表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

死に損なった俺

掲載日:2026/01/29

 ───冬の夜は、肺の奥まで凍てつくから嫌いだ。

 息を吸うたび、胸の中がきしむ気がする。


 午後七時五十六分。

 佐藤健一、三十歳。

 彼は私鉄のホームの端に立っていた。


 電光掲示板が赤く光る。


 ――通過。


 その二文字を見て、なぜか少し笑ってしまった。

 自分の人生みたいだ、と思ったからだ。止まらず、拾われず、ただ通り過ぎていく。孤独に包まれた虚しさ。


「……もう、終わっていいよな」


 呟きは白い息に変わり、すぐに消えた。


 子どもの頃は、本気で宇宙に行くつもりだった。

 プロ野球選手にもなれると思っていた。

 俺ならもっとできる、特別なんだと思った。

 電車に揺られ、死んだ顔のまま出社するサラリーマン達を見下していた。

 でも俺が向き合う現実ってヤツは、エクセルと謝罪と、上司の顔色だ。


 夢は全部、いつの間にかどこかに落としてきた。


 足元の黄色い線が、やけに目立つ。

 一歩。

 たったそれだけで、全部終わる。


 明日のアラームも、仕事も、期待も失望も。

 全部、なしだ。解放が待っているんだ。


 遠くから音が聞こえた。

 低く、重い、腹の底に響く音。


 電車だ。


 わかっているのに、心臓が勝手に早鐘を打つ。

 やめろ、と心の中で幾ら言っても、聞いてくれない。


 闇の向こうから、二つの光が現れた。

 近づくほどに、眩しくなる。


(ああ……これが、最後か)


 踵が浮く。

 風が顔を叩き、コートが大きく揺れた。


 その瞬間。


 鼻をつく、妙に現実的な匂い。

 立ち食いそば屋の、安っぽい出汁。


 ドクン。


 胸が鳴った。


 ドクン、ドクン。


「……うるさい」


 死にたいはずなのに、体は必死だ。

 寒い、苦しい、怖い。

 酸素を欲しがって、心臓が暴れている。


 死は、もっと静かなものだと思っていた。

 全部を優しく終わらせてくれるものだと。


 でも、迫ってくる鉄の塊は、そんな幻想を簡単に打ち壊した。


 これは救いなんかじゃない。

 ただ、終わってしまうだけなんだ。


 喉の渇きも、足の震えも、嫌な匂いも。

 全部、感じられなくなるだけ。


「……ふざけるな」


 怒りの向きはわからない。

 社会か、自分か、それとも――今も必死に生きようとする、この体か。


 轟音。

 世界が震える。


 次の瞬間、健一は体を思いきり後ろへ引いた。


 ――ドンッ。


 尻餅をつく。

 痛い。思わず顔が歪む。


 目の前を特急列車が通り過ぎていく。

 風が冷たい。信じられないくらい冷たい。


 でも、それが――

 生きている証拠だった。


 電車が去ると、ホームは急に静かになった。

 健一は床に手をつき、拳を握る。


 硬い。

 冷たい。

 ちゃんと、痛い。


「……死んでたまるか」


 声は小さかった。

 それでも、確かに自分の声だった。


 立ち上がるのに、少し時間がかかった。

 膝の埃を払い、顔を上げる。


 視線の先には、「出口」と書かれた階段。


 きっと明日は、相変わらずだ。

 冴えなくて、逃げたくなる一日。


 それでも。


 あの線の向こうの「何もない場所」より、

 この不格好で、うるさくて、痛い現実の方が――まだマシだ。


 次に来る各駅停車は、誰かを終わらせるためのモノじゃない。

 人を乗せて、次へ運ぶものだ。


 健一は、再び歩き出した。

 その先に待つものが何かは分からない、それでも進み続けなければならない。

 生きてしまったから。


 ---




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ