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第二章 人違い

          1


 翌朝、真美署に出勤した涼一は、刑事課の部屋に入り、身支度を整えて渡辺のデスクに歩み寄った。

「課長、早速ですが、ドグド・ニダラの下巻を探しに行ってきます」

 それを聞いた渡辺がぶっきらぼうに答えた。

「ああ、そうしてくれ。大学のキャンパスは小中学校や高校と違って、部外者でも立ち入り出来る。ただし、警察手帳は見せるな。あくまで民間人として行くんだ。お前の風貌なら、何も言わなきゃ、まだ、大学院生ぐらいに見られるだろう。ただ、あの大学の前には駅前交番がある。大学に立ち入る前に駅前交番の戸田巡査長に挨拶しておけ。戸田は私の古い友人だ。何かあった時には相談にのってくれるに違いない。戸田には私から事情を説明しておく。いいか、令状なしの立ち入りだ。刑事だということを大学に悟られると面倒なことになる。服装も着替えろ。キャンパス内ではラフな普段着姿の方が目立たない」

「わかりました。目立たない普段着に着替えます。戸田巡査長とは私も面識がありますので大学に入構するまえに挨拶しておきます」

 涼一は奥のロッカールームに入り、ポロシャツとジーンズ姿に着替え、靴も革靴からスニーカーに履き替えた。

 涼一は刑事としては華奢な体型だったし、童顔だった。普段着に着替えてしまえば、大学院生だと言っても誰も疑わない。

 刑事部屋を出ようとする涼一の後ろから渡辺が念を押した。

「興味はあるだろうが、例え、ドグド・ニダラを見つけても、絶対に読んではいかんぞ! あの本には、読み出したら止まらない不思議な魔力がある」

 渡辺の言葉を背中で聞いた涼一は、チラッと後ろを振り返ってニッコリ微笑んだ。

「大丈夫です。信用してください」

 真美署を出た涼一は、近鉄三上駅から電車に乗り、阪奈教育大学がある教育大学前駅に向かった。駅に着いた涼一は、大学の正門の斜め向かいにある駅前交番に入った。

 交番の中の呼び出しボタンを押すと、奥の部屋から三十代後半のやや小太りの制服警官が出てきた。彼が駅前交番のハコ長の戸田巡査長だ。戸田は涼一を見て、人懐っこい笑みを浮かべた。

「やあ、日比野か、さっき渡辺さんから電話があったよ。用件は聞いた。前の大学で発禁本が見つかったらしいな」

 涼一は、交番の入り口近くの椅子に腰掛けながら答えた。

「こんにちは、久しぶりですね。今日はドグド・ニダラという本を探しに来ました」

「渡辺さんもそう言ってたよ。お前さんがドグド・ニダラを探しに行くって。その本を見つけたら、持ち主をしょっ引くのか?」

「いえ、どうもその本は個人の持ち物じゃなく、大学の翻訳研究会の書棚に長年放置されてたようなんです」

「そうか、そういうわけか、阪奈教育大は昭和五年に設立された古い大学だから、昔の発禁本が残ってたとしても不思議じゃないな」

「昭和五年というと、一九三○年ですね。ドグド・ニダラが刊行された一九三五年には、もう阪奈教育大は開校してたわけですね」

 戸田が笑みを浮かべて頷いた。

「そういうことになるな」

「ところで、戸田さん、この交番勤務はいつからですか?」

「そうだな…… もう二年になるな」

「交番勤務は忙しいですか?」

「とんでもない。この駅の周りを見ろよ、ここは、大学と学生寮以外にほとんど何にもないド田舎さ。

 商店も駅前にコンビニが一軒あるだけだろ、それもこの交番のすぐそばだ。交番のすぐそばのコンビニなんて強盗だって狙わないさ」

 その時だった、一人の大学生風の女性が血相を変えて交番に飛び込んできた。色白で小柄なその女性は、ショートカットの髪を振り乱し、細く白い手をワナワナと震わせながら涙声で叫んだ。

「正一さま! 正一さま! こんなところにいらしたのですね! 千代です! 旦那さまの妻の千代です!」

 その言葉は、涼一に向けて発せられた言葉だった。涼一はギョッとして椅子から立ち上がり、唖然としてその美しい女子大生の叫びを聞いた。戸田も呆気に取られた表情でその女子大生を見つめていた。 

 その女子大生が続けて叫んだ。

「正一さま! 千代です! 火傷でこんな醜い顔になってしまった私が嫌いになったのですか! 惨たらしい火傷を負った私をお見捨てになるのですか!」そう言ってその女子大生は両手で顔を覆い、ワッと大声で泣き出した。

 涼一と戸田には、その女子大生の言葉の意味が全く理解出来なかった。そこにいたのは涼一と戸田だけで、戸田の下の名前は俊彦だ。そこに正一などという人物はいなかったし、その女子大生は顔に火傷など負っていなかった。

 戸田が呆気に取られた表情をしながら、涼一に訊いた。

「こ、この娘さん、お前の知り合いなのか?」

 それを聞いた涼一は、慌てて首を横に振った。

「しっ、知りません! こんな娘さん、初対面です!」

 それを聞いた女子大生は、さらに大声で叫んだ。

「知らないなんて! 初対面なんて! 何て酷いことをおっしゃるのですか! お忘れのはずはありません! 旦那さまの妻の千代です! どうぞ千代と呼んでください! 一言、千代と呼んでください!」

 涼一は、その場に硬直して立ち尽くしていた。この女子大生は人違いをしてる。自分を正一だと思い込んでる。そう思った涼一が切迫した表情でその女子大生を見つめた。

「お嬢さん、人違いです! 私は、日比野涼一と言います。正一なんかじゃありません!」

 涼一の言葉を聞いたその女子大生はさらに激しく興奮して叫んだ。

「正一さま! なぜ、そんな嘘をつくのですか? 私はあなたの妻です! 妻の千代です! 自分の愛しい旦那様を見間違うはずがありません! 正一さま! やはり、こんな醜い顔になった私がお嫌いなのですか? 正一さま! 正一さま!」そう叫びながらその女子大生はワッと大声で泣き出し、涼一にしがみついてきた。硬直する涼一の胸の中でその女子大生は嗚咽しながら叫び続けた。

「正一さま! 愛しい正一さま! 千代です! 旦那さまの妻の千代です! お願いです! どうぞ千代と呼んでください! 妻だとおっしゃってください!」

 泣きじゃくりながら胸にしがみつくその女子大生の力で涼一はよろめき、二、三歩後ずさりして、交番の壁にもたれかかった。相手は女性だ。涼一は力ずくでその娘を払いのけるわけにもいかず、困り果てた表情で戸田を見つめた。そして震える声で言った。

「戸田さん! この娘のショルダーバッグの中を調べてください! 女子大生なら、学生証か運転免許証を持ってるはずです! 定期券でもかまいません。とにかく、この娘の住所と氏名を調べてください!」

「わっ、わかった!」

 戸田は涼一の胸に顔を沈めて泣きじゃくる女子大生にそっと近づき、後ろからショルダーバッグの中を探った。ショルダーバッグのサイドポケットに革の定期入れが入っていた。

 二つ折れの定期入れを開くと、そこに学生証が入っていた。学生証の顔写真は間違いなくその女子大生の顔写真だった。

 戸田は氏名の欄を見た。[河野明美]だった。住所の欄には[奈良県香芝市三上958‐1‐206]と書かれていた。

「河野明美だ! この娘は河野明美だ! 千代なんかじゃない! 住所は三上958‐1‐206だ!」

 それを聞いた涼一がその娘に言った。

「河野さん!、あなたは河野明美さんですね!」

 涼一の胸にしがみついている娘が涙声で叫んだ。

「正一さま! 何をバカなことをおっしゃるのですか! 私は、村野千代です! 旦那さまの妻、村野千代です!」

 それを聞いた戸田が小さな声を漏らした。

「くっ、狂ってる。この娘、いっちまってる……」

 涼一が必死の形相で戸田を見つめた。

「学生証なら所属学部・学科が記載されてるはずです。彼女の学部・学科は?」

「文学部英文科だ!」

「戸田さん! 英文科の事務局に電話して問い合わせてください。この娘、河野明美さんの保護者の連絡先を教えてくれるはずです」

「わっ、わかった! ちょっと待ってくれ、奥の部屋にパソコンがある。大学のホームページで英文科の電話番号を調べるから……」そう言って、戸田は奥の部屋へ入って行った。

 交番の入り口を入ったすぐ左側の壁に涼一が残された。河野明美は、相変わらず涼一にしがみついたまま泣きじゃくっていた。涼一はその場に硬直したまま、じっとしているしかなかった。しばらくして、奥の部屋から戸田がメモを持って飛び出してきた。戸田が受話器を取り、電話をかけた。電話の向こうで大学の事務員が応答した。

「はい、英文科です」

 戸田が受話器に向かって尋ねた。

「阪奈教育大学文学部の英文科ですか?」

「はい、そうです」

「こちらは、駅前交番の戸田という者です。今、交番で、錯乱状態の女性を一人保護したんですが、学生証からそちらの学生さんだと判明しました。河野明美さんという女性です。学生証番号は、41008027です」

「河野明美ですか…… しばらくお待ち下さい。41008027…… はい、間違いありません。本科の学生です」

「よかった。さっきも言いましたが、河野明美さんは、現在精神錯乱状態のため、この交番で保護してます。ご両親に連絡する必要があるんで、連絡先の電話番号を教えてください」

「連絡先ですか…… 困りましたね。河野明美のご両親は高知県南国市にお住まいです。電話番号は088‐863‐……です」

 それを聞いた戸田が苦虫を噛み潰したような顔をした。

「高知県ですか…… まずいな。それじゃ河野明美さんは下宿生なんですか?」

「はい、そのはずです。住所は奈良県香芝市三上958‐1‐206、やはり一人住まいですね」

「そうですか、わかりました。ありがとうございます」

 戸田は受話器を置き、困りきった表情で涼一の方を向いた。

「日比野、まずいぞ、その娘の両親は高知に住んでる。その娘は一人住まいだ」

 それを聞いた涼一は天を仰いだ。万事休すだ。



 涼一が落胆したのには複雑な事情がある。精神障害者はあくまで病人であって犯罪者ではない。現行の刑法では、いわゆる保安処分(まだ何も犯罪を犯していない市民を、犯罪を犯すかもしれないという予想に基づいて逮捕し、あるいは身柄を拘束する行為)は認められていない。これは、人が将来的に犯罪を犯すかどうかなど、誰にも予測出来ないからである。一旦、警察に保安処分を認めてしまえば、警察は、善良な市民を『いつか犯罪を犯すかもしれない』という根拠のない予想だけで逮捕・拘禁出来ることになり、これは重大な人権侵害につながりかねない。

 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第123号第24条では、「警察官は、職務を執行するに当たり、異常な挙動その他周囲の事情から判断して、精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認められる者を発見したときは、直ちに、その旨を、もよりの保健所長を経て都道府県知事に通報しなければならない」とあり、精神病者を発見した警察官に認められている行為は、あくまで、その発見を、保健所を通じて都道府県知事に通報することだけである。ただし、『移送協力要請に伴う警察がとるべき措置』として、「法第24条に基づく通報、保護者等からの診察・保護の申請等に基づき、保健所等の職員が調査中、対象者が急に暴れ出すなど自傷他害の恐れがあり、直ちに治療を行う必要性が認められ、病院への移送のために、警察官への移送協力要請があった場合で、現場臨場時、精神錯乱の状態にある者については、警察官職務執行法第3条に基づき、対象者を保護の上、病院へ搬送すること」と記されており、警察官は、保健所などの職員から要請があった場合にのみ、精神病者の身柄の保護および病院への搬送を行うことが認められている。搬送先は、各都道府県が指定した精神科救急病院である。

 つまり、警察官が精神病者を保護したり、精神科救急病院に搬送したり出来るのは、保健所職員などから要請があった場合だけで、警察官が自分の判断で精神病者を保護したり、精神病院へ搬送したりすることは越権行為の恐れがある。

 また、警察官職務執行法第3条では、精神錯乱又は泥酔のため、自己又は他人の生命、身体又は財産に危害を及ぼす恐れのある者を警察官が二十四時間以内に限り保護することが認められているが、この法律に基づいて市民を精神錯乱状態にあると判断し、身柄を保護するためには、それなりの客観的根拠が必要であり、警察官がむやみにこの法律を適用すれば、後日、本人や保護者などから人権侵害で訴えられる可能性がある。

 このような理由で、一般に、警察官は精神病者を発見しても、警察官職務執行法に基づく保護はやりたがらない。

 その精神病者の両親に連絡して、後のことは両親に任せるのが、最も穏便な処理だからである。

 精神保健福祉法では、精神病者を強制的に入院させる権限は、精神保健指定医のみに認められており、警察や保健所が精神病者を病院に搬送しても、精神保健指定医が入院の必要なしと診断すれば、患者は直ちに解放しなければならない。

 また、仮に精神保健指定医が入院の必要ありと診断しても、患者を強制的に入院(措置入院)させるためには、都道府県知事の命令が必要である。

「正一さま! 愛しい旦那さま! 千代です!」

 そう叫びながら、涼一にしがみつき続ける河野明美をしばらく見つめた後で、涼一はあきらめ顔をして、戸田を見た。

 戸田は黙ってうなずき、保健所に電話して、河野明美のことを通報した。警察官の判断で出来ることはこれだけである。

 保健所の職員が到着するまで、涼一や戸田は河野明美の身柄をあくまで保護しているのであり、犯罪者のように手荒な扱いをすることは許されない。

 涼一は、自分の胸に顔を沈めて泣きじゃくる河野明美をなす術なく見守るしかなかった。

 保健所の職員が到着したのは約二十分後だった。涼一にとっては恐ろしく長い二十分だった。河野明美が涼一にしがみついている様子は、交番の外から丸見えだった。交番の前を横切る他の学生が交番の中をチラッと覗いていく視線が涼一にはたまらなく痛かった。

 やがて、保健所の車が交番の横の駐車場に車を止め、二人の保健所職員が交番に入ってきた。保健所の職員は、力ずくで河野明美を涼一から引き離そうとはせず、交番の引き戸を閉め、中から施錠し、明美に声をかけた。

「河野明美さんですね」

 明美はギョッとして後ろを振り向き、保健所職員をにらみつけた。

「なによ! あなたたち!」

 保健所職員は、穏やかな笑みを浮かべながらもう一度言った。

「河野明美さんですね」

 明美は憎憎しい視線を保健所職員に向けた。

「私は村野千代です! この人の妻です!」

 そして明美はすがるような視線を涼一に向けた。

「正一さま…… 愛しい旦那さま…… どうぞ、この人たちに教えてあげてください。私が旦那さまの…… 村野正一さまの妻であることを…… 妻の千代だということを……」

「ハハーン、なるほど、こういうことか……」二人の保健所職員は互いに顔を見合わせた。

 涼一は、保健所職員に小さな声で話しかけた。

「こういうことです。早く何とかしてください」

 保健所職員は、二人で互いにボソボソと話し合った後、一計を案じて言った。涼一に向けての言葉だった。

「村野正一さん、あなたを病院までお送りします。ご一緒ください」

 それを聞いた涼一は一瞬、保健所職員の意図がわからす、愕然としたが、同時に保健所職員が涼一に目で合図しているのを見た。そして、ハッと悟った。保健所職員の作戦が読めたのである。

「はい、私が村野正一です。どうぞ、私を病院に連れて行ってください」

 涼一のその言葉を聞いた明美がうろたえながら言った。

「正一さま、病院へ行かれるのですか? どこかお加減が悪いのですか? 千代も一緒に参ります。千代が旦那さまの看病をいたします」

 涼一が穏やかなまなざしで明美を見つめた。

「もちろん君も一緒に行くんだよ。君は僕の妻なんだから。夫の看病をするのは、妻の仕事だろ?」

 それを聞いた明美が瞳を潤ませた。

「承知いたしました。正一さま、愛しい旦那さま、千代は一緒に参ります。一緒に病院に行って、正一さまの看病をいたします」

 涼一と明美の会話を聞いていた保健所職員がしたり顔で微笑んだ。

「さあ、村野さん、病院へ参りましょう。奥様もご一緒ください」

 保健所職員は、ドアの施錠を解き、引き戸を開けて、涼一と明美の二人を車の後部座席に導いた。涼一は、優しく明美の手を握り、明美を包み込むようにしながら、保健所の車の後部座席に乗った。

 後部座席のドアには、チャイルドロックがかけられていた。一旦ドアを閉じると外からしか開けられない。もちろんこれは、後部座席の患者を逃がさないための配慮である。

 病院に向かう車の中で、明美は幸せそうに涼一の肩にほほを寄せながら、つぶやいていた。

「正一さま…… 正一さま…… 私の愛しい旦那さま……」

 車はアップダウンの激しい山道を走り続け、三十分ぐらいで山奥にある精神科の救急病院に着いた。

 保健所の車が病院の前に止まると、ゆっくりと鋼鉄の門が開き、車はそのまま病院の敷地に入った。

 車が敷地に入ると再び鋼鉄の門が閉じられた。車が病院の救急入口の前に停車すると、そこに、一人の年老いた医師と二人の屈強そうな男性看護師が待っていた。保健所職員が外から後部座席のドアを開けた。

「さあ、村野さん、病院に着きましたよ。奥様もご一緒にどうぞ」

 涼一が穏やかに微笑んだ。

「ありがとう。千代、さあ、一緒に行こう」

 明美がコックリとうなずいた。

「はい……」

 病棟の中に入り、薄暗い廊下を歩くと古びた白い木製のドアがあった。中は部屋になっているようだった。保健所職員が言った。

「村野さま、診察室は、この廊下の突き当たりにありますので、このまま廊下をお進み下さい。奥様は、ご主人の診察が終わるまで、こちらの待合室の中でお待ち下さい」

 涼一には、保健所職員の作戦が読めた。この部屋は、待合室なんかじゃない。このドアの向こうが診察室だ。保健所職員は、待合室だと偽って、明美を診察室に入らせようとしているのだ。

「千代、私は診察を受けてくるから、診察が終わるまで、君はこの待合室で待ってるんだ。いいね」

「はい、旦那さま、お申し付けのとおりにいたします」

 年老いた医師が気味の悪い笑みを浮かべて明美を診察室に招き入れた。

「さあ、奥様、ご主人の診察が終わるまで、こちらの待合室で待ちましょう」

 明美はニッコリと微笑んで、「わかりました」と答えた。

 医師は明美を連れ立って部屋に入って行った。その後ろから二人の男性看護師も入って行った。作戦は成功だ。

 涼一と二人の保健所職員は、そのまま廊下を歩いて救急入口とは反対側の出口から病棟の外に出た。

 病棟の外に出ると二人の保健所職員が顔を見合わせてニンマリと微笑んだ。二人のうちの一人が涼一の方を見た。

「おかげさまで、うまくいきました。ご苦労様でした」

 涼一は、ぐったりした表情を浮かべながら答えた。

「こちらこそ、助かりました。ありがとうございます」

 二人の保健所職員と涼一の三人は病棟の外を歩き、もう一度、救急入口の前に止めておいた車に戻った。保健所職員がエンジンをかけ、車が動き始めると鋼鉄の扉がゆっくりと開き、車は病院の外に出た。車が外に出ると、再び鋼鉄の門が閉じられた。

 保健所職員の作戦は成功した。明美が入って行ったのは待合室などではない。あの部屋が診察室だ。

 涼一と保健所職員は診察室に向かうふりをして、廊下を歩き、そのまま病棟の外に出たのだ。明美はまんまと保健所職員の作戦に引っかかり、診察室に入って行ったのだ。おそらく明美が待合室だと思って入った部屋の中にはもう一人医師が待っているに違いない。精神衛生福祉法では、本人の同意なくして患者を強制的に入院させるためには、二人の精神保健指定医による診断が必要だからだ。

 涼一は車の後部座席から後ろを振り返ってその病院を眺めた。高さ三メートルはある薄汚れたコンクリート塀の頂部に赤錆びた有刺鉄線が張り巡らされた気味の悪い病院だった。

 病棟の窓には、鉄格子がはめられ、病院というより刑務所のような建物だった。おそらく河野明美は診察の後、窓に鉄格子がはめられた牢屋のような病室に閉じ込められるんだろう。

 あの華奢で可憐な美少女が精神病院の閉鎖病棟に閉じ込められる。それを考えると涼一の心になんともやるせない切なさがこみ上げてきた。精神病院というところがどういうところか涼一は知っていたからである。

 精神病院の病棟には大きく分けて開放病棟と閉鎖病棟の二種類があり、比較的軽症で身柄を拘束する必要のない患者は開放病棟に入れられる。開放病棟は一般の病院に近く、外出や外泊も比較的簡単に認められる。一方、重症患者や脱走の可能性のある患者は閉鎖病棟に入れられる。閉鎖病棟は、病院というより刑務所に近い。もちろん、外出や外泊は、厳しく制限される。

 さっきの様子なら、明美はきっと閉鎖病棟に入れられるだろう。

 後部座席の涼一は、視線を前に戻し、助手席に座っていた保健所職員に話しかけた。

「さっきのは三上山病院ですよね」

 助手席の保健所職員はチラッと後部座席の涼一に視線を向けてぶっきらぼうに「そうです」と答えた。

 三上山病院は、重症の精神障害者向けの施設として、香芝市の警察や行政関係者なら誰でも知っている精神病院だ。病院というより、強制収容所と呼ぶほうが適切な施設だ。



 涼一を乗せた保健所の車が駅前交番に着いた。涼一は車を降り、保健所職員に深く礼を言って、交番に入った。交番の中に入ると、すぐに戸田巡査長が声をかけた。

「どうだった?」

 戸田の問いに涼一が無表情に答えた。

「無事、病院に搬送しました。でも、やはり保護者には連絡する必要があります。精神病院の病棟からじゃ電話もままなりませんし、連絡が取れないと彼女のご両親も心配するでしょうから……」

「わかった、彼女のご両親には私から連絡をして説明しておくよ。ところで、日比野、お前、本当にあの娘を知らないのか?」

「知りません。全くの初対面です」

 戸田の質問に答えながら、涼一はハッとした。河野明美は、文学部英文科だ。真子と同じ学科じゃないか…… ひょっとして彼女も翻訳研究会の会員じゃないのか?

 戸田が質問を続けた。

「あの娘、お前のことを正一さまと呼んでたな。村野正一って誰のことだ。村野千代っていったい誰のことなんだ?」

 しばらくの沈黙の後、涼一が答えた。

「村野正一は、ドグド・ニダラの著者で、村野千代は正一の妻です。彼女、河野明美は、自分のことを村野千代だと思い込んでるようです。そして、私を夫の村野正一だと人違いしたようです」

 それを聞いて、戸田は両手を組んで「ウーン」とうなった。

「村野正一という名前と千代という名前を知ってるということは、あの娘がドグド・ニダラを読んだってことか?」

「それは、わかりません。ドグド・ニダラは小説です。小説の中に、著者とその妻の名前が出てくるのかどうか、私も本の中身を読んだわけじゃありませんから…… ただ、彼女が発狂したことと、ドグド・ニダラとは、無関係じゃないでしょう」

「それじゃ、やっぱりドグド・ニダラは、読者を狂気に導く本だってことか?」

「今時、そんなオカルト信じたくはありませんが……」

 涼一は腕時計を見た。時刻は既に十二時になっていた。

(大学は昼休みだな……)

 そう思った涼一は、ポケットから携帯を取り出し、真子に電話した。電話の向こうで真子の声がした。

「真子です。涼一さん、こんにちは」

「こんにちは、実は今、大学の前の交番にいるんだけど、会えないかな?」

 涼一の誘いに真子が弾んだ声で答えた。

「えっ、涼一さん、こちらにいらしてるんですか? それなら、ぜひ」

「わかった。それじゃ、エレッセで待ってるから」

「わかりました。すぐに行きます」

 涼一は電話を切り、携帯をポケットに収めた。この大学で真子と待ち合わせするのは二度目だった。エレッセとは、この大学の事務棟の最上階にあるカフェテラスだ。涼一と真子の電話を横で聞いていた戸田が問いかけた。

「日比野、お前、この大学に知り合いがいるのか?」

「はい、中井真子という女子大生は、私の知り合いです」

「これから、その娘に会うのか? エレッセって事務棟の最上階にあるカフェだろ」

「はい、以前にも一度エレッセで彼女と会ったことがありますので。これから行ってきます」

「例の本は、どうするんだ? 探さないのか?」

「やみくもに探すよりもいい方法があるんです。さっきの河野明美も中井真子も同じ文学部英文科です。知り合いの可能性もあります。それに、ドグド・ニダラの上巻を持ってたのは中井真子なんです。河野明美が村野正一や村野千代を知ってたということは、二人がドグド・ニダラの線でつながります」

 戸田が大きくうなずいた。

「なるほど。そういうことか……」

 涼一は、戸田に別れを告げ、大学の事務棟に向かった。阪奈教育大学は長い歴史を持つ伝統校だが、事務棟は最近、全面改装されたお洒落な建物である。涼一は、事務棟に入り、エレベーターで最上階のエレッセに向かった。

 エレッセは、事務棟が改築されたときに出来たカフェテラスで、まるで高級ホテルの喫茶店のようなお洒落な店である。エレッセの入り口に立つと、若い学生アルバイト風のウエイトレスが声をかけた。

「お一人様ですか?」

「いえ、後でもう一人来ます」

「それではこちらへどうぞ」

 ウエイトレスに導かれて涼一は、窓際のテーブルに席を取った。

「ご注文は、お連れ様がいらしてからになさいますか?」

「はい、そうします」

 涼一の返事を聞いて、ウエイトレスは一礼して立ち去った。涼一が入り口の方を眺めていると、まもなく真子が現れ、さっきのウエイトレスと何か話していた。涼一は、大きく右手を振って、真子に合図した。真子が涼一に気づいて小走りに駆け寄ってきた。

「おまたせしました」

 涼一がニッコリと微笑んだ。

「いや、僕も、たった今着いたところだよ」

「そうですか、よかった」

 真子もニッコリと微笑んで、涼一の向かいの席についた。

「真子ちゃん、ここで君と会うのは二度目だね」

「そうですね、前にも一度、来てくださいましたね」

 きのう、大学病院で会った時とは見違えるほど、真子の表情は、明るく、朗らかになっていた。まるで何かの呪縛から解き放たれたようだった。

「ドグド・ニダラを探しに来られたんですか?」

「そうなんだ、でも、その前に、向かいの駅前交番に寄ってたら、スッタモンダに巻き込まれてね」

「スッタモンダですか? 何があったんですか?」

「交番の中で戸田巡査長と話してたら、いきなり、河野明美という女性が飛び込んできたんだ。そして、僕のことを『正一さま』、『旦那さま』って呼びながらしがみついてきたんだ。人違いだって言ったんだけど、どうしても納得しないんだ。まいったよ……」

 涼一の話を聞いた真子が驚いた顔をして訊き返した。

「河野明美さん? その人は間違いなく河野明美さんだったんですか?」

 涼一が真子の問いに答えようとした時、ウエイトレスが近づいてきた。

「ご注文はお決まりですか?」

「私はパスタランチを……」

「僕も同じものをお願いします」

「食後のお飲み物は何になさいますか?」

「僕は、アイスコーヒー」

「私は、レモンティーをホットで」

「承知いたしました。パスタランチをお二つ、お飲み物はアイスコーヒーとホットレモンティーでよろしいですね」

 涼一と真子が口を揃えて言った。

「はい」

 ウエイトレスが立ち去ると涼一が話を続けた。

「話の続きだけど、その女性は、間違いなく河野明美さんだよ。学生証も確認したし、英文科の事務にも照会したから」

 それを聞いた真子の顔色が蒼ざめた。

「河野明美さんは私の先輩です。同じ英文科で今は二回生です。翻訳研究会にも所属してます。河野さん、涼一さんのことを正一さんなんて呼んだんですか?」

「うん、彼女は錯乱状態で僕のことを『正一さま』って呼んでたよ。自分のことは『千代』だと言ってた」

「村野正一と村野千代ですね?」

「そう言ってた。そうか、やっぱり彼女も翻訳研究会の会員だったんだ……。彼女もあの本を読んだんだね」

「はい、私より先に読み始めましたから、もう下巻まで読み終えたかもしれません」

 涼一が小さく首をかしげた。

「でも、翻訳ってすごく時間がかかるだろ。あの本の上巻も下巻も翻訳しようと思ったら、何ヶ月もかかるんじゃないのかな」

「はい、完全に翻訳するには何ヶ月もかかるはずです。でも、一語一句翻訳しながら読み進む人はあまりいません。ほとんどの人は、最初に全文を通読して、大まかなストーリーを理解してから翻訳を始めるんです。だから、河野さんの場合、上巻も下巻も読み終えてしまってると思います」

「そうなんだ。で、あの小説の登場人物の中に『村野正一』と『村野千代』がいるのかい?」

「名前だけは出てきます。でも、あの小説の登場人物の誰が村野正一で誰が村野千代なのか、はっきりしないんです」

「はっきりしない?」

「そうです。よくわからないんです。私はあの小説の上巻しか読んでませんし、多分、あの本は、一種の推理小説で、最後にきっとドンデン返しがあると思うんですけど、それは下巻を読まないとわからないので……」

「そうか…… わかった。これ以上、真子ちゃんにあの本のことを訊くのは止めよう。あの本のストーリーを思い出すは良くない。早く忘れてしまった方がいい」

 涼一と真子の二人は、パスタランチを食べ、食後のドリンクを飲んだ。ドリンクを飲み終えた後で、涼一が真子に訊いた。

「真子ちゃん、時間をとらせて悪いけど、僕を、あの本が最初に置いてあったところに案内してくれないか?」

「いいですよ。翻訳研究会はサークルじゃなくて正規のクラブなんで、ちゃんと大学内に部室があります。部室は、文学部の建物の裏の古いレンガ造の建物の二階です。今から案内します」

 涼一と真子の二人は、エレッセを出てエレベーターで一階に下り、事務棟の外に出た。二人はキャンパスのイチョウ並木をまっすぐ北に向かった。真夏のように蒸し暑く、日差しの強い一日だった。二人は直射日光を避け、イチョウの日陰を選んで歩いた。

 翻訳研究会の部室があるレンガ造の建物は、正門とはちょうど反対側の裏門に接していた。その建築様式は昭和初期のもので、おそらくこの大学の開設当時に建築された建物だと思われた。二人は石張りの階段を上って二階に上がり、廊下を歩いて、翻訳研究会の部室に向かった。二階の廊下も床は石張りで左右の壁には、白いペンキが塗られていた。廊下の天井はレンガ造特有のアーチ状になっており、壁の上部に一定の間隔で取り付けられた照明の灯かりが廊下全体をオレンジ色に照らしていた。白い重厚なドアの前で真子が立ち止まった。

「ここが翻訳研究会の部室です」

 真子はドアを開け、涼一を部室の中へ招き入れた。そこは、昭和初期の洋風建築に特有の格調高い部屋だった。涼一はキョロキョロと部屋の内部を見回した。

「ここは、昔、文学部の教授室だったそうなんですが、隣に新館が建築された時に教授室も移転したんで、翻訳研究会の部室として使えるようになったそうなんです」

「この部屋にいたのは英文科の教授なのかい?」

「いいえ、もともとは国文科の教授室だったそうです。左側一番奥の書棚を見てください。あの辺りだけ、日本語の本が並んでるでしょう。あれは、国文科の教授が移転するときに、そのまま置いて行った本らしいです。手前にある英語の本は、ほとんどが翻訳研究会のメンバーが集めた蔵書です」

「そう……」涼一は左側の奥に進み、日本語の本が並んでいる書棚を見回した。

「芥川龍之介、夏目漱石、森鴎外、江戸川乱歩、菊池寛、小林多喜二、志賀直哉、島崎藤村、太宰治、樋口一葉、武者小路実篤…… 日本の近代文学史を代表する文豪の本ばかりだね。でも不思議だな、この部屋にいた教授は、どうしてこんな名作を置いたまま、部屋を移転したんだろう。国文学者がほおって行くような本とは思えないな」

「実は、この部屋を使っていた教授は、発狂して大学を退官してしまったんです。これらの本は、その発狂した教授の蔵書です。その後、後任で着任した教授も、その後任も、三人とも発狂して大学を辞めさせられてしまったそうです。最後に着任した教授は、この部屋は呪われてると言って、近づこうとはしませんでしたし、教授室が移転になった時も、中の蔵書を持ち出そうとはしませんでした。だから、これらの蔵書は、どこにも持ち出されずにこの部屋に残されたんです。あくまで、私も先輩から聞いた話なんで、本当かどうかはわからないんですけど……」

 涼一が真子の方を振り返った。

「ドグド・ニダラは、この書棚にあったんだね」

「そうみたいです」

「こんなに沢山、国文学の本があるのに、どうして翻訳研究会の課題図書には、ドグド・ニダラが選ばれたんだろう?」

「ここにある本は、みんな有名な文豪の名作で、翻訳研究会のメンバーが読んだことのある本ばかりなんで、誰も読んだことがなかったドグド・ニダラを課題図書にしようということになったんだと思います」

「そう……」

 涼一は腕を組んで考え込んだ。名だたる文豪の名作が並んでいる書棚に、村野正一のような無名の作家の小説が一緒に置いてあったというのは不自然だ。

(まあいい、考えるのは後だ、とにかくドグド・ニダラの下巻を探そう)そう思った涼一は、その書棚の蔵書のタイトルを一つ一つしらみ潰しにあたった。しかし、ドグド・ニダラの下巻は見つからなかった。

「多分、あの本の下巻は、翻訳研究会の誰かが持ち出してると思います。この部屋には、ないんじゃないかと……」

「間違えて、他の書棚に置いてあるかもしれない。真子ちゃんは、入り口付近の書棚を探してくれないか?」

「わかりました」

 真子は入り口付近の書棚をあたり始めた。涼一は奥の書棚から、真子は入り口付近の書棚から、順番に書棚の中をあらためた。真ん中の書棚で二人の人差し指が触れ合った。やはり、ドグド・ニダラの下巻は、この部屋にはないようだ。

「ないね……」

「ありませんね……」

「わかった。もういい、この部屋にはないんだ。それがわかれば、それはそれで収穫さ、さあ、真子ちゃん、もう出よう」

 二人はその建物を出て、さっき来た道を逆に戻り始めた。既に午後四時を過ぎていた。

「真子ちゃん、悪かったね、午後の講義に出られなくなっちゃって」

 それを聞いて、真子はフフと小さく笑った。

「へっちゃらです。私、単位は沢山取ってますから」

「そう、それを聞いて安心した。ところで、さっき、真子ちゃん、あの部屋を使った国文科の教授が三人とも発狂したと言ってたね。それは、ドグド・ニダラを読んだからじゃないのかな?」

「それは、わかりません。でも、ありえることだと思います」



 二人は大学の正門を出て、教育大学前の駅に着いた。プラットホームで電車を待つ間に真子が涼一に訊いた。

「河野先輩は、どうなったんですか?」

「僕と保健所の職員とで、三上山病院に搬送した。彼女の両親には駅前交番の戸田巡査長が連絡して事情を説明すると言ってたから、彼女の錯乱状態が治まって、両親が迎えに来てくれれば、近いうちに退院出来るかもしれない。彼女の場合、措置入院だから退院するためには、精神保健指定医による退院許可が必要だけどね」

「精神保健指定医が退院許可をくれなかったら?」

「いつまでもあの病院に入院し続けることになるだろう」

 真子が少し表情をゆがめた。

「そっ、そんな……」

「二○○八年の統計では、精神病院の平均入院日数は、フランスで七日、イギリスで五十八日、ドイツで二十二日、アメリカで七日、カナダで十五日、イタリアは既に精神病院への入院を禁止している。それに対して日本では二百九十八日と異常に長い。

 その理由についてはいろんな意見があるだろうけど、他の先進国では、精神病患者を出来るだけ早く治療して社会復帰させようとするのに対し、日本の精神病院は、患者を薬漬けにして出来るだけ長期間入院させようとする。入院患者は病院の固定収入源なんだ。この傾向は、精神病院だけじゃないんだよ。日本の病院のモットーは、患者を『死なさず、治さず』さ。呆れたもんだよ」

 二人は電車に乗り、四位堂駅で下車した。今夜は涼一も中井邸の夕食に招かれている。二人は駅前の小さな繁華街を抜けて栄橋を渡り、小高い丘の上の中井邸に向かった。

 中井邸は、豪邸というほどのものではないが、閑静な住宅街にある立派な屋敷である。しかしその中には、大きな家では感じることの少ない、心の休まる温かみが漂っていた。

 真子が門柱のインターホンのボタンを押すと、玄関の扉を開けて真穂が飛び出してきた。

「お姉ちゃんお帰り! 涼一さんと一緒だったのね!」

 涼一が端正な笑みを真穂に送った。

「うん、実は今日、ちょっと用があって真子ちゃんの大学に行ってたんだ」

「そうなの、いいから、入って、入って」

 真子が近づきがたいような上品な気高さを漂わせている娘なのとは対照的に、真穂は人懐っこく、騒々しい娘だ。

「失礼します」

 スリッパに履き替えてフローリングの廊下を歩き、リビングに入ると、対面式のキッチンで母の祥子が夕食の支度をしていた。涼一が祥子に声をかけた。

「こんばんは」

 祥子が挨拶を返した。

「こんばんは、涼一さん、もうすぐ料理が出来ますので、少しお待ち下さい」

「ありがとうございます」

 涼一はいつものようにリビングのソファーに腰掛けた。真穂が隣に座って涼一に問いかけた。

「ねえ、涼一さん、お姉ちゃんの大学に何の用があったの?」

「きのう、真穂ちゃんにも話したろ、真子ちゃんが読んでたドグド・ニダラって本のこと。あの本には下巻があるんだ。今日は、大学まで下巻を探しに行ってたんだ」

「そうなんだ、その本見つかったの?」

「いや、翻訳研究会の書棚を真子ちゃんと二人でくまなく探したんだけど、見つからなかった。たぶん、誰かが持ち出してるんだと思う」

「きのうの涼一さんの話だと、その本……なんだっけ『トンビ・タラバ』、すごく危険な本なんでしょ、早く見つかればいいね」

 それを聞いて、涼一がクスクス笑った。

「『トンビ・タラバ』じゃないよ、『ドグド・ニダラ』だよ、きのうも言ったけど、あの本はやっぱりまともじゃない、読者を狂気に導くヤバい本だ、今日はそのヤバさを痛感させられる出来事があった」

「読者を狂気に導くヤバい本? ほんと、ホラー映画みたいね」

「まったくホラー映画みたいだ。ぼくはホラー映画なんか怖くないけど、正直言ってドグド・ニダラは恐ろしい」

 その時、涼一の携帯が鳴った。渡辺からだった。

 涼一が通話ボタンを押すと、いきなり渡辺の声が聞こえた。いつになく緊迫した声だった。

「日比野!、お前!、今どこにいる!」

「中井さんのお宅です」

 電話の向こうで渡辺の大声がした。

「教育大学前駅に急行してくれ、110番入電だ! 駅の構内で若い男が刃物を振り回してる! 既にけが人が出てる模様だ!」

 それを聞いて涼一は慌ててソファーから立ち上がった。

「わかりました! 教育大学前駅に急行します!」

 電話の向こうで渡辺が釘を刺した。

「車で行くんだぞ! 電車は、危険回避のため、駅の手前で緊急停車してる。電車は止まってるぞ!」

「わかりました!」

 涼一が切迫した表情で祥子に頼んだ。

「お母さん! 緊急事態なんですが、電車が止まってます。車を貸してください!」

「ええ、どうぞ、お使い下さい。キーは、ここにありますので……」祥子がカウンターキッチンの上のキーを指差した。

「ありがとうございます!」

 涼一はキーを手に取り、真子と真穂の方を見た。

「真子ちゃん、真穂ちゃん、悪いが緊急事態だ! 今夜は失礼するよ!」

 涼一が玄関に向けて走り出すと、後ろから真穂が声をかけた。

「涼一さん! 気をつけて!」



 涼一は、玄関でスニーカーを履き、外に飛び出して中井家の車に飛び乗った。車が走り出すと、涼一がハッとして叫んだ。

「しまった! この車には、パトランプもサイレンもない!」

 パトランプを点灯させ、サイレンを鳴らさなければ緊急車両として走行することは出来ない。制限速度を守って走り、赤信号では停車するしかない。やむなく涼一は、赤信号の度に信号待ちをし、はやる気持ちを抑えながら教育大学前駅に向かった。

 駅に着くと、駅前には既にパトランプを点灯させた警察車両が集結していた。涼一は駅前のロータリーに車を止め、構内に向けて全力疾走した。野次馬をかき分け、自動改札を飛び越えてプラットホームに向かった。途中のコンコースに、大勢の報道カメラマンが集まっており、現場を囲む警察官の隙間からパシャパシャとフラッシュを光らせて、現場の写真を撮っていた。

(ここが現場だな!)涼一はそう思った。

 十人ぐらいの制服警官が円陣を組んで取り囲んでいる中を覗くと渡辺の姿が見えた。涼一の同僚の、谷川、深浦、久保、島もいた。島は真美署刑事課所属の婦人警官だが、私服員なので、世間で言うところの女性刑事にあたる。渡辺らに取り囲まれて、一人の男が倒れていた。男の周りの床は、血の海のように真っ赤に染まっていた。その周囲にも、ここかしこに血しぶきが飛び散っていた。そして、倒れている男の前に一人の制服警官が立っていた。大量の返り血を浴びて呆然と立ち尽くしているその制服警官は戸田巡査長だった。戸田は自分も負傷しているようで、太ももから出血しており、救急隊員の手当てを受けていた。

 涼一は渡辺に駆け寄った。

「課長!」

 渡辺が落胆したような表情で振り返った。

「日比野か…… 我々もさっき到着したところだ。どうやら遅かったようだ」

「遅かった…… ですか?」

「そうだ。遅かった」

 渡辺はゆっくりと戸田に歩み寄った。

「戸田、説明してくれ」

 戸田が震える声で状況を説明した。

「はっ、はい。ほっ、本官は、駅で刃物を持った男が暴れてるという通報を受けて、ここに駆けつけたのであります。そっ、そしたら、確かにこの男が包丁を振り回しながら暴れてたのであります。すっ、既に、救急搬送されましたが、スーツ姿の男性が一人、腰を刺されて出血しておりました。この…… この男は、完全に錯乱しておりました。

 ほっ、本官は、男に落ち着くように説得したのですが、この男は、何やらわめきながら本官に向けて突進してきたのであります。本官は…… 本官は太ももを刺されて倒れました。この男は、さらに本官の上に馬乗りになり、何やら叫びながら本官の胸に包丁を突き立てようとしました。本官とこの男はもみ合いになり、気がついたときには、この男の胸に…… 胸に包丁が突き刺さっておりました。男は、グッタリしながら、最後に一言つぶやいて…… 最後に一言、『千代のカタキ』とつぶやいて絶命いたしました。

 やむをえぬ状況とはいえ、この男を刺したのは、本官であります。もちろん殺すつもりなどありませんでした」

 戸田は体を硬直させ、両手をワナワナ震わせていた。

「君の話は信じる。ただ、念のため、拳銃を預かろう」

「了解しました。拳銃をお預けします」

 戸田は腰のベルトを解き、ホルスターに収まったままの拳銃を渡辺に手渡した。渡辺はそれを受け取り、戸田に視線を向けた。

「君の正当防衛を信じる。君の正当防衛は信じるが、詳しく話を聞く必要がある。署まで同行してくれ」

「はっ、了解しました。署まで同行します」

 渡辺が後ろを振り返った。

「谷川、深浦、君ら二人は戸田巡査長を署に連行して、詳しく事情聴取しろ。日比野、久保、島、君ら三人はここに残って、鑑識の作業に立ち会え、わかったな」

 谷川、深浦、島、久保、涼一の五人が口を揃えて答えた。

「了解しました」

 渡辺、谷川、深浦の三人が戸田を連行する捜査車両がパトランプを光らせながらゆっくりと動き出した。

 涼一と久保と島は、現場に残り、鑑識の作業を見守りながら、現場の状況を確認した。一人の鑑識員が久保に歩み寄り、ビニール袋の中身を指差しながら何か話していた。久保は、鑑識の話を聞きながらメモを取っていた。他の鑑識員は、パシャパシャとフラッシュを光らせて、胸に包丁が刺さったまま倒れている血まみれの男の写真を四方八方から撮影していた。涼一も現場の様子を見て回ったが、戸田巡査長の話と矛盾する点は見当たらなかった。そこから少し離れたところに、戸田のものとも死んだ男のものとも違うと思われる血痕があった。戸田が言っていたように、確かにもう一人刺された人がいるようだ。おそらくこの血痕が、被害者の男性のものなんだろう。

 鑑識は既にその血痕付近にも人員を配置しており、写真を撮ったり血液や指紋を採取したりしていた。

 他の制服警官は、現場の周りにバリケードを張り、野次馬の整理をしていた。鑑識との話を終えた久保がやってきて涼一と島に声をかけた。

「ホトケの身元が割れました。佐藤信一、二十一歳、阪奈教育大学の三回生です」

 涼一が無表情に言った。

「文学部英文科だろ……。住所は?」

 久保が驚いたような表情で答えた。

「現住所は、香芝市三上763‐2‐107です。日比野さん、この学生をご存知なんですか?」

「いや、知らない。でも、この男、死に際に『千代のカタキ』って言ったんだろ。それだけでわかるさ。この学生は、間違いなく、阪奈教育大学文学部英文科の学生だ。それも翻訳研究会の会員だよ」

「翻訳研究会?」

「そう、翻訳研究会さ」

 島が不思議そうに涼一に訊いた。

「どうしてそんなことがわかるんですか?」

「この男は、佐藤信一だが、自分のことを村野正一だと思ってたんだ。そして、包丁を持って、妻のカタキを探してたんだ。そして、やっと見つけたのさ。それが戸田巡査長さ。いや、正確に言うと、戸田巡査長を妻のカタキと人違いしたんだ」

 今度は久保が涼一に言った。

「日比野さん、おっしゃることがさっぱりわかりませんが……」

「わからないさ。わかるはずがない。でも、そうなんだ。久保、腰を刺された男性が救急搬送されたのは、香芝市立総合病院だろ?」

「そうです。現在、市立病院のERで手当てを受けてます」

「行ってみよう。容態が心配だし、何か有力な証言が得られるかもしれない。市立病院には私と島の二人で行く、久保、君はホトケの司法解剖に立ち会ってくれ」

「わかりました。司法解剖は、奈良国立医大の法医が執刀しますので、私は、これからホトケの搬送に同行し、司法解剖に立ち会います」

「頼むぞ」

 涼一は島を連れ、祥子から借りた車で香芝市立総合病院に向かった。車中、島婦警が涼一に尋ねた。

「日比野さん、この事件は、単なる通り魔事件じゃないんですね」

「そうだ、単なる通り魔じゃない。秋葉原で起きたような無差別殺傷事件でもない」

「それじゃ、死んだ男は、誰か特定の男を狙ってたんですか?」

「そうだ」

「男が狙っていたのは誰なんですか?」

「文豪だよ……、村野正一をゴーストライターとしてさんざん利用し、最後には妻の千代ともども抹殺しようとした卑劣な似非文豪だ」

「似非文豪?」

「そう、似非文豪だ」

「どうして、大学生の佐藤信一がその似非文豪を狙ったんですか? それに戸田巡査長は似非文豪なんかじゃありませんよね」

「人違いさ。佐藤信一は、自分のことを村野正一だと思い込んでたに違いない。自分自身のことも人違いしてたんだ」

「自分自身のことを人違いしてた? 意味がわかりません」

「今はわからなくていい。捜査会議で詳しく説明する」

 涼一と島の二人は市立病院のERに着いた。涼一は、病院の受付で警察手帳を出し、身分証明のページを開いて、事情を説明した。

 ちょうど被害者の処置が終わったようで、ERから若い医師が出てきた。その医師に涼一が声をかけた。

「駅で腰を指された男性を処置なさったのは先生ですか?」

「はい、たった今、処置を終えました」

「男性の具合はどうですか?」

「かなりの出血だったんですが、幸い傷は内臓には達してませんでしたので、傷口を縫合して輸血の処置をしました。現在、容態は安定してます。運転免許証をお持ちだったので、男性の身元はわかりました。三浦雄一という方です」

「男性は、意識はあるんですか?」

「はい、意識はあります」

「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「少しなら大丈夫かと思いますが、まだ、麻酔が効いてるんで、意識は朦朧としてるかもしれません」

「それなら、なおさら、今、お話を聞きたいんです。時間が経ってからだと、細かいことを思い出せない被害者も多いんで……」

「わかりました。それじゃ、私が立ち会いましょう」

「ありがとうございます」

 涼一と島の二人は、医師に導かれてERに入った。被害者の男性は、寝台に横たわり、輸血と点滴の処置を受けていたが、意識はあるようだった。

 涼一がその男性にそっと歩み寄り、もの静かに声をかけた。

「三浦雄一さんですね?」

 その男性が視線を涼一に向けた。

「はい、そうです」

「傷は痛みますか?」

「はい、少し……」

「災難でしたね」

「ええ、酷い目に遭いました」

「犯人の男に見覚えはあるんですか?」

「いえ、あんな男は知りません。私は、大阪市内に勤めてるんですが、自宅が教育大の近くにあるんで、帰宅の途中でした。ホームの階段を下りて、コンコースに出たとき、いきなりあの男が包丁を振り回しながら駆け寄ってきて、叫んだんです」

「何と叫んだんですか?」

「あの男は、『奴はどこだ! 奴はどこだ! 言わないとお前たちも殺すぞ!』と叫びながら駆け寄って来ました。コンコース内はパニック状態になり、みんな悲鳴をあげて逃げ惑いました。結局、逃げ遅れた私が刺されました。もうダメだ、殺されると思った瞬間、お巡りさんが駆けつけてきて、犯人と私の間に割って入り、助けてくれたんです」

「それから、どうなったんですか?」

「私は救急隊員に救護され、この病院に搬送されたんで、その後のことは知りません」

「そうですか。後日、また、お話を伺うかもしれませんが、今は、とにかく、安静になさってください。お大事に……」

「はい」

 男性は静かにまどろみ、眠りについた。島は涼一と被害者の会話を黙って聞いていた。

 涼一と島の二人は、医師に深々と一礼し、病院を出て、真美警察署に向かった。途中の車内で、島が涼一に話しかけた。

「犯行当時、佐藤信一は錯乱状態だったようですね」

「そう、錯乱状態だった」

「でも、私にはやはり通り魔による無差別殺傷事件に思えるんです。佐藤信一は心神喪失状態だったんじゃないかと……」

「それは、ある意味正しく、ある意味間違ってる。犯行当時、佐藤信一は間違いなく錯乱状態だった。でも、無差別に人を殺傷したわけじゃない。佐藤信一は、ある男性を探し出して、復讐しようとしてたんだ。特定の人物を狙った犯行だよ」

「そうですか……」

 まもなく車は真美警察署の駐車場に着いた。涼一と島の二人が刑事課の部屋に入ると、ちょうど戸田巡査長の事情聴取を終えた谷川と深浦が部屋に戻ったところだった。

 課長の渡辺を囲んで捜査会議が開かれた。

 まず、谷川が口を開いた。

「たった今、戸田巡査長の事情聴取を終えました。現場での供述のとおり、戸田巡査長は若い男が錯乱状態で包丁を振り回してるという通報を受け、教育大学前駅に駆けつけました。するとホトケが錯乱状態で暴れてました。ホトケとは、死亡した佐藤信一です。既に一人の男性が腰を刺されて倒れてました。戸田巡査長は、とっさに男性を守ろうと、二人の間に割って入りました。すると佐藤は、何やらわめきながら、包丁を振り回し、戸田巡査長に襲いかかりました。

 戸田巡査長は、佐藤に太ももを刺され、その場に倒れました。佐藤は、倒れてる戸田巡査長に飛びかかり、馬乗りになって、戸田の胸に包丁を突き刺そうとしました。戸田は必死で佐藤の腕を取り、二人でもみ合いになりました。そして、包丁がホトケの胸に突き刺さり、佐藤信一は絶命しました。

 佐藤を刺したのが戸田巡査長だというのは間違いなさそうですが、これは、不可抗力であり、正当防衛です。戸田には殺意はありませんでした。ただ、佐藤から包丁を奪い取り、取り押さえようとしただけです。

 つまり、本件は、佐藤信一による無差別殺傷事件であり、戸田巡査長は、市民を守るために、佐藤信一と格闘して、自身も負傷しながら犯人を逮捕した英雄です。犯人の佐藤信一が死亡したのは、不可抗力であり、正当防衛です」

「違います。本件は、無差別殺傷事件じゃありません。死に際に佐藤は『千代のカタキ』とつぶやいたんですよね」

 涼一の意見を聞いて谷川は苦笑いを浮かべた。

「あれは、錯乱状態にあった犯人のたわ言だよ。佐藤信一の身元も交友関係も調べたが、『千代』なんて人物は浮かんでこない。また、戸田巡査長も『千代』なんて女性は、たぶん女性だと思うが、知らないと言ってる」

「『千代』なんて女性は知らないという戸田巡査長の供述は、ある意味本当ですが、ある意味では嘘です。

 今朝、私は、ある発禁本を探しに、阪奈教育大学に行ったんですが、その前に駅前交番に立ち寄ったんです。交番で戸田巡査長と話してると、『千代』と名乗る女性が飛び込んできたんです。その女性は、錯乱状態で私のことを『正一さま』と呼んで、しがみついてきました。戸田巡査長がその女性のショルダーバッグの中を調べると、サイドポケットに定期入れが入ってあり、中にあった学生証から、その女性は『河野明美』という学生だとわかりました。所属は阪奈大学文学部英文科です。

 私と戸田巡査長は、懸命に河野明美を落ち着かせようとしましたが、河野明美は錯乱状態のまま、自分のことを『村野千代』だと言い続け、私のことを夫の『村野正一』だと言って、しがみつき続けました。

 やむなく私と戸田巡査長は、保健所に通報し、保健所職員の要請で彼女を三上山病院に搬送しました。つまり、戸田巡査長には、『千代』という知り合いはいませんが、『千代』という名前に聞き覚えはあるはずです。実際に、今朝、『村野千代』と名乗る女性に会ってるんですから……」

 谷川が首を傾げながら訊いた。

「しかし、その『村野千代』と名乗る女性が、本当は『河野明美』だということは、確認したんだろ。なぜ、その女性はそんな嘘をついたんだ?」

「河野明美は嘘をついてたわけじゃありません。本当に自分のことを村野千代だと思い込んでた様子でした」

「その女、いっちまってたんだな……」

「そのようでした」

「で、その出来事と本件に何の関係があるんだ」

「佐藤信一は、死に際に『千代のカタキ』とつぶやいたんですよね。ということは、佐藤信一は、自分のことを『村野正一』だと思い込んでたということです。つまり、佐藤は、無差別に人を殺傷したわけじゃなく、『千代のカタキ』である男性を探し出して殺そうとしてたんです」

「それじゃ、佐藤信一もいっちまってたわけか……」

「どうも、そのようです」

 深浦が口をはさんだ。

「同じ日に同じ大学で二人の人間が発狂するというのは解せませんね。二人は知り合いだったんでしょうか?」

 涼一が答えた。

「二人とも阪奈教育大学文学部英文科で翻訳研究会の会員だという共通点があります」

 島が涼一に訊いた。

「それじゃ、河野明美と佐藤信一は同じ原因で発狂したという可能性がありますね」

「そう、同じ原因だよ」

「その原因は?」

 課長の渡辺が口をはさんだ。

「その原因は、ドグド・ニダラだ」

 涼一を除く全員が口を揃えて言った。

「ドグド・ニダラ?」

「そう。ドグド・ニダラだ」

 谷川が渡辺に訊いた。

「何ですか? そのドグド・ニダラって?」

 渡辺が全員にドグド・ニダラについて説明した。

 しばらくの沈黙の後、蒼ざめた顔で谷川が渡辺に問いかけた。

「お話はよくわかりました。しかし、そんなホラー映画のようなことが現実に起こりえるんでしょうか?」

 渡辺がぶっきらぼうに答えた。

「現実に起こりえるかって? 私もそんなオカルト信じたくはない。でも、現実に起こったじゃないか、今日、駅前交番と教育大学前駅の構内で……」

 涼一が渡辺に言った。

「佐藤信一の自宅を家宅捜索させてください。ドグド・ニダラは、彼の自宅にある可能性があります」

「わかった。早速、令状を請求しよう」

 その時、佐藤信一の司法解剖に向かっていた久保から電話があった。

 渡辺が電話に出ると、電話の向こうで久保が言った。

「佐藤信一の司法解剖の結果が出ました。心臓を包丁で突き刺されたことによる出血性ショック死です」

「わかった。ご苦労だった。鑑識に伝えてくれ、ホトケの所持品も衣類もすべて証拠として押収し、保管するように。もし、ホトケの所持品にドグド・ニダラという本があったら、厳重に持ち帰り、私の手元に届けてくれ」

「わかりました。ドグド・ニダラですね。しかし、今のところ、ホトケの所持品に本は見つかってません」



 翌日、鑑識を同行させて、谷川、深浦、久保、島、涼一の五名は、佐藤信一の家宅捜索を行った。涼一以外の捜査員は、渡辺と涼一が主張する『ドグド・ニダラ説』を信じていなかった。佐藤信一の犯行は、意図的に三浦雄一さんを狙った『怨恨の線』だとにらんでいたのである。

 ハイツのオーナーに令状を見せ、鍵を開けてもらって、佐藤信一の部屋に入った。そこは、まるで、女性の部屋のように小奇麗に整理整頓されていた。

 谷川が部屋を見回して納得したように頷いた。

「とても無差別殺傷事件の犯人の部屋とは思えない」

 やはり、谷川は怨恨の線を疑っているようだった。涼一は、書棚の本を一冊一冊丁寧にあらためていた。英文科の学生の部屋らしく英語の図書が多かったが、壁のフックに掛かっていたナップサックの中をまさぐっていた涼一は、中から一冊の古ぼけた本を探し出した。

「あったぞ!」

 それは、ドグド・ニダラの下巻だった。他の捜査員は、異口同音に「ヘエー、やっぱりあったのか」と言ったが、特に強い関心はないようで、そのまま黙々と捜索を続けた。彼らが探しているのは、佐藤信一と三浦雄一を関連づける証拠だった。

 しかし、いくら探しても、二人を関連付ける証拠は発見出来なかった。谷川はしきりに鑑識に指紋採取をせがんでいた。また、深浦は、パソコンの電源を入れて、メールの履歴を調べようとしたが、パソコンのパスワードが解除出来なかったため、結局、パソコンごと署に持ち帰ることになった。家宅捜索を終えて署に帰ると、涼一は渡辺のところに歩み寄り、机の上に一冊の本を置いた。

「やはり、ありました」

 渡辺は、その本をじっと見つめた。

「あったか…… この本は、私に任せろ。時期をみて、上巻と一緒に焼却する」

「お願いします」

「これで、一件落着だな。これ以上、事件が続くことはあるまい」

「それは、まだわかりません。他にもこの本を読んだ者がいる可能性があります。翻訳研究会の会員全員に事情聴取する必要があると思います」

「そうだな、その必要はあるな……」

 それから、取り立てて何事もなく数日が過ぎ、戸田巡査長は、十津川署への転任が決まった。これは、決して左遷ではなく、世間やマスコミの目から戸田を遠ざけるのが目的だった。

 谷川らは、佐藤信一や三浦雄一の自宅周辺の聞き込みを続けていた。どうしても怨恨の線を捨て切れなかったからである。

 一方、涼一は、真子から翻訳研究会の会員名簿をもらい、地道に一人一人事情聴取を続けていた。もし、他にもドグド・ニダラを読んだ会員がいるとすれば、その人物を徹底的にマークする必要があるからである。しかし、会員全員への事情聴取の結果、ドグド・ニダラを読んだのは、真子と河野明美、佐藤信一の三人だけだということがわかった。その他のメンバーは、まだ、上巻すら読んでいなかった。涼一がそのことを渡辺に報告すると、渡辺もホッと安堵した様子だった。


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