第六章 終わりのはじまり
1
ドグド・ニダラにまつわる一連の事件の真相が解明されたのにも関わらず、涼一の心に晴れやかな気分はなかった。
涼一は、栄橋の欄干に両手をついて考えていた。秋の爽やかな風がほほを撫でた。しかし、涼一の両手は怒りに震えていた。真穂をひき逃げした犯人は必ず自分が逮捕する。ぶっ殺してやる。煮えたぎる怒りを涼一は必死に抑えていた。
もともと涼一は、悪を憎む正義感も犯人逮捕に対する執念も持ち合わせていない、しらけたサラリーマン刑事だった。しかし、この事件だけは許せない。涼一は、そう考えていた。
真穂の容態は順調に回復していた。もちろん、怪我の治療やリハビリは痛々しかったが、後遺症の心配はないとの事だった。あれから何度も真穂には会ったが、真穂は、いつも穏やかな笑みを浮かべて「大丈夫」と言ってくれた。「犯人逮捕なんて気にしなくてもいい」とも言ってくれた。でも、それは涼一に対する思いやりだった。そんな可憐で心優しい娘をひき逃げした犯人は絶対許せない。犯人は絶対に自分がしょっ引いてやる。涼一はそう誓っていた。
真穂の証言により、既に藤井美佐子の容疑は晴れていた。しかし、涼一は、徹底的に藤井美佐子の身辺を洗った。彼女は、二年前に離婚し、今は二人の子供と三人で暮らしている。
過去に誰かに車を貸したことがあるのなら、その時に合鍵を作られていた可能性もある。しかし、美佐子はそれも否定した。では、車両泥棒が彼女の車を盗み、真穂をはねた後、元の駐車場に車を戻しておいたのか? しかし、車のハンドルからは、彼女の指紋しか検出されていない。
涼一は、美佐子が住むハイツの近隣住民に対する聞き込みを徹底的に行った。そして、得られた証言は、時々、彼女の部屋のドアを叩き、何か大声で叫んでいる男性がいるということだった。涼一は美佐子に質問した。
「時々、このハイツに現れて、ドアを叩きながら大声で叫ぶ男性がいるそうですね。近所の住民から証言が得られてます。その男はいったい誰なんですか?」
「別れた主人です」
「あなたは、別れたご主人と未だにもめてるんですか?」
「もめてるわけじゃありませんが、元の主人は、もう一度やり直したいと言ってます」
「そのご主人は、あの車のキーをお持ちなんですか?」
「いえ、あの車は離婚後に購入したものですから」
「元のご主人に車を貸したことは?」
「ありません」
「大変ぶしつけな質問ですが、離婚なさった理由は?」
「そうですね…… 性格の不一致と言うか……」
「あの日も元のご主人はここに来たんですか?」
「いえ、あの日は来てません」
涼一は、美佐子の元夫の身辺を洗うことにした。その男は、大阪布施のネットカフェで寝泊りしている、いわゆる『ネットカフェ難民』だった。もともと東大阪市の工場に勤めていたが、その工場を三年前にリストラされ、現在は、日雇いバイトなどで生計を立てているという。
氏名は、鈴木直樹だった。
涼一は、過去に別件で布施のネットカフェを見たことがある。短時間のネット閲覧や読書にはいいかもしれないが、ここで暮らすとなったら、それはそれは辛いだろうと思われる空間だった。しかし、不況のあおりを受けてか、現在、ここを実質上の住居としている人はたくさんいる。いくらでも就職がありそうな若い女性でさえ、ここで暮らしている。
涼一は、ネットカフェに入り、鈴木に任意で事情聴取した。顔を覚えるのと、指紋を採取するのが主たる目的だった。
「あなたは、藤井美佐子さんの元のご主人ですね」
「そうです」
「あなたは、離婚後も再三、彼女のハイツを訪れ、復縁を迫っているようですが……」
「はい、子供にも会いたいですし、彼女とも嫌いで別れたわけじゃありませんので」
「十一月七日、あなたはどこにいましたか?」
「だいぶ前のことなので思い出せません」
「そうですか…… わかりました。ご協力ありがとうございます」
涼一は、ネットカフェを出た。香芝に戻った涼一は、近鉄明和駅の駅員に事情を話して、監視カメラのテープを拝借した。そして、十一月七日の十時二分の映像で、鈴木直樹の姿を確認した。
(間違いない、鈴木直樹だ!)
その足で涼一は、藤井美佐子が勤めている香芝市内の商店を訪れた。
「なぜ、あんな嘘をついたんですか? あなたの前のご主人は、十一月七日もあなたのハイツに来てますね」
それを聞いた美佐子は突然ワッと泣き出した。
「間違いありません。あの人は、あの日も私たちのハイツにやってきました。車を貸して欲しいと言うので貸しました。その時にあの人がひき逃げをしたんでしょう」
「どうしてそれを黙っておられたんですか? あなたには何の罪もないのに」
「子供たちの父親だからです。どんな父親でもあの子達の父親であることに変わりはありません。その父親がひき逃げで逮捕されたら、子供たちの将来はどうなるでしょう。それを考えると私には言えませんでした。ハンドルの指紋を消したのは私です。だから私も共犯です」
涼一は冷めた視線を美佐子に向けた。
「署まで同行願います」
藤井美佐子を明和署に連行した涼一は、事情を中村に説明した。そして言った。
「元の夫の鈴木直樹を逮捕してください。奴は今、布施のネットカフェにいます」
中村は直ちに刑事課の捜査員を東大阪の布施に向かわせた。しかし、そこにはもう鈴木直樹の姿はなかった。
鈴木直樹は、既に遺体となっていた。その日は布施駅構内で人身事故のため、電車が止まっていた。電車に飛び込み、自殺したのが鈴木直樹だった。
その夜、涼一は市立病院を訪れ、真穂に面会した。そして事情を説明した。
「真穂ちゃん、君をはねた男は探し出した。鈴木直樹という男だ。でもその男は逮捕される前に電車に飛び込み自殺した。
鈴木直樹は、最初に疑われた藤井美佐子さんの前の夫だ。藤井さんは、前の夫とはいえ、二人の子供の父親がひき逃げ犯として捕まったら、子供たちの将来がどうなるか? それが心配で本当のことを言えなかったらしい」
それを聞いた真穂が言った。
「藤井美佐子さんとその子供たちがお気の毒ね。犯人がわからなかったことには出来ないの?」
「出来る。どうせ犯人の鈴木直樹はもう亡くなってるから、起訴もされないし、事件を迷宮入りにすることは簡単だ。僕さえ、犯人を突き止められなかったことにすれば、話はそれで済む」
「ぜひ、そうしてあげて」
「真穂ちゃんは、それでいいのかい? 実際は、藤井美佐子も犯人蔵匿・証拠隠滅の共犯なんだよ」
「そんなのいいじゃない。お願い、そうしてあげて。そうしないと子供たちは、一生、ひき逃げ犯の子供として生きていかないといけないんでしょ。子供たちには何の罪もないわ」
涼一はコックリと頷いた。
「わかった」
「涼一さん、その代わりお願いがあるの」
「何だい?」
「私、涼一さんの飛び石が見たい。真美川の川面を跳ねる涼一さんの飛び石が見たい」
それを聞いて涼一がニッコリと微笑んだ。
「ああ、先生の外出許可が出たら、車椅子で栄橋まで連れて行ってあげよう。好きなだけ、飛び石を見せてあげよう」
「今だって、車椅子ぐらい乗れるわ、お願い、連れて行って」
「わかった。明日、お母さんに頼んで、外出許可を取ってもらおう。でも、もし許可が出なかったら、許可が下りるまで我慢するんだよ」
真穂がニッコリ微笑んだ。
「わかった」
翌日、医師の外出許可が出た。涼一は、介護タクシーを呼び、真穂を車に乗せて、母の祥子と三人で栄橋に向かった。
真美川の河原に下りた涼一は、手を振って栄橋の歩道にいる真穂に合図を送った。そして、河原の石を拾い上げ、それをサイドスローで力いっぱい川面に向けて投げた。
涼一が投げた石は、うなりを上げて水面を滑り、チョンチョンと何度もバウンドして消えていった。川面に美しい波紋が広がった。
「すごい! すごい!」真穂の声が聞こえた。
涼一は、何度も何度も河原の石を拾い上げ、飛び石を投げた。そのたびに川面に美しく、大きな波紋が広がった。
涼一は、大声で真穂に向かって叫んだ。
「これで最後だよ!」
涼一は、ポケットから一粒の小さな石を取り出し、それをじっとみつめた。三上山で見つけた宝石の原石だった。
涼一は、その原石を握り締め、力いっぱい、川面に向けて投げた。
「これで、最後だ!」
原石は、小さな波紋を残して川底に沈んでいった。
2
真穂を病院まで送り届けた涼一は、その足で明和署に行き、中村に懇願した。
「被害者の意見は、重く受け止めるべきでしょう。どちらにしても、もう鈴木直樹はいないんだし、お願いです。ひき逃げ犯は、わからなかったということにしてください、事件はお宮入りということに……」
苦々しい顔をしながら、中村が言った。
「弱ったな。報告書に嘘を書くことになるのは俺なんだぜ……」
涼一が両手をすりすりしながら懇願した。
「そこを何とか……」
中村はしぶしぶ承諾してくれた。これで、藤井美佐子が罪に問われることはない。子供たちもひき逃げ犯の子供という汚名を着せられることはない。
涼一は、ホッとしながら明和署を出た。
(コーヒーでも飲んで行こうか…… 何だか疲れたな)
そう思った涼一は、途中の喫茶店に入り、コーヒーを注文した。喫茶店で何気なく夕刊を見た涼一は絶句した。
『大阪駅前で無差別殺傷事件』
問題はそこから先の小さな文字だった。
警官隊に取り押さえられた犯人は、錯乱状態で「奴はどこだ、言わないとお前たちも殺すぞ、千代のカタキ!」と叫び続けていたと書かれてあった。
「……」
そういえば、三上山の事件で奈良県警は山崎健一の自宅からドグド・ニダラのコピーを押収したが、大阪府警が長沢友子の自宅からドグド・ニダラを押収したという話は聞いてない。小説本を一ページずつめくってコピーをとるのは大変な作業だが、コピーの冊子を大量に複製することは容易だ。何十部でも簡単に複製出来る。涼一はその場に呆然と立ち尽くした。
「これは、終わりのはじまりなのか…… もう止められない」
― 了 ―