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第四章 真穂ひき逃げ事件

           1


 三上山病院において、患者が一名死亡した。死亡診断書には『急性心不全』と記されていた。

 患者の妻(三十二歳)は、夫の死因に不審を抱き、奈良県精神衛生福祉センターに不服申し立てをした。同センターは、患者の遺体を奈良国立医大付属病院に搬送し、司法解剖を行うことになった。

 しかし、死亡解剖の結果も、患者の遺体になんら外傷はなく、血液検査や尿検査の結果からも不適切な医薬品投与などを示す根拠となるデータは検出されなかった。

 結局、司法解剖の結果も死因は『急性心不全』となった。それでも患者の妻は納得せず、真美警察署を訪れた。涼一が応対し、妻の話を聞いた。

 妻は涙ながらに訴えた。

「夫は酒乱で、あの病院に緊急措置入院させられたのも、酒を飲んで飲み屋で暴れたのが原因です。でも、夫は、アル中じゃありませんでしたし、しらふのときはとても真面目で優しい人でした。緊急措置入院というのは、七十二時間の時限付き処分で、入院後七十二時間経てば、自由に退院できると聞いてます。あんなに元気で健康診断でも異常がなかった夫が、その七十二時間の間に急性心不全で亡くなったなんて不自然すぎます」

「お気持ちはお察しします。しかし、司法解剖の結果もやはり、死因は急性心不全なんですよね」

「そうです」

「それじゃ、やはりご主人は急性心不全でお亡くなりになったんじゃないでしょうか?」

「そんなことありえないと思います。あんなに元気だったのに……。 精神病院はしょっちゅう患者の虐待死事件を起こしてるじゃないですか、主人もきっと病院で虐待されたんだと思います」

「しかし、虐待されたのなら、何か外傷が残りますし、薬を大量に投与されたりすれば、血液検査や尿検査に異常が出ます。ご主人の場合、それもなかったんですよね」

「それはそうですけど…… でも、やっぱり私にはどうしても信じられないんです」

「お気持ちはわかりますが、もう奈良県精神保健福祉センターが調査して、不適切な医療や虐待はなかったと報告してますので、警察にはどうすることも出来ません」

「あの病院を強制捜査してもらえませんか?」

「何の容疑もないのに捜査令状は下りません。警察は、令状がないと強制捜査なんて出来ないんです」

 夫人は納得出来ない様子だったが、しぶしぶ帰って行った。

 涼一は、妻を説得して帰らせたものの、健康だった人がたった七十二時間の間に急死したという事実に対する不信感が拭えず、精神保健福祉センターに電話した。

「もしもし、こちら奈良県警真美警察署刑事課です。私は日比野と言います。先日、三上山病院で患者さんが急死した件で……」

 電話の向こうの女性が言った。

「少しお待ち下さい。担当者にかわりますので」

 涼一がしばらく待っていると、担当の男性が電話に出た。

「もしもし、警察の方ですか? 担当の福田です」

「あのー、実はたった今、亡くなられた患者さんの奥さんがお見えになったんですが」

「そうでしたか。奥さんは何と?」

「健康だったご主人が、たった七十二時間の入院中に急死したのは納得出来ない。警察で調べてほしいと」

「そうですか。司法解剖で何か異常でもあれば、こちらでも立ち入り調査するんですが、何ら異常はなく、やはり急性心不全とのことですので」

「こちらでも、何ら容疑がない以上、捜査令状は取れないと言ってお引き取り頂いたんですが……」

「確かに精神病院に不審死などが多いことは事実なんですが、あの病院は開業以来八十年以上、何ら不祥事を起こしたことのない病院ですし……」

「でも、先日、三上山であそこの看護師による殺人がありましたよね」

「それは個人の犯罪で、病院ぐるみの違法行為ではありませんので、当センターの職分じゃありません」

「確かに……。わかりました。どうもありがとうございました」

 涼一は電話を切り、渡辺のもとに歩み寄った。渡辺は涼一の電話を近くで聞いていた。

「日比野、釈然としない気持ちはわかるが、我々にはどうしようもないぞ」

「そうですね。外傷もなく、血液検査や尿検査でも異常が見つからないような殺人の方法なんかありませんしね」

「そうだ、まして司法解剖を執刀したのは、医大付属病院の教授だろ」

「はい、そう聞いてます」

 涼一は、自分の席に戻った。



 涼一に、以前、河野明美を搬送しにあの病院に行ったときの記憶が蘇った。あの高いコンクリートの塀と有刺鉄線で守られ、全ての窓に鉄格子がはめられた、アウシュビッツ強制収容所さながらの病院で、本当に患者の人権を守った適切な医療が行われているのか? そっちの方が涼一には不自然に感じられた。

 人間というのは、外部から隔絶され、世間の目が行き届かない環境に置かれると、想像を絶するような残忍性を発揮する動物である。それは精神病院に限らず、刑務所でも同じことが言える。名古屋刑務所の刑務官が二○○一年、受刑者の尻に消防用高圧ホースで放水して死亡させ、二○○二年には受刑者二人を革手錠で締め付け死傷させたとされる事件は有名だが、あそこまで酷くはないとしても、それぞれの刑務所でそれぞれのことが起こっている。

 附属池田小事件の宅間守死刑囚は、死刑執行前、「刑務所っちゅうところは、シャバより金のかかるところや」と言い残した。死刑直前の人間が嘘をつくとも思えないが、刑務所では、いったい、受刑者が誰に対して何の目的で金を払う必要があるのだろうか?

 そういえば、あの病院には、涼一を「正一さま」と呼んで自分を「千代」だと言い続けた河野明美がいるはずだ。彼女は今、どうしてるんだろうか?

(ダメもとで行ってみよう)

 涼一は、そう思って席を立ち、渡辺のデスクに歩み寄った。

「先日、錯乱状態で搬送した河野明美があの病院にいます。気になるので行ってきてよろしいでしょうか?」

 渡辺がぶっきらぼうに答えた。

「それはかまわんが、警官として行くな。あくまで面会人として行け」

「わかりました」

 涼一はそう言って一旦、自宅に戻り、自分の車で三上山病院に向かった。病院の受付には太った無愛想な女性事務員がいた。

「あの…… 河野明美さんに面会に来たんですが……」

「河野明美さんの家族?」

「いえ、知人です」

「当病院では患者のプライバシー保護のため、面会はご家族しか出来ません。どうしても面会したいなら、ご家族と一緒に来てください」

 ほとんどの精神病院は入院病棟内に部外者を入れることを極度に嫌がる。そして断りの理由はいつも『患者のプライバシー保護』である。実際は、病棟内の乱脈な実態が部外者に見られると困るだけではないのか?

 その時、涼一の横から、年老いた医師が声をかけた。

「やあ、刑事さん、あの時の刑事さんじゃの?」

 涼一が驚いて横を見た。

「そうです。日比野と言います」

「河野明美なら元気じゃよ。未だに自分を村野千代だと言うておるがの。会いたいのなら案内するが、またお前さんのことを『正一さま!』と言って大騒ぎになるぞ」

 涼一もそれだけは避けたかった。

「いえ、元気なことがわかれば、それでいいんです。ご両親は面会に来られたんですか?」

「ああ、来たよ。でも本人がそんな人は知らんと言うんでの。ご両親は、肩を落として帰ったよ」

「そうですか。わかりました。私はこれで失礼します。ありがとうございました」

 涼一は医師と会話するふりをしながら懸命に内部の様子を探ったが、外来待合付近を見渡す限り、特に不審な点はない。

 外来患者には『仏様』、入院患者には『鬼』というのが精神科の常套手段である。

 涼一は何ら得るものなく病院を後にした。結局、精神病院の実態というのは、入院病棟のそれも『保護室』を見ないとわからないものである。

 保護室というと聞こえはいいが、精神病院の保護室とは鉄格子で覆われた独房であり、それは刑務所の独居房のような小綺麗なものではない。三畳ほどの部屋の一画に便器がむき出しの状態で備えられた『牢屋』である。

 建前上は、自殺や自傷の恐れのある患者を一時的に保護するための部屋で、精神病院には例外なくあるが、多くの場合、保護室は医師や看護師の指示に従わない反抗的な患者に対する懲罰房として使われる。

 保護室内の患者は、コンクリートの壁に設けられた小さな窓から食事や飲み物をもらい、部屋の便器で用を足す。便器の水洗ボタンは部屋の外にあり、医師や看護師がボタンを押してくれない限り、患者は自分の汚物を流すことすら出来ない。

 長時間誰も様子を見に来てくれないことも多く、この場合、患者は便器の水で顔を洗い、それを飲む。

 男女の区別はない。患者のプライバシーなどという高尚なものはない。日本国憲法で保障された国民の『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』など、ここには存在しない。

 帰りの車中、涼一は考えていた。外傷を残さず、血液や尿検査で異常の出ない殺害方法が実はある。精神病院ならではの殺害方法がある。ECTだ。

 ECTとは、電気ショック療法のことである。電気けいれん療法とも呼ばれる。電気ショック療法とは、精神病患者に電流を流し、患者の全身に大痙攣を起こさせることにより症状を改善するという療法である。

 ECTは薬物療法で効果がないような統合失調症患者や自殺の恐れがある重症のうつ病患者に対しては有効であると考えられている。しかしながら、ECTの問題点は、それで患者の症状が改善するという医学的根拠に乏しいこと、必ずしも治療を目的とせず、医師や看護師に反抗的な患者に対する懲罰として行われるケースがあることであり、禁止すべきだという意見も多い療法である。

 確かに、反抗的な患者や粗暴な患者に対し、スタンガンの一撃を加えれば、しばらくはおとなしくなるだろう。常識人ならそれを『懲罰』と呼んだり『拷問』と呼んだりするだろうが、精神科医はそれを『治療』という。

 電気ショック療法の効果について三十年間研究を重ねた神経学者ジョン・フリードバーグ博士は二○○四年、以下のように述べている。

「ショック療法が一般的に人々にどんな影響を与えるのかを言い表すのはとても難しいことだが、人々の覇気を破壊し、生命力を破壊する。人々をむしろ受け身で無気力にする。そして、その記憶喪失や無力感、精力の欠如が、いまだ(精神科医が)罰せられずにその処置を行える理由であろう」

 ECTによる電気ショックを長時間与え続ければ、患者は感電死するだろう。外傷は残らないし、血液にも尿にも異常は出ないだろう。しかし、そんなことをしてあの病院に何のメリットがあるのか?

 署に帰った涼一は、十津川署に転任になった戸田巡査長に電話した。

「日比野です。少し訊きたいことがあって……」

 電話の向こうで戸田の懐かしそうな声が聞こえた。

「やあ、日比野、久しぶりだな」

「戸田さん、交番にあの娘、河野明美が飛び込んできた時、戸田さんは、彼女のショルダーバッグの中身を調べましたよね。ドグド・ニダラという小説が入ってませんでしたか?」

「いや、小説本みたいなのはなかったよ。ただ、A4の分厚いコピーの冊子が入ってたな」

「A4の分厚いコピーの冊子ですか?」

「そうだ。それがどうかしたか?」

「いいえ、特に……。どうもお手間を取らせました」

「たまには、十津川にも来てくれよ。こっちは暇で暇で」

「わかりました。そのうち」

 涼一は、電話を切った。そしてつぶやいた。

「分厚いコピーの冊子か……。そうか、今の時代はコピーがあるもんな……」

 それから涼一は渡辺のデスクに歩み寄った。

「課長、例の三上山の殺人事件の時、青木一也の交友関係を調べたファイルがあったと思うんですけど」

「ああ、一応怨恨の線も押さえてあるからな。ただ、河野明美というガールフレンドがいたぐらいで、特に、気になるものはなかった。今頃、そんなこと蒸し返してどうするんだ。犯人はもう捕まったじゃないか」

「その河野明美なんですが…… それが、今、三上山病院にいる河野明美なんです」

 渡辺が念を押した。

「だろ、しかも彼女は閉鎖病棟の保護室にいる。檻の中で二十四時間監視されてる。完璧なアリバイじゃないか」

「それは、そうなんですけど……」

 青木一也の交友関係のファイルに目を通しているうちに、夕刻になった。涼一は渡辺に一礼して、署を後にした。

 四位堂駅に着いても、涼一はすぐ帰宅する気にはなれず、栄橋の欄干に両手をついて考えていた。街灯に照らされて清流真美川の川面がゆらゆらと揺れていた。

 三上山殺人事件は解決した。犯人は自分が逮捕したし、唯一の交友関係と言えるガールフレンドの河野明美は精神病院に隔離されている。指紋もDNA照合の結果からも、犯人はあの看護師に間違いない。ただ、被害者の青木一也と河野明美は友人だし、河野明美とその看護師は同じ病院にいる。三人は何らかの線でつながっている。それが何か涼一にはわからなかった。

(今更蒸し返す必要もないか……)

 涼一はハイツに帰宅し、シャワーを浴びた。

 ぼんやりとテレビのニュースを見ながらも、涼一は、青木一也、河野明美、そして犯人の看護師の間の奇妙なトライアングルに思いをはせていた。しかし、その謎は解けなかった。

 それから数日間は平穏な日々が続いた。涼一の意識からは、三人のトライアングルのことが薄れつつあった。

 しかし、涼一は何を思ってか、河野明美の身辺調査を続けていた。その日も涼一は真子に会い、河野明美と青木一也の関係を尋ねていた。

「二人が親しかったのは良く知ってます。多分恋人同士だったんでしょう。河野さんが三上山病院に入院してからも、青木さんは河野さんのことをとても心配してました。でも、三上山病院は、親族しか面会出来ないようなので、青木さんは、河野さんの一日も早い退院を祈ってたようでした」

「二人の関係に最近ヒビが入ってたということはないのかな?」

「それはわかりません」

 涼一は、被害者の青木一也の身辺も洗いなおしていた。一也の遺品は、既に両親が引き取っていたが、涼一は、両親の許可を得て、遺品のパソコンと携帯電話の中を覗いた。そして、熱心にメールの送受信履歴とその文面を読んでいた。

 涼一は、両親に頼んだ。

「すいません。息子さんを殺害した犯人は既に逮捕したんですが、裏づけ捜査に必要なので、このパソコンと携帯電話をお預かりしてもよろしいでしょうか?」

 涼一のことを息子を殺した犯人を逮捕した警官だと知っていた両親は快諾してくれた。



 そうしたある日、勤務を終えて帰宅中の涼一が栄橋を渡っていた時、一台のパトカーがサイレンを鳴らして車道を過ぎ去った。その後を追うように、救急車が通り過ぎた。どこかで犯罪でもあったのかと思ったが、ここは明和署の管轄だ。自分には関係ない。そう思った時、涼一の携帯が鳴った。真子からだった。

「やあ、真子ちゃんこんばんは」

 電話の向こうから真子のいつになく悲痛な声が聞こえた。

「涼一さん、真穂がひき逃げにあって……」

「えっ!」

「真穂がひき逃げされたって」

「それで、容態は?」

「まだ詳しくはわかりません。今から市立病院のERに搬送されるらしいです」

「真子ちゃん、今、家?」

「そうです」

「おかあさんは?」

「今から両親と私も市立病院に行きます」

「わかった。僕もすぐ行く」

 涼一は、電話を切り、携帯をポケットに収めた。間違いない。さっきのパトカーと救急車だ。

(ひき逃げの現場に行くべきか? 市立病院に行くべきか?)一瞬涼一は迷ったが、捜査は明和署の管轄だ。涼一は市立病院に直行した。

 涼一が市立病院のERに着くと、既に真子と中井夫妻が到着していた。手術中の赤いランプが灯っていた。四人は、そのランプが消えるのを固唾を呑んで待った。

 しばらくして、手術中のランプが消え、緑の手術衣を着た医師がERから出てきた。その医師がマスクを外した。

「全身打撲で、足と鎖骨を骨折してます。それはいいんですが、どうも頭部を強打したようなので……」

 祥子が勇気を搾り出して尋ねた。

「それで?」

「脳内出血はないんで、意識さえ戻れば、命に別状はないんですが……」

 涼一が訊いた。

「意識はすぐ戻りますよね」

 それを聞いて医師が眉間にしわを寄せた。

「それは…… わかりません」

 涼一がもう一度尋ねた。

「面会は出来るんですか?」

「もう、ERで出来ることはありませんので、一般病棟に移します。面会は出来ますが、なにせ、意識が戻らないことには……」

「わかりました。ありがとうございます」

 しばらくすると、寝台に横たわったまま、意識のない真穂が搬送された。それは、まるで眠れる森の天使だったが、涼一は祈った。天使なんかでなくても、悪魔でもいいから目を覚ましてくれと。

 祥子が沈痛な面持ちを涼一に向けた。

「後は私たちでみます。涼一さんはお疲れでしょうから……」

 しかし、涼一は頑としてそこを動かなかった。真穂の意識が戻るまで、そこを動くつもりはなかった。涼一は、真穂の手を握り締めて祈った。

(仏様でも、イエス様でも、アラーの神でもいい、誰でもいいからこの娘を助けてくれ!)

 涼一が、全身全霊の力を込めて祈っている横顔を真子は複雑な胸中で見つめていた。真子は、真穂の姉である。真子も真穂のことを心から心配していた。代わってあげたいと思うほど心配だった。でも、心配そうに真穂を見つめる涼一の視線には愛が感じられた。

 涼一は、いつも自分に優しい視線を向けてくれる。でも、今、真穂に向けているような愛の視線を感じたことはない。やっぱり、涼一は自分の病気の回復のために交際してくれてるだけなのか? 本当に好きなのは真穂なのか? そんな嫉妬心が一瞬、真子の心を掠めた。そして、真子はそれを心から恥じた。今は、何をおいても真穂の回復を祈るべきなのに、自分は、なんて心の卑しい人間なんだろう。真子はそう思った。

 結局三人は、一晩中、身じろぎもせず真穂を見つめていた。翌朝、涼一は病院の玄関を出て渡辺に電話した。

「おはようございます。きのう、明和管内で真穂ちゃんがひき逃げされたんです。今、病院で付き添ってます。今日は休ませてください」

 電話の向こうで渡辺が答えた。

「それはかまわんが、妹さんの容態は?」

「意識さえ戻れば、命に別状はないと医師は言うんですが、その意識が未だに戻りません」

「そうか、わかった。署のことは心配せず、真穂ちゃんの傍にいてやれ」

「ありがとうございます」

 涼一は、携帯を切り、再び病室に戻った。

 涼一は、真穂の手を握り、再び祈り続けた。

 時間が経てば経つほど、意識が回復する望みは薄まる。それは涼一にもわかっていた。時刻は既に十二時を過ぎていた。

 涼一の瞳から涙が一粒こぼれた。それが真穂の左の手のひらに落ちた。真穂の指が少し動いたような気がした。気のせいか? そう思った時もう一度真穂の指が動いた。涼一が小さな声で、しかし全身全霊の祈りを込めて話しかけた。

「真穂ちゃん、涼一だよ、わかるかい?」

 真穂のまつげがすこし震えた。もう一度涼一が呼びかけた。

「真穂ちゃん、涼一だよ、わかるかい?」

 涼一が真穂の手を握り締めた。か弱い力だったが、真穂がその手を握り返した。涼一がもう一度真穂の手のひらを握った。間違いなく真穂が握り返した。もう大丈夫だ。そう思った瞬間、涼一の瞳から涙が溢れた。男のくせにかっこ悪いと思った。でも、溢れる涙を止めることが出来なかった。真穂の意識は朦朧としていた。でも、自分が大丈夫だということを真穂は懸命に伝えようとしていた。しばらくして真穂は再び眠りについた。三人は夕刻まで真穂が目覚めるのを待っていた。陽が傾き病室がオレンジ色に染まった頃、再び真穂のまつげが震えた。唇が少し動いた。真穂の唇に涼一が耳を近づけると、かすかな声を真穂が発した。

「涼一さん、好き……」

 涼一は、真穂の手のひらをぎゅっと握って、その言葉に答えた。涼一の気持ちを伝えるには、それだけで十分だった。



 翌朝、主治医が回診に来た。

「もう心配ありません。後は日に日に良くなっていくでしょう」

 それを聞いた涼一は、病院の玄関を出て明和署に電話した。明和署には知り合いがたくさんいた。

 涼一は、刑事課の中村と話した。

「中井真穂ひき逃げの犯人は?」

 電話の向こうで中村が答えた。

「ああ、修理工場から通報があって、犯行に使われた車両は簡単に見つかった。現場の状況や車の損傷、傷、塗料、全て調べたが間違いない。犯人は藤田美佐子という女だ、今、任意で取り調べてるが、もうすぐ吐くだろう」

「すいません。管轄外は承知なんですが、捜査に加わっていいでしょうか? はねられたのは、私の知り合いなんです」

「それは構わんが、事件自体は、もう被疑者の自白を取るだけだぞ」

「はい、それは承知です」

「わかった。待ってる」

 涼一は、病室に戻り、中井夫妻と真子に電話の状況を説明した。。

「どうも犯人が捕まったようなので、明和署まで行ってきます」

 それから涼一は、真穂のベッドに歩み寄り、ニッコリ微笑んだ。

「君をはねた女が捕まった。これから事情聴取してくる。お大事にね……」

 それを聞いた真穂の表情が変わったように思えた。何か言いたげだった。

 涼一は、その足で明和署に行った。刑事部屋に入ると、ちょうど事情聴取を終えた中村が出てきた。

「中村さん、自白は取れましたか?」

「それが、本人は犯行を否認してる。それにどうも供述内容に嘘があるとは思えないんだ」

「私に取調べさせてください」

「それは構わんが、いくら被害者が知り合いだといっても興奮するなよ」

 涼一は黙って取調室に入り、被疑者の女に冷たい視線を向けた。

「藤田美佐子さんですね。私は日比野と言います。あなたはひき逃げを否認してるようですが、犯行に使われたのは、間違いなくあなたの車です。事情を説明してください」

「さっきの刑事さんにも話しましたが、あの日は日曜日で、一日中、子供と家にいたんで車には乗ってません。月曜日の朝、出勤しようと車を見ると、前のバンパーがへこんで、ウインカーのレンズが割れてたんで、当て逃げでもされたのかと思って修理に出したんです」

「じゃあ、誰か他の人があなたの車に乗って人をはねたと言うんですか?」

「そうとしか考えられません。家はハイツで、部屋の窓からは駐車場は見えないんで、車を盗まれても、わからないんです」

「他にキーを持っている人は?、誰かに車を貸した覚えはありますか?」

「心当たりはありません」

「あなたがあの日、家にいたことを証言出来るのは、お子さんだけですか?」

「そうです」

「そうですか……」

 その時、涼一の携帯が鳴った。祥子からだった。

「涼一さん、大変なご心配をかけてすいませんでした。真穂は順調に回復してます。ありがとうございます」

「それはよかった」

「あれから、真穂がしきりに何か気にしているので、訊いてみると、はねられる瞬間、ドライバーを見たそうなんです」

「えっ」涼一が訊き返すと祥子が話を続けた。

「真穂は、ドライバーは男の人だったと言うんです」

「えっ、そうなんですか! それは貴重な情報をありがとうございました。今、取調べ中なんで、後でまた電話します」

 電話を切った涼一がもう一度美佐子に質問した。

「本当に、他にキーを持っている人や、車を貸した覚えはありませんか?」

「ありません」

「わかりました。今日のところは帰っていただいて結構です。長時間、お疲れ様でした」

 吐き捨てるようにそう言って、涼一は取調室を出た。そして刑事部屋に入り、中村に言った。

「彼女は白です」

 中村が訊き返した。

「その根拠は?」

「被害者がドライバーを見てます。ドライバーは男だったと証言してます」

「そうか、それなら疑いようがないな。わかった、藤田美佐子にはお帰りいただこう、しかし、そうなると犯人の特定は厄介だぞ」



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