第五章 偽りの果てに
1
その時だった。通信指令本部の各課同時通報が聞こえた。
「一一○番入電、真美警察署管内、三上山の登山道にて通り魔、重症者一名、現場は泉祐寺付近、付近のPCは急行願います」
それを聞いた涼一は、ハッとした。
(泉祐寺付近、通り魔、またか! 犯人は逮捕したはずだぞ)
中村が涼一の肩に手をかけて穏やかに微笑んだ。
「明和署から応援を出すから心配するな。日比野、お前、全然寝てないだろ?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
涼一は明和署を出て、真美署に向かった。刑事部屋に入った涼一は、渡辺のデスクに駆け寄った。
「また、あったんですね。どうして電話をくれなかったんですか?」
「今のお前には、真穂ちゃんの方が大切だ。こっちは間に合ってる」
「間に合ってるって、また、あの世紀の大捜査線を布くんでしょう」
「そうならざるをえないだろうな…… でも、前回とは明らかに手口が違うようだ。目撃者も大勢いる。今回の事件は、教育大学前駅の構内で発生した殺傷事件に近いようだ」
「犯行の手口は?」
「通報者によると、犯人は、初老のハイカーグループにいきなり襲いかかり、包丁を振り回しながら」
渡辺がそこまで言うと、涼一が口をはさんだ。
「『奴はどこだ! 奴はどこだ! 言わないとお前たちも殺すぞ!』と叫んだんじゃないですか?」
渡辺がうんざりしたような表情で答えた。
「その通りだ」
涼一が続けて質問した。
「犯人は逃亡したんですか?」
「ああ、一人に斬りつけ、重症を負わせた後、そのまま逃げたようだ。現在、各所に非常線を張って検問をしてる」
それを聞いた涼一が冷めた表情を見せた。
「非常線は無意味です。犯人は、三上山病院の職員です。すぐに令状を請求してください」
「令状を請求するには、根拠が必要だ」
「『前回の犯人は三上山病院の職員でした。今回もその疑いがある』令状の請求はそれで十分でしょう」
「わかった。令状を請求する」
「現場に出てる捜査員たちを呼び戻してください。明日、令状が降り次第、踏み込みます。今夜は寝ておいた方がいいでしょう。明日は修羅場になりますよ。私も今夜はこれで失礼します」
涼一はそう言って、渡辺に一礼し、刑事部屋を出た。
涼一には、もう一連の事件の真相が見えていた。
事件の謎は、やはりドグド・ニダラにある。そして、そのドグド・ニダラは今現在、上下巻ともに証拠品保管庫にある。人目に触れることはないはずだ。
しかし、今の時代には、コピーと言う文明の利器がある。ドグド・ニダラにはコピーがある。そしてそのコピーの一冊は河野明美が持っていた。河野明美は、それを持ったまま、三上山病院に入院した。そして、そのコピーは何らかの理由で三上山病院の職員たちに回し読みされているのだ。だから、三上山病院の職員たちは、次々と発狂し、事件を起こしているのだ。今日の三上山登山ルートにおける通り魔も、ドグド・ニダラを読んだ三上山病院の職員の仕業に違いない。
涼一は、そう確信しながら、帰宅を急いでいた。
帰宅の途中、涼一は市立病院に立ち寄り、真穂に面会した。涼一は、もうまる二日間寝ていなかった。体は石のように重く、頭がクラクラしていたが、どうしても真穂の様子を見に行きたかった。
病室に入ると痛々しげに体中に包帯を巻き、ギブスをはめられている真穂の姿があった。祥子一人が残って看病しているようだった。
真穂は血色が悪く唇は蒼ざめていた。でも意識はハッキリしており、涼一の顔を見ると、無邪気な笑顔を見せてくれた。
「真穂ちゃん、体は痛むかい?」
真穂がか細い声で答えた。
「ううん、大丈夫」
痛まないはずはなかった。でも真穂は、自分を心配させまいとしてそんなことを言っているのだ。涼一は、そんな真穂をたまらなく愛しく感じた。
「君をこんな目に遭わせた犯人は必ず捕まえる。今日は、貴重な捜査情報をありがとう」
真穂はそれを聞いて、黙って微笑んだ。
2
ちょうどその頃、三上山病院の若手医師、山崎健一と研修医の女医長沢友子は、ドグド・ニダラのコピーを二部作成し、それぞれの自宅で読んでいた。そして、ほぼ同時にその本を読み終えた。
翌朝、二人は三上山病院に出勤し、互いに挨拶を交わした。
「千代、おはよう」
「正一さま、おはようございます」
「千代、いいものが見つかったよ、自宅の蔵で見つけた。『日本刀』だ。旧日本軍の将校が持っていたものだ。とてもよく切れる」
「正一さま、それはよろしゅうございましたね。私の実家は農家なので、鍬を持ってまいりました。非力な私でも振り回せます」
二人は、お互いの凶器を見合わせながらニッコリと微笑んだ。
一週間前から院長は体調不良を訴えて病院を休んでいる。その間は、この病院を二人と看護師だけで切り盛りしないといけない。
山崎が友子に言った。
「忙しくなるね……」
友子が答えた。
「いえ、どうせ逃げ場所はありません。ゆっくりと料理しましょう」
院内回診の時間になった。二人は、まず、重症の患者が入院している閉鎖病棟に入った。
病棟内で、一階の一番東側にある大部屋に入った二人は、愕然として顔を見合わせた。大部屋の患者が皆殺しにされていた。病室内には、なぶり殺しにされた多数の死体が転がっていた。そこは、辺り一面に血しぶきが飛び散っていた。
山崎が唖然として声を漏らした。
「こ、これは……」
友子が叫んだ。
「正一さま! ヤクザ者たちが皆殺しにされています」
「いったい、誰の仕業だ……」
「そういえば、朝から文豪たちを見かけませんが……」
「似非文豪め、ヤクザ者の口封じを図ったな……。千代、隣を見てみよう」
山崎と友子が隣の部屋に入ると、そこもやはり血の海と化していた。死体はバットのようなものでメッタ打ちにされていた。山崎が中に入ると横から金属バットを持った男が襲いかかってきた。
「村野正一! この死に損ないめ! 妻ともども地獄に送ってくれる!」
山崎を殴ろうとバットを振り上げた看護師の首を友子が鍬でザクッと切り落とした。血しぶきを受けて、二人の顔が真っ赤に染まった。
「千代、危ないところをありがとう」
友子がクスクス笑った。
「まあ、正一さま、真っ赤なお顔が可笑しいこと」
山崎も笑った。
「千代、君の顔も真っ赤だよ」
「さっきの男が文豪かどうかはわかりません。文豪の手下かもしれません。院内をくまなく探さないと」
「そうだな。 その通りだ」
二人が階段で二階に上がり、鉄格子の扉を見ると、大勢の患者が悲鳴をあげながら助けを求めてきた。
「先生、助けてください! 殺される!」
山崎が言った。
「千代、開けてあげなさい」
友子が鉄格子の扉を開けると大勢の患者が逃げ出してきた。
「ギャー!」
山崎は、日本刀を振りかぶり、悲鳴をあげて逃げ惑う患者たちをバッサバッサと斬り殺した。
「グサッ」
まだ、息のあった患者の背中に友子が鍬を突き立てた。そして、穏やかに微笑んだ。
「ヤクザども、なかなか死なないですね」
二階の病室内を覗くと、ほとんどの患者は、金属バットでメッタ打ちにされ、絶命していた。
一番奥の部屋から、金属バットを持った大勢の看護師が襲いかかってきた。山崎は日本刀を振り回し、看護師たちの攻撃を華麗にかわしながら彼らをバッサバッサと斬り殺した。辺り一面血の海になった。
一人の看護師が、床をはいずりながらうめいた。
「おのれ、村野千代、焼け爛れた醜い顔の女め……」
「グサッ」
友子がその男の背中に鍬を突き立てた。
「まあ、口の悪い男。こいつもたぶん文豪ではありませんね」
奥の部屋を覗いていた山崎が言った。
「この病棟にはもういないようだ。開放病棟を探そう」
「正一さま、お疲れでしょう。開放病棟に行く前に少し休憩しましょう。お弁当をお持ちしましたので」
「そうか、そうだな、このペースだと、どうせ今日中には終わる。焦る必要はないな」
「二人は、看護師の詰め所に入り、弁当を広げた。手が血まみれで箸が上手く握れなかった」
「おしぼりをお持ちしましたので、お使いください」
「ありがとう、気が利くな」
山崎が手を拭くと、おしぼりが真っ赤に染まった。その真っ赤に染まったおしぼりで山崎が顔をぬぐった。
友子もおしぼりで手の血をぬぐった。おしぼりが真っ赤に染まった。二人は血まみれの姿でおいしそうに弁当を食べ始めた。
「千代、やっぱりお前の料理は最高だ!」そう言う山崎の弁当にひじから血液が滴り落ちていた。山崎は血染めの赤飯をおいしそうに食べていた。
友子も血染めの弁当を食べながら言った。
「今日の料理は、正一さまのために、腕によりをかけて作りましたのよ」
3
ちょうどその頃、真美警察署では、令状を持った渡辺が刑事課全員を集めて、強制捜査の説明をしていた。
「きのうの通り魔も、その前の殺人も三上山で起こったことはドグド・ニダラを読んだ三上山病院の職員の仕業と推定される。そして、きのうの通り魔は、おそらく、まだ三上山病院に潜伏してる。相手は血に飢えた狂人だ。何が起こるかわからない。全員、銃を携帯し、チョッキを着用しろ」
渡辺は銃器保管庫から、一つ一つ銃を取り出し、それを部下たちに手渡した。銃を受け取る捜査員たちに緊張が走った。
「さあ、行こう」
渡辺がそう言うと、捜査員が次々と捜査車両に乗車した。
その頃、山崎と友子の二人は弁当を食べ終え、開放病棟に向かった。すると大勢の患者が悲鳴をあげて逃げ惑っており、それを金属バットや斧を持った看護師たちが追い回していた。山崎たちのほうに逃げてきた患者を山崎がバッサバッサと斬り殺した。
「ギャー!」
病院内は阿鼻叫喚の海となった。友子も鍬で患者をブスブスと突き刺した。死に切れずにヒクヒクしている患者の背中に友子が鍬を突き立てた。
「ドピュッ」
血しぶきが友子の顔に飛び散った。
「まあ、ヤクザ者の血の汚らしいこと……」
その後ろから斧を持った看護師が忍び寄り、友子の背中に斧を突き立てた。
「ぐはっ」
友子は吐血してその場に倒れた。それを見た山崎が叫んだ。
「千代! 千代! しっかりしろ! 傷は浅いぞ!」
友子は、あえぎ声をあげながらうめいた。
「まっ、正一さ………」
友子は息絶えた。友子の最後を看取った山崎がこぼれる涙を拭おうともせずに、その看護師をにらみつけて叫んだ。
「おのれ! 千代のカタキ!」
看護師が斧を振り上げて叫んだ。
「何を、村野正一、この死に損ないめ!」
その時、パーンと甲高い音がして、渡辺の銃弾が山崎の手首を射抜いた。同時にヒュンヒュンと涼一のパールスティックがうなりをあげて宙を舞い、看護師の手首を射た。痛みで看護師が手放した斧は、そのまま真下に落ちて、看護師の足に突き刺さった。
「ギェー!」看護師の悲鳴が聞こえた。
渡辺の大声が響いた。
「二人を取り押さえろ!」
谷川、深浦、久保、涼一が二人に飛びかかり、取り押さえた。
二人を取り押さえた涼一が顔を上げて辺りを見回した。そして思わず声を漏らした。
「なっ、なんだこれは……」
辺り一面に死体や、人体の一部が転がっていた。首なし死体がピクピク痙攣していた。生き残った患者たちは、泣き叫びながら門の外に逃げ出して行った。
どちらを向いても地獄絵が広がっていた。
「谷川さん! 後は任せます! 私はドグド・ニダラのコピーを探します。この病院のどこかにあるはずです」
「わかった。後はまかせろ!」
涼一と渡辺は二人で院内をしらみ潰しに探し回った。どこを覗いても死体か人体の一部が転がっていた。
床は血の池のようになっており、滑って思うように動けなかった。
閉鎖病棟の二階中央の看護師の詰所に弁当を食べた跡があった。涼一は、ここで弁当を食べた奴がいるのかと想像した途端、「うっ」と嘔吐した。ハンカチで口元をぬぐって顔を上げたその時、涼一が叫んだ。
「課長! ありました!」
涼一が分厚いコピー紙の冊子を握りしめていた。表紙に手書きでドグド・ニダラと書かれていた。
渡辺が言った。
「やはり、あったか……」
その時だった、谷川、深浦、久保、島が後ろから近づいてきた。そして銃口を渡辺と涼一に向けた。
「そのコピーを渡してもらおう」
涼一が驚いて叫んだ。
「みんなどうしたんだ! 気でも狂ったのか!」
谷川は、ニヤリとほくそえんだ。
「そのとおり、私たちはドグド・ニダラの上巻を読んで気が狂った。しかし、課長は、我々が下巻を読む前にそれを処分した。もう、そのコピー以外に下巻はない。その下巻を渡してもらおう。さあ、早くよこせ!」
涼一がコピーを胸に抱き、必死の形相で言った。
「バカなことはやめろ! 上巻しか読んでないのなら、まだ間に合う! 時間が経てば正気に戻る。下巻を読んじゃいけない! 拳銃をおろせ!」
涼一の説得に、谷川は耳を貸さなかった。
「いや、我々はどうしても下巻を読みたい。死にたくなかったら、床にコピーを置いて手を上げろ!」
その時、渡辺が冷徹な表情で静かに言った。
「いや、手を上げるのはお前たちの方だ。お前たちが証拠品保管庫のドグド・ニダラを読んでるのには気づいてた。だからあの本を処分したんだ。お前らの拳銃に弾は入ってない。さあ手を上げろ」
渡辺は自分の拳銃をホルスターから抜き、銃口を谷川らに向けた。
「カチャ」
谷川が引き金を引いた。やはり拳銃には弾が入っていなかった。
「カチャ」、「カチャ」、「カチャ」
深浦、久保、島の拳銃にもやはり弾が入っていなかった。
渡辺が言った。
「日比野、三人に手錠をかけろ」
「わかりました」
涼一がコピーの冊子を渡辺に手渡し、三人の腰から手錠を引き抜き、三人が動けないように鉄格子をはさんで手錠をかけた。
それから涼一は閉鎖病棟の一番奥に駆け出し、河野明美が閉じ込められている保護室の施錠を解き、扉を開けて叫んだ。
「明美ちゃん! 無事か?」
明美が涙声で叫んだ。
「正一さま! 正一さま! 信じていたのです! 必ず助けてくださると…… 必ず助けに来てくださると信じていたのです」そう叫んで、明美は涼一にすがりついた。
「カチャ」
涼一は、明美の手を優しく握り締め、そして手錠をかけた。
「正一さま!、愛しい旦那さま! 何をなさるのです!」
瞳を潤ませて叫ぶ明美に涼一が冷たい視線を向けた。
「くさい芝居は終わりにしよう」
明美は肩を震わせて涙をこぼしながら涼一を見上げた。
「何ということをおっしゃるのです。愛しい旦那さま、なぜ、私に手錠をかけるのですか?」
涼一は無表情のままだった。
「河野明美、殺人教唆容疑で逮捕する」
「さっ、殺人教唆?」
「そうだ、殺人教唆だ。失礼だが君の事は調べさせてもらった。君は三上山で殺害された青木一也と深い仲だったね。青木の部屋から君の指紋が検出されたし、君の部屋のドアノブからも青木一也の指紋が検出されてる。でも、君には最近新しい彼氏が出来た。大都大学医学部の松永徹、エリート医大生で、しかも、実家は大金持ちときてる。君は、青木から松永に乗り換えようとした。しかし、青木一也はどうしても君と別れようとしなかった。それどころか、君と深い仲にある証拠写真を松永に送ると言って君を脅した。青木一也のパソコンと携帯電話の送信メールに残ってたよ。君は一也が邪魔になり、殺そうと考えた。翻訳研究会の書棚でドグド・ニダラを見つけた君は、最高のアイデアを思いついた。
君は、気が狂ったふりをして、この病院に監禁され、完璧なアリバイを作った。そして、看護師にドグド・ニダラを読ませ、憎い似非文豪は、毎週日曜日に三上山の洞窟に来ると教えた。君は、以前、青木一也に連れられてあの洞窟に行ったことがあるね。一也のツルハシにも君の指紋がついてた。
君の予定通り、ドグド・ニダラを読んだ看護師は、自分を村野正一だと思い込み、あの洞窟で憎い似非文豪を殺した。実際に殺されたのは青木一也だが……。
君の計画通り、看護師は青木一也を殺害し、猟奇的殺人犯として逮捕された。君には、この病院に隔離されてたという完璧なアリバイがある。疑われることはない。後は、君が正気に戻ったふりをして、河野明美として両親に電話し、精神保健指定医の許可を取って退院すれば、万事成功だ。もともと君はドグド・ニダラを読んでないし、気が狂ったりしてないんだから、正気に戻るのは簡単だろう。しかし、君の計画は少し狂った。ドグド・ニダラは、この病院内で回し読みされた。そして、凄惨な殺し合いが始まった。でも、君はあくまで村野正一の妻、『千代』だ。どんな殺し合いになっても、自分を『村野正一』だと思い込んでる狂人たちに殺されることはない。しかし、狂人には自分を似非文豪だと思い込んでる奴もいた。危ないところだったよ」
明美はまだ観念しきれないのか、肩を震わせ、涙をこぼしながら涼一に言った。
「正一さま…… 何という酷いことを…… 私はただ、翻訳研究会で青木一也と知り合いだっただけです。深い仲などではありません」
それを聞いた涼一がニッコリとほくそえんだ。
「語るに落ちたね。村野正一の妻、村野千代は翻訳研究会なんかに所属してない。今の発言は君が正気だという証拠だ。君は自分のことを村野千代だなんて思い込んでない」
涼一の話を聞いた明美は、うつむいてしばらく沈黙し、そして、冷めた涙を流しながら涼一を見上げた。
「さぞかし、さぞかし私のことを蔑んでるんでしょう。金持ちのエリートと結ばれたいために邪魔な恋人を殺した悪女だと思ってるんでしょう。でも、悪いんですか? そんなに私が悪いんですか? 確かに私は、青木一也と深い仲にありました。でも、私は一也の婚約者でも妻でもありません。一也のことを心底愛しいと思ったことはありません。でも、一也は、深い仲になった途端、まるで私を自分の所有物のように扱うようなりました。一晩一緒に過ごしたら、女は男の所有物になるんですか? 私には本当に好きな人が出来ました。命よりも大切に思える人に出会いました。だから、一也と別れたいと思いました。結婚するまでは男女交際は自由なはずです。他に好きな人が出来たら、別れることは許されるはずです。でも、一也は私を離しませんでした。新しい彼に全てをばらすと言って私を脅迫しました。一也が私のことを一途に愛してくれてたのは事実です。でも、私にとってはもう過去の人だったんです。でも、一也は卑劣な脅迫をして私をつなぎとめようとしました。まるで私を籠の鳥にするように。私がしたことは…… 本当に愛しい人と結ばれるために過去の人と別れようとしたことは、そんなに悪いことなんですか?」
涼一は冷徹な視線を明美に向けて無表情に言った。
「君には新しい恋人が出来た。そして、君は一也など愛していないことを自覚した。そして、新しい人と結ばれるために一也と別れようとした。しかし、一也は君を手放そうとしなかった。一也は君を人生で最初で最後の人だと信じてた。一也は、君に逃げられないために、ありとあらゆる嫌がらせをして、君をつなぎとめようとした。事情はよくわかる。心から気の毒に思う。でも、それは裁判所で裁判官に言ってくれ。僕の仕事は、犯罪者を逮捕することだ。犯罪者の言い訳を聞くことじゃない。周りを良く見ろ、君の犯行計画のために、いったい何人の罪もない人が亡くなったと思ってるんだ」
いつの間にか現れて二人の会話を聞いていた老医師が横から口をはさんだ。
「刑事さん。お見事じゃ、よく見抜いたのう……」
涼一は、その老医師に視線を向けた。
「先生、恐縮ですが、先生にもご同行願います。先生はこの病院に長年勤務されて、過去に何度かドグド・ニダラを読んで発狂した患者を診ていらっしゃる。しかも先生は、ドグド・ニダラの症状は、向精神薬リスパダールを長期間投与することで寛解可能だということを知ってたにも関わらず、院内で看護師がドグド・ニダラを回し読みすることによって始まった凄惨な殺し合いを放置した。いや、これは私の推測ですが、先生は、最初からこの娘がドグド・ニダラを読んでないことも、気が狂ったりしてないことにも気づいてた。だから、先生は、最初の診察のとき、彼女からドグド・ニダラのコピーを取り上げずに、彼女がそれを看護師に読ませるのを放置した。それは、先生が若い頃からドグド・ニダラが及ぼす幻覚作用について研究してらしたからですね。先生は、この病院の看護師を実験用のマウスとして観察してたんです。違いますか?」
老医師がニッコリと微笑んで答えた。
「あっぱれ、ご明察。ドグド・ニダラの狂気は、ある種の人間には効果がない。わしは、あの本を読んでも発狂しない人間が、いったいどういう人間なのか、それを突き止めたかったんじゃ。そして、今、その結果を得た。
ドグド・ニダラは、もともと精神病を患っている人間には効果がないということじゃ」
渡辺が呼んだ応援の警官隊がなだれ込んできた。涼一は、明美と老医師を他の警官に託し、署に連行するように伝えた。
谷川、深浦、久保、島も手錠をかけられたまま連行された。
残された渡辺と涼一は、病院内の惨状を改めて見回した。
渡辺が涼一の肩に手を置いた。
「さあ、帰ろう」
日本の犯罪史上、空前の死傷者を出した三上山病院無差別殺傷事件は終結した。犯人の山崎健一と長沢友子は取り調べ後、身柄を拘置所に移送された。研修医の長沢友子は大阪在住だった。彼女の自宅は、大阪府警警察本部の捜査一課による家宅捜索を受けた。しかし、捜査員の誰も彼女の自宅にあったコピーの冊子などに気をとめなかった。
香芝市民を恐怖のどん底に陥れた猟奇的犯罪は終結した。
三上山のハイキングコースも地元の商店街もかつての活気を取り戻した。