第六章 そして、日常へ
その日、西豪寺邸は、朝の清涼な空気に包まれていた。
――ピピピピピ!!
甲高い目覚ましの音に、京一は無理矢理に覚醒を強いられた。
その音に、無意識に手が反応し、枕元の時計をバシッと、叩く。
(ん〜、今日は休みなんだから、もう少し眠らせてくれよ……)
目覚めたものの、頭の中はまだ、はっきりとしていない。霧がかかったようにぼんやりする。
彼は寝返りをうとうとした。
ふにっ。
まどろみに再度沈もうとした意識を、二度寝の淵から引き釣りあげたのは、腕に感じた柔らかな感触。
(え!?)
その原因を探るため、目を開けて、顔を動かそうとすると――美しい女性の寝顔が目に飛び込んできた。
(ええっ!?)
白いカチューシャの乗っかった長い髪。
蛾眉たる弧を描く眉。長い睫毛と伏せられた目。
可憐な朱唇。
フリルのついた白のエプロンに、紺色のワンピース。
繊手を顔の前に置いて横たわっている。その白タイツに包まれた足下には、靴を履いていなかった。
すぅすぅと、可愛らしい寝息をたてている。
(えぇ―――――っ!?)
驚愕の表情で、メイド姿の女性を見つめた。
「な、な、な……、なんで、二階堂さんが……ここに?」
京一は夢かと疑った。しかし。彼女が自分のベッド上で寝ているのは、現実だった。
昨晩の記憶を辿ったが、こうなるような経緯に至るシーンは覚えていない。
「ど、どうなって……いや、どうしよう」
京一は、狼狽した。
××××××××××
朝日の陽光に輝く、白い日本風水協会のなかでは。
『会長、今朝がた転送された〈D.H.〉と戦闘衣の調整を開始しました』
「うむ。できるだけ早い修復を頼む。」
整備部からの報告に、仙狼は答えた。
『了解しました』
通話機越しに、凛とした声が返ってくる。
仙狼は満足そうに頷いた。
彼は、会長室の窓から東京の街並みを眺めた。昨夜、一人の娘が命がけで守った街だ。
「今日ばかりは、敵さんにも休んで欲しいものだな」
辰魅には、ゆっくり休養して欲しい。
「――禁忌の“聖宝”がここにある限り、連中は諦めないであろうな」
日本風水協会は表向き、占い師たちの組合のような団体だが、その実、日本を霊的に守護する〈ガルガンチュア〉に協力する、組織の一つであった。
悪魔たちとは、敵対する組織だ。
「……」
仙狼は道服から携帯を取り出した。その古風ないでたちとはミスマッチな印象を与えるが、本人は気にした様子もなく、淡々とキーを押していく。
ピッピッパッ……
「もしもし……そろそろあの若者の力を借りる時じゃと思うじゃが……」
老人は、青空を眩しげに見上げながら、話を続けた。
××××××××××
「あ、あのぅ〜」
京一は、そっと女性の肩に手をおいて、揺すってみた。
顔に近づくと、髪の香りが鼻腔をくすぐる。頭がぼぉっなった。
「え〜と、二階堂さん……」
ドキドキしながら声をかけた。その時。――
「んんっ――」
とさっ――辰魅が寝返りをうった。
メイドの少女は仰向けになる。
(ぜ! 絶対領域がぁっ!!)
スカートの裾がまくれあがって、太腿が覗いている。絹製の白タイツに包まれた、すらりとした脚が眩しく映った。
「に、二階堂さん……」
興奮する気持ちを必死に押さえつけて、京一は彼女の覚醒を促す。
声をかけながら身体を揺すった。
辰魅の身体の柔らかな感触がメイド服越しに感じられ、どぎまぎしてしまう。
(はたから見たらまるで襲ってる様に見えるのかも……)
「んっ……」
ようやく、辰魅は目覚める気配をみせた。
「あたし……まだ食べられますよぉ〜……むにゃむにゃ……」
「寝言……」
呆れつつ、
「何の夢を見てるんですか? それより……起きて――」
時計をちらりと見る。
午前七時三十五分。
いつもなら、二人とも朝の準備に忙しい時間帯だ。
「ほら、目を醒ましてください」
「うにゅ?」
うっすらと、瞼を開ける。
ぼやけた視界には、少年の困ったような表情が。
「二階堂さん」
辰魅は、ぱちくりと、瞬いた。
「……」
ベッドに、京一と二人きり。寝転がる辰魅の上に、覆い被さるような形で座る京一。
つまりは―――
「あ、あの、二階堂さん?」
ちゃんと起きてるのだろうかと、不安になる。
「……」
徐々に、頭の中で霧が晴れてくる。
――そして。
「――きゃああああっ!!!!」
バキィィィン!!!!!!
渇いた、打音。
「のぅごぉぉぉぉっ!!?」
朝の静けさを破って、少年の盛大な悲鳴が、西豪寺邸に響き渡ったのだった。
××××××××××
「ご、ごめんなさいっ!」
朝食の席。
邸の食堂。京一の座るテーブルの上には、目玉焼きやサラダ、トーストなどが並んでいる。
カップにコーヒーを注ぎながら、辰魅は何度も謝っていた。
「本当にごめんなさい……」
「もう、いいですよ。気にしてませんから」
辰魅は頬を紅くして、
「あたし、てっきり京一くんが……」
夜這いを仕掛けたのだと、勘違いした。
「京一くんがそんなことするはずないのに……あたしったら……」
泣きそうな辰魅の表情に、京一はドキッとなる。
「でも、どうして僕の部屋に?」
怪訝なのは、それである。
「それは――」
とっさに、辰魅はこう、答えていた。
「ね、寝ぼけてたみたい」
「――?」
昨夜、遅くまで仕事に追われてて、へとへとになった辰魅は、メイド服を着替えず、そのまま自室のベッドに倒れこんだ――
「たぶん、おトイレにいった帰りだと思うんだけど……」
ボッとした頭で邸を歩いていた彼女は、寝ぼけて京一の部屋に誤って入ってしまい……泥の様に眠ってしまった次第である。
「はぁ、そうなんですか」
まさか、悪魔と戦っていたとも言えず、その場の思いつきでデタラメを口走った。
「しっかり者の辰魅さんが、そんなドジを踏むなんて珍しいですね」
(でも、そういうとこも可愛いなぁ)
「あの、痛かったでしょ? それ……」
辰魅は、京一の頬を見た。うっすらとだが、赤い手形がついている。悲鳴と共に思いっきりひっぱたいた跡である。
「いえ、大丈夫ですって!」
心配そうに覗き込む辰魅に、彼は慌てて言った。
「お詫びと言ってはなんだけど……午後にお菓子を焼くから、それで許してくれるかな…?」
「勿論ですよ!」
辰魅の手作りお菓子を食べられる。京一は素直に喜んだ。
ホッとした辰魅は、
「じゃあ、腕によりをかけるから、楽しみにしといてね」
にっこりと、笑って言った。
(やっぱり、辰魅さんには笑顔が一番だな)
辰魅は、笑みのまま、厨房に立ち去っていった。
××××××××××
「辰魅さん、お疲れ様ですぅ」
メイドさん用の休憩室に、小柄な少女が入ってきて、辰魅に声をかけた。セミロングの髪に、明るい眸が印象的な、なかなかの美少女である。
「ん、お疲れ」
素っ気なく、辰魅は同僚のメイドさんに返事を返す。彼女はトーストをかじっていた。
この邸のメイドさん達の食事は、厨房の賄い料理で済まされるのが通例である。
「はい、これ――」
テーブルに座り込む少女――野中早苗に、辰魅はパンとサラダの入った皿を差し出す。
それから、コーヒーポットを手に取って、カップに注ぐ。
「すみません」
おうように謝辞を述べて、早苗はパンを口に運んだ。
「そういえば」
辰魅に、早苗は尋ねた。
「今朝、元気がない様子でしたけど、何かあったんですか?」
ちょうど、京一をぶん殴った後、朝礼の集合場所で顔を合わせた時の事だ。
「あぁ……あれね」
京一を叩いたことに、罪悪感を覚えていたので、少々落ち込んでいたのだ。
「……ひょっとして、痴話喧嘩でもしたんですか? 京一坊っちゃんと」
「――!?」
飲み含んだコーヒーを、あやうく噴き出すところだった。
「なんで、あたしがそんなこと」
「でも、辰魅さんと京一坊っちゃんは、らぶらぶな関係だって邸の人達は皆ウワサしてますけど……違いました?」
「どんなガセネタよ……一体、誰がそんな根も葉もないデマを垂れ流してるのよ!?」
怒りの気配をあげる辰魅に、早苗はおっとりした口調で言った。
「えっと、百合菜さんとか、凛さんに、リツさんとか――」
「あ、い、つ、ら〜!」
同僚たちに、辰魅は柳眉を逆立てた。
「――でも、お二人は仲が良いですよねぇ?」
「そりゃあ……京一くんは、まぁ、可愛い弟みたいなもんだからね」
少し照れながら、辰魅が言った。
「弟、ですか……?」
「学生の頃からの知り合いだしね、気心はしれてるわね」
「へぇ、そんな前から」
「京一くんのお兄さんと同じガッコだったの。それで、ね」
じゃあ、と、早苗は首を傾げて
「その、お兄さんと付き合ってたんですか」
「そんなわけないでしょう」
苦笑して、辰魅が答える。
「彼とは、あくまでただの友達、よ」
そう言った辰魅の瞳に、かすかな揺らぎがあったが……早苗の方は気づかなかったのか、
「はぁ、そうなんですか…」
と、得心したように、頷いた。
「そういえば」
と、早苗は話題を変えた。
「制服が新しくなるみたいですよ」
自分のメイド服のリボンを引っ張りながら、早苗が言う。
「そうなの?」
初耳である。
「そう、リツさんに聞きましたよ」
リツさんこと、清水律子はメイド頭のような立場にある古参のメイドさんである。
「ふぅん……」
どんなデザインでしょうかね、と、早苗はわくわくした表情で訊いた。
辰魅も年頃の娘。服の話は嫌いじゃない。
「そうね、もっと可愛いのになれば良いんだけど」
「色も紺色じゃなくて、赤とかピンクがいいですねぇ〜」
「それじゃあ、早苗ちゃん、コスプレよ……」
新しい制服は、今日のシフトが終了した後に渡されるらしい。
「へへ…ちょっと、楽しみですよね♪」
「このお屋敷ではメイドの服でも、良いもの使ってるしね」
一般家庭の家政婦。しかし、日本でも有数の大富豪、西豪寺家である。その家に仕えるメイドさん達のお仕事は、高級ホテルの従業員と大差なく、また待遇もそれらに劣らぬ、破格的なものであった。
辰魅達の着ているメイド服も、高級素材を使用したブランド品である。
「さて――」
食事を済ませた辰魅は、おもむろに席から立ち上がった。
「寝室のシーツを引っぺがして洗濯場に持ってくから、早苗ちゃんは後の交換、お願いね」
「はい」
邸では、シーツの交換にあたって、一人が古いのを取りさって、もう一人が新しいのをセッティングする事になっている。二人一組で仕事をこなすのだ。
「お任せください」
今日は、早苗とコンビで仕事をすませることになる。
××××××××××
穏やかな午後だった。試験に備え、京一は勉強を続けていた。
ここは京一の部屋。
よく片付けられた、小綺麗な部屋だ。
そこへ――
「お坊ちゃま、お客さまが見えましたが……」
「客?」
早苗が告げた来客の報せに、京一は訝しげに呟いた。
「一ノ瀬さまにございますが……」
「本当に遊びに来たのか」
昨日、学校で別れ際に交わした会話を思い出し、彼は呻くように言った。
「あのう……」
「まぁ、いいや。上がってもらって」
「かしこまりました」
頭を下げ、早苗は部屋の扉を閉めた。
机の上に広げたノートをぱたん、と閉じ、
「全く――」
ため息を吐き、そして、毒づいた。
「二階堂さんの作った菓子を、独り占めできるところだったのに……」
それは、嫉妬なのかなんなのか。
悪友とはいえ、もてなさねばなるまい。
西豪寺家の跡継ぎとしては、嫌なやつとはいえ、追い払うわけにはいかないのである。風聞に関わる問題だからだ。
そういえば、初めてだな。
あいつを家に入れるのは。
「ようこそ、と言うべきかな……」
××××××××××
「いやぁ~、相変わらずお前んち広いなぁ」
邸の中をキョロキョロ見回して、歩夢が言った。
はしゃいだ彼の姿を、メイドさん達が珍しそうに、ちらちらと見ていた。
その中に、辰魅の姿はない。
彼女は厨房にいた。
いま、クッキーを焼いている最中である。
「え、お客様が来てるの?」
他のメイドさんに告げられ、驚いた声を上げた。
「じゃあ、もう一人分創らないと――」
彼女は急いで生地作りにとりかかった。
――そうして。
「あら? 貴方は……」
「ちわーす! お邪魔してます」
一ノ瀬 歩夢は、能天気な挨拶をした。
来客用の洋間である。ソファーとテーブル、高そうな調度品の並ぶ、落ち着いた部屋だ。
「確か、一ノ瀬くんだったよね」
尋ねながら、菓子を盛った盆をテーブルに置く。
盆は二つ。
クッキーとジュースの注がれたグラスが置かれている。
「うひょ~、美味そう~!」
焼きたてのクッキーに、歩夢が歓声をあげる。
「おい、一人で全部食べないでくれよ」
京一が注意する。
「? 盆は二つだぜ」
「二階堂さん、ここで休んでいくんでしょう?」
「よくわかったわね。休憩時間だし、一緒に食べようと思ってたところよ」
もう一つの盆は辰魅の分であった。
「勘みたいたものですよ」
京一は謙遜した。
辰魅の行動を日頃から追っている彼にしてみれば、充分予想のできる事であった。
「というわけで、一ノ瀬……みんな食べるんじゃないぞ」
京一は釘を刺した。
歩夢は『わかったよ』と答えたが、食い意地の張ったこの男のことだ。信用ならなかった。
「じゃあ、ご一緒させてもらうわね」
「どうぞ、どうぞ」
辰魅は、薦められるまま、歩夢の隣に座る。
「いただきます」
三人は菓子を頬張った。
「うおお、美味い!」
クッキーをひとかじりした歩夢が絶賛する。
「ありがとう」
誉められて、辰魅はにっこり笑った。朝に較べたら機嫌が良い。
「いっぱい焼いたの。たくさん食べてね」
「はい!」
その様子を見ていた京一は、面白くない心境である。
軽い嫉妬を燃やす。
(何だよ、人ん家来て、この図々しい態度は! しかも二階堂さんとあんなに楽しそうに――!)
京一は、歩夢を邸に入れるのではなかったのだと、後悔した。
「どうしたの?」
険しくなった京一の顔を見た辰魅が、首を傾げて訊いた。
「ひょっとして……美味しくなかった?」
「そんなことないですよ!」
素早くクッキーを口に運ぶ。
「とっても美味しいです!」
「そう、よかった」
安堵して、微笑する辰魅。
「じゃあこれで、今朝の借りは帳消しってことで――」
「はい、これでオッケーです」
「今朝のって、なんの話だ?」
「まぁ、ちょっとした些細な出来事よ」
辰魅は誤魔化すように笑った。
「ふぅん……」
ところで、と、歩夢は辰魅に訊ねた。
「二階堂さんは、付き合っている人とかいるんですか」
(いきなり何を聞くんだ!?)
心中で京一が叫ぶ。
「あたし?」
「お姉さんみたいに綺麗な人だったら、彼氏の一人や二人はいるかなぁって、思ったんで……」
「あら、お世辞のうまい子ね」
辰魅は、くすぐったそうに、目を細めた。
「今のところ、独り身よ」
「へぇ、勿体ないなぁ」
「一ノ瀬くんこそ、どうなの?京一くんから聞いたけど、スポーツマンなんだって?」
「いやぁ体を動かすことしか、能がないですから、俺は」
朗らかな笑い声。
「コイツみたいな」
と、京一を指し示し、
「優等生と違って、勉強が苦手な性分でしてね」
そう自分を卑下して言ったが、清流館は都内有数の一流校である。偏差値の高いお坊っちゃまお嬢様の通う学校だ。歩夢は他の高校なら充分、成績上位をキープできるだろう。
「そのかわり、部活では引っ張りだこですよ、俺。この前も野球部の代打に呼ばれたし」
「それじゃ、女の子にモテモテでしょう。かっこいいし」
「そんな事ないっすよ」と、照れる歩夢。
こんな会話も、京一には面白くなかった。
(一ノ瀬め……)
彼は友人を怨めしく思った。
歩夢と辰魅は、くさる京一をよそに談笑を続ける。
「ねぇ、学校の時の京一くんって、どんな感じ?」
「どんな感じ…と言っても……まぁ、真面目の化身ですかね~」
「化身?」
「そう。真面目に授業受けて、放課後には働き蟻の如く生徒会長の命令を真面目に遂行する」
京一は、授業サボってばかりの君に言われたくないぞ!?と、不満そうに言った。
「部活は真面目だぞ、俺――」
「……あのね」
「だいたい」
と、クッキーをかじりながら、
「生徒会の仕事なんてつまんねぇもの、よく続けられるな」
「学校の為だろ」
「偉いのね~京一くん」
にこにこと、辰魅が感心の声を上げる。
ふぅん、と歩夢はにやにやと笑う。
「ま、あの生徒会長とまともに付き合えるのは、清流館広しといえどもお前くらいのもんだろうな」
「失敬なやつだな、君は……」
「どんな子なの、生徒会長さんて?」
興味津々に辰魅が訊いてきた。
「桜留 かのん。三年D組。成績は常に学校トップ。かててくわえて、容姿端麗な完璧美少女」
歩夢が説明する。
「とはいえ、他人に対する態度があまりに厳しくキツイため、ついたあだ名は〈氷の女(The Ice Heart)〉」
非情な人として、周りから畏怖され、親しく付き合う人間は極めて少ない。
「校内でも、あの女の相手が務まるのは――」
京一を指差し
「西豪寺くらいしかいないと、学校じゃもっぱらの評判ですよ」
「おい……」
剣呑な声の京一だった。
「へぇ~」
そうなんだ、と、辰魅は感心した。
「あたしが学生の頃にもいたっけ、そういう娘が」
辰魅は当時のクラスメートだった少女を思い出していた。
その女子生徒はロングの髪に厳めしく眼鏡をかけた優等生であった。絵に描いたような品行方正さで、小姑の如くやかましかったのを記憶している。
……懐かしいなぁ。
あたしもあの頃に戻りたい……
辰魅の脳裡に、一人の少年の顔が浮かんだ。
追憶を断ち切ったのは、歩夢の声だった。
「そうそう、付き合ってるって噂もあったよな」
「先輩と……僕が!?」
愕然とする京一。
「なんで、そんな根も葉もない噂が……」
「だって、傍から見てると『美男美女のお似合いカップル』なんだぜ」
「先輩の耳にそんな噂が入ったら…殺されるよ……」
「京一くんはその娘の事、好きじゃないの?」
辰魅が訊いた。
「そりゃそうですよ! 一人の人間としては尊敬しますけど…
…そういう感情は一切ありません。僕はただ、生徒会の副会長として、会長である先輩を補佐してるに過ぎないんですから――」
「あら……京一くんにも春が来たっ!って、歓んだのに……」
それじゃあ、学校で他に好きな人はいないの? と質問され、京一は「いません!」と否定した。
――本当は、いま、目の前にいる貴女の事が好きなんです、なんて告白は口が裂けても言えない……。
悪友がすぐ近くにいる現状では特に。
「高校生なんだから、ちゃんと青春をエンジョイしなきゃ!」
「二階堂さんは、高校の頃、そういう人いたんですか?」
歩夢の問いは、京一をドキリとさせる。
「そうね~」
遠い昔を思い出すかのように、辰魅は眸を伏せ、
「……高校生の時ね、片想いだけど―――好きな人はいたわよ」
京一の胸になにかが刺さった。
「告白とかは?」
「結局、出来ずじまいで、卒業しちゃった」
ペロッと舌を出し、照れ笑いを浮かべた。
―――何てやつだ。
京一は、辰魅の心を奪った名も知らぬ相手を呪わずにはいられなかった。
それ程までに彼女に想いを抱かせたその男を憎み殴ってやりたい気持ちになる。
無論、そんな気持ちは面に表すことはなかったが。
その女子生徒はロングの髪に厳めしく眼鏡をかけた優等生であった。絵に描いたような品行方正さで、小姑の如くやかましかったのを記憶している。
……懐かしいなぁ。
あたしもあの頃に戻りたい……
辰魅の脳裡に、一人の少年の顔が浮かんだ。
追憶を断ち切ったのは、歩夢の声だった。
「そうそう、付き合ってるって噂もあったよな」
「先輩と……僕が!?」
愕然とする京一。
「なんで、そんな根も葉もない噂が……」
「だって、傍から見てると『美男美女のお似合いカップル』なんだぜ」
「先輩の耳にそんな噂が入ったら……殺されるよ……」
「京一くんはその娘の事、好きじゃないの?」
辰魅が訊いた。
「そりゃそうですよ! 一人の人間としては尊敬しますけど……そういう感情は一切ありません。僕はただ、生徒会の副会長として、会長である先輩を補佐してるに過ぎないんですから――」
「あら……京一くんにも春が来たっ!って、歓んだのに……」
それじゃあ、学校で他に好きな人はいないの? と質問され、
京一は「いません!」と否定した。
――本当は、いま、目の前にいる貴女の事が好きなんです、なんて告白は口が裂けても言えない……。
悪友がすぐ近くにいる現状では特に。
「高校生なんだから、ちゃんと青春をエンジョイしなきゃ!」
「二階堂さんは、高校の頃、そういう人いたんですか?」
歩夢の問いは、京一をドキリとさせる。
「そうね~」
遠い昔を思い出すかのように、辰魅は眸を伏せ、
「……高校生の時ね、片想いだけど――好きな人はいたわよ」
京一の胸になにかが刺さった。
「告白とかは?」
「結局、出来ずじまいで、卒業しちゃった」
ペロッと舌を出し、照れ笑いを浮かべた。
何てやつだ。
京一は、辰魅の心を奪った名も知らぬ相手を呪わずにはいられなかった。
それ程までに彼女に想いを抱かせたその男を憎み殴ってやりたい気持ちになる。
無論、そんな気持ちは面に表すことはなかったが。
やがて、歓談の時は瞬く間に過ぎ去り、外から烏の鳴き声が淋しく響いてきた。
「もう、こんな時間か」
京一の部屋でゲームを楽しんでいた歩夢は、窓の外を見やって、呟いた。
窓から覗く風景は、すっかり紅に染まっている。
「帰るなら、送っていくよ」
「別に一人でもいいけど……お前がどうしてもって言うんなら、構わないぜ」
「……」
なんとなく、切れたい気分の京一であった。
話ながら廊下を歩き、二人は西豪寺邸の広い玄関に出た。
「またのお越しをお待ちしております」
玄関にいたメイドさんが、ペコリとお辞儀して見送ってきた。
歩夢はもちろん、と親指を立てる。
ため息を吐く京一。
街は、茜色の雲に染まって静かに佇んでいた。
「よし! 決めた」
「なんだい、突然」
歩夢は不敵に笑みを浮かべた。
「俺、二階堂さんを落としてやる!」
「……は?」
「あの人、俺の彼女にする」
「無理だろ、君みたいな奴に二階堂さんが……」
「やってみなくちゃ、わかんねぇだろ!?」
びしぃっ! と、指を突き付け
「俺のラヴ・アタック攻撃で、絶対に振り向かせてみせる!!」
(だから無理だって)
「……アタックも攻撃も同じ意味だし」
「どうでもいい。とにかく、俺はあの人を恋人にすると決めたんだ。だから、またお前んとこに――」
「そんな理由で何度も僕の家に来るつもりかい!?」
「だって会えねーじゃん」
会わんでいい!!
「今日はご馳走になったから、今度はケーキでも土産に持ってくな」
朗らかに宣う歩夢に、京一はため息を吐いた。
「いらないって――」
「ま、ともかくお前も協力しろよ、友達なんだからな」
――いいや
「……」
今日から君は……敵だ
よ。
京一は声なき声で、恋のライバルに叫んだのだった。
××××××××××
さて、その翌日の朝。京一の部屋で。
「じゃ~ん!!」
くるり、と辰魅が軽やかに回ると、ふわりとスカートが風を受けて広がった。
「二階堂さん?」
目覚めたばかりの京一は、メイド服姿の女性の振る舞いに、眼をぱちくりとさせた。
「どう? 新しい制服よ、似合う……かな?」
そういえば、昨日とは服のデザインが違っている事に京一は気付いた。
全体的にふんわりと、柔らかい雰囲気になっている。
夏の空の様に明るい、鮮やかなスカイブルーのワンピースに、愛らしい水色のフリルの取り巻いた、プルーフホワイトのエプロン。カチューシャは少し小さめに変わっている。
胸元のリボンは、スカーフになっていた。 足に履くタイツやニーソックスは各人の自由なのだが、辰魅は紺色のニーソックスを履いている。
なんとなく、気品と優雅さが増したような観のある新メイド服であった。
「素敵……ですね」
うっとりと、京一は本心から言った。
「ありがと」
辰魅は照れ笑いを浮かべた。
「あ、そーだ」
エプロンのお腹には、まるで某猫型ロボットのそれを思わせる大きなポケットがついていて、その中に辰魅は手を突っ込み、ガサゴソと探っていた。
(ドラ●もん…?)
やっぱり人気ロボットの姿を連想させるものがあった。
「これこれ――」
パッと、紙の様な物を彼女は取り出した。
チケットだ。
「ねぇ、京一くん。カラオケ行かない?」
と、辰魅からのお誘いである。
見れば、カラオケ店の無料チケットらしかった。指の間に挟んでピラピラさせている。
「勉強ばっかりしてないで、たまには遊んで息抜きしましょうよ」
これが、歩夢あたりに言われていたら、恐らく反発して断っていただろう。
だが、相手は辰魅である。
「そうですね、良いですよ」
にへら、と笑って頷いた。
「早苗ちゃんとか凛さんとかも誘って、皆でパーッと騒ぎましょ」
え……と、京一の顔色が変わった。
二人っきりじゃないの?
これはガックリきた。
「い、いや。あんまり騒がしいのは……、その大勢で行くってのも好きじゃないし……
」
しどろもどろ。
「どうせなら…その……に、二階堂さんと二人で……」
「なに? 一人で行きたいの?」
京一の声は小さくて辰魅には聞こえなかったようだった。
小首を傾げる辰魅に、
「あのぅ、じゃなくて、二階堂さんと一緒に行きたい……です!」
××××××××××
京一が勇気を振り絞って辰魅に告げてから、約一週間後。
その日、試験も終わり、京一は早めに帰宅している。
辰魅と出掛けるには、彼女が今日のシフトを終わらせてからでないと無理なので、京一は時間を潰すのに腐心した。
夕方、京一は先に家を出て、待ち合わせの駅前通りに向かった。
澄んだ空にゆっくり雲が流れ、夕陽が雲に反射して桃色に輝くのが目に眩しい。
京一は商店街の片隅に立ち、そわそわと周りを見回している。
(早く来ないかな)
どきどきしていた。 時計を見る。午後五時十分。辰魅はもう仕事を終えただろうか。
ちなみに、彼はわざわざ新品と思われるおろしたての服を着て、髪も入念にセットしていた。
完全にデート気分である。
そんな彼に、近づく人影の姿があった。
「あら?」
女の声。その声の方に咄嗟に振り向いていた。
「先輩……!」
「やっぱり、西豪寺君ではないですか」
少し、驚いた貌で長い黒髪の少女―― 桜留かのんが立っていた。
かのんは当然というか、私服だった。
黒のワンピースに、茶色のロングスカート。革の靴。質素で落ちついた雰囲気をまとっていて、学校の時より大人びて見える。
「お買い物……ですかしら?」
首を傾げて尋ねた。
「えぇっと、人と待ち合わせを……」
「まぁ」
京一には何人かの友人がいたことに、かのんは思い当たった。
友人と遊ぶ約束でもしてたのだろうか。彼もやはり、年頃の少年なんだな、と思った。
(せっかく、出逢えたんですもの、もう少し、お話を……)
かのんは迷った。 そこへ――
「お待たせ~!」
明るい呼びかけと共に、京一の元に駆けてくる一人の女性。
かのんはハッとする。
(―――!)
瞠目は一瞬。
「二階堂さん!!」
京一の声が嬉しそうに跳ね上がった。
二十歳くらいの綺麗な顔立ちの女性であった。かのんには見覚えのある顔―――
辰魅の格好は、いつものメイド服ではなく、私服。
白いシャツに赤のミニスカート、髪はリボンでポニーテールに結んでいる。手には、ハンドバッグ。靴はヒールだ。
京一は新鮮な気持ちを覚えた。
「遅れてゴメン……お化粧にてまどっちゃって」
そういえば、唇には紅が塗ってあった。
「……ん?」
辰魅は京一の傍にいた少女に目を向けた。
「あ……」
目が大きく見開かれ――その目をかのんはジッと見返した。
「……!」
あの時の―― 二人の思いは同じ。
『この子は?』
『この人は?』
同時に二人の口から質問がこぼれた。
「え~と……しょ、紹介するよ、ウチの学校の先輩で……」
「桜留かのんです」
はっきりとした声音で、かのんが名乗る。
「すると、貴女が噂の生徒会長さん?」
「噂……?」
どういう事かと、無言で京一に問いかける。
「い、いや、それは一ノ瀬の奴が勝手に……」
慌てる京一だったが、かのんは深く追求しなかった。
「それで、ね。この人は――」
「二階堂 辰魅よ。彼のお屋敷で働いてるの」
言いながら、軽くお辞儀をする。板についた動作だった。
「はじめまして、と、言うべきかしらね」
辰魅はそう言って、手をかのんに差し出す。
「――ですわね」
「よろしくね、かのんちゃん」
かのんはそっと、辰魅の手を握り返した。
「こちらこそ……」
「かのんちゃん、手、怪我してるの?」
かのんの手には包帯が巻かれていた。
「そういえば先輩、火傷したって」
心配そうに京一が言った。
「大丈夫ですわ、西豪寺くん」
彼女は微笑して、答えた。
苦痛に感じている様子ではないので、京一は安堵の息を吐いた。
その白い包帯にくるまれたかのんの手を、辰魅が凝視していた。
「……心配してくれてありがとう」
かのんは、はにかんだように呟いた。
「何言ってるんです。同じ生徒会の仲間でしょう。それに僕は副会長です。会長が怪我をしているのだから、心配もしますよ」
「でも、もうほとんど治ってますわ。これから病院に向かう所でしたの」
その途中で京一を見かけ、声をかけた。
「それにしても、料理で火傷なんて……先輩にしては珍しいドジですね」
京一は学校でそのように聞いていた。
「学校のみなさんに言いふらなさないでくださいましね。会長の威厳が損なわれますから」
照れ隠しの笑みと共にかのんは言った。
「解ってますよ」
京一は請け負った。嘘は言わない男だ。
「仲、良いんだね」
二人の様子を見た辰魅は、ニヤニヤとしていた。かのんはちょっとだけ赤くなる。
(――この子)
その姿を見て、彼女は確信した。
(なるほど、ね)
「お二人はその、どういう関係で……?」
かのんは聞くのを躊躇っていた質問をしてみた。気になっていたのだ。
「あたしは京一くんのお父様に雇われてるだけ、ただのお手伝いよ。まぁ、こうして時々一緒に遊びに出掛けるけど、ただの友達」
その言葉を聞いた京一が、残念そうな表情を浮かべたのを、かのんは見逃さなかった。
「だから安心して、かのんちゃん」
パチリ、と、ウィンク。
「安心?」
「べ、別に私は……」
かのんは顔を背けた。
辰魅はふふっと、笑って
「京一くんも幸せよね。こんな美人の会長さんの元で働けるんだもん」
「生徒会の仕事って、そんなに気軽でも愉快なものでもないですよ」
あくまで真面目に、京一は言った。
「ですよね、先輩」
「えぇ、そうですわね」
やや寂しい響きが混ざっていた。
「ねぇ、手は大丈夫なんだよね」
「はい。診てくださるお医者様が腕の良い方で……」
辰魅は『良かったね』と、言った。
「本当にね……」
辰魅の瞳には、別の感情が浮かんでいる。
(この子は敵――)
「あの、お二人は何か用事で?」
「そうだった」
ぴらぴらと券を取り出し
「カラオケに、ね。試験も終わった事だし。息抜きを兼ねて遊ぼうって」
「それは楽しそうですわね」
と言うかのん自身はカラオケなど行ったことがない。遊ぶ事そのものを知らないのだ。
(倒すべき相手)
かのんは、辰魅の顔を正面から見つめた。彼女から見ても、美しい女性だった。
辰魅は『ん?』という表情で小首を傾げる。かのんの頬が僅かに桜色に染まった。
「二階堂さん、そろそろ――」
「行きましょうか」
辰魅は時計を一瞥して頷いた。
辰魅はかのんに、微笑を向ける。
「じゃあね、かのんちゃん」
「はい」
二人の娘の視線が合った。宙空でそれはぶつかり合い、絡まり合って見えない雷光を生じせしめる。
「これからも京一くんをよろしくね。まぁ頼りない子だけど」
京一は不満そうな表情を浮かべたが、無視。
「いいえ、彼にはいつも助けてもらってますわ。私にとっては優秀な補佐役ですの」
かのんは苦笑。
「では、私も行かなくてはなりませんので――」
失礼します、と述べて、かのんはクルリと、踵を反した。
「京一くん、あたし達も」
「はい! じゃあ先輩、また学校で――」
やっと二人っきりに……京一の胸は高鳴った。
辰魅は無言で、立ち去るかのんに視線を走らせた。
かのんは振り向き、手を振ってくれた。
かのんは辰魅を見た。
「……」
辰魅は頷いた。かのんも頷き返した。どちらも不適な笑みを唇に刻んで―――
声なき声で。 意思が放たれる。
――次に相見える時には、私が勝つのだ、と。
(望むところ……)
それは、静かにして激烈な、宣戦布告だった。
雑踏のなか、かのんの姿が消えていく。
――夕陽の色が、再び流される血の色を象徴するかのように、紅く輝いていた。