死に損なった俺
───冬の夜は、肺の奥まで凍てつくから嫌いだ。
息を吸うたび、胸の中がきしむ気がする。
午後七時五十六分。
佐藤健一、三十歳。
彼は私鉄のホームの端に立っていた。
電光掲示板が赤く光る。
――通過。
その二文字を見て、なぜか少し笑ってしまった。
自分の人生みたいだ、と思ったからだ。止まらず、拾われず、ただ通り過ぎていく。孤独に包まれた虚しさ。
「……もう、終わっていいよな」
呟きは白い息に変わり、すぐに消えた。
子どもの頃は、本気で宇宙に行くつもりだった。
プロ野球選手にもなれると思っていた。
俺ならもっとできる、特別なんだと思った。
電車に揺られ、死んだ顔のまま出社するサラリーマン達を見下していた。
でも俺が向き合う現実ってヤツは、エクセルと謝罪と、上司の顔色だ。
夢は全部、いつの間にかどこかに落としてきた。
足元の黄色い線が、やけに目立つ。
一歩。
たったそれだけで、全部終わる。
明日のアラームも、仕事も、期待も失望も。
全部、なしだ。解放が待っているんだ。
遠くから音が聞こえた。
低く、重い、腹の底に響く音。
電車だ。
わかっているのに、心臓が勝手に早鐘を打つ。
やめろ、と心の中で幾ら言っても、聞いてくれない。
闇の向こうから、二つの光が現れた。
近づくほどに、眩しくなる。
(ああ……これが、最後か)
踵が浮く。
風が顔を叩き、コートが大きく揺れた。
その瞬間。
鼻をつく、妙に現実的な匂い。
立ち食いそば屋の、安っぽい出汁。
ドクン。
胸が鳴った。
ドクン、ドクン。
「……うるさい」
死にたいはずなのに、体は必死だ。
寒い、苦しい、怖い。
酸素を欲しがって、心臓が暴れている。
死は、もっと静かなものだと思っていた。
全部を優しく終わらせてくれるものだと。
でも、迫ってくる鉄の塊は、そんな幻想を簡単に打ち壊した。
これは救いなんかじゃない。
ただ、終わってしまうだけなんだ。
喉の渇きも、足の震えも、嫌な匂いも。
全部、感じられなくなるだけ。
「……ふざけるな」
怒りの向きはわからない。
社会か、自分か、それとも――今も必死に生きようとする、この体か。
轟音。
世界が震える。
次の瞬間、健一は体を思いきり後ろへ引いた。
――ドンッ。
尻餅をつく。
痛い。思わず顔が歪む。
目の前を特急列車が通り過ぎていく。
風が冷たい。信じられないくらい冷たい。
でも、それが――
生きている証拠だった。
電車が去ると、ホームは急に静かになった。
健一は床に手をつき、拳を握る。
硬い。
冷たい。
ちゃんと、痛い。
「……死んでたまるか」
声は小さかった。
それでも、確かに自分の声だった。
立ち上がるのに、少し時間がかかった。
膝の埃を払い、顔を上げる。
視線の先には、「出口」と書かれた階段。
きっと明日は、相変わらずだ。
冴えなくて、逃げたくなる一日。
それでも。
あの線の向こうの「何もない場所」より、
この不格好で、うるさくて、痛い現実の方が――まだマシだ。
次に来る各駅停車は、誰かを終わらせるためのモノじゃない。
人を乗せて、次へ運ぶものだ。
健一は、再び歩き出した。
その先に待つものが何かは分からない、それでも進み続けなければならない。
生きてしまったから。
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