第三章 三上山殺人事件
1
三上山は大阪と奈良の境にあって、大阪側から見ると、ちょうどラクダの背のような形をしている。
左が雄岳(五百十七メートル)で、右が雌岳(四百七十二メートル)で、両方とも金剛生駒国定公園に含まれている。約十年前から自然公園『万葉の森』としても整備が進められ、梅・桜・紫陽花など四季折々の花が楽しめるほか、登山道沿いには奈良時代の石窟寺院跡や悲劇の皇子・大津皇子墓などの史跡があり、山頂からは河内平野・奈良盆地はもとより、遠く大阪湾を隔てて淡路島や関空・六甲山、奈良側では、国指定文化財(名勝)の大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)が一望でき、正に学習に行楽に最適の場である。
南麓を通る国道一六六号は、飛鳥時代に難波津から飛鳥の都に通じた最古の官道・竹内街道とほぼ重なっている。国道沿いの登山口には万葉駐車場もあり、家族連れでも手軽に登山が楽しめ、多くの人々に親しまれている。
しかしながら、この山、気軽なハイキングコースではあるが、その登山ルートは非常に多く、選択するルートを誤ると痛い目に遭う。つまり、標高が低いわりには、急峻な断崖絶壁を登る極めて嶮しいルートもあり、一歩足を滑らせれば谷底へ転落するような危険な箇所が何箇所もあるのである。たとえば、国道一六六号線から岩屋峠を通り雌岳に上るルートや、奈良側の川口神社から西へ登るルートなどは、とんでもなく嶮しい。
この山の最大の特徴は宝石が採れることである。この山で採れる宝石は、サファイア、ルビー、ジルコン、トルマリン、ガーネットなど多彩で、現在では大粒のものを採取することは難しいが、宝石の採取を目的として、足繁くこの山を訪れる愛好家も多い。
青木一也も三上山の宝石採掘マニアの一人だった。いくら宝石が採れる山と言っても、この時代にハイキングルートを気軽に歩いていて宝石が見つかるはずがない。宝石を見つけるためには、道なき道を山深く分け入り、岩肌むき出しの絶壁を見つける必要がある。三上山のそういう場所には、たいてい過去の宝石採掘場がある。古い採掘場のほとんどは崖を深く掘り進んだ洞窟になっている。その洞窟をさらに深く掘ると、鉱脈があり、宝石の原石が見つかる可能性が高い。
宝石の原石と言っても、そのほとんどは、砂粒ぐらいの小さなものであるが、僥倖に恵まれれば、そのまま指輪に出来るぐらいの大粒の原石が見つかる。
青木一也は、ほとんど毎週日曜日、その採掘現場に来て、洞窟を掘り進んでいた。両側を断崖絶壁に囲まれた細い沢沿いにあるその古い洞窟は、他の者に見つかる心配もなく、安心して掘り進める彼だけの洞窟だった。この洞窟で、大粒の原石を見つけ、加工所に頼んで指輪にしてもらい、最愛の恋人にプレゼントするのが一也の夢だった。その日も一也はヘルメットにヘッドライトを着け、汗だくになりながらツルハシを振るっていた。
(そろそろ昼だな……。メシにするか……)そう思った一也は、真っ暗な洞窟の外に置いてある弁当を食べに戻った。
真っ暗な洞窟から見る出口はまぶしかった。そのまぶしい日差しを一つの巨大な影がさえぎった。
「誰かいるのか?」不審に思った一也がそう問いかけながらその影のほうにヘッドライトを向けると、一人の大男が異様な視線を一也に送っていた。
「悪いけど、この洞窟は僕が先に見つけたんだ。他をあたってくれ」
一也の言葉にその大男は何も答えず、一歩二歩、一也の方に歩み寄った。そして、両手に持った斧を頭上に振りかざした。
恐怖に駆られた一也が後ずさりしながら言った。
「なっ、なんだよ……」
「千代のカタキ…… ドグド・ニダラの力をもって今、晴らさん…… 厚顔無恥、極悪非道の似非文豪よ! 思い知るがよい!」
「ギャァァァァァァァァァァァァ!」
暗い洞窟の中で一也の悲鳴がこだました。真っ赤な血しぶきが四方八方に飛び散り、洞窟が赤黒く染まった。大男は吐血して倒れた一也の両足を持ち、ゆっくりと引きずりながら低い声でつぶやいた。
「さあ、料理の時間だ……」
2
山田定さんは、愛犬の雑種犬チロを連れてしょっちゅう三上山に登る初老のおじさんであり、いつでもどこでもチロを連れていることから、近所の人には『チロの定やん』という愛称で呼ばれていた。登山仲間にも顔なじみが多く、やはり『チロの定やん』と呼ばれていた。
その日、いつものように愛犬チロを連れて定やんが三上山を登っていると、その日に限ってチロが定やんを登山道の外の茂みに引っ張り込もうとした。定やんが「チロ、そっちじゃないだろ、コラ!」と叱っても、口で引き綱をくわえながらチロは歯をむいて定やんを引っ張ろうとした。
「しょうがないなあ…… ここ掘れワンワンって、大判小判がザックザクの場所でも教えてくれるんか?」そうぼやきながら、定やんはチロの後をついて行った。
十分ぐらい歩くと茂みを抜けて、少し視界が広がった。定やんは周りを見回した。
「ヒッ!、ヒエーッッッッ!、ヒイーッッッッ!」
声にならない声を発して、後ずさりし、腰を抜かしてその場にへたり込んだ定やんが見たものは、B級スプラッターホラーでも、ここまではやらないだろうと思うような凄惨な惨殺死体だった。いや死体と言うよりも、辺り一面にばら撒かれた肉片と言った方がいいかもしれない。
愛犬のチロが自慢げに何かくわえて戻ってきた。足首だった。それを見た定やんがもう一度悲鳴をあげた。
「ギェー!」
バラバラ死体などというなま易しいものではなかった。ナマスに刻むとかマグロにするとかミンチにするとか言う表現があるが、そんなんでもなかった。
この世の光景とは思えなかった。
定やんは、全身をガタガタ震わせながら四つんばいになってその場を離れようとしたが、ハッと気づいてズボンのポケットから携帯電話を取り出し、一一○番した。
その頃、渡辺と涼一は、ドグド・ニダラの件が一件落着したことを確信して、束の間の平穏な時間をのんびりと楽しんでいた。教育大学前駅での殺傷事件を怨恨の線とにらんで地道な聞き込みを続けている谷川、深浦、久保、島の四人とは対照的だった。
渡辺と涼一が、机に肘をついてウトウトしていた時、通信指令本部の各課同時通報が警報を鳴らした。
『真美警察署管内、一一○番入電、詳細不明、死体発見の模様、以降、当該方面系の通信を傍受願います』
眠い目を擦りながら涼一が無線機のチャンネルをその方面に切り替えようと立ち上がった瞬間、ハッとして叫んだ。
「真美警察署管内ってここじゃないか! 死体発見の模様だって!」
渡辺が慌てて無線機のマイクを取り、通信指令本部と交信した。
「こちら真美署刑事課渡辺、死体発見通報を傍受した。詳細を知りたい」
通信指令本部のオペレーターが答えた。
「それが、一一○番通報があったんですけど、死体!、死体って叫ぶばかりで会話にならないんです」
「発信元は? 逆探知したのか?」
「発信元は携帯電話、電話番号は発信番号表示により確認しました。発信地点は、位置登録信号から探査しましたが、三上山のふもと泉祐寺付近です。死体発見位置から通報してきた模様ですが、通報者の狼狽が激しく、詳細を聞くことが困難な状況です」
渡辺が無線を切り、谷川、深浦、久保、島の四人に電話した。
「三上山のふもと、泉祐寺付近で死体が発見された模様だ。事件か事故かは不明だが、取り急ぎ全員、泉祐寺付近に急行しろ」
涼一はパソコンの地図で泉祐寺の位置を確認していた。
「課長、泉祐寺は、三上山の登山道の中腹にある山寺です。事件の場合、犯人は登山道を抜けて大阪側に逃亡する可能性があります。大阪府警に連絡して非常線を張らせてください」
「わかった。府警には私から連絡しておく、お前は泉祐寺に急行してくれ」
「わかりました」
部屋を出ようとした涼一を渡辺が呼び止めた。
「ちょっと待て、状況がわからん。拳銃を持って行け」
渡辺は銃器保管庫から拳銃を取り出し、涼一に手渡した。涼一は拳銃を受け取り、部屋を飛び出した。
捜査車両に乗り、車を出そうとした涼一を深浦と島が呼び止めた。
「日比野さん、私たちも行きます。乗せてください」
深浦が助手席に、島が後部座席に飛び乗った。涼一はパトランプを点灯し、サイレンを鳴らして車を走らせ始めた。
車中、深浦が涼一に訊いた。
「泉祐寺までどれぐらいかかるんですか?」
「泉祐寺は、三上山のふもとにある山寺だ。川口神社の駐車場に車を止めて歩くしかない。川口神社までは三十分で着くが、そこからは嶮しい山道だ。歩くだけでも一時間はかかるだろう」
今度は島が涼一に訊いた。
「どうして、そんなところに死体があったんでしょう?」
「現時点では何もわからない。殺人死体遺棄の可能性が高いとは思うが……」
深浦が涼一に訊いた。
「通報者は?」
「位置登録信号から、所在を確認しただけで、何もわからない。ひどく狼狽して『死体! 死体!』と叫んでたようだ」
島が涼一に訊いた。
「それじゃ、死体遺棄現場と通報者の居場所は離れている可能性もありますね」
「いや、途中、交信は途絶えてない。おそらく死体遺棄現場も泉祐寺付近だろう」
川口神社の駐車場に着いた。三人は車を降りて登山道を急いだ。
「殺人だとしたら、犯人がまだ近くに潜伏している可能性もある。君らは丸腰だろ。私が先頭を行く」
涼一を先頭に、深浦、島が一列になって嶮しい登山道を登った。五十分程で泉祐寺に着くと三人は寺の周囲を捜索した。
犬の鳴き声が聞こえた。三人がそこに向かうと、一人の男がへたりこんでいた。涼一が声をかけた。
「警察です。一一○番した方ですか?」
「そうです。山田定と言います」
「死体はどこですか?」
その男が犬のほうを向いて言った。
「チロ、もう一度あそこに行ってこい。わしはもう無理だ」
涼一が言った。
「島、君はここに残って、山田さんに事情を聞いてくれ。現場には私と深浦が行く」
「わかりました。気をつけて」
涼一は、チロの引き綱を受け取り、犬に引かれて茂みに入った。左手に引き綱を握り、右手でホルスターから拳銃を抜いた。その後ろから深浦が続いた。しばらく歩くと視界が広がった。涼一と深浦が周りを見回した。
「……」
二人とも声が出せなかった。この世の光景とは思えなかった。
「熊かイノシシに襲われて、食い散らかされたんじゃないでしょうか?」
「ばかな。熊やイノシシが胴体をロープで縛るか? 殺されたんだ。殺された後に、野獣に食い散らかされた可能性はあるが、いずれにしろ殺しだ」
涼一はチロの引き綱を深浦に手渡し、両手で拳銃を構えて周囲を捜索した。
「死体は、死後、かなり経過してる。犯人は逃亡したようだ」
涼一は拳銃をホルスターに収め、携帯電話を取り出した。
電話の向こうで渡辺が応答した。
「渡辺だ。着いたか?」
「着きました。疑いなく殺人死体遺棄です。よくわかりませんが、死体は一人分だと思います」
「よくわからん?」
「そうです。よくわかりません。よくわからないほど酷い状況です」
「そうか…… 場所は?」
「泉祐寺の裏手の茂みを真っ直ぐ西に十分ほど登ったところです。通報者は山田定、今、泉祐寺にいます。島が事情を聞いてます」
「そうか。そのまま応援を待て」
渡辺は電話を切り、無線機を手に取った。
「泉祐寺に向かう全ての捜査関係者に告ぐ、今、先発の班が現場に到着した。状況から見て、殺人死体遺棄らしい。まだ、犯人が潜伏している可能性がある。捜査関係者は、十分に注意しながら現場に急いでくれ。現場は、泉祐寺から茂みを十分程西に登ったところだ」
渡辺は無線を切り、奈良県警察本部の捜査一課に電話した。
「こちら真美署刑事課渡辺、三上山泉祐寺付近で死体を発見。状況から殺人死体遺棄の模様だ。犯人が奈良方面に逃亡する可能性がある。非常線を張ってくれ」
「了解した。なお、現場には捜査一課より応援と鑑識員を派遣する。現場を保存してくれ」
「わかった。現場に向かう者は全員拳銃を携帯するように」
渡辺はそう言って電話を切り、もう一度涼一に電話した。
「日比野です」
「渡辺だ。今、捜査一課の応援と鑑識員がそちらに向かってる。現場を保存しろ」
「わかりました」
3
しばらくして、谷川、久保の二人と真美署の署員たちが到着した。保存もへったくれもないような状態の現場だったが、県警本部の捜査員たちが到着するまで、涼一たちは、その現場を見守るしかなかった。
胴体のさらに西に何かを引きずったような痕跡があるのを見つけた涼一は、もう一度、拳銃を抜き、その痕跡に沿って西に進んだ。ところどころに血痕が残っていた。その血痕に沿って進むと、小さな沢に出た。血痕は、小さな洞窟につながっていた。
涼一はペンライトを灯し、恐る恐る洞窟の中に入った。
洞窟の入り口付近は血まみれの状態だった。
(ここが殺害現場だ!)そう思った涼一は、現場の状態を変えないように忍び足で、洞窟の奥へ進んだ。無造作にツルハシが置かれていた。
(これが凶器か? いや、このツルハシには血痕が付着してない)
洞窟の行き止まりに着いた。涼一はペンライトを当てて周囲を見渡した。何かキラリと光るものがあった。涼一はそれを手にとって、ライトで照らした。
(宝石だ! 宝石の原石だ! おそらくルビーだ! 1~2カラットはあるぞ!) そう思った涼一は、慌ててそれをポケットにしまった。その後、涼一はゆっくりと洞窟を出て、もう一度渡辺に電話した。
「渡辺だ」
「日比野です。殺害現場と思われる洞窟を発見しました。遺体の下に何かを引きずったような跡があるんですが、それに沿って西に進むと小さな沢に出ます。そこに洞窟があります。洞窟の中は血まみれの状態です」
「わかった、鑑識を向かわせる」
涼一は電話を切り、携帯をポケットにしまって、鑑識の到着を待った。しばらくして鑑識員と制服警官が数名現れた。鑑識員は犯行地点付近の写真を撮り、犯人の遺留品を探した。鑑識員の一人が言った。
「遺体は死後、最低でも二~三日は経過してます。犯人がこの付近に潜伏している可能性は低いと思われます」
それから一時間ほどして、県警本部の捜査員たちが到着した。
真美警察署開設以来の大がかりな捜査が行われた。大阪側、奈良側の両側にも大規模な非常線が張られ、各所に検問所が設けられた。現場付近の捜索は、総勢百名を超える捜査員により行われた。全員が血眼になって犯人の遺留品を探した。上空では県警のヘリが旋回していた。
捜査一課の一人が苦笑いを浮かべた。
「遺体を司法解剖に回そうにも、もう十分に解剖されてるしな…… どうしよう?」
谷川がうつむき気味につぶやいた。
「法医にここまでお出ましいただくしかありますまい」
捜索は、日が暮れても続けられた。三上山の周囲は、史上空前の非常線による包囲網が布かれた。
日が暮れてから、法医と助手が到着した。周囲の警官が司法解剖を始められるように遺体の周りを投光器で照らした。
遺体を見慣れている法医がニヤニヤしながらつぶやいた。
「犯人は法医か? いや、法医でもここまでは刻まんな……」
涼一は、殺害現場と思われる洞窟付近を捜索していたが、心はそこになかった。早くさっき見つけた原石を加工所に出したかった。指輪にするか? ペンダントにするか? 真子にプレゼントしようか? それとも真穂にプレゼントするか? そんなことばかり考えていた。
翌朝、真美警察署には、県警本部捜査一課の捜査員を中心とする三上山殺人死体遺棄事件特別捜査本部が設置され、涼一たち捜査員は、真美署の講堂に集められた。
会議の冒頭、捜査本部長を兼任することになった真美警察署長が訓示を述べた。
「今回、三上山において発生した殺人死体遺棄事件は、史上稀に見る猟奇的で凶悪な殺人事件であり、県警はその威信にかけて犯人逮捕に取り組まなくてはならない。特に三上山は、我が香芝市にとってたった一つとも言える重要な観光資源であり、今回の事件により、三上山に悪いイメージが定着し、観光客の減少を招くことは、市政にとっても大きなダメージとなる。また、この種の猟奇的犯罪は、連続殺人事件となることが多いため、犯人逮捕は一刻を争う。君たち捜査員は、それを覚悟して全力で取り組んでもらいたい。犯人逮捕にとって、もっとも有力で効率的な手段は、現場において犯人の遺留品を見つけ出すことである。君たち捜査員は、本日より、三上山の犯行現場付近をくまなく捜索し、まずは犯人の遺留品の発見に全力を尽くしてもらいたい」
次に、捜査本部副本部長となった県警本部捜査一課の立川が状況報告をした。
「死体遺棄現場は、三上山のふもとの泉祐寺より西へ約八百メートルの地点、殺害現場は、そこよりさらに西に約七百メートル進んだ沢沿いの洞窟内と推定される。
被害者は、死体遺棄現場で発見された学生証より青木一也、二十一歳、阪奈教育大学文学部英文科三回生、被害者は、この洞窟の入り口付近で殺害され、その後、死体遺棄現場まで引きずられて、バラバラに解体された。
遺体の損傷が激しいために死亡推定時刻の特定は難しいが、凡そ、十月二日午前十時から同日午後二時までの間と推定される。被害者は、宝石の採掘を目的として頻繁に三上山及びこの洞窟を訪れていたと推察されるが、殺害現場は、三上山の愛好家にもほとんど知られていない廃坑である。通りすがりのものによる犯行か、それとも青木一也を意図的に狙った犯行かも不明である。凶器も発見されていないが、おそらく斧のように鋭利で、なおかつ重量のあるものと推定される。死因は、頭蓋骨陥没による脳挫傷である。
まず、第一の作業は、殺害現場および死体遺棄現場周辺をくまなく捜索し、犯人特定の手がかりとなる遺留品を探すことである。諸君も遺留品発見に全力を尽くして欲しい」
上司の訓示をうわのそらで聞いていた涼一は、宝石を指輪にするかペンダントにするか? 真子にプレゼントするか? それとも真穂にプレゼントするか? 悩んでいた。もともと涼一は、敏腕刑事でもなければ熱血刑事でもなかった。刑事だってやりたくてやっているわけじゃなかった。そもそも地方の所轄所では刑事課を希望する者は少ない。その理由は、仕事がきつい割には、見返りが少ないからである。
お偉いさんの、「最も重要なことは犯人の遺留品を発見することである」という言葉を聞いた涼一に、いいアイデアが浮かんだ。
(そうだ!、原石をもう一つ見つければ、真子にも真穂にもプレゼント出来る。最も重要なことは、原石をもう一つ見つけることだ)
さっきの捜査会議では少し気になる発言もあった。
被害者の青木一也が阪南教育大学文学部英文科の学生だということだ。確か、涼一が以前ドグド・ニダラの件で翻訳研究会の会員全員に聞き込んだ時の名簿にも青木一也という氏名があった。だとしたら、涼一は青木一也に一度会っていることになる。しかし、ドグド・ニダラを読んだのは、真子と河野明美、佐藤信一の三人だけだし、今回の事件では青木一也は被害者だ。おそらく、今回の事件はドグド・ニダラとは無関係だろう。しかし被害者の青木一也の身辺を少し洗ったほうがいいんだろうか? そう思った涼一だったが、今の涼一にとって最も大切なことは、もう一つ宝石の原石を見つけることだった。涼一は、勇躍して現場捜索に向かった。そして、涼一が汗だくになって捜し求めていたものは、犯人の遺留品ではなく、宝石の原石だった。
その後、真美警察署の講堂では記者会見が開かれていた。
立川が記者に対し、事件の状況を説明した。
「死体遺棄現場は、三上山のふもとの泉祐寺より西へ約八百メートルの地点、殺害現場は、そこよりさらに西に約七百メートル進んだ沢沿いの洞窟内と推定されます。被害者の青木一也さん、二十一歳、阪奈教育大学文学部英文科三回生は、この洞窟の入り口付近で殺害され、その後、死体遺棄現場まで引きずられて、バラバラに解体されていました。遺体の損傷が激しいために死亡推定時刻の特定は難しいのですが、凡そ、十月二日午前十時から同日午後二時までの間と推定されます。
被害者は、宝石の採掘を目的として頻繁に三上山及びこの洞窟を訪れていたと推定されますが、殺害現場は、三上山の愛好家にもほとんど知られていない廃坑です。通りすがりのものによる犯行か、それとも被害者を意図的に狙った犯行かも不明です。
凶器も発見されておりませんが、おそらく斧のように鋭利で、なおかつ重量のあるものと推定されます。死因は、頭蓋骨陥没による脳挫傷です。
遺体の第一発見者であり通報者である男性は、三上山の登山を趣味とする近所の住民で、遺体発見直後に携帯電話で一一○番をしてきました。同氏が遺体を発見したのは、いつものように、三上山を登山中、飼い犬が茂みの中へ発見者を引っ張るため、犬に導かれるままに、茂みの中を歩いていたところ、死体遺棄現場に遭遇したとのことです。以上、質問を受け付けます」
記者が手を上げ質問した。
「遺体は、異常な損壊状況だったと聞いてますが、変質者による犯行ですか? それとも怨恨の線ですか?」
「それは、現在捜査中です。ただ、被害者の財布がそのまま残っていたことから物盗りの線は薄いと思われます」
「犯人逮捕につながるような遺留品は見つかったんですか?」
「犯人特定につながるような有力な遺留品や証言は今のところ得られていません。現在、総力を挙げて捜索中です」
「犯人は、単独犯ですか? それとも、複数による犯行ですか?」
「それもまだわかりません」
別の記者が質問した。
「犯人がまだ三上山付近に潜伏している可能性は?」
「それも現在捜査中です」
「連続犯となる可能性は?」
「それもまだわかりません」
「しばらく、三上山付近は危険だということですか?」
「それも現状では何とも言えません」
既に朝刊の紙面には、『三上山においてバラバラ殺人』という記事が掲げられていた。観光名所だった三上山は一転して猟奇的殺人で有名な山となり、『ジェイソン山』と揶揄されるようになった。
捜査員の懸命の捜索にも関わらず、犯人の遺留品はほとんど発見出来なかった。捜査本部は、捜査範囲を徐々に拡大し、文字通り、草の根を分けて遺留品を探したが、それらしきものは、ほとんど見つからなかった。
涼一も毎日現場に駆り出されていた。しかし、涼一が熱心に探していたものは、犯人の遺留品ではなく、宝石の原石だった。
犯行から約一ヶ月が経過したが、捜査は全く進展しなかった。三上山は客足が途絶え、登山道付近の商店は開店休業状態となった。
市民からは、事件の早期解決を求める苦情の電話が鳴り続け、市議会からも捜査本部の無能を非難する抗議の声明が寄せられた。観光資源を失った香芝市は財政的にも困窮した。
捜査本部は、史上稀に見る人員数を投入し、ローラー作戦を展開して、有力な情報を求めたが、犯人の特定につながるような情報は、全く得られなかった。
犯行から時間が経てば経つほど有力な情報を得ることは難しくなる。捜査本部には焦りの色が目立ち始めた。
一方、涼一の表情にも焦りの色が目立ち始めた。連日の懸命の探索にも関わらず、二つ目の原石は、どうしても発見出来なかったからである。
まる一ヶ月間、早朝から日暮れまで、休みなく現場の捜索を続けていた涼一は、ようやく一日の非番を与えられた。ちょうど日曜日と非番が重なった。しかし、その日も朝早くから涼一は殺害現場に向かった。渡辺が声をかけた。
「日比野、熱心だな」
「ええ、現場百回と言いますから」
洞窟に着いた涼一は、ツルハシを振り、宝石の原石を捜し続けた。例え、好きな娘にプレゼントするためとはいえ、涙ぐましい努力だった。もう涼一の意識からは、殺人事件のことなど、どうでもよくなっていた。
(そろそろ昼だな……。メシにするか……)そう思った涼一は、真っ暗な洞窟の外に置いてある弁当を食べに戻った。
真っ暗な洞窟から見る出口はまぶしかった。そのまぶしい日差しを一つの巨大な影がさえぎった。
「誰かいるのか?」不審に思った涼一がそう問いかけながらその影のほうにヘッドライトを向けると、一人の大男が異様な視線を送っていた。
「すいませんが、ここは警察の管理区域です。観光客の方はご遠慮下さい」
涼一の言葉にその大男は何も答えず、一歩二歩、涼一の方に歩み寄った。そして、両手に持った斧を頭上に振りかざした。
「千代のカタキ…… ドグド・ニダラの力をもって今、晴らさん…… 厚顔無恥、極悪非道の似非文豪よ! 思い知るがよい!」
しかし、今度は相手が悪かった。
涼一は、ポケットからすばやくパールスティックを取り出し、鮮やかな身のこなしで斧による男の攻撃をかわして、パールスティックで男の耳の付け根を一撃した。さらに振り返って襲いかかる大男のむこうずねをパールスティックで攻撃した後、体を反転してパールスティックを一閃した。パールスティックはうなりをあげて大男の鼻柱を折った。
それは涼一の『妖術』とも言える武術だった。
彼の武器は、教師が使う指示棒のような伸縮式の棒の先に、十円玉程の大きさの鉄球を付けたものである。それは、伸ばせば一メートルほどの長さになるが、縮めれば、胸のポケットに収まる程度の長さになる。涼一は、その棒を『パールスティック』と呼んでいた。文字通り先っぽに真珠のような球がついた棒という意味である。しかし、彼の同僚は、それを涼一の『妖刀』と呼んでいた。
涼一は犯人に抵抗された時など、ポケットからパールスティックをすばやく取り出し、それをムチのように操って犯人の痛点を一撃する。
痛点は急所とは違う。急所とは、そこを攻撃されると生命に関わるような部分である。涼一が攻撃する痛点とは、向こうずねや耳の付け根のように強烈な痛みを感じる部分である。実際にその姿を見た者は、同僚の深浦と久保の二人ぐらいだったが、涼一がパールスティックを巧みに操り、相手の攻撃をかわしながら痛点を攻撃する姿は、まさに妖術だった。
涼一がその妖術をいったいどこで会得したのか知る者はいなかった。
非番で手錠を持っていなかった涼一は、大男の背中を踏みつけ、両手を後ろ手に捻じ曲げて、それをリュックサックの肩紐で縛り上げた。
それから涼一は、ポケットから携帯を取り出し、捜査本部に電話した。
「日比野です。今、殺害現場の洞窟にいるんですが、犯人らしき男を取り押さえました。至急応援願います」
一時間ほどで、応援の捜査員たちが駆けつけ、その男と凶器の斧を持ち去った。涼一もそのまま捜査本部に戻った。
斧についていた大男の指紋は、死体を縛り上げていたロープの指紋と一致した。また、死体遺棄現場で採取された髪の毛のDNAは、その男のDNAと一致した。その大男は三上山殺人事件の犯人と断定された。
4
翌日の新聞紙面には、犯人逮捕の大見出しが掲げられた。
『三上山猟奇バラバラ殺人事件の容疑者逮捕。熱血刑事が殺害現場で執念の待ち伏せ』
涼一は、県警本部の刑事部長に呼び出され、お褒めの言葉をいただいた。
「いや、昔から現場百回と言うが、君の執念はたいしたものだ。犯罪者は必ず現場に戻ってくると昔から言うが、君はそれを信じて待ち伏せしてたんだな。いや、たいしたものだ」
「あっ、いや、その……」
涼一には適当な返事が見つからなかった。真美署に戻った涼一は、署員から拍手で迎えられた。涼一は困惑した表情を浮かべながら、刑事課の部屋に入った。
島が満面の笑みで涼一の功績を讃えた。
「日比野さん。おめでとう!」
渡辺が涼一の肩に手を置き、その労をねぎらった。
「執念が実ったな、本当にご苦労だった」
「えっ、いや、その……」
涼一には答えようがなかった。まさか、洞窟で宝石を捜していて、偶然犯人に出くわしたなどとは、口が裂けても言えない。
新聞紙面には、涼一が一日も欠かさず現場を捜索し、犯人逮捕の日も非番であるにも関わらず、犯人は必ず現場に戻ってくるという昔からの言い伝えを信じて、洞窟で待ち伏せしていたと書かれていた。
涼一には香芝市長から感謝状が贈られることになった。三上山はもとの賑わいを取り戻した。涼一の実名は、インターネットで伝えられ、涼一は一躍、英雄?となった。
その夜、涼一は夢を見た。夢の中で涼一は菜の花畑の中をさまよった。辺り一面に咲き乱れた菜の花が美しく、のどかな風景だった。涼一は菜の花畑の真ん中で真子を見つけた。真子は、菜の花畑にひざまずいて下を向いていた。涼一が声をかけると、真子はゆっくりと顔を上げて虚ろな視線を涼一に向けた。涼一は真子の手元を見た。真子は一冊の本を持っていた。その本の表紙にはドグド・ニダラと書かれていた。ハッとして、涼一は目を覚ました。怖い夢だった。涼一は疲れると時々、妙な夢を見るが、捜査に関係のある夢を見ることは珍しかった。
涼一が逮捕した三上山殺人事件の犯人は、河野明美を搬送した三上山病院の看護師だった。犯行現場と三上山病院は歩いて三十分ほどの距離にある。しかし、周囲を高いコンクリートの塀に覆われ、完全に社会から隔絶された環境にある精神病院の職員が犯人だったというのは、まさに捜査の盲点だった。
犯人の看護師は、三上山病院の独身寮に住んでいる単身者だったが、精神病院内は、患者のプライバシーを守るため、警察官も気軽には立ち入らないので、全くノーマークだったのである。
しかし、涼一には少し気になることがあった。犯人が涼一に襲いかかる時、確か「千代のカタキ」と言ったことである。しかし、ドグド・ニダラは、現在、上下巻ともに真美警察署の証拠品保管庫にある。その看護師がドグド・ニダラを読んだはずはなかった。実際、その看護師寮の家宅捜索でもドグド・ニダラは発見されていない。
確か、佐藤信一が教育大学前駅構内で殺傷事件を起こした時の死に際の言葉『千代のカタキ』は、新聞でも報道されていた。
模倣犯なのだろうか? 涼一にはわからなかった。
捜査本部による裏付け捜査でも被害者の青木一也と犯人の看護師との間には、何ら交友関係はなく、結局、事件は看護師による通り魔事件として処理され、捜査本部は解散した。
とりあえず、香芝の町には平和が戻り、三上山もかつての賑わいを取り戻した。涼一の心からドグド・ニダラの記憶は次第に薄れていった。