらっしゃるから、大目に見てくださるだろう。
たぶん。
私は独り言をつぶやきながら、王宮の大理石の廊下を歩いた。
窓の向こうに見える空には、星が輝いていた。
とても美しい光景だった。
こんな夜空を、もう少し長く眺めていられたらいいのに。
心から、そう思った。




