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第一章 壊れていく予感

            1


 奈良市立大学医学部付属病院、お城のように広大な緑地の中央に、二年前新築されたばかりの白いタイル張りの建物は、まさに白い巨塔と呼ぶにふさわしいさっそうとした威厳を放っていた。

 その建物の二階の片隅に、最新の設備を誇る大学病院の内部としては、何か雰囲気を異にする診療科がある。

 具体的にどう違うのか表現するのは難しいが、確かにその診療科は、内科や外科や脳神経外科、整形外科や小児科とは違う、気のせいか薄暗く、物寂しく、陰気で憂うつな空気をかもし出している。

 順番を待つ外来患者の様子も他科の患者とはどこか違い、ドロンとした虚ろで輝きのない視線を床に落としながら沈痛な表情で言葉なく順番を待っている。

 ここは、神経精神科の待合室だ。

 もう九月だというのに真夏のような太陽が照りつける蒸し暑いその日、涼一は、中井真子と真子の母の祥子と三人でここを訪れ、待合室で外来診察の順番を待っていた。幼い頃から真子の主治医をしている自閉症の専門医は、この大学病院の神経精神科の北村医師である。

 自閉症は、現在では先天性の脳の機能障害と考えられており、日本における発症率は千人に一人程度であるとする説もあれば、百人に一人程度とする説もある。すなわち、一口に自閉症と言っても、その症状や障害の程度はあまりにも幅が広く、軽度のものまで含める場合と含めない場合では、発症率に十倍もの差が生じるのである。

 自閉症は全般的な知能の遅れがある知的発達遅滞と異なり、特殊な認知、知覚、言語の障害が基本にあると考えられ、それゆえに人との接触、物の認知などに障害が起こり、自閉と呼ばれる独特の行動様式が認められる。言葉の遅れと歪み、社会性や対人関係の障害、常同的行動、変化に対する嫌悪などの特徴がある。自閉症の原因は不明で今のところ有効な治療法もない。

 身体的に何ら異常なく出生した真子の様子に、父の真治と母の祥子が不審を抱き始めたのは、生後、数週間からのことだった。他の乳児のように、泣いたり笑ったりせず、ただ、いつもうつろな表情で遠くを見ている真子、真治や祥子があやしても何の反応も見せない真子、真治と祥子の心配は、生後半年頃には疑いの余地がないものとなっていた。

「お子さんには自閉症の疑いがあります」

 専門医にそう宣告されたのは、生後一年近い頃だった。内科の開業医である真治にとっても自閉症というのは、あまり接することのない病気だったため、当初二人は、真子のことを内気な性格で、努力次第では改善できるものかと期待したが、専門医による説明は残酷なものだった。

「自閉症は、先天的な脳の疾患と考えられており、性格や教育の問題じゃありません。また、生後の治療や努力により完全治癒した例は、ほとんどありません。ただ、ノーマライゼーションと言って、トレーニング次第で症状が軽減されることはありますし、健常者と同じように生活できるようになった例もあります。一口に自閉症と言っても、その症状は千差万別なので、長い目で見てあげてください」

 北村医師の説明を聞いた後、帰宅した祥子は真子の将来を悲観して泣きじゃくった。それを真治が諭した。

「真子がどんな子でも、どんな病気でも、私たちにとっては宝物だ。世の中にはいろんな宝があるんだ」

「そうね。そのとおりね。私たちがしっかりしないと真子が可哀想ね……」

 祥子は笑みを浮かべてそう答えながらも、とめどなくこぼれる涙を止めることが出来なかった。

 真子の場合は、知的発達傷害を全く伴わない高機能自閉症で、その症状は、むしろ自閉症と言うよりも『失語症』と言った方が適切かもしれない。小中学校から大学生となった今まで、真子は筆記試験では決して他の子供に劣らない学力を示していたし、思うことは思うように文章にして表わすことが出来た。ただ、他の人と面と向かって会話をすることが出来なかったのである。

 大学入学を直前に迎えた高校三年の冬、そんな真子に一大転機が訪れた。涼一との出会いである。

 奈良県警真美警察署刑事課の刑事である日比野涼一は、その夜、偶然、真子と妹の真穂が河原で悪ガキどもに絡まれているところに通りかかり、二人を救助した。そして姉妹の両親である中井夫妻は、感謝のしるしにと涼一を夕食に招待した。その食事後に、真子が生まれて初めて言葉を発したのだ。それは涼一に向けて発せられた言葉だった。

 もともと真子は家庭的な性格で、家事も好んで手伝う娘だったが、その日の真子の様子は朗らかで、明らかに普段とは違っていた。しかし、真子は疑いなく自閉症である。他人に対して積極的に話しかけることなど、真治や祥子にとって全く予想外な出来事だった。

「コーヒーはいかが?」

 これが真子が生まれて初めて発した言葉だった。真子のこの言葉を聞いた時の両親の喜びは、口では表現出来ないほどのものだった。中井夫妻は、この時まで真子の会話能力の欠如については回復を諦めていたのである。

 真治と祥子の胸に、真子が生まれてからの苦労が鮮やかに蘇った。それはまるで思い出の走馬灯のようだった。真子の出生以来、真治と祥子の生活は、真子のちょっとした仕草に一喜一憂することの繰り返しだった。妹の真穂のひょうきんで朗らかな性格に二人とも何度救われたことか……。

 たった一年違いの姉妹なのに、真子と真穂の性格は対照的に違っていた。物静かで穏やかな真子に対して、真穂はいつも笑顔を絶やさないひょうきんで騒々しい娘だった。

 その頃は、涼一がまだ真子の自閉症のことをよく知らない時期だったので、真治も祥子もその場で狂喜乱舞するわけにはいかなかったが、涼一の帰宅後、真治と祥子は涙を流して真子の一言を喜んだ。

 真治が「さっきの真子の言葉をお前も聞いたろ。あれは聞き間違えなんかじゃない。疑いなく真子の言葉だ」と言うと、「そうね。間違いないわ。私も聞いたもの。あれは真子の言葉よ。透き通った美しい声だったわ」と答えた。

「明日、北村先生のところに行って報告してくれ。これは真子の自閉症が改善する兆しかもしれない」

「わかった。そうするわ」

 翌朝、早速、母の祥子は真子の主治医である北村医師を訪ね、真子が言葉を発したことを報告した。

「とても稀なケースですが、ありえないことじゃありません。たぶん、真子ちゃんはその刑事さんのことが好きなんでしょう。家族と違って、相手が他人の場合は、以心伝心というわけにはいきませんから、好きな人と親しくなりたければ、会話をしないわけにはいきません。だから、真子ちゃんは心の壁を破って言葉を発することが出来たんだと思います。その刑事さんが協力してくれれば、真子ちゃんの会話能力はもっともっと向上する可能性があると思います」

 北村医師の所見を聞いた祥子は、すぐに涼一にその旨を伝え、協力を依頼した。

「日比野さんは、まだお気づきじゃないかもしれませんが、実は真子は自閉症で……。きのう、真子が日比野さんに話かけた言葉、あの言葉が真子が生まれて初めて話した言葉なんです」

「自閉症? あんなに聡明そうな娘さんが自閉症なんですか? 知りませんでした。あの言葉が生まれて初めての言葉だったなんて……」

「真子の場合は知的障害はないんです。知能の高さは他の子に劣りません。だから、真子の自閉症は気づかれにくいんです」

「そうだったんですか……」

「今日、主治医と今後のことを相談したんですけと、主治医は、日比野さんとの交際を続ければ、真子の症状はもっともっと回復する可能性があるって言うんです。日比野さん、どうかお願いです。時々うちに来て真子に会っていただけないでしょうか?」

「わかりました。私なんかでお役に立てるなら何なりと」

 そんな理由で涼一が中井邸をしばしば訪問するようになってから既に半年が過ぎるが、その間の真子の回復はめざましく、既に今では健常者とほとんど区別出来ないほど普通に会話が出来るようになっていた。

 涼一にとって、中井邸の訪問は市民サービスの一環のつもりだった。警官の仕事は犯人逮捕だけじゃない。安全で快適な市民の生活を守ることが警察官の仕事だ。だから、自分が訪問することで真子の病気が回復するのなら、これも警察官の役目の一つだ。涼一はそう考えていた。しかし、年頃の男女がいつまでも友人関係を続けることは難しい。涼一は、真子に対して芽生えそうになる異性感情を必死で戒めていた。

(自分は警察官だ。これは市民サービスの一環だ、相手はまだ子供じゃないか。 変な感情を持つんじゃない)

 今では、そう自分を戒めることが涼一の心の日課になっていた。

 そんな涼一が今日、真子と祥子に同行して北村医師のもとを訪ねたのは、ここ数日の真子の様子に祥子が不安を抱き、北村医師に相談したからだった。祥子から真子の様子を聞いた北村医師は、真剣な表情で祥子の話を聞いた後で、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。

「真子ちゃんのように、急速に会話能力を回復し、健常者と変わらないほどノーマライゼーションしたということも自閉症児にとっては極めて稀な症例なんで、その状態をずっと安定して維持出来るかどうかも不確定です。前にも言いましたが、この病気には『後退』と言って、一旦出来るようになったことが、また出来なくなることもあるんです。

 真子ちゃんの今の容態が、その『後退』なのか、それともただ単純に何か悩み事でも抱えているために元気がないだけなのか、それを見定める必要があると思います。真子ちゃんの場合、ある刑事さんとの出会いがきっかけで会話能力を回復したとお聞きしてますが、その刑事さんとの交際はうまくいってるんでしょうか?

 ひょっとしたら、その刑事さんとの交際がうまくいってないために元気がないだけなのかもしれません。他にも大学での勉強や対人関係などが、『後退』の原因になることもありえます。一度、その刑事さんと三人で、ここに来てもらえないでしょうか? その刑事さんに尋ねたいこともありますんで」

 真子の様子に祥子が不安を抱き始めたのは一週間前からだった。話しかけても何も返事をせず、ぼんやりと遠くに視線を向けていたり、時々何の理由もなくうつむいて瞳を潤ませていたり、寂しそうに窓の外を眺めていたり、時々ポツリと「私、壊れていきそう……」とつぶやいたり、真子の様子は明らかにおかしかった。真子の様子を気遣った真穂も祥子に言った。

「最近、お姉ちゃん変よ。何だか元気ないし、話しかけても返事もしないし、時々、『私、壊れていきそう』なんて言うの。

『どこか具合が悪いの?』って訊いても何も答えないし……。一度北村先生に相談したほうがいいんじゃない?」

 神経精神科の待合室のベンチに真子を挟んで祥子と涼一が腰掛け、順番を待っていた。涼一は、あまりジロジロ周りの患者を見ないように心がけていたが、ここは神経精神科の待合室だ。周りで順番を待っている患者たちは、何か精神的に問題を抱えている人ばかりのはずだ。

 神経神経科の診察の対象となる病気と言えば、統合失調症、(躁)うつ病、神経症、認知症、不眠症、アルコール依存症、薬物依存症、発達障害、そして真子のような自閉症、いずれかそのあたりの病気を患ってる人たちなんだろう。

 涼一が子供の頃、精神科の門をくぐる人と言えば『気が狂った人』と言うような差別的イメージが強かった。

 悪ふざけなどしていると、よく親に「黄色い救急車が迎えにくるぞ!」と脅かされたものだ。精神病の人は黄色い救急車で運ばれると言うのは、今でも子供たちの間で語り継がれている都市伝説らしい。

 しかし、この待合室を見回す限り、一見したところではどこが悪いのかわからないような普通の人がほとんどであり、シャキッとしたスーツにネクタイ姿の会社員も多い。明らかに精神を病んでいると思われるような人は一人か二人だった。

 涼一は、そっと視線を横に向け、真子の横顔を見つめた。澄んだ円らな瞳と憂いを含んだ長いまつげ、まるで桃のようにうっすらとピンクに染まったほほ、紅を塗ったように赤く薄い唇、ポニーテールにまとめた栗毛色の艶めく美しい髪、まるで絵に描いたような美しい娘だ。真子は先天性の自閉症だ。それは認めざるをえない。しかし、この半年間で、会話能力の欠如からは、ほとんど回復した。つい最近までは、どこから見ても何の異常もない大学生だった。真子は断じて心の病なんかじゃない。精神を病んだりしていない。いったい何故この美しく可憐な娘が精神科を受診しないといけないのか?

 警察官の勤務は三交代制なので、眠いのを我慢すれば週に二~三回は真子に会う時間を作れる。だから、最近少し真子の様子がおかしいことには涼一も気づいていた。でも、涼一にはその原因として思い当たるようなことはなかったし、自分が一緒に専門医の診察を受けたところで、特別な解決策が見つけられそうな気もしなかった。いったい、この娘の心に何が起こってるんだろうか? 大学での勉強や対人関係が原因なら、何とか出来そうな気もするが……。

 既に待合室に腰掛けてから二時間以上が経過していた。涼一がチラッと腕時計を見たのに気づいたのか祥子が声をかけた。

「すいません。お忙しいのに、お時間をとらせてしまって……」

 それを聞いた涼一はハッとした。そして、ニッコリ微笑みながら答えた。涼一のやや女性的で端正な顔立ちからこぼれる笑顔には、彼の繊細な優しさがにじみ出ていた。

「いえ、お気になさらないで下さい。今日は非番ですし、特に用事があるわけじゃないので……。事件がないときの警官なんて気楽なもんですよ」

 涼一の言葉は嘘ではなかった。実際、最近、真美警察署管内では事件らしい事件は、ほとんど発生していなかった。大都会の警察なら、凶悪事件がないときでも、空き巣、痴漢、麻薬や覚せい剤の密売、売春、覗き、置き引き、引ったくり、車上荒らし、自転車泥棒、酔っ払い同士の殴り合いなど、所轄警官の仕事はイヤというほどあるのだが、幸いにして涼一が所属する真美警察署管内のような比較的裕福な家庭が多い閑静な住宅街では、雑用的な事件は少なく、実際、この日も涼一はこれといって捜査案件を抱えていなかった。これがひとたび殺人事件でも発生しようものなら、三食もろくに取れず、帰宅も出来ないような過酷な勤務となるのだが……。

 スピーカーから次のような声が流れた。ようやく真子の順番が来たようだ。

『中井さま、中井真子さま、第三診察室にお入り下さい』

 祥子は静かに立ち上がって真子の手を取り、真子を連れて第三診察室の方に歩き始めた。涼一も立ち上がり、黙って二人の後について、診察室に入った。

 診察室に入ると、白衣を着た五十代前半ぐらいの医師がいた。診察室自体は、内科や外科のような一般病院の診察室と特に違うところはない。

「こんにちは」

 祥子が医師に挨拶をしながら、真子を医師の前の椅子に座らせた。その後ろに祥子と涼一が立っていると、若い看護師が丸い椅子を二つ持ってきてくれた。

「お二人もお掛けになってください」

 医師が穏やかな笑みを浮かべて真子に「こんにちは」と挨拶すると、真子が無表情に小さな声で「こんにちは」と挨拶を返した。

「真子ちゃん、お母さんから聞いたんだけど、最近、元気がないんだって。何か悩み事があるんなら、話してくれないかな?」

 医師の問いかけに真子はじっとうつむき、医師と視線を合わせようとはせずにポツリと答えた。

「いえ、特に悩み事はないんです。でも、何か自分が壊れそうで……」

「自分が壊れる?」

 医師が訊き返した。それに対して、真子は何も答えなかった。

「自分が壊れるって、どういうことなのか、教えてくれないかな?」

「私にもよくわかりません。でも、何だか自分が変になっていきそうな気がして、怖いんです」

 真子の答えを聞いた医師はしばらく黙って考え込んだ。そして、今度は涼一の方を向いた。

「あなたが真子ちゃんのお知り合いの刑事さんですね」

「そうです。日比野と言います」

「私は、真子ちゃんの主治医の北村です。お母さんから日比野さんのことはかねがねお伺いしてます。真子ちゃんの会話能力が回復したのは、日比野さんとの出会いがきっかけだそうですね。真子ちゃんの主治医として心からお礼を申し上げます」

 それを聞いた涼一は、小さく首を横に振りながら答えた。

「いいえ、それはただの偶然だと思います。私は特に何もしていません」

「今日、日比野さんに来ていただいたのは、お母さんから最近、真子ちゃんの様子がおかしいとお聞きしたので、ひょっとしたら、日比野さんと喧嘩したとか、交際がうまくいかなくなったとか、そんな事情があるかもしれないと思ったからなんですが、日比野さんには、何か思い当たることはないでしょうか?」

 涼一は、腕を組み、右手の指で自分のあごをさわりながらしばらく考え、そして答えた。

「うーん、一週間ぐらい前から、真子ちゃんの元気がないことは、私も感じてました。でも、喧嘩したりはしてませんし、何も思い当たることはありません」

 北村医師は涼一の答えを聞き、しばらく考えた後で再び涼一に視線を向けた。

「大変ぶしつけな質問で恐縮ですが、日比野さん、他に好きな女性が出来たというようなことはありませんか?」

 北村医師の質問を聞いた涼一は慌てて否定した。

「そんなことはありません。ただ、ご理解いただきたいのは、私が真子ちゃんと交際してるのは、私と交際することで真子ちゃんの自閉症が改善されるとお聞きしたからで、私と真子ちゃんは歳の離れた兄と妹のような関係です。二十九歳の私と十九歳の真子ちゃんじゃ歳も十歳離れてますし、私は真子ちゃんの恋人としてお付き合いしているわけじゃありません」

「そうですか……。 それじゃやはり原因は他にあるのかな? お母さん、お母さんには何か思い当たることはありませんか? 大学の勉強だとか、対人関係とか……」

「いえ、大学の勉強についていけないとか、大学での対人関係に悩んでるとか、そんな様子はありません。それに、真子はそういうことが原因で悩んでるのなら、私に打ち明けてくれると思います」

「そうですか……」北村医師はしばらく考え、もう一度、祥子の方を見た。

「以前にも申し上げましたが、自閉症には『後退』と言って、一旦出来るようになったことが再び出来なくなることがあります。特に真子ちゃんの会話力の回復は急速なものだったので、そのままの状態がいつまでも続く保証はありません。再び会話力を喪失する可能性もあります。ただ、真子ちゃんは思春期の女性ですし、元々とても感受性の強い心の繊細な娘さんです。だから、特に理由がなくても、一時的に憂うつな精神状態になっても不思議じゃありません。一時的に軽いうつ状態になることは、自閉症児に限らず、誰にだってあることですから……。軽い抗うつ剤と抗不安剤を処方しておきますので、一週間後にもう一度診察にいらしてください。あと、頓服で、軽い睡眠導入剤を出しておきますので、もし、夜よく眠れないようなら、それを飲ませていただければ、よく眠れるようになると思います。どの薬も、もう二十年以上使用されて、安全なことが確認されてる薬ですので、ご心配なく服用させてください」

 北村医師は祥子にそう告げた後で、真子の方に視線を移した。

「真子ちゃん、元気が出るお薬と不安を和らげるお薬を出しておくから、それを飲んでしばらく様子を見よう。一週間後にもう一度診察を受けてもらうけど、どうしても辛くて我慢出来なかったりしたら、いつでも診察を受けに来るように、わかったね」

 北村医師の言葉に真子は小さくうなずき、「わかりました」と答えた。

 三人は席を立ち、北村医師に深々と頭を下げて、「ありがとうございました」と言った。

 北村医師が軽く微笑んで答えた。

「お大事に……」



 診察室を出た三人は、神経精神科の外来受付で、緑色のビニールのファイルを受け取り、病院の一階にある会計受付に向かった。この大学病院で診察を受けるためには、まず、総合受付で診察の申し込みをして、ビニールのファイルを受け取り、それを各科の外来窓口に提出して、診察の順番を待つ。

 診察を終えたら、各科の外来窓口でもう一度そのファイルを受け取り、それを一階の会計受付に提出して、会計番号が印字されたレシートのようなものをもらう。そして、会計窓口の前の待合スペースに腰掛けて、窓口の上の大きな電光掲示板に自分の会計番号が点灯するのを待つ。町の診療所と違って、システムは複雑で待ち時間は長い。

(大学病院で診察を受けようと思ったら、まる一日完全に潰れるな……)涼一はそう思った。

 真子の会計番号は384番だった。三人は、会計窓口の前のベンチに腰掛け、電光掲示板の384番が点灯するのを待っていた。その時点灯している番号は363番までだった。真子の会計まであと二十一人待ちだ。

 時刻は既に午後一時を過ぎていた。あまりの待ち時間の長さに祥子が涼一に気を遣った。

「涼一さん、今日は本当にありがとうございました。もう、会計を済ませて薬を頂くだけなんで、後は私と真子の二人で待っております。涼一さんはお忙しいでしょうから……」

 それを聞いた涼一はニッコリと微笑んで答えた。

「いえ、本当にお気遣いなく、今日は非番で特に用事もありませんから、最後までご一緒します」

 涼一と祥子の間に座って二人の会話を聞いていた真子がうつむいたままポツリと言った。

「涼一さん、ありがとう。迷惑ばかりかけてごめんなさい」

 心なしか真子は瞳を潤ませているように見えた。涼一が大げさに首を横に振った。

「何を言うんだい、ちっとも迷惑なんかじゃないさ。僕は早く真子ちゃんに元気になってもらいたいだけなんだ。真子ちゃんに元気がないと僕もつまらないんだよ。今日だって、一緒に病院に来てるのは、真子ちゃんのためだけじゃなく、僕のためでもあるのさ」

 涼一の言葉を聞いた真子の瞳から一粒の涙がポトリと落ちた。

 瞳の周りの涙をハンカチで拭いながら、真子が「本当にありがとう。早く元気にならないといけない。自分でもわかってるんですけど……」と言った。

 それを聞いた涼一は、真子の瞳に視線を向け、穏やかな微笑を浮かべた。

「焦る必要はないさ。誰にだって元気が出ないときはあるんだし。今はただゆっくりと心と体を癒せばいいのさ。大学に入ってまだ半年だろ、受験勉強の疲れが遅れて出てきたのかもしれないし、新しい環境になじめてないだけかもしれない」

 真子は涼一の話を黙って聞きながら涙を拭ったハンカチをバッグに収めようとした。その時、真子のバッグの中に一冊の本があるのが涼一の目にとまった。

 それは、とても古い本らしく、表紙は黄ばみ、破れた部分にはセロテープが貼られていた。しかし、涼一は、その表紙に書かれている本のタイトルをはっきりと読み取った。

『ドグド・ニダラ 上巻』

(まさか、そんな! ありえない!)涼一は目を疑った。でも間違いない。真子のバッグの中にある本は疑いなく、ドグド・ニダラだ。

 それを見た涼一は、全身から血が引いていくよう様な感覚を覚え、顔面蒼白になった。ほほが引きつり、額に汗がにじみ出た。

(間違いない! 真子の様子が急変した原因はこの本だ!)

 涼一は、真子のバッグに手を突っ込んでその本を奪い取りたい衝動を必死で抑えながら、引きつった笑顔を浮かべて真子を見た。

「真子ちゃん、ひょっとしてドグド・ニダラを読んでるの?」

 真子が虚ろな表情で答えた。

「はい」

「真子ちゃんは、その本の所以を知ってるの?」

「いいえ」

 涼一は必死で平静を装いながら質問を続けた。

「それじゃ、どうしてそんな本を読んでるの?」

「私は、大学の翻訳研究会にいるんですけど、今度、翻訳の課題図書になったのがドグド・ニダラなんです」

 それを聞いて涼一は愕然とした。

 ドグド・ニダラは、昭和初期に村野正一(まさいち)によって執筆され、太平洋戦争以前の一九三五年に刊行された大変古い書物だが、数年後には治安維持法の適用を受け、発禁(発行禁止)となって、既に発行済みの分も、全て当時の特高警察により没収され、焼却処分されたはずである。その本が、何故、真子の手元にあるのか? 涼一にはわからなかった。

「その本は、どこにあったんだい? 書店にも図書館にも置いてないはずだけど……」

「翻訳研究会の書棚にあったんです。でも、誰も読んだことがなかったんで、今度、翻訳研究会のみんなで回し読みして英語に翻訳することになったんです」

 真子の答えを聞いて涼一が諭すように言った。

「真子ちゃん、その本を僕に預けてくれないか? その本は読んじゃいけない」

 真子が不思議そうに問い返した。

「どうしてですか?」

「その本は、刊行後数年で発禁となって当時の特高警察によって没収され、焼却処分されたはずの本なんだ。つまり、読んじゃいけない本なんだ。どうしてそんな本が君の大学の書棚にあったのかはわからないけど、いずれにしても、その本は君のような繊細な娘さんが読むような本じゃない。君が最近、元気がなくなったり、『自分が壊れていく』なんて感じ始めたのは、多分、この本の影響だと思う」

 涼一と真子の会話を横で聞いていた祥子が口をはさんだ。

「今、涼一さんがおっしゃったこと、確かに思い当たります。真子の様子が急変したのは一週間前からですが、真子がこの本の翻訳を始めたのも、ちょうどその頃からです。この本は、そんなに危険な本なんですか?」

「私もこの本の中身を読んだわけじゃありませんし、当時の特高警察が発禁とした理由も知らないんですが、いずれにしても警察が発禁としたのには、それなりの理由があるはずですから、そんな危険な本は読まないのが賢明です。真子ちゃん、お願いだ。僕を信じて、その本を僕に預けて欲しい」

 涼一の願いを真子は承諾してくれた。

「わかりました。この本は涼一さんにお預けします」

 真子は自分のバッグからドグド・ニダラを取り出し、それを涼一に手渡した。涼一は、ドグド・ニダラをスーツのポケットに収め、そして、もう一度真子に訊いた。

「今、君から預かったのはドグド・ニダラの上巻だ、翻訳研究会の書棚には、下巻も置いてあったのかい?」

「はい、置いてありました」

「その本は、今も書棚にあるのかい?」

「いえ、本は翻訳研究会の会員で回し読みしてますので、下巻は私より先に読み始めた会員の手元にあると思います」

 涼一が真子に頼んだ。平静を装っていたが、緊迫感が表情に出ていた。

「お願いだ、下巻が今、誰の手元にあるか調べてくれないか?」

「わかりました。調べてみます」

 涼一が真子に念を押した。

「真子ちゃん、例え、下巻の所在がわかっても、決してそれを読んじゃいけないよ。理由は僕も知らないけど、ドグド・ニダラは、とても危険な本なんだ。もし、下巻の所在がわかったら、君はそれを僕に教えてくれるだけでいい。絶対に読んじゃいけないよ」

「わかりました。絶対に読みません」

 会話に夢中になっているうちに、既に真子の会計番号384が点灯していた。祥子は会計窓口に行き、診察料を払って処方箋を受け取った。

 祥子が会計窓口から戻ってきた。

「どうも、お待たせしました。後は、帰りに処方箋薬局に寄ってお薬を受け取るだけです。真子、さあ、行くわよ」

 涼一が穏やかな表情で祥子をねぎらった。

「お疲れ様でした。真子ちゃん、さあ行こう」

 三人は、大学病院を出て最寄りの近鉄奈良駅に向かう途中の処方箋薬局に入り、薬を受け取った。近鉄奈良駅から中井邸のある近鉄四位堂駅まで戻るには、大和西大寺と大和八木で乗り換え、小一時間かかる。この間、三人は、ほとんど無言だった。

 涼一は、確信めいたものを感じていた。この一週間の真子の異変の原因は『ドグド・ニダラ』、この本に違いない。

 昔の特高警察が何故、治安維持法まで適用してこの本を発禁にしたのか、その理由は涼一も知らなかった。でも、どこで聞いたのかは思い出せないが、ドグド・ニダラを『狂気の本』とし、この本を読むと気が狂うと聞いた記憶はあった。

 幸いにして真子はドグド・ニダラの下巻は読んでいない。それなら、時間が経てば真子はもとの元気を取り戻すに違いない。涼一はそう信じたかった。

 八木駅から四位堂駅に向かう電車の中で、涼一が祥子と真子に別れを告げた。

「私は、このまま署に向かいますので、この電車で三上駅まで行きます。お二人とは四位堂でお別れですね」

 それを聞いた祥子が訊いた。

「涼一さん、今日は非番じゃなかったんですか?」

「非番です。ただ、ちょっと署に用を思い出したものですから」

 祥子が申し訳なさそうな表情で涼一を見上げた。

「そうですか、今日はお忙しいところをご一緒いただいて本当にありがとうございました」

 真子もコックリと頭を下げた。

「涼一さん、本当にありがとう」

 涼一はニッコリ笑みを浮かべた。

「それじゃ、今日はここでお別れですね。さようなら」

 祥子と真子も「さようなら」と言った。

 電車は四位堂駅に着いた。祥子と真子の二人は下車して、そのまま三上駅に向かう涼一を見送った。自動ドアが閉じられ、電車がゆっくりと動き出した。祥子と真子の二人は、プラットホームで車内の涼一に深々と頭を下げた。涼一を乗せた電車は次第に速度を上げ、次の停車駅である三上に向かった。



 近鉄三上駅に着いた涼一は、そこから真美警察署まで歩き、刑事課の部屋に入った。涼一の姿を見た課長の渡辺が声をかけた。刑事ドラマで刑事課の課長と言えば、ニヒルでダンディな中年男性を想像してしまうが、渡辺は腰が低く愛想の良い、一見したところでは個人商店の店主のような温和なおじさんだ。

「おや、日比野、お前、今日は非番だろ。それに今日は中井さんと一緒に大学病院に行くんじゃなかったのか?」

「はい、今、診察を終えて帰ってきたところです」

 渡辺が少し神妙な表情で尋ねた。

「娘さんの具合はどうだった?」

 渡辺の問いに涼一が答えた。少し疲れた表情だった。

「真子ちゃんの主治医の北村医師にも会って、三人で診察を受けたんですが、今のところ、なんとも言えないようで、軽い薬を飲んで、しばらく様子を見ようということになりました」

「そうか、ご苦労だったな」

「それより、課長、これを見てください」

 涼一はスーツのポケットからドグド・ニダラを取り出し、それを渡辺の机の上に置いた。その本のタイトルを読んだ渡辺の表情が変わった。穏やかな笑顔から一変してこわばった沈痛な表情になった。

「こ、これは……」

 しばらくの沈黙の後、渡辺が涼一に訊いた。

「お前、これをどこで手に入れた?」

「真子ちゃんが持ってました。彼女の大学の翻訳研究会の書棚にあったそうです。私は、彼女の様子が最近おかしくなった原因は、この本を読んだからじゃないかと思ってます」

 フーと大きく一つため息を吐いた後、渡辺が言った。

「ありえるな…… 彼女、どこの大学だったっけ?」

「阪奈教育大学文学部英文科です。真子ちゃんは翻訳家志望なんで、大学の翻訳研究会に入ってるんです」

 渡辺は机の上の本をじっと見つめながら腕を組んで考え込んでいた。その表情は険しかった。

「課長はこの本のことをよくご存知なんですか?」

「ああ、知ってる。一九三五年に刊行され、当時の文豪たちによって高く評価されたが、数年後に発禁となって、当時の特高警察によって没収・処分された本だ」

「そこまでは私も知ってます。いったい何故、この本は発禁になったんですか? いったい、どんな本なんですか?」

 しばらくの沈黙の後、渡辺が答えた。

「昭和初期のある金持ちが小説家として有名になりたいと思った。でも、その金持ちには小説を書く才能などなかった。そこで、その金持ちは、村野正一という無名の作家に代筆を依頼し、村野が書いた小説を自分の作品として発表した。村野は、今で言うゴーストライターさ。

 村野が書いた小説は、読者に絶賛され、とてもよく売れた。おかげでその金持ちは一躍、文豪として文壇に躍り出た。その文豪の名は今でも有名さ。君らもよく知っているはずだ。

 しかし、村野はいつまでたっても無名のゴーストライターのままだった。それどころか、その似非文豪は、有名になればなるほど村野のことを疎ましく思うようになり、ついにはヤクザ者を雇って村野を抹殺しようと企てた。

 おそらくその似非文豪は、自分の小説が本当は他人に金を払って書かせたものだということを世間に知られるのを恐れたんだろう。

 似非文豪が雇ったヤクザ者は、村野を妻の千代ともども抹殺するため、村野の家に油をかけ、火を放った。

 村野は命からがら逃げ延びたが、妻の千代は顔に大やけどを負い、ふためと見られぬ醜い顔になった。

 最愛の妻であり、また、稀に見る美女だった妻の顔を醜く焼かれた村野は、その似非文豪のことを恨み、憎んだ。そして、全身全霊の恨みと憎しみを込めて一作の本を書き上げた。怨念の塊のような小説だ。それがドグド・ニダラだ。

 ドクド・ニダラは、小説としては最高の作品だ。しかし、その文面には、村野正一の恨みと憎しみが込められてたため、その本を読んだ読者の多くは精神に異常をきたした。その結果、日本の精神病患者は急増し、精神病院に収容しきれないほどの数になった。発狂した患者の多くがドグド・ニダラの読者だということを知った当時の特高警察は、ドグド・ニダラを発禁とし、日本中の警察官を動員して市場に出回ってるドグド・ニダラを回収した。既にドグド・ニダラを購入してる読者の家にも家宅捜索に入り、それを没収した。当時の特高警察の内部文書にはこう記されてる。

『ドグド・ニダラは狂気の本なり。この本を読みし者は精神を病み狂人と化す。ドグド・ニダラの回収・没収は国家緊急の大事なり。この本を後世に残せば、遠からずして我が国には異常者が溢れ、祖国は狂人の巣窟と化す』

 また、別の内部文書にはこうも記されてる。

『ドグド・ニダラの回収・没収を完了す。世に一冊の残存もなしと思わる。作者たる村野正一を逮捕す。村野は獄中にて死亡』

 つまり、ドグド・ニダラを読んだ読者にあまりにも発狂者が続出したため、当時の特高警察はドグド・ニダラを治安風俗を乱し、公序良俗に反する本として発禁とし、既に発行された分については、全て回収あるいは没収し、焼却処分した。そして、作者の村野正一は、危険思想の持ち主として逮捕され、獄中で死亡した。おそらく、蟹工船の作者、小林多喜二と同じように、獄中で拷問され、なぶり殺しにされたんだろう。その後、治安維持法は廃止され、特高警察は解散された。今は特高警察の代わりに公安警察があるが、昔のような思想・言論の弾圧はしてない」

 渡辺の話を聞いた涼一が沈痛な表情を浮かべた。

「そういう本だったんですか……。 課長、教えてください。私はこの本をどうすればいいんですか? 読者を発狂させるような危険な本なら、本来、今すぐに焼却処分すべきだと思います。でも、発禁本とは言え、今現在、この本の所有権は阪奈教育大学にあるはずです。警察官の私が勝手に処分することが許されるんでしょうか? 器物損壊罪に当たるんじゃないでしょうか?」

 渡辺はしばらくの沈黙の後で涼一の質問に答えた。

「処分しよう。たとえ七十年以上前といっても、この本は法令によって発禁と決まった本だ。この本の発禁命令はその後解除されてないから、今でも有効だと考えることが出来る。それより何より、市民の安全な生活を守るという警察の立場から考えれば、読者を発狂させるような危険な本を放置することは出来ない。この本のことは私に任せろ。当分は、この署の証拠品保管庫に入れておくが、時期を見計らって焼却処分する。日比野、お前は、なんとかして、この本の下巻を探し出すんだ。この本は呪われた狂気の本だ、たとえ下巻だけでも放置することは出来ない。下巻も探し出して永久に葬り去るんだ」

「わかりました。何としても下巻を探し出します。上下巻ともに焼却処分して、灰にしてしまうまで安心出来ません」

「ああ、そうしてくれ」

「課長、最後に教えてください。ドグド・ニダラってどこの国の言葉なんですか? どんな意味なんですか?」

「それは、今でも解明されていない。ただ、古代アッシリアの方言で『ドグド』は『恨み』、『ニダラ』は『復讐』を意味する。つまり、『ドグド・ニダラ』は、『恨み・復讐』という意味だとする説が有力だ」

「そうだったんですか……」

 涼一は渡辺に一礼し、刑事課の部屋を出て帰路に着いた。



 涼一が所属する真美警察署は、近鉄三上駅から十分ほど西に歩いたところにあり、涼一が住む単身者向けのハイツは三上駅から近鉄大阪線を名古屋方面にひと駅行った四位堂駅から北へ十分ほど歩いたところにある。通勤時間は約三十分である。

 ハイツに帰る途中、涼一はドグド・ニダラのことを考えていた。いったいあの本にはどんなことが書いてあるんだろうか? 少し興味をそそられたが、読んでみたいとは思わなかった。例え、どんなに恨みと憎しみを込めて書かれた怨念の塊のような本だとしても、本に読者を発狂させることなど出来るのか? そんなオカルト信じたくはなかった。

 しかし、涼一は職業柄、猟奇的な犯罪を捜査している時など、自分までおかしくなりそうだと思うことがあった。よく出来た本は、読者に疑似体験のような感覚を与える。その本が恨みと憎しみを込めて書かれた狂気の本であれば、その本を読んで感銘を受けた読者が作者の意図するままに狂気へと導かれることはありえる。涼一にはそう思えた。涼一がドグド・ニダラを読んでみたいと思わない理由は、読者を狂気へ導く本など読んで、自分が本当に発狂してしまうのが怖かったからである。

 四位堂駅前の食料品スーパーで夕食用の惣菜を買った涼一は、それを片手に自宅のハイツに向かった。

 すぐに帰宅する気になれなかった涼一は、栄橋の欄干に両手を添えて、川面を眺めていた。

 栄橋は涼一の自宅と最寄りの近鉄四位堂駅の間にあり、真美川の南北を結ぶ橋長約三十メートル、幅約十メートルの橋である。鉄筋コンクリート製だが、その表面は、石橋風に仕上げられており、なんとなくモダンで風情のある橋だった。

 真美川は幅約十メートル、大人なら中央でも背が立つ深さの清流であり、川の両側には、幅約十メートルの河川敷が広がっている。河川敷の上には、細い遊歩道がある。涼一は、考え事をする時、無意識に栄橋に来てしまう癖があった。

 春になるといつも両側の河川敷を群生する菜の花が幸せ色に染める。河原に咲くタンポポも可憐な幸せ色に咲く。

 秋の心地よいそよ風にほほを撫でられながら、涼一はそんな春の景色を思い出していた。

 沈みかけた夕陽がオレンジ色に染めた景色の中に涼一の姿が埋没して、まるで日に焼けた古い風景写真のようだった。

 しかし、これから厳しい冬がやってくる。それを乗り切らなければ、また、あの、のどかな春の風景を楽しむことは出来ない。

 しばらくそこにたたずんだ後、涼一は再び歩き始め、栄橋を渡り、交差点を左折して細い道を歩いた。その先に涼一の住む単身者向けのハイツがある。さっき左折した交差点を左折せずに真っ直ぐ行くと急な上り坂があり、そこを上りきったところの閑静な住宅街に中井邸がある。涼一は一人住まいだが、中井邸は、父の真治、母の祥子、姉の真子、妹の真穂の四人住まいである。

 ハイツの部屋に入り、シャワーを浴びて夕食を済ますと涼一の携帯電話が鳴った。真穂からの電話だった。

「やあ、真穂ちゃん、こんばんは」

 電話の向こうでから真穂の透きとおった明るい声が聞こえた。

「涼一さん、こんばんは、今夜は一人でお食事?」

「うん、ちょうど今、済ませたところだよ」

「どうしてうちに来ないの? お母さん、食事はいつも五人分作ってるのよ」

「そうだった。ひとりでスーパーの惣菜なんか食べなくても、真穂ちゃんの家に行けば、ご馳走してもらえるんだったよね」

「そうよ。スーパーの惣菜なんかおいしくないでしょ」

「確かに……。でも、今日は朝からずっとお母さんと真子ちゃんと一緒にいたから、夜までお邪魔しちゃ悪いよ」

 真穂が少しむくれたような声で訊いた。

「まあ、涼一さん、お姉ちゃんと会えたからもういいわけ? 私には会いたくないの?」

「そんなことないさ。真穂ちゃんにも会いたいよ。でも、今は真子ちゃんの具合が余り良くないから、そっとしておいた方がいいかなと思って……」

「お姉ちゃんならもう大丈夫よ。今日、大学病院から帰ってきてからは、まるでつき物が落ちたように元気になったよ」

 それを聞いて驚いた涼一が問い返した。

「えっ、それ本当?」

「本当よ! みんなで心配してたのがバカバカしいぐらい朗らかになったよ」

「それは良かった。本当に良かった。あのまま、真子ちゃんの具合が良くならなかったらどうしようと心配してたんだ」

「心配要らないよ。お姉ちゃんホントに元気だから。ただ……」

「ただ……、何か?」

「私、お姉ちゃんに訊いたの。『どうしてそんなに急に元気になったの?』って…… そしたら、お姉ちゃん、変なことを言うの。『ドグド・ニダラはもうないから』って」

 それを聞いた涼一はハッとした。少し口調が荒くなった。

「真穂ちゃん、真子ちゃんは本当にそんなことを言ったの?」

「本当よ、『ドクド・ニダラはもうない』って…… ねえ、涼一さん、ドグド・ニダラって何のこと?」

 真穂のその質問に涼一は少し戸惑った。どの程度まで本当のことを説明するべきなのか? 何も話さない方がいいんじゃないかと……。ためらいがちに涼一が答えた。

「ドグド・ニダラは本の名前だよ。今日、病院で真子ちゃんのバッグにあるのを見つけたんで僕が取り上げたんだ」

 電話の向こうで真穂が不思議そうに尋ねた。

「涼一さん、お姉ちゃんの本を取り上げたの? どうしてそんなことしたの?」

「話せば長くなるけど、ドグド・ニダラは良くない本なんだ。読むと気が狂うと言われてる狂気の本さ。最近、真子ちゃんの様子が変だったのは、ドグド・ニダラを読んでたからだよ」

「そうなの。お姉ちゃんって、おとなしそうな顔して、そんないかがわしい本を読んでたんだ」

「別にいかがわしい本じゃないんだ。僕も中身は知らないから上手く説明出来ないけど、読者を狂気に導く本だと言われてる」

 それを聞いた真穂が不思議そうに尋ねた。

「読者を狂気に導く本? 何だかホラー映画みたいね。お姉ちゃん、どうしてそんな怖い本を読んでたのかな?」

「大学の翻訳研究会で翻訳の課題図書になったらしいんだ。別に真子ちゃんが選んで読んでたわけじゃないんだ」

「そうなの、それなら仕方ないわね。ところで、涼一さん、明日は日勤でしょ。夕食はうちに来れるよね」

「うん、特に事件がなければ行けると思う」

「そう、それじゃ楽しみにしてるから」

「僕も楽しみにしてる。それじゃ、今夜はおやすみ」

「おやすみなさい」

 涼一は電話を切り、携帯をテーブルに置いた。陰うつな昼間の出来事に比べて、真穂の朗らかで明るい声には救われる思いがした。涼一は無意識に笑みを浮かべていた。

 涼一はテレビの電源を入れ、NHKのニュースをぼんやりと見ていた。そしてハッと気づいた。涼一は、病院で真子にドグド・ニダラの下巻を探すように頼んだ。しかし、本当に真子があの本の下巻を見つけたら、真子がそれを読まない保証はない。もし真子が下巻を読んだら、真子は上巻も下巻も読んでしまうことになる。

「しまった!」

 涼一は慌てて携帯を手に取り、真子の携帯に電話した。三回目の発信音で真子が電話に出た。

(つながった!)涼一は心の中でホッと胸をなでおろした。電話の向こうで真子の声がした。

「真子です。涼一さん、こんばんは」

「真子ちゃん、こんばんは、電話がつながって良かった!」

「涼一さん、今日はありがとう。何か急用ですか?」

「真穂ちゃんから聞いたけど、真子ちゃん随分元気になったんだってね、本当に良かった」

「涼一さんのおかげです。もうドグド・ニダラはないから大丈夫です」

「その、ドグド・ニダラの件で電話したんだ。昼間病院で君にドグド・ニダラの下巻を探すように頼んだよね。あのお願いを取り消すよ。君はドグド・ニダラに近づいちゃいけない。例え上巻だろうと下巻だろうと君は絶対にドグド・ニダラに近づいちゃいけない。しばらくは翻訳研究会にも行かないほうがいい。ドグド・ニダラの下巻は僕が探し出して処分する。真子ちゃんは、あんな呪われた狂気の本に関わっちゃいけない。わかったかい?」

「わかりました。涼一さんの言うとおりにします。ドグド・ニダラには近づかないようにします」

「約束だよ、もし、偶然ドグド・ニダラを見つけても絶対読まないって約束してくれるかい?」

「約束します。絶対読みません」

「フー、それを聞いて安心した。そのうち詳しく説明するけど、あの本は、読者を狂気に導く恐ろしい本なんだ。だから、絶対に読んじゃいけない。くどいようだけどわかってくれたね」

「わかりました」

「それじゃ、多分、明日の夜は夕食にお邪魔すると思うけど、今夜はおやすみ」

「おやすみなさい」

 涼一は、電話を切り、携帯をテーブルに置いて、ベッドにドッカリと大の字に寝転んだ。そして、「フー」っと大きくため息を吐いた。

 犯罪捜査で靴底が抜けるほど歩き回って聞き込みをする時も随分疲れるが、今日は別の意味ですごく疲れた。もう九月だというのに蒸し暑く、寝苦しそうな夜だった。

 涼一はベッドの上に仰向けに寝転び、ぼんやりと天井のシーリングライトを眺めていた。見てもいないテレビがつきっぱなしになっていた。

「ドグド・ニダラか…… 何も起こらなければいいが……」

 涼一はそうつぶやいて、心の中で大きく膨らむ悪い予感と闘っていた。



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