“完璧令嬢“は 婚約破棄されたので謎の庭師と手を組み“悪役令嬢”にジョブチェンジします〜ざまぁされるのは貴方の方でしたね?今更泣きついてももう遅い!〜
庭師「パルク」。それが、このクラインフェルト公爵家における俺の仮の姿。任務のため、ここに潜入して数年になる。
早朝の静けさの中、剪定鋏を鳴らしながら、完璧に整えられた庭園を見渡す。瑞々しい芝と咲き誇る薔薇の香り。平和そのものの光景だ。
だが、この庭園こそが、アークライト王国の権力構造を映す縮図でもある。
一見すれば、ただ美しく、調和が取れているだけの空間。
誰もが、薔薇は薔薇自身の力で咲き誇り、名門貴族はその血筋だけで繁栄していると信じている。
だが、真実は違う。
この完璧な美しさは、計算され尽くした人の手によって維持されているに過ぎない。
不要な枝を切り、養分を独占しようとする雑草を抜き、最も美しく咲く一輪のために、他の芽を犠牲にする者がいる。
この剪定鋏を握る俺のように、姿も名も無き何者かが、その形を密かにデザインしているのだ。
それは、この国のいびつな王位継承制度そのものを表している。
国王が秘密裏に任じるという"裁定者"。次期王を指名する権限を持つ影の役職。
血筋や派閥の力学ではない、王ではないたった一人の人間の意思が、次代の王という国で最も重要な"花"を選ぶ。
この庭の美しさを創り出すのが、高価な肥料や血統の良い苗木ではなく、名もなき庭師の冷たい鉄の鋏であるように。
誰が"裁定者"なのか、王以外は誰も知らない。指名された本人さえ知らされない。
ときが満ちたとき、王が裁定者に問う。そのときまで、誰も"裁定者"の存在を知る方法はない。
この国も、この庭も、見えざる者の掌の上で踊っているに過ぎない。
――ふいに、庭園を歩く人の気配を感じ、手を止めて、朝の光の中を歩む彼女の姿を見つけると、俺は思わず息を呑んだ。
金糸の髪、宝石のような青い瞳。清楚な若草色のドレスを纏ったその姿は、噂に聞く"完璧"そのもの。
彼女の歩み、視線の配り方、背筋の張り詰めた完璧な所作――その全てが、まるで隙を見せまいとする強い意志の表れに見えた。
他者を圧倒する美しさは、彼女が纏う精巧な鎧なのだ。
サクファナ・フォン・クラインフェルト嬢。
王国でも屈指の名門、クラインフェルト公爵家の令嬢にして、王太子の婚約者。
現当主ヴァラデウニウム・フォン・クラインフェルトは国王の右腕と呼ばれる重鎮であり、位は国王を除けば王国貴族の最上位にあたる。
サクファナはその血筋に生まれ、生まれるとすぐに王太子婚約者となった。徹底的な王妃教育を受けた彼女は――社交界で"完璧令嬢"と呼ばれていた。
この名が呼ばれるとき、素直な称賛の響きも、彼女が手にした地位と将来を羨む吐息も、"面白みに欠ける"といった皮肉めいた囁きさえも、すべて含まれていた。
彼女の歩みが止まり、こちらへと向けられる。
「おはよう、パルク」
柔らかな声と、仮面のような整った微笑み。
「おはようございます、サクファナお嬢様。今朝の薔薇は、お嬢様がお通りになるのを待ちわびていたかのように咲き誇っております」
型通りの挨拶を返すと、彼女はふっと口元を緩ませた。
「ふふ、あなたにそう言われると、薔薇たちも喜んでいるように見えるわ。いつも庭を美しくしてくれて、ありがとう」
「もったいないお言葉です」
深く頭を下げながら、俺は彼女の瞳の奥に、僅かな翳りがよぎったのを見逃さなかった。
5年前に潜入してからずっと観察していたからこそ気づく程度のささやかな変化。
作り物の笑顔の裏で、心が軋みを上げているような。
「お嬢様。差し出がましいようですが、もし何かお悩みでしたら、微力ながら、どのようなことでもいたしますよ」
「え?」
俺の言葉に、彼女の整った微笑みが軋む。仮面にひびが入ったかのように。しかし、それも一瞬のこと。
「いいえ、何も。ありがとう、パルク。仕事に戻ってちょうだい」
彼女はそう言って、再び歩き出した。その背中からは、先ほどよりもなお一層、他者を寄せ付けないような張り詰めた空気が漂っていた。
――やはり、何かあったな。
冷徹であるはずの心臓が、チリッと焦げるような音を立てる。
それは慈愛か、それとも惻隠か――。
任務の標的に対して抱くべきではない感情の芽を振り払うように、俺は剪定鋏を強く握りしめた。
昼過ぎ。
俺は情報を集めるべく、重そうな洗濯籠を運ぶ侍女たちに、人の好い庭師の顔で近づく。
「おや、大変そうだ。お手伝いしましょうか?」
「まあ、パルクさん、ありがとう。じゃあ、洗濯籠を運ぶの手伝ってもらえる?」
「ええ、もちろん」
侍女たちとは、これまでも仕事を手伝ったり、甘いお菓子を差し入れたりと、関係性を築いてきた。
そのため、彼女たちにとって、俺と言う存在は警戒する必要のない、安全で頼りになる庭師でしかない。
「今日はいい天気になりそうだ。よく乾きそうですね」
「そうなのよ。だから大物もまとめて洗濯してしまいたいの」
屋敷の外から水を引き入れた広い洗濯場には、屋敷中の洗濯物が集まってくる。
広大な屋敷に住まう人たちの、ありとあらゆる洗濯物が集まるということは、つまり、多くの洗濯物を抱えた侍女たちが集まってくるということ。
この屋敷の情報は、全てがこの洗濯場に集まってくると言っても過言ではなく、任務のためには、重要な情報収集の場だ。
働いている侍女たちは主人たちの世話のために、もっとも近くまで歩み寄る存在だから。
この屋敷での異変を真っ先に感じ取るのは、侍女たちにおいて他にはいない。
洗濯籠を運ぶのを手伝い、そのままの流れで、洗濯の手伝いも行う。これまでも何度も手伝っているので、誰も気に留めない。
彼女たちの世間話の邪魔をしないように、じっと耳を澄ませ、手を動かしながら、頃合いを見て、ふと口から零すように呟いた。
「それはそうと、お嬢様のことは心配ですね。今朝お見かけした際も、様子がおかしかったので」
俺がそう切り出すと、侍女たちは待ってましたとばかりに顔を見合わせ、声を潜めた。
「そうなのよ! 今朝、急に『王太子殿下との会談を用意なさい』と命じられて……」
「ええ!?いままで、お嬢様の方からお会いしにいくことなんて、あった?」
「いえ。初めてだと思うわ」
「顔を会わす度に殿下とお嬢様は喧嘩ばかり。まあ、殿下はちょっと……」
「ダメよ。思っても口にしちゃ、不敬よ」
気になったのは、王太子のと会談を、サクファナから希望されたということ。
二人は生まれて間もなくから婚約者同士となったが、しかし、その仲は最悪だ。王国内で知らない者はいない。
"完璧令嬢"と言われるほど完成されたサクファナに対して、王太子殿下は、あまりにも釣り合っていなかった。
二人が、まともに顔を合わすのは、王家主催の催しにおいて、必要な場合のみ、というほどに。
しかし今日は、サクファナが王太子殿下に会いに行ったと言う。いったい、なぜだ。
「あんな険しいご様子、初めて見たわ」
「お帰りになったと思ったら、お部屋に閉じこもってしまって。昼食も召し上がらなかったのよ」
――あの翳りの正体は、王太子殿下との会談を決意されていたからか。
何かが起きている。それは王国の権力図を塗り替えかねない、重大な変化の兆し。
庭師の仕事があるので、と言い残して、侍女たちのもとを去りながら、俺は次の行動を思案していた。
その夜。
月明かりに照らされた庭園に現れた小さな揺らめくランランの光。それを手にしているのはサクファナ。
俺は、影に潜んで彼女の様子を窺う。昼間の完璧な姿は見る影もなく、その横顔は憔悴しきっていた。
庭園の奥まった場所に着くと、サクファナは紙束から無造作に紙をくしゃくしゃと丸めて、小山を作った。
そうしてランタンから火を移して、簡易な焚き火を作る。
そして、封筒を取り出して、焚き火にかざす。
その手の中で、か細い炎が封筒を舐めようとしている。
ランタンの薄明かりに照らされた封蝋には、見紛うことなき王家の紋章が刻まれていた。
彼女が封筒を火に投じようとした瞬間、俺は風のように背後からその封筒を掴み、奪い取った。
驚き、声も出ないサクファナに、俺は静かに声をかける。
「お嬢様。ここは庭師の領分です。お嬢様と言えど、勝手に火など扱われては、万が一にも燃え広がって――」
「パルク!……お返しなさい。 あなたには関係のないものですわ」
彼女は、取り繕うように冷静な声を出そうとするも、喉は掠れ、弱弱しく震える声しか出ないようだ。
彼女から奪い取った封筒をひらひらと見せながら、俺はあえて軽い言葉を選んで、話しかける。
「ええ。私は庭師。ただの平民ですから。無関係です。それどころか、王家の紋章が入ったものを手にするだけで罰せられる――」
「ですから!すぐに返しなさい。今なら見なかったことに――」
「しかし。仕えている主人が地獄に落ちるのを指をくわえて見ていられませんよ」
「……」
「お嬢様とて、王家の紋章が入ったものを燃やしたと知られたら、王家に対する反逆の意思とみられ、極刑です」
「……」
「だから、私にお任せください」
「何が言いたいの?」
「もし、この書状がお嬢様を苦しめている元凶で、燃やすことでお助けになるのなら。――この私がお引き受けいたします」
俺の言葉に、サクファナは息を呑んだ。俺はさらに畳み掛ける。
「庭師が、王家の紋章など知らず、落ちていた封筒を落ち葉と一緒に燃やしてしまった。庭師が一人、処刑されるだけ。そういうことにしましょう」
俺の申し出は、忠誠心からのように聞こえただろう。
だが、その実、全ての主導権を俺が握るための罠だ。俺の予想外の言葉に、彼女の張り詰めていた糸がついに切れた。
完璧な淑女の仮面は砕け散り、その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「……ダメよ、私なんかのために。貴方が命を費やす価値など、私にはない」
「何をおっしゃいますか、お嬢様のためなら、この命など、惜しくもない」
「やめて頂戴。……いいのよ、その気持ちだけで、嬉しいわ。ありがとう。だから、すぐに返しなさい」
「これ、"デビュタント・ボール"の招待状ですよね。お出になりたくないのですか?」
「え。……どうして」
俺はすでに調査を終えている。
夕食後に、クラインフェルト公爵の書斎を訪れたサクファナが、すべてを報告した一部始終を隠れて聞いていた。
だから、彼女がなぜ、この招待状を手にしていて、そして、今、燃やそうとしているのかも把握している。
中も見ずに、俺がその内容を言い当てたことに、キョトンとするサクファナの表情は今まで見た中でも、もっとも可憐だった。
こういう顔も出来るんだな。庇護欲をそそる表情だ。
「貴族の令嬢が"貴族の一員"と認められ、お披露目される舞踏会。"デビュタント・ボール"。お嬢様にとっては、王太子殿下の婚約者として、祝福される場でもあったはずです。それがどうして――」
「――ですわ」
「なんと?」
吐息のように漏れた言葉が、夜の静寂に溶ける。
「婚約、破棄、ですわ」
"完璧令嬢"が王太子との婚約を破棄。――王国の権力構造を根底から揺るがす爆弾だ。
俺は任務のために、この情報を活かし、混迷するであろう次期王を巡る派閥抗争をコントロールして、我が帝国に益のある結果を導かねばならない。
だが、俺の胸に去来したのは、任務への使命感ではなかった。泣き崩れる彼女のあまりにも脆い姿を前に、冷徹な任務遂行者であるはずの俺は、ただ一つの衝動に駆られていた。
サクファナを抱きしめて守って差し上げたい、と。
それは、敵国の密偵として決して許されない、愚かで危うい感情の始まりだった。
◇ ◇ ◇
「立ち話もなんですし、少しお身体を温めた方がよろしいでしょう」
努めて冷静に、しかし有無を言わせぬ響きを声に乗せて彼女に告げる。
サクファナは虚ろな瞳で俺を見つめるだけだったが、俺が手を差し出すと、まるで意思のない操り人形のように、その手を取った。
彼女の指先は氷のように冷え切っていた。
俺が彼女を導いたのは、広大な公爵邸の隅ににある、倉庫を兼ねた庭師の住まいだった。
今期は他に庭師は雇われていないため、この質素な建物をあてがわれているのは俺一人だ。
未婚の令嬢が、夜更けに使用人である男の部屋へ入る。それがどれほど由々しき事態か、もちろん理解している。
だが、今の彼女にそんな常識を気にする余裕はないだろう。そして、任務を遂行する俺にとっては、これ以上ない好機だった。
簡素な木の椅子に彼女を座らせ、「少しお待ちください」とだけ言い残して部屋の隅へ向かう。
すぐに戻ると、手には湯気の立つハーブティーのセットと、菓子を包んだ油紙の包みを抱えていた。
何でもそうだが、準備を整えておけば、憂いは無い。
「何も、いりませんわ」
彼女は力なく首を振る。だが、俺は構わなかった。
湯気の立つカップと、菓子を包んだ油紙のまま、彼女の前の小さなテーブルにこともなげに置く。
そして、そっと包みを開くと現れたのは、彼女の見たこともない奇妙な形の菓子だ。
輪の形をして白い砂糖の衣をまとったもの。
同じく輪の形だが所々に白いクリームがはみ出ていて、表面には艶やかな黒い糖蜜がかかった波打つもの。
小さな珠を繋げて輪にしたような不思議な形のもの。
この国にはまだない。
この世界にも限られた場所にしか流通していない。
油で揚げた輪の形をしたお菓子である。
俺が帝国の悪友たちと結成した秘密結社"動き回る七本の指"で開発したお菓子。
メンバーの一人が、次々に斬新なアイデアを出し、見たことも聞いたこともないものを作り出している。
ここにあるものは特殊な方法で密輸したものなので、サクファナは見たことも聞いたことも無いだろう。
俺はそれらを一口サイズに切り分け、小さなフォークを添えて皿に並べた。
「気休めかもしれませんが、温かいものを口にすれば、少しは落ち着くかと」
残った一欠けらを、俺は手で摘まみ、ひょいっと口に放り込んだ。
相変わらず、美味しい。どうしてこんなお菓子を作れるのか、まるで魔法のような技術だ。
秘密結社"動き回る七本の指"には、他にも異質な能力を持つ者たちが集っている。
便利な物ばかりではなく、危険なものもあるが、参謀曰く「文化は爆発だ」とか、俺も理解が及ばない。
彼女の視線が、見たこともない形の菓子に引き寄せられる。
俺が目で促すと、彼女は躊躇いがちにフォークを手に取り、黒い糖蜜のかかった一切れを小さく口に運んだ。
ふわりとした軽い食感と、濃厚な甘さ。その未知の味わいが、凍りついていた彼女の心に、小さな火を灯したのかもしれない。
彼女は、それから無心に菓子を頬張り、ハーブティーを喉に流し込んでいった。
その姿は"完璧令嬢"ではなく、ただ傷つき、拠り所を求める一人の少女だった。
ようやく彼女の瞳に理性の光が戻ってきたのを見計らい、俺は核心に踏み込む。遠回しな慰めは、時間の無駄だ。
「詳しく、お聞かせいただけますか。婚約破棄に至った経緯を」
単刀直入な問いに、彼女の肩がびくりと揺れる。
だが、先ほどまでの錯乱した様子はない。彼女はカップを両手で包み込むように持ち、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「殿下に、他に親しい女性がいるという噂を、耳にしたのです」
きっかけは、社交界で囁かれていたありふれたゴシップ。
俺もその噂は掴んでいたし、裏も取れている。――事実、王太子のユーハライムは婚約者がいながら、他の令嬢と男女の仲となっている。
だが、貴族にとっては、殊更に珍しい話ではない。ましてや、次期王の最有力者と言われれているユーハライムともなれば、猶更。
その情報をもって、取り入ろうとする者がいても、逆に咎める者などいるはずもない。
だが、王妃となるべく"完璧令嬢"と揶揄されるほどに厳しく育てられ、そういった醜聞から隔離されてきた彼女にとっては、寝耳に水だったのだろう。
「私は……確かめなければならないと、そう思いましたの。それで、殿下の私室へ……」
そこで彼女は、ユーハライムを問い詰めた。
最初は誤魔化していたユーハライムも、彼女の執拗な追及に逆上し、ついに本性を現したという。
「『うるさい女だ!』と……。そして、笑いながら言ったのです」
「いったい、なんと?」
「『もうすぐお前は終わりだ。デビュタント・ボールで、皆の前で婚約を破棄してやる。お前の完璧な仮面が、絶望に歪む様を見るのが楽しみだ』と……」
デビュタント・ボール。
王家が主催する、貴族の令嬢たちが正式に社交界デビューを果たすための舞踏会。
そこで、衆人環視の中、一方的に婚約を破棄する。それは、彼女のプライドと未来を、完膚なきまでに叩き潰すための、残酷な見世物だ。
「そんなこと、できるはずがないと反論しました。私と殿下の婚約は、国王陛下がお決めになったこと。殿下の一存で覆せるものではない、と」
「お嬢様のおっしゃる通り。たとえ本人たちが嫌だと言っても、実行される。それが王が決めたことです。殿下はどういうおつもりで?」
俺の問いに、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「『我には強力な後ろ盾がいる。父王でさえ、我の意見を無視できぬほどにな』……そう、薄ら笑いを浮かべて……」
――強力な後ろ盾。
俺の脳裏に、一つの言葉が雷のように閃く。
愚鈍なユーハライムだが、次期王の最有力候補であることは間違いない。その彼が「王さえ無視できない」と豪語する後ろ盾。
それは、王国の最高権力者たる王に、次期王を認めさせる力を持つ者――すなわち"裁定者"である可能性が極めて高い。
だが、妙な話だ。
この国の"裁定者"という仕組みは、王以外は誰もその存在を知らないという決まりだったはず。その本人さえも。
ならば、ユーハライムの言う"強力な後ろ盾"もまた、自分が"裁定者"に任命されていることを知る術はない。
何らかの手段を用いて"裁定者"は自身がその任を与えられていると知り、そして、自身の野心のためにユーハライムを利用しようとしている?
「わたくしは、お尋ねしました。わたくしにどのような不満があったのか。どのような落ち度があったのか。でも、尋ねても『何よりお前が悪い』としか……。殿下は感情的になるばかりで、話になりませんでしたわ」
あの愚鈍なユーハライムらしい言葉だ。
現国王の唯一の嫡男として生を受け、その未来は生まれた瞬間から約束されている。
その絶対的な立場から、周囲は彼に敬意を払うが、その評価は決して芳しいものではない。
まだ正式な社交界デビューを済ませていない身でありながら、夜会やサロンには頻繁に顔を出し、未来の王という立場を当然のように振りかざす。
その言動は自信に満ちていると言えば聞こえは良いが、実態は自らの血筋と権威を笠に着た、傲慢で鼻持ちならないものだと陰で囁かれている。
気に入らない相手には侮蔑の眼差しを隠そうともせず、物言いは常に高圧的。その偉そうな態度は、しばしば場の空気を凍りつかせる。
非の打ち所がない"完璧令嬢"と謳われるサクファナとはあまりに対照的。
水と油のように、二人は決して混ざり合うことなく、その仲が良好でないことは、貴族たちの間では公然の秘密であった。
「屋敷に戻り、ショックのあまり部屋に閉じこもっていました。お父様に呼び出されたとき、ああ、もうお父様の耳にも入っているのだと観念しました」
ヴァラデウニウム・フォン・クラインフェルト公爵。
俺がこの公爵家に仕える庭師となって、五年という歳月が流れようとしていたが、その主たる彼と顔を合わせたことは一度もない。
否、俺が意図して、その機会を遠ざけてきたのだ。
噂に聞く、氷のように怜悧な観察眼。
万物を見通すとまで言われるその慧眼の前に立てば、偽りの姿を纏う私の本質など、いとも容易く剥がされてしまうだろう。
我が帝国が、この王国で最もその動向を注視すべき人物――。
もし彼こそが、王権の行方を左右する”裁定者”であるならば、ユーハライムが玉座に就く未来は万に一つもあり得ない。
国王陛下の絶大なる信を得ながらも、宰相の座さえ固辞し、ただ己が領地にのみ君臨する孤高の公爵。
その静かな瞳の奥で、彼は何を断じ、何を待っているのか。
我が任務にとってどれほど重要であろうと、その底知れぬ深淵に軽々しく近づくことは、自ら破滅を招くに等しかった。
「お父様は、怒るでもなく……静かに話を聞いてくださいました。そして、婚約破棄の噂はすでにご存じで、陛下に確認まで取っていた、と。陛下も、強くは否定なさらなかったそうですわ」
それはつまり、ユーハライムの言葉が真実であることの証明。クラインフェルト公爵家は、王家から見捨てられようとしている。
「デビュタント・ボールには出たくないと、お父様にお願いしました。……恥をかかされることがわかっていながら、参加など、ありえません」
「だが、公爵様は許さなかった、のですね」
「ええ。『王家主催の舞踏会を欠席することは、クラインフェルト家の名誉に関わる』と……」
サクファナとて、頭ではわかっている。この国の貴族として、王家に従うべき。だが、心がついていかない。
呆然として、立ち尽くしていたサクファナに、クラインフェルト公爵は意外なことを言った。「少し席を外す」と。
その場は静かにうなずき、クラインフェルト公爵が部屋を出るのを見送ってから、ふいに、サクファナは気づいてしまった。
「驚いたのは、机の上に無造作に置かれていたデビュタント・ボールの招待状……。これさえ失くしてしまえば、わたくしは断頭台とも言える舞踏会に行かなくて済むのに。そう自然と考えたと同時に、強い違和感を感じていました。あのお父様が、大切な書簡を保管することなくこんな無造作に?と。でも、わたくしは、いつお父様が戻っていらっしゃるやもしれぬと、慌てて手に取って書斎を出ました」
サクファナの話を聞いて、俺にもサクファナの言いたいことはわかった。
クラインフェルト公爵様は、わざと、デビュタント・ボールの招待状を放置した。サクファナがそれをどうするのか、理解した上で。
それを持ち出し、焼き捨てようとした――そこで、俺に見つかったというわけだ。
ユーハライムの背後には、おそらく"裁定者"がいる。
それも何らかの手段を講じて、自身が"裁定者"と確信をもっている。
その"裁定者"は、自身の野心にとって邪魔なクラインフェルト公爵家を排除しようとしている。
これは単なる仲の悪い婚約者同士のいざこざが原因となった婚約破棄ではない。王国の次期体制を巡る権力闘争だ。
俺の任務は"裁定者"を探り、次の王になるのは誰かを見極め、我が帝国の障害となるのなら、暗殺すること。
そして、これまでに集まっている情報を整理すると、"裁定者"の最有力候補は、やはり宰相か。
過去の"裁定者"は宰相に任じられていたことが多いこともあるが、何より、この国の宰相には人格に問題がある。
アークライト王国の宰相、オルバン・フォン・ツァイヒ。
彼は、巨大な野心を抱く傑物というよりは、自らの地位に必死にしがみつく、警戒心の強い小物だと聞く。
その執務室の扉は常に固く閉ざされ、俺も幾度か情報収集を試みたが、彼の張り巡らせた見えない壁に阻まれ、有益な情報を得るには至らなかった。
彼に国家を動かすような大望はない。だが、その地位を守るためならば、躊躇なく政敵を陥れ、無実の人間を断頭台へ送ることも厭わないだろう。
彼の振るう権力とは、国を豊かにするためではなく、ただ己の安寧を脅かす者を排除するためだけの、矮小で陰湿な牙なのだ。
そして目の前の彼女は、その闘争における最初の犠牲者にされようとしている。
絶望に打ちひしがれ、全てを投げ出す寸前の、か弱き駒として。
任務を優先するなら、俺は今にも沈みそうな船を飛び降りて、隙だらけの豪華絢爛な船に乗り換えるべきだろう。
今、最も"裁定者"および次期王に近い存在なのは、ユーハライムで間違いない。
もし、ユーハライムが次期王となるのなら、軍拡を進めているというきな臭い噂も聞いているので、暗殺も含め、対抗手段を講じるべき段階だ。
だが、サクファナをここで使い捨てるには、駒としてあまりにも惜しい、と思う自分と――。
このまま、この美しい女性の表情を曇らせたままにしておけない、彼女のチカラになってあげたいと思う自分と――。
使命感と愛執感の板挟みになっている自分に、正直、驚いている。
幼い頃から、ただ密偵として機能するためだけの訓練しか受けていない自分に、他人を思いやる機能が備わっていたとは。
俺は静かに立ち上がり、彼女の前に跪いた。
「お嬢様。ただ打ちひしがれ、招待状を燃やしたところで、何も変わりはしません」
驚いて顔を上げる彼女の、涙で濡れた青い瞳をまっすぐに見つめる。
「舞踏会で辱めを受け、笑いものにされ、歴史から忘れ去られる。それが、あなたの望む結末ですか?」
「……っ、そんなはず、ありませんわ!」
「では、どうなさる? 泣き寝入りですか? 運命を呪い、部屋の隅で一生を終えますか?」
彼女は震えながらも、悔しさと絶望を滲ませた声で反論した。
「婚約破棄されるような令嬢に、いったい何ができると言うのです……?」
その無力な言葉を聞いて、俺は覚悟を決めた。庭師パルクの柔和な仮面を、ここで完全に脱ぎ捨てる。
「私がお力になります。……いいえ、私だからこそ、力になれる」
「何を……?」
「私は庭師ではありません。パルクというのも偽名。本当の名は――。いや、今はまだ名乗るべきではないでしょう。私は隣国、エルツライヒ帝国の密偵です。任務は、この国で次期王となるものを調査し、ときには排除すること」
俺の告白に、サクファナの瞳が信じられないものを見るように大きく見開かれ、血の気が引いていくのがわかった。
「けれど、」と俺は続けた。声のトーンから冷徹さを抜き、ただ一人の男としての熱を込める。
「もはや任務など、関係ありません。偽りの名を持つ密偵としてではなく、貴女という光に心を奪われた、愚かな一人の男として聞いていただきたい」
「パルク……」
「この屋敷へ潜入し、庭師を演じる日々の中で、私の目は、いつしか貴女のお姿ばかりを追いかけておりました。許されざる行いと知りながら、止めることなどできなかったのです」
彼女は息を呑んだまま、俺の言葉を待っている。
「薔薇の庭で貴女が見せた微笑み……。人々が噂する"完璧令嬢"の仮面が消え、ただ一輪の花を愛でる、無垢な少女の笑みがそこにあった。……あの瞬間、私はすべてを奪われたのです」
じっと俺を見つめる瞳から、警戒と絶望の色が薄れ、戸惑いと、そして仄かな光が宿っていくのが見て取れた。俺は彼女の手を取り、さらに言葉を重ねる。
「あの微笑みを、他の誰でもない、この私だけが咲かせられるものにしたい。貴女のあの純粋な輝きを、何ものにも曇らせたくない。心の底から、そう願ってしまった。お慕いしております、サクファナ様。この身分も、偽りの名も、任務さえも、貴女のためならば捨てて構わない。どうか、貴女を守るための剣として、この私をお使いください」
あまりに唐突な、そして場違いな告白。彼女は息を呑み、その美しい顔に混乱と動揺がありありと浮かんだ。
――そうだ、これでいい。これは任務だ。
俺の言葉も、この行動も、全ては彼女という駒を動かし、手中に収めるための布石に過ぎない。
俺の全ての行動を、彼女への思慕ゆえのものだと信じ込ませるのだ。俺は今、己の心にさえ偽りの仮面を被せている。
任務のため。そう自分に言い聞かせて。
心が揺れているのは明らかだったが、彼女はかろうじて最後の理性をかき集め、かぶりを振った。
「……何を、おっしゃっているのか……わかりませんわ。私は、今、そのような状況では……」
その拒絶は、予測通りだった。だが、それでいい。楔は深く打ち込まれた。俺は彼女の弱々しい抵抗を意に介さず、最後の切り札を提示する。
「お嬢様。どうせなら、歴史に残る見事な"悪役令嬢"を演じ、彼らが手放したものを心の底から後悔させてやりませんか?」
俺の大胆な提案に、サクファナの呼吸が止まった。
その深い絶望の闇の底に、今、確かに小さな、しかし拒絶しきれないほどに眩い光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
「……本当に、これでよろしいのかしら」
姿見の前に立ったサクファナが、不安げに呟く。その声には、まだ以前の彼女の響きが残っていた。
だが、鏡に映るその姿は、昨日までの彼女とはまるで別人だった。
俺はサクファナの私室で、準備の最終確認を行っていた。
侍女たちを巧みに人払いし、二人きりになった部屋には、静かな緊張と熱を帯びた期待が入り混じった空気が漂っている。
俺が帝国の秘密結社"動き回る七本の指"に用意させたのは、燃えるような深紅のドレス。
これまで彼女が好んで身に纏っていた、淡く儚いパステルカラーとは正反対の、見る者の視線を強制的に奪う、強烈な色だ。
デザインも、この国ではまだ誰も見たことがないであろう最新の流行を取り入れた、大胆なシルエット。
しなやかな身体のラインを強調し、それでいて気品を失わない絶妙な均衡は、彼女の内に秘めた芯の強さを見事に引き出している。
さらに俺は、密偵として叩か込まれた変装術の知識を総動員し、彼女に化粧を施した。
目元には僅かに影を落とし、挑発的な色気と揺らがぬ意志の強さを。
唇には、ドレスと同じ深紅のルージュを引き、一言発するだけで誰もがひれ伏すような威圧感を与える。
鏡に映る自分自身の姿に、サクファナは息を呑んでいる。
無理もない。そこにいるのは、彼女自身が知る"完璧令嬢"ではないのだから。
「これが、新しいあなたです」
俺は彼女の背後に立ち、鏡越しにその瞳をまっすぐに見つめて、静かに告げた。
「"完璧令嬢"と揶揄された令嬢はもういません。今ここにいるのは、理不尽な運命に牙を剥き、自らの望むものをその手で掴み取る、誇り高き"悪役令嬢"」
「……悪役。私は悪になるのですか?」
「ええ。黙ってくれてやれば、いずれ全てを失うだけ。だからこそ、思い知らせてやらなければなりません。愚かな行為の代償が、どれほど高くつくのかをね」
俺の言葉に、彼女の瞳が揺れる。不安、戸惑い、そして、ほんの少しの好奇心。やがて、彼女はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
次にその瞼が開かれた時、そこに宿っていたのは、覚悟を決めた者の、強く、美しい光だった。
「ええ。私は……。いえ、わたくしは、生まれ変わるのですわ」
その声は、もはや震えてはいなかった。
◇
社交界で強い影響力を持つ"氷の女帝"辺境伯夫人エレオノーラ・フォン・グランツが主催する茶会。
夫である辺境伯が国の盾として北の国境を守っているため、王都におけるグランツ家の政治的・社交的活動は、すべて彼女が取り仕切っている。
彼女が主催する茶会は、令嬢や夫人たちの単なる集いではない。
新たな才能を見出し、時流を見極め、時には政治的な駆け引きさえ行われる、社交という名の戦場である。
彼女に認められることは、社交界での確固たる地位を約束されることと同義。
逆に彼女に切り捨てられた者は、二度と陽の目を見ることはない。
今回、醜聞の渦中にあるサクファナに、"氷の女帝"からの招待状が届いた。
クラインフェルト公爵家の令嬢がただ泣き寝入りするだけの凡庸な駒なのか、それともこの逆境を跳ね返すだけの価値ある逸材なのか。
その真価を"氷の女帝"自らの目で見定めるためだろう。
俺は、臨時雇いの給仕として会場のサロンに潜入していた。
簡素な仕着せを身に纏い、髪を撫でつけ、顔の印象を微かに変える化粧を施した俺を、庭師パルクと見抜ける者はいない。
無論、これからこの場に現れるサクファナでさえも。俺はただの壁となり、影となり、この茶会という戦場を観察する。
会場である豪奢なサロンには、すでに有力貴族の夫人や令嬢たちが集い、華やかな噂話に花を咲かせていた。
銀の盆を手に、彼女たちの間を縫うように歩きながら、俺はその声に耳を澄ませる。
「まあ、本当にいらっしゃるのかしら。クラインフェルト公爵家のお嬢様」
「ええ、エレオノーラ様が直々に招待状をお送りになったとか。……わたくしなら、とてもじゃないけれど、恥ずかしくて顔など出せませんわ」
「殿下に捨てられたも同然ですものね。噂では、部屋に閉じこもって泣き暮らしていると聞きましたけれど。一体、どんな顔をしてここへ?」
囁き声に混じる、隠しきれない嘲笑と好奇心。彼女たちは、傷ついた雛鳥が晒されるのを、今か今かと待ちわびているのだ。
「そもそも、あの方、デビュタント前は公の場に出ないという公爵家の方針で、こういった茶会は初めてでしょう?」
「ええ、そうですわ。きっと作法の一つも知らずに、恥をかくに決まっているわ。それを笑って差し上げるのが、わたくしたちの務めですことよ」
――ハイエナどもめ。
俺は内心で吐き捨て、無表情に次のテーブルへと飲み物を運んだ。
いいだろう。存分に期待するがいい。その喉笛に噛みつくのが、可憐な令嬢ではないと知った時の顔が楽しみだ。
その時だった。
サロンの入り口が開き、一人の令嬢が姿を現した。
瞬間、時が止まった。
さざめきに満ちていたサロンの喧騒が、まるで嘘のように静まり返る。誰もが、入り口に立つ一人の女性に、視線を釘付けにされていた。
燃えるような深紅のドレス。挑発的な化粧。そして、全てを見下すかのような、傲岸不遜なまでの佇まい。
噂に聞いた、儚げで清らかな"完璧令嬢"の面影はどこにもない。
給仕のふりをしながら俺が見つめる先。
サロンの奥に座る主催者、エレオノーラ辺境伯夫人だけが、興味深そうに片方の眉を上げ、その様子を冷静に観察していた。
サクファナは、無数の視線を浴びながらも一切動じることなく、大理石の床をヒールで鳴らし、まっすぐに上座に座る女帝の元へと進み出る。
そして、供の侍女が捧げ持つ黒塗りの美しい箱を受け取ると、完璧なカーテシーと共に差し出した。
その優雅な動きに、エレオノーラの目が微かに細められる。
「辺境伯夫人様、本日はお招きいただき、光栄に存じます」
その声に、エレオノーラ辺境伯夫人は値踏みするような視線を返した。
「よくいらっしゃいました、クラインフェルト嬢。狼の群れに飛び込むには、相応の覚悟か、あるいは手懐けるだけの価値ある手土産が必要になりますが……貴女はどちらかしら?」
試すような言葉にも、サクファナ様は微笑みを崩さない。
「心ばかりの品ですが、皆様と楽しめたらと」
サクファナが箱をテーブルに置き、傍付きの侍女が箱の蓋をあける。
覗き込んだ誰もが息を呑んだ。エレオノーラ辺境伯夫人でさえ、その怜悧な瞳を僅かに見開いている。
箱の中に静かに鎮座していたのは、誰も見たことのない、芸術品のような菓子だった。
漆黒の塗りの箱の内側に敷かれた純白の絹布の上、まるで宝石のように、季節を写し取った小さな菓子が並んでいた。
一つは、幾重にも重なる花弁を繊細に表現した純白の菊。その中心には、金粉が一刷毛、朝露のように煌めいている。
一つは、緑から黄色、そして燃えるような赤へと色を移す、一枚の紅葉。その葉脈の一本一本までが、信じられないほどの精度で作り込まれている。
一つは、淡い青で表現された清流に、小さな緋色の鯉が泳ぐ様を切り取った、水饅頭のような透明な球体。
それらは、砂糖や木の実で作られたこの国の菓子とは全く異なっていた。
甘い香りはほとんどせず、ただ凛とした空気を放っている。
食べ物というよりは、高名な彫刻家が蝋や粘土で作り上げた、掌に乗るほどの小さな芸術品そのものだった。
「まあ……これは……菓子ですの?まるで宝飾品のようですわ」
「なんという美しさ……。一体、何で出来ているのかしら」
「どうやっていただくの?フォークで?それとも何か特別な食器でかしら」
「……ほう。これは面白い」
戸惑う夫人たちを制するように、エレオノーラ辺境伯夫人が呟く。その声には、純粋な好奇心の色が浮かんでいた。
「ただの菓子ではない。異邦の美意識と、それを手に入れるだけの経路……。貴女、わたくしに謎をかけに来たようですわね。気に入りましたわ」
エレオノーラ辺境伯夫人がそう言って微笑むと、周囲の夫人たちも慌てて賞賛の声を上げる。
女帝のお墨付きは絶対だ。サクファナ様は巧みな話術で会話の中心に収まっていく。
やがて、銀のポットを持った侍女たちが静かに室内を巡り始め、透き通るような磁器のカップに香り高い紅茶が注がれていく。
サロンはカチャリという食器の微かな音と、夫人たちの華やかな談笑に満たされた。
例の菓子は、侍女の手で恭しく一人分ずつ取り分けられ、その異質な美しさに誰もがフォークを入れるのを躊躇うほどだった。
話題の中心は、当然サクファナだった。
深紅のドレスはどこの仕立てか、あの菓子を作ったという異国の友人とは何者か。好奇心と探るような視線が入り混じった質問の雨が降る。
しかしサクファナは、そのすべてを柳のように受け流し、微笑みと共に謎を一つずつ増やしていくことで、むしろ自身の魅力を高めていった。
そして彼女は、決して自分が主役の舞台であるかのような驕りを見せなかった。
「サクファナ様、その髪飾りも素敵ですわね。わたくし、初めて見るデザインですわ」
ある夫人がそう称賛すると、サクファナは嬉しそうに微笑んだ後、すっとエレオノーラに視線を移した。
「ありがとうございます。ですが、わたくしなど、エレオノーラ辺境伯夫人様の洗練された装いには遠く及びませんわ。特に、その胸元のブローチ……今日の紅茶の色合いまで計算されているかのような完璧な選択に、わたくし、溜め息が出てしまいます」
その言葉に、サロンの全員の視線が自然と主催者であるエレオノーラへと集まる。
注目を自分一人に集めるのではなく、敬意という形で巧みに主催者へ返すその手腕。エレオノーラは口元に微かな笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。
サクファナは、噂の渦中の可哀想な令嬢でも、ただ目立つだけの派手な女でもなかった。
場の空気を読み、力関係を理解し、その上で自分を最も輝かせる術を知る、恐るべき社交術の使い手だった。
いつしかサロンの雰囲気は、醜聞の令嬢を品定めするような緊張感を失い、サクファナという新しい星の誕生を祝うような、華やかで熱を帯びたものへと変わっていた。
その雰囲気を、良しとせず、あえて遮るように、一人の子爵夫人が、探るような目で核心に触れた。
「サクファナ様。……近頃、ユーハライム殿下が別の令嬢と懇意にされているとの噂を、わたくし、耳にいたしましたの。その令嬢も『自分こそユーハライム殿下の婚約者に相応しい』と公言してはばからないとか。……そんな噂を聞いては、さぞ、お辛いでしょう?」
同情を装った、悪意に満ちた質問。サロンの空気が、再び張り詰める。
エレオノーラは何も言わず、ただティーカップを口元へ運び、その氷のような瞳で静かにサクファナ様を見つめている。
これは、彼女がサクファナ様に課した最後の試験だ。
だが、サクファナは完璧な微笑みを浮かべたままだった。
彼女は手にしていたティーカップを、ソーサーに静かに置く。
――カチャリ。
その小さな音が、やけに大きくサロンに響き渡った。
そして、彼女はゆっくりと顔を上げ、悪意を向けてきた子爵夫人を、射抜くような視線で見つめると、言い放った。
「殿下には、殿下にふさわしい方がいらっしゃるのでしょう。わたくしには少し、物足りませんでしたから」
その場にいた誰もが、息を呑んだ。それは、捨てられた令嬢の言葉ではなかった。
自らの意思で、格下の男を切り捨てた、傲慢で、しかし絶対的な自信に満ち溢れた言葉だった。
サクファナは、さらに続ける。その声は、鈴が鳴るように美しく、それでいて氷のように冷たい。
「その令嬢とやらは、ご存じなのかしら。『人のものを摘み取る指は、いずれ己が身を裂く刃となる』と申します。――けれど、わたくしは少々違う考えですの。盗人の汚らわしい指など、刃となる前に切り落としてしまうのが当然の報いですわ。……ふふ、想像してしまい、嬉しくなりますわ。指を失った令嬢が、一体どのようにして淑女の礼をなさるのか。さぞ、見物でしょうね」
サロンは、水を打ったように静まり返った。子爵夫人の顔が恐怖に青ざめる。
その沈黙を破ったのは、女帝のかすかな笑い声だった。
「くくっ……」
エレオノーラは楽しそうに喉を鳴らし、ティーカップを置いた。そして、氷の視線で子爵夫人を射貫く。
「まあ、子爵夫人。少しお口が過ぎましたわね。わたくしのサロンの穏やかな空気を、そのような下世話な噂話で乱すものではございません」
形ばかりの、しかし有無を言わせぬ威圧感を込めた窘め。だが、女帝の言葉はそこで終わらなかった。
「……それに、クラインフェルト嬢のお話、大変興味深く伺いましたわ。ええ、道理ですわね。自らのものでないものを欲し、汚らわしい指を伸ばす……その浅ましさには、確かに相応の罰が下って然るべきでしょう。……皆様も、そう思いませんこと?」
その問いかけは、同意を求めるものではない。有無を言わせぬ、宣告の響き。
エレオノーラは表向きは無粋な質問を咎めながら、その実、サクファナの残酷な言葉に完全な是を示したのだ。
それは、このサロンに集う全ての者への、暗黙の警告でもあった。
――このクラインフェルト家の令嬢に、二度と愚かな真似はするな、と。
子爵夫人は、もはや声も出せずに小さく震えるだけだった。
恐怖と、畏怖と、そして抗いがたいほどの憧憬。
サロンの空気は、完全にサクファナ――否、新たな"悪役令嬢"によって支配された。
俺は、壁際の影の中で、拳を握りしめていた。
あれはもはや、演技ではない。彼女自身が"悪役令嬢"サクファナとして、今この瞬間に覚醒したのだ。
俺の胸に、任務の達成感とは異なる、熱い何かが込み上げてくるのを感じていた。
この目に映るのは、俺が創り出した"悪女"か、それとも————。
彼女が舞台の中央に立つ。
深紅のドレスは、咲き誇る薔薇の絨毯となって彼女を包み込み、その一輪一輪が彼女の成功を喝采しているようだった。
俺が仕込んだ台詞、俺が指示した仕草、その全てが彼女の肉体を通して、観衆の心を鷲掴みにする。まさに"悪女令嬢"。
俺の任務は、見事に達成された。
だが、その瞬間、俺の理性の鎖は音を立てて砕け散った。
彼女の唇から紡がれる甘い毒、その瞳に宿る冷酷な炎、そして優雅に翻る真紅の薔薇。
それは、俺が創り出したはずの虚像なのに、あまりにも眩く、あまりにも————魅力的だった。
俺は、任務も、忠誠も、使命も、全てを忘却の彼方に投げ捨てた。
この手で生み出した"悪女令嬢"に、この俺が、男として、ただ純粋に、魂の底から惚れ抜いていた。
今すぐにでも、あの舞台へ駆け上がり、彼女の足元にひざまずきたい。この震える心臓を抉り出し、愛の証として捧げたい衝動に駆られる。
俺の全ては、今、目の前の真紅の薔薇に囚われている。
◇ ◇ ◇
茶会での鮮烈なデビューから、数日が過ぎた。
王都の社交界は、一夜にして現れた"悪役令嬢"の噂で持ちきりだった。俺が仕掛けた爆弾は、予想以上の効果を上げていた。
しかし、サクファナが"悪役令嬢"として覚醒してからというもの、俺が最も警戒していた人物が沈黙を続けている。
ヴァラデウニウム・フォン・クラインフェルト公爵。その人だ。
公爵の日常に、何一つ変化はない。
朝は執務室に籠り、昼は訪れる要人と面会し、夜は膨大な書類に目を通す。
娘が起こした社交界の動乱など、まるで存在しないかのように、彼は静かだった。
もちろん、彼が、"悪役令嬢"の噂を、聞き及んでいないはずがない。
しかし、サクファナと言葉を交わす際も、その態度は以前と何ら変わらない。叱責も、賞賛も、問い詰めることさえ、一切ないのだ。
ありえない反応。
愛娘が婚約破棄の危機に瀕したかと思えば、これまでの淑やかな仮面を脱ぎ捨てて、挑発的なドレスを身に纏い、舌鋒鋭く敵を討つ。
何事かと、問い詰められると覚悟して、その際の対応もサクファナと打ち合わせていたのだが。
彼は静観してる。
氷の如き怜悧さで万物を見通すと噂される、王国の静かなる実力者。
あの男が、この状況をただ静観している。その事実こそが、何より雄弁に彼の異常さを示していた。
その沈黙の理由について、俺はいくつかの仮説を立てている。
一つは、純粋な"結果主義"。
公爵にとって、サクファナはクラインフェルト家の駒の一つ。
将来の王妃という最高の役目から滑り落ち、醜聞と共に捨てられる寸前だった不良債権が、突如として自らの価値を証明し始めた。
敵対派閥の駒を打ち破り、これまで中立を決め込んでいた有力貴族を味方につける。
公爵家にとって、これほど有益なことはない。
プロセスはどうあれ、"結果"が利益をもたらす限り、父親としてではなく、当主として沈黙を貫いている。これが最も単純な推理だ。
だが、あの男がそれほど浅いとは思えない。おそらく、真意は第二の仮説にある。
すなわち、俺と言う存在の"観察"と"吟味"だ。
公爵は、俺の正体に気づいていているかもしれない。
いや、気づいていないずがないのだ。一夜にして起きた娘の劇的な変化が、彼女一人の力で成し遂げられたものではない。
帝国製のドレス、異国の菓子、そして敵の弱点を的確に突く情報。その裏に、何者かの介在があることを、とっくに見抜いているはずだ。
だから、彼は試している。
娘という駒が、どこまで戦えるのか。そして、その駒を動かしている"見えざる手"が、一体何者で、何を目的としているのか。
下手に動いて相手を警戒させるよりも、泳がせることでその本質を見極めようとしている。
公爵の沈黙は、容認ではない。
それは、獲物を見定めた狩人が、息を殺して潜む"待機"に他ならない。
◇
サクファナはクラインフェルト公爵に同伴する形で、国内の名だたる貴族が集う美術品披露会に姿を現した。
王立芸術振興院が主催する、年に一度の特別披露会だ。
"美の系譜"と銘打たれたそれは、王家に縁のある絵画や彫刻の来歴を辿り、その正統性を示す、極めて政治色の強い催しでもある。
ここに招かれるのは、血筋だけでは計れない、真の権力と教養を兼ね備えた者たち。
舞踏会のような華やかさはないが、水面下ではより熾烈な探り合いと駆け引きが繰り広げられる、大人の社交場だ。
俺がこの披露会への参加をサクファナに薦め、サクファナが公爵に参加したい旨を伝えると、二つ返事で承諾された。
俺がこの場を選んだのには、明確な意図があった。
先日の茶会が、感情に訴えかける"宣戦布告"であったとすれば、この披露会は、知略を巡らせる"謀略の舞台"だ。
サクファナを、ただ派手で気の強いだけの女ではない。冷静に敵の弱点を見抜き、的確な一撃で沈めることができる、冷徹な戦略家として披露させる。
そのための、これ以上なく格好の舞台だった。
会場を満たすのは、高価な香水と、選民意識に満ちた貴族たちの囁き。
その中で、サクファナは、先日の燃えるような深紅とは対照的な、夜の湖を思わせる落ち着いた紫紺のドレスを纏っていた。
サクファナの周りには、好奇と警戒が入り混じった独特の空気が渦巻いていた。彼女は、もはや誰もが無視できない存在となっていたのだ。
前夜、俺は彼女の私室で一枚の報告書を渡していた。ユーハライムの取り巻きの一人、ハルトマン子爵に関する調査報告。
彼の手口は、盗品と知りながら安く買い叩いた美術品に偽の来歴をつけ、美術品披露会で周知することで、来歴に箔をつける。
そうして、のちに裏取引で、法外な値段で売りさばいて不正な利益を得ているという、黒い噂の概要だった。
「これは毒にも薬にもなる情報です」
報告書を渡しながら、俺は彼女に告げた。密偵の顔で。
「直接的な証拠はありません。ですが、真実の欠片は、時にどんな剣よりも鋭い"疑い"という名の刃になります。この刃をどう使うかは、お嬢様、あなた次第です」
彼女はただ黙って頷き、報告書を受け取った。その瞳の奥に宿る光が、以前よりもずっと強く、そして冷徹になっていることに、俺は気づいていた。
◇
会場の一角で、ハルトマン子爵が、最近手に入れたという風景画を前に、数人の貴族に取り囲まれ、得意げに来歴を語っていた。
浅薄な男特有の、自己顕示欲に満ちた甲高い声だ。
旧知の貴族と商談を始めた父の側を、サクファナはすっと離れる。
その優雅な、しかし一切の迷いがない足取りは、獲物を見定めた黒豹を思わせた。彼女が、ハルトマン子爵中心とした輪の中へと加わっていく。
「素晴らしい絵ですわ、子爵様。さすがは、殿下も認めるほどの審美眼でいらっしゃいますこと」
突然現れた話題の令嬢からの賛辞に、ハルトマン子爵は気を良くしたように顔を綻ばせる。
彼は待ってましたとばかりに、さらに得意げにその絵画の来歴――高名な画家が、ある没落貴族のために描いた最後の作品だという、涙ぐましい物語――を語り始めた。
一通り子爵の独演会を聞き終えた後、サクファナは純粋な好奇心を装って、ふわりと首を傾げた。その仕草は、計算され尽くした、無垢な天使のようだった。
「しかし、不思議ですわ。その絵画、わたくしの記憶が正しければ、隣国で高名な収集家であるバルバソトリア子爵の屋敷に飾られていたものと、大変よく似ておりますけれど。どのような経緯があって、あの方が所有権を手放したのでしょうね?」
「そ、それは……だな……」
予期せぬ名前の登場に、子爵の饒舌な舌がぴたりと止まる。だが、彼はすぐに侮蔑と苛立ちの入り混じった表情を取り戻すと、ふんと鼻を鳴らした。
「何を言い出すかと思えば……。失礼ながらサクファナ嬢、貴女のような若いご令嬢が、美術品の何がお分かりになると?」
周囲の貴族たちからも、かすかな同調の空気が流れる。ハルトマン子爵は勢いづいて言葉を続けた。
「ましてや、隣国の高名な収集家バルバソトリア子爵など、デビュタントも済まされていない貴女が知るはずもない。どこかで聞きかじった知識を、さも自分のもののように語るのは感心いたしませんな」
それは、令嬢の無知と家柄に閉じこもった狭い世界を嘲る、痛烈な反撃だった。
だが、サクファナは一切動じなかった。むしろ、その完璧な微笑みを一層深くする。
「まあ、子爵様。わたくしが不勉強だと思し召しなのですね。では、お尋ねいたしますが、この絵師ジャン・ドービスクは、晩年、目の病を患っていたことをご存じでしたか? 特に赤色を見る力が衰え、彼の後期の作品は、この絵のように、燃えるような赤と深い森の緑の対比が特徴なのです。その悲壮なまでの美しさが、彼の真作たる証……わたくし、幼い頃より彼の絵画の写しを見て、そう学んでまいりました」
淀みなく語られる専門的な知識に、今度は子爵だけでなく、周りの貴族たちも息を呑む。ハルトマン子爵の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
サクファナはそこで言葉を切ると、慈しむような、それでいて哀れむような微笑みを子爵に向けた。
「そして、バルバソトリア子爵のことですが……ええ、おっしゃる通り、わたくしのような若輩者が直接存じ上げているわけではございませんわ」
一瞬、子爵の表情に「それ見たことか」という安堵が浮かぶ。だが、その希望は次の言葉で無慈悲に打ち砕かれた。
「ですが、父であるクラインフェルト公爵とは、長年、古美術品の取引を通じて交流がございますの。わたくしが彼の収集品に詳しいのも、父の書斎でその目録を拝見したから。……今、あちらで商談中の父にお願いしてみましょうか? 『バルバソトリア様のコレクションと瓜二つの絵画を見つけたのですが、もしや、何か特別な事情で手放されたのか、バルバソトリア様に確認されてはどうでしょう』と」
彼女の言葉は、どこまでも穏やかだ。だが、その一言一句が、子爵の喉元に突きつけられた、今度は本物の刃となっていく。
自分の浅薄な知識を披露するつもりが、この国で最も敵に回してはならない人物――クラインフェルト公爵本人を引っ張り出されるという、最悪の事態。
追い詰められた子爵の額から、脂汗が滝のように流れた。
「まあ、絵画の流出には、時として暗い影が差すこともございますから。中には盗品として闇市場に流れたものも少なくないと聞き及びますわ。……もちろん、子爵様がこれほどのお品を、そのような出所不明な商人から手に入れるはずもございませんわよね?」
最後の言葉は、完璧な微笑みと共に紡がれた。
その瞬間、ハルトマン子爵の顔から、血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
周囲を取り巻いていた貴族たちの視線が、賞賛から冷ややかな疑惑、そして明確な軽蔑へと、劇的に変化する。
誰もが、子爵と、そして壁にかけられた絵画を、汚物でも見るかのように値踏みしていた。
子爵が、もはや反論どころか、意味のある言葉さえ発することなく立ち尽くす中、サクファナはそれ以上一切追及することなく、完璧な微笑みを彼に向けた。
「あら、ごめんなさい。わたくとしたことが、無粋な話をしてしまいましたわ。素晴らしいものを見せていただき、心より感謝いたします」
そう言って優雅に一礼すると、彼女はひらりと身を翻し、何事もなかったかのように父の元へと戻っていく。
だが、その場に残されたハルトマン子爵の権威と信用は、もはや修復不可能なほどに失墜していた。
その一部始終を、少し離れた場所から見ていた一人の老人がいた。
これまで王太子派でも公爵家派でもなく、中立を保ってきた老練なマグウェル伯爵。彼は、静かにサクファナの元へと近づいてきた。
「お見事でしたな、サクファナ嬢」
低いが、よく通る声だった。
「弱く退屈な令嬢だとばかり思っておりましたが、どうやら儂の目は節穴だったようだ。何より、臆さぬその勇気、気に入りましたぞ」
その言葉が、狼煙だった。
これまで日和見を決め込んでいた何人かの貴族が、堰を切ったようにサクファナに近づいて来る。
そして、敬意のこもった挨拶を述べ、自分たちが主催するサロンへの招待を申し出る。
状況が飲み込めていないクラインフェルト公爵が、戸惑いながらも応対する。
「娘はまだデビュタント前ですので、ご招待へのお返事は後程に……」
柱の陰からその光景を眺めながら、俺は静かに息を吐いた。
完璧だ。俺の描いた設計図を、彼女は寸分の狂いもなく、いや、それ以上の切れ味で体現して見せた。
無垢な蕾が花開くように、悪の華が、今まさに社交界に君臨しようとしている。その見事なまでの仕上がり具合に、満足げに頷いた。
だが、その笑みのすぐ裏側で、ぞくりと悪寒が背筋を駆け上る。
ハルトマン子爵を社会的に抹殺したあの瞬間、彼女の浮かべた慈愛に満ちた、それでいて絶対零度の微笑み。
俺が与えたのは、あくまで一本のナイフだったはずだ。
それをためらいなく相手の心臓に突き立て、静かに血が流れる様を微笑んで見つめるような芸当まで教えた覚えはない。
これは果たして、俺が望んだ"悪役令嬢"の姿なのだろうか。
あるいは俺は、ただの駒のつもりで、人の心を失った恐ろしい化け物を、この世に解き放とうとしているのではないか。
その得体のしれない畏怖が、達成感に満ちた胸の内に、冷たく、そして深く染み渡っていくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
王家が主催する、伝統的な狩猟会。
武勇を重んじる貴族たちが、己の腕を競い合うこの一大行事に、サクファナが参加を表明する。
侍女たちの噂話として俺の耳に入ったのは、その日の夕刻のことだった。
これは俺の指示ではない。事前に相談も受けていない。いったい、彼女はどういうつもりなのか。
庭園の手入れを終えた俺は、公爵家のダイニングホールから漏れる光に引き寄せられるように、音もなくその窓の下に潜んでいた。
今夜の夕食は、嵐の前の静けさに支配されているに違いない。俺の予感は的中した。
豪奢なダイニングホールは、カトラリーの触れ合う音さえ響かない、異様な静寂に包まれていた。
年老いた執事は背中に冷や汗を滲ませて壁際に佇み、侍女たちは石のように硬直して控えている。
その張り詰めた空気の中心にいるのは、テーブルの両端に座る父と娘。クラインフェルト公爵と、サクファナだ。
沈黙を破ったのは、他ならぬサクファナ様だった。
狩猟会への参加を、改めて父に告げたのだろう。 侍女たちが僅かに身を震わせるのが、窓越しに見えた。
やがて、公爵の地を這うように低い声が、静寂を切り裂いた。
「ならぬ」
短く、しかし有無を言わせぬ響き。それは危険を案ずる親のものではなく、計画を逸脱した駒を諌める将帥のそれだった。
「お前は、このクラインフェルト家が手塩にかけて育てた"鷹"だ。その爪は、衆目の前での見世物ではない。"森の空を脅かす害鳥"を、ただ一撃で仕留めるために研ぎ澄ませた、"隠すべき爪"であろう」
「お父様……」
「お前の"狩場"は、光の当たる場所ではない。そう教えたはずだ」
窓の外で息を潜める俺は、その言葉に戦慄した。 "鷹"、"森の空を脅かす害鳥”など、すべてが密偵の使う符丁のように聞こえた。
どういうことだ? サクファナは、ユーハライム殿下の婚約者として育てられた"完璧令嬢"、それだけではないということなのか。
公爵が案じているのは、娘の身の安全などではなかった。彼女が持つ、恐るべき"力"が公になることだと聞こえる。
だが、サクファナは、父の絶対的な威圧を前にしても、ナイフを置き、ナプキンで優雅に口元を拭うと、静かな笑みを浮かべた。
「お父様。その"鷹"は、"主たるべき方"に捨てられました。もう帰る巣はございません」
「……それが、理由になると?」
「ええ。"森の空"を舞うことを許されぬなら、自らの翼で新たな"狩場"を選び、生きるための糧を得るのは当然のこと。討つべき獲物は、"鷹"が決めます」
その言葉に、公爵の怜悧な瞳が、初めて射抜くような光を宿した。
「"鷹"が、"森の王たる獅子"に爪を立てるか。愚かな。我が身はクラインフェルト公爵という名の"盾"。たとえ血を分けた娘であろうと、容赦はない。何者かに唆され、己の価値を履き違えているようだが――」
「お父様」
サクファナは、父の威圧を柳のように受け流し、静かに言葉を重ねた。
「"鷹"は、己が狙うべき獲物を見誤ったりはいたしません。クラインフェルトの"鷹"として、"獅子"に爪を立てるような真似は誓って。……ですが」
彼女はそこで一度言葉を切り、慈しむような、それでいて何かを哀れむような不思議な眼差しを父に向けた。
「お父様こそ、森の向こうから来る獣ばかりを警戒し、森に罠を仕掛ける"密猟者"の存在をお忘れではございませんか? いえ、まさかお父様に限ってそんなことはありえない。もちろん我が身を惜しむあまりに静観を決めているわけもありません。ましてや、"鷹"の翼を割かれるのを見ても、哀れみもしませんね。――"氷原の狼"を警戒なさっているので? ですが、 美しい森も、内側から腐れば、やがては枯れるより他にございませんのに」
瞬間、公爵の表情から一切の感情が消えた。能面のような無表情。
だが、その瞳の奥深くで、激しい動揺が嵐のように渦巻いているのを、俺は見逃さなかった。
”密猟者”――それはおそらく、ユーハライム殿下のいう"強力な後ろ盾"であり、"裁定者"のこと。
”氷原の狼”――エルツライヒ帝国のことだろう。
「……誰の入れ知恵だ。何を吹き込まれた」
「さて。わたくしは、ただ庭に咲く花を眺め、風の音を聞いていただけですわ」
サクファナはそう言うと、静かに席を立ち、言い放つ。
「お父様。狩猟会への参加、宜しく手配をお願いいたします」
完璧な淑女の礼と共にダイニングホールを後にした。
俺は静かにその場を離れながら、先ほどの会話を反芻していた。
クラインフェルト公爵家が隠し持つ”力”とは何か。サクファナという、美しき猛禽。
俺の計画は、眠れる獣の檻の錠を、外してしまったのかもしれない。
その夜、改めてサクファナ様の私室を訪れた俺は、突然の狩猟会への参加の理由を問いはしない。
もう"悪役令嬢"は、俺が手綱を握ってはいない。俺はただ、その裏方として、彼女に必要であろう情報を集めて渡すのみ。
狩猟場の地図と『白銀の雄猪』に関する資料を広げた。
この森の主と噂される伝説の獲物『白銀の雄猪』の習性が克明に記されている。
アークライト王国における貴族の狩猟会は、王家が主催する伝統的な一大行事である。
それは単なる娯楽ではなく、己の武威と家門の権勢を示すための、極めて政治色の強い儀式でもある。
参加する貴族たちは、供回りの規模や狩りの腕前を競い合い、獲物の大きさや希少性が、そのまま個人の名誉と派閥の影響力に直結する。
緑豊かな森は、貴族たちにとって、牙と策謀が交錯するもう一つの社交場なのである。
その森の奥深くには、古くから『白銀の雄猪』と呼ばれる伝説の主が棲むと伝えられている。
月光を浴びたかのような白銀の体毛を持つこの巨大な雄猪は、単なる獲物を超え、森そのものの化身、あるいは神聖な主として畏敬の対象となっている。
ゆえに、これを狩ることは最高の栄誉であると同時に、森の秩序を乱す傲慢な行いとも見なされる。
生半可な覚悟で挑むことは許されず、その牙は、真の勇者か、あるいは愚かな侵入者かを選別する。
今まで、幾度となく狩猟会において戦いを挑んだが、誰もその背に矢の一本すら立てられたものはいない。
「力で無闇に獲物を追う者は、森の主の怒りを買うことになるでしょう。この森では、地形と知恵こそが最大の武器です」
「ええ、ご安心なさい。もう、爪を隠し、身を伏せ、じっと待つのにも飽きていたところ。見事に、戦果を持ち帰りましょう」
サクファナは地図と資料に視線を落としながら、自信に満ちた声で応える。
その横顔は、もはや悲劇の令嬢ではない。夜明けの狩りを前に、万全の策を練る、孤高の狩人のそれだった。
◇
狩猟会の当日。
観覧席を彩る華やかな令嬢たちを背に、サクファナは機能性を重視した濃緑の乗馬服と革のブーツに身を包み、黒曜石の駿馬と共に狩場に佇んでいた。
その凛とした姿を見て、ユーハライムとその寵姫が、聞こえよがしに嘲笑の声を上げる。
「女だてらに恥ずかしいことだ。淑女としての弁えというものを知らんのか」
「まあ、殿下。きっと人々の気を惹きたいのでしょう。お可哀想な方ですこと」
サクファナは、そんな羽虫が立てるような雑音には目もくれず、静かに馬上で開始の合図を待っていた。
やがて、開始を告げる角笛の音が、秋の澄んだ空に高らかに鳴り響く。
ユーハライムをはじめとする血気盛んな貴族たちは、手柄を競って我先にと森の奥深くへと消えていった。
対照的に、サクファナは供の者を最小限にとどめ、静かに馬を進める。
その最小限の供の中に、庭師ではなく、目立たぬ従者の顔を貼り付けた俺が紛れ込んだ。
サクファナも気づいてはいないはずだ。
万が一の保険、そして何より、彼女が歴史を動かす瞬間をこの目で見届けるために。
この潜入は俺一人の判断であり、彼女のあずかり知らぬことである。
サクファナは静かに移動する。
獲物を追う動きではない。戦場の地形をその目に焼き付けるように、慎重で、理知的な騎乗だった。
突如、森の奥から地を揺るがすような凄まじい咆哮が轟く。
木々の暗がりから姿を現したのは、月光を浴びたかのように白銀に輝く体毛と、大地を容易く抉る巨大な牙を持つ、伝説の『白銀の雄猪』だった。
その神々しささえ感じさせる姿に、狩人たちの間に一瞬、畏怖のどよめきが広がる。
だが、功名心に駆られた騎士の一人が放った矢が、その静寂を破った。
カンッ、と甲高い音を立てて矢が弾かれる。その行為は、森の主への無礼な挑戦状に他ならなかった。
猪の赤い瞳に、煮えたぎる溶岩のような怒りの光が宿る。狩る者と狩られる者の立場は、今、完全に逆転した。
「グルオオオオオォォッ!!」
地を揺る振るがす咆哮と共に、白銀の巨体が猛然と突進を開始した。
それはもはや狩りの獲物などではない。戦場を蹂躙する、生きた破城槌そのものだった。
屈強な騎士が構えた槍は、紙細工のようにへし折られ、分厚い胸当てをつけた巨漢が、まるで小石のように宙を舞う。
名だたる駿馬の甲高い嘶きが、肉を砕く鈍い音に変わって途切れた。狩場は一瞬にして、血と泥と悲鳴が入り乱れる阿鼻叫喚の地獄と化した。
その惨状の中心で、ユーハライムは顔を興奮に紅潮させながら、的外れな怒声を張り上げていた。
「何をやっておる! 囲め、囲んで動きを止めんか! 我がとどめを刺してやるゆえ、早くせい!」
自らの手柄しか見えていないその瞳に、薙ぎ払われていく兵士たちの苦悶は映らない。
だが、その傲慢な命令が空しく響くだけで、誰一人として猪の動きを止められないと悟った瞬間、ついに森の主の殺意が、自身に向けられた。
白銀の巨体が、進路を変える。大地を蹴る蹄の音が、一直線に自分へ向かってくる。
その赤い双眸に射抜かれ、ユーハライムは初めて、己が死の淵に立っていることを理解した。
先程までの興奮が嘘のように、顔からサッと血の気が引いていく。
「ひっ……!?」
喉から、鶏が絞め殺されるような声が漏れた。彼は手綱を握りしめることも忘れ、恐怖のあまり馬上で硬直する。
だが、死が目前に迫ったことで、かろうじて生存本能だけが体を動かした。
彼は馬を操って逃げるのではない。鞍から転げ落ちるように、みっともなく地面に身を投げ出したのだ。
泥と腐葉土の上に尻餅をつき、高価な狩猟服が汚れるのも構わず、彼は四つん這いになった。
「来るな! こっちへ来るなぁっ!」
泣き言を叫びながら、文字通り這うようにして逃げ惑う。木の根に足を取られて無様に顔から突っ込み、泥にまみれた顔を上げて、ただ恐怖に喘ぐ。
かつて気高く見えた王家の血筋も、今はただの命乞いをする哀れな男の姿を晒しているだけだった。
そしてついに、大きな岩を背にして、彼は追い詰められた。 白銀の雄猪が、すぐ目の前で足を止める。
荒い鼻息が、泥と涙で汚れたユーハライムの顔を撫でた。巨大な牙が、彼の喉元を捉えようと、ゆっくりと持ち上げられる。
もはや、これまでか。誰もがそう思った、その時だった。
「――そこをお下がりなさい!」
凛とした、しかし絶対的な威厳を帯びた声が、森の喧騒を切り裂いて響き渡った。
その声に、猛り狂っていた猪さえもが、ぴたりと動きを止める。
ユーハライムが、そしてその場にいた全ての者が見上げた先。
鬱蒼と茂る木々の、月光が差し込む一本の太い枝の上に、人影があった。
軽やかな葉音と共に、その影は宙を舞う。
濃緑の乗馬服に身を包み、背には美しい狩猟弓。
その瞳は、眼下の地獄絵図を前にしてなお、凍てついた湖面のように静まり返っている。
サクファナだった。
彼女はユーハライムたちと猪の間に敢然と立ちはだかると、背負っていた弓を構えた。
放たれた矢は、猪を傷つけるのではない。甲高い風切り音を立てて、猪の足元の地面や、すぐ脇の木々を的確に射抜いていく。
的を外したのではない。あるいは単なる挑発でもない。一種の「対話」だ。
俺は、物陰からその光景を監視しながら、その戦術の意図を正確に読み取っていた。
一射は猪の注意を引きつけ、次の一射はその突進の軌道をわずかに逸らす。
彼女は巨大な獣を相手に、その反応速度と行動パターンを、一手一手、冷静に測っているのだ。
獲物を狩る狩人の目ではない。敵対者の能力を分析し、戦場の主導権を完全に掌握しようとする、指揮官の、あるいは――暗殺者の目だった。
怒りの矛先を完全に彼女へと定めた雄猪が、咆哮を上げて突進する。
だが、その猛攻を、彼女は舞うようにかわしていく。
なんだ、あの動きは――。
それは、貴族の令嬢が嗜む舞踏会のステップなどでは断じてない。
美しく見えるその動きの一つ一つが、生存と殺戮のためだけに最適化された、恐るべき体術だった。
岩を蹴って高く跳び、倒木の上を音もなく駆け抜け、枝から枝へと飛び移る。
あらゆる動きに無駄がなく、重心の移動は完璧に計算され、獣の次の動きを完全に予測した上で成り立っている。
俺が知る帝国のいかなる密偵術、いかなる体術とも違う。だが、その根底に流れる哲学は同じだ。
俺だからこそ理解できる。あれは、血の滲むような反復訓練の果てに、思考を介さずとも身体が最適解を導き出す、究極の領域。
幼い頃から、泣き叫ぶことさえ許されないような苛烈な訓練を、来る日も来る日も、骨の髄まで叩き込まれた者だけがたどり着ける動きだ。
俺の身体に刻み込まれた訓練の記憶が、彼女の動きに共鳴して悲鳴を上げる。
そうだ、肌で感じる。あれは、魂にまで刻み込まれた、戦うための無数の傷跡なのだ。
もし、彼女が敵であったなら。暗殺を命じられ、この俺と相対したとしたら――勝てないかもしれない。
背筋に、ぞくりと冷たい汗が流れる。 どうしてだ。なぜ、一介の令嬢が、これほどの戦闘技術をその身に宿している?
「そこの兵士の方、ハルバードをお借りしますわ!」
俺の驚愕を置き去りにして、サクファナは恐怖で立ち尽くす兵士からハルバードを受け取ると、雄猪を巧みに誘導し始める。
それは逃走ではない。敵を、自らが定めた処刑場へと誘い込む、冷徹な戦略的後退だった。
狙いは、ひときわ太い枝が低い位置に垂れ下がった大木の下。
雄猪が、三度、怒りのままに全速力で突撃してきたその瞬間。
サクファナは地面を強く蹴って低い枝に飛びつき、その強いしなりを利用して、大きく宙へと舞い上がった。
空中で華麗に体勢を整えた彼女は、借り受けたハルバードの重さそのものを推進力に変える。
落下という自然の摂理さえも武器とし、白銀の雄猪の太い首筋、鱗のような硬い皮膚で覆われていない、わずか数寸の急所一点めがけて、槍先を突き立てた。
森に響き渡る断末魔の叫びは、一度だけ。
巨体は地響きを立てて崩れ落ち、森は再び元の静寂を取り戻した。
◇
狩りの終わりを告げる角笛が鳴り響く。
広場に運び込まれた『白銀の雄猪』の亡骸と、それをただ一人で討ち取ったのがサクファナであると知らされ、誰もが言葉を失った。
巨大な獣の首筋には、致命傷となった一撃の痕が、まるで外科手術のように正確に刻まれている。
命からがら逃げ帰ってきたユーハライムは、泥に汚れた服のまま、苦虫を噛み潰したような顔で立ち尽くしている。
やがて、サクファナを"調子に乗っただけの令嬢"と見下していた武断派の将軍や騎士たちが、畏敬の念をその目に宿して、彼女の周りに集まり始めた。
先頭に立ったのは、幾多の戦場を潜り抜けてきた、白髪の老将軍だった。
「お見事、としか言いようがない。サクファナ嬢」
その声には、単なる驚きではない、真の武人に対する敬意が込められていた。
「あの混沌の戦場で、ただ一人冷静に獣の動きを見極め、地形を利用して好機を創り出す……百戦錬磨の指揮官でも、あれほどの戦術眼は望めますまい。愚か者どもはただ力で押し潰そうとして、無様に蹂躙されたというのに」
続いて、顔に傷跡の残る屈強な騎士団長が、兜を脱いで深々と頭を下げた。
「あの最後の一撃……一切の無駄も、寸分の迷いもなかった。我らが雨のように降らせた矢を弾き返したあの獣を、ただ一撃。あれこそ、真の武人の技だ」
彼らの言葉は、サクファナの武勇を具体的に、専門的に称賛するものだった。
それは、社交辞令ではない、本物の戦士たちが、自分たちを遥かに凌駕する"強者"を認めた瞬間だった。
その日の祝宴で、サクファナは武人たちから英雄として、幾度となく杯を捧げられた。
彼らの話題の中心は、サクファナの戦いぶりと、そして、もう一人の人物の無様な姿だった。
「聞いたか? 殿下は、ご自身の騎士たちを盾にしようとされたそうだ」
「ああ。だが、サクファナ様は、盾となるべく、逃げ惑う者たちの前に立たれたのだぞ。どちらが、この国の兵を率いるにふさわしいお方か……言うまでもない」
「あれほどの勇気と気品を兼ね備えた方を、自ら手放されるとの噂だが。誰と口にしないが、宝石とただの石ころを見分ける目さえお持ちでないらしい」
その声はもはや陰口ではない。
この国で最も武を重んじ、忠誠を誓うべき者たちによる、公然の評価となっていた。
王位継承者への、痛烈極まりない侮蔑と失望。それは、静かなる謀反の始まりにも似ていた。
俺は給仕に紛れながら、その光景に満足げに頷く。
悪役令嬢は、今や武力さえも手中に収めた。いや、それ以上に――彼女は、王国の軍事力を支える者たちの"心"を、たった一日で掌握してしまったのだ。
だが、胸の奥には、任務の成功とは別の、新たな感情が渦巻いていた。彼女に”悪役令嬢”という脚本を渡したつもりだった。
しかし、彼女は元々、俺の想像を遥かに超える"力"を持っていた。俺がしたことは、その枷を外し、解き放つきっかけを与えたに過ぎない。
サクファナ・フォン・クラインフェルトとは、一体何者なのだ?
その得体の知れない畏怖が、達成感に満ちた胸の内に、冷たく、そして深く染み渡っていくのを感じていた。
◇
その人物は、自室で数枚の報告書を眺め、チェスの駒を動かすように、貴族たちの名前が書かれた札を盤上で動かしていた。
狩猟会での失態を演じた"ユーハライム"と書かれた駒を盤の端に追いやり、代わりに"サクファナ"の名が刻まれた女王の駒を中央に進める。
口元に、氷のように冷酷な笑みを浮かべた。
「高く飛ぶ鳥ほど、翼を折られた時の落ち様は見物だ……。"完璧令嬢"には、完璧な絶望こそがふさわしい」
やがて、社交界で、新たな囁きが生まれ始める。それは、まるでどこからともなく湧き出る毒の泉のようだった。
「サクファナ嬢が茶会で振る舞ったあの異国の菓子、あれは帝国の銘菓にそっくりだそうだわ」
「狩猟会でのご活躍も、屈強な影武者を使ったという噂よ。そりゃそうよね、公爵令嬢が大斧を振り上げて猪を叩き切るなど、できるはずがないもの」
「そういえば、彼女を最近熱心に支持しているバーデン子爵は、帝国との貿易で財を成したお方……何か、繋がりがあるのかしら」
最初は誰も気に留めなかった、根も葉もない小さな噂。だが、毒を含んだ尾ひれがつき、瞬く間に貴族社会全体へと広がっていった。
情報があまりにも多角的かつ巧妙に拡散されており、黒幕の姿が霞んで見えない。
そして、ある日、事件は起きる。
◇ ◇ ◇
重厚な扉が閉ざされると、アークライト王国の貴族院大議場は、墓石のような冷たい静寂に包まれた。
高い天井に掲げられたシャンデリアの光だけが、居並ぶ貴族たちの強張った顔と、最上段に座す国王陛下の重い沈黙を照らし出している。
俺は傍聴席の隅で、息を殺してその異常な光景を見つめていた。何の前触れもなく、突如として招集された緊急査問会。
その雰囲気は、これが正義を問う場ではなく、誰かを社会的に抹殺するための、冷酷な儀式であることを示していた。
やがて、進行役を務める文官が、張り詰めた声で口上を述べる。
「静粛に! これより、国王陛下の御前において、バーデン子爵にかけられたる容疑に関する査問会を開廷する!」
被告人席に座るバーデン子爵の顔は、蠟のように白い。
文官は、抑揚のない声で、予め用意された筋書きを読み上げるかのように、容疑の概要を述べ始めた。
「バーデン子爵には、敵国エルツライヒ帝国への内通容疑がかけられている。事は、子爵がクラインフェルト公爵令嬢、サクファナへの支持を公然と強めていたことに端を発する」
その名が出た瞬間、議場にいた貴族たちの視線が、刃となって証人席のサクファナへと突き刺さる。
「サクファナは、デビュタント前にもかかわらず、近頃、茶会や披露会といった公の場に頻繁に姿を現し、その影響力を急速に拡大させていた。特筆すべきは、彼女が振る舞った異国の菓子。あれは、帝国でもまだ一部の富裕層にしか流通していない極めて希少な品であると判明している」
俺の背筋に、ぞくりと冷たい汗が流れた。あの菓子は、俺が帝国から密かに持ち込んだものだ。
「ここで、一つの疑問が生じる。いかに公爵令嬢といえど、そのような品を、いかにして入手できたのか。その経路こそ、バーデン子爵、貴殿ではないのか? 帝国との貿易で財を成した貴殿が、その裏の繋がりを利用して、サクファナに取り入ったのではないか」
秘密結社"動き回る七本の指"のことは、この国ではもちろん知られていない、帝国でも知る者は限られている。
バーデン子爵とは何の関係もないことは、俺にしか証明できない。
「そして、疑惑の核心に迫る。それほど希少な品を、バーデン子爵は帝国に対して何の見返りもなく手に入れられたのか? 否。古今東西、そのような一方に有利な取引が、なんの益も働かずに行われたことは無い。このことを疑い、そしてバーデン子爵がいったいどのような見返りを帝国に差し出したのか。内密に調査が進められた。では、その報告を宰相オルバンが行う」
それは、事実を巧みに捻じ曲げ、悪意ある一点へと結びつける、見事な誘導だった。
調査の経緯が語られ、やがて議場の中央に進み出たのは、宰相オルバンだった。彼は、勝者の笑みを浮かべ、決定的な"証拠"を次々と突きつける。
「バーデン子爵邸より押収した、帝国側の密偵との書簡がこれだ」
羊皮紙の束が、証拠として掲げられる。そこには、王太子殿下の動向や国内貴族の内部情報が、詳細に記されていた。
議場がどよめく。だが、宰相オルバンの追及は終わらない。
「バーデン子爵は、我が王国を売り、そして財を成した。だが、それだけではない」
宰相が切り札として高らかに掲げたのは、一枚の手紙だった。
「クラインフェルト公爵令嬢、サクファナがバーデン子爵に宛てた指示書だ。サクファナの筆跡であることは確認済みだ。こう記されている。『――この国の未来のため、帝国の友人たちへ、この情報を届けなさい。然るべき時に、彼らは我らの力となるでしょう』」
会場は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。俺は傍聴席から、その光景を歯噛みしながら見つめることしかできない。
被告人として引き出されたバーデン子爵が、サクファナの方を、一度だけ、苦痛に満ちた表情で見た。
その視線にどんな意図があったのか。彼は、前を向き、そして、魂を絞り出すかのような、震える声で証言を始めた。
「すべて、サクファナ様のご指示でした。あの方は、殿下から婚約破棄されるやもしれないという不安から殿下を憎み、帝国の力を借りて、この国の王位継承を意のままに操ろうとされていたのです。私に帝国への情報提供を命じたのも、サクファナ様です」
その裏切りの言葉は、致命的な毒となって貴族院議場に満ちていった。宰相オルバンが、芝居がかった嘆息とともに再び中央に進み出る。
「哀れなことだ、バーデン子爵。君は、若く美しい令嬢の野心に利用されたに過ぎない。我々は見誤ってはならない。この事件の真の根は、より深く、暗い場所にあるのだ」
宰相オルバンはゆっくりとサクファナの方へ向き直り、その指先で、まるで汚れたものでも指し示すかのように彼女を断罪した。
「真の黒幕は、そこにいるクラインフェルト公爵令嬢、サクファナ! ユーハライム殿下という未来の太陽を失いかけ、自暴自棄となった彼女が、憎悪の果てに敵国に魂を売ったのだ! この国を裏切り、情報を売り渡すことで、亡命後の己の地位を確保しようとしたのだ!」
在りもしない筋書きが、絶対の真実として語られる。宰相オルバンの毒牙は、さらにクラインフェルト公爵本人にも向けられた。
「そして、クラインフェルト公爵が、娘の大逆に気づかぬはずがない! そうであろう!? この国でいかなる要職にも就けず、燻ぶっていた静かなる獅子。その胸中に、帝国からの甘い囁きが響かなかったと、誰が断言できようか! これは、父と娘による、周到に計画された国家転覆計画なのだ!」
あまりに馬鹿げた、しかし完璧に組み立てられた論法。
だが、その渦中にあって、クラインフェルト公爵も、サクファナ様も、ただ氷のような沈黙を守っていた。
一切の弁解も、反論もしない。その沈黙は、この場では肯定と同義だった。
やがて、最上段に座す国王が、それまでの沈黙を破り、重々しく口を開いた。その声は、議場の隅々にまで響き渡る、紛れもない王者の声だった。
「ヴァラデウニウム・フォン・クラインフェルト公爵、その令嬢サクファナ。ならびに、クレメント・フォン・バーデン子爵。――面を上げよ」
三人が顔を上げると、王は静かに言葉を続けた。
「その者たちを、国を売ろうとした大罪人と断じるには、証拠が不十分である。よって――」
「陛下! お待ちください! 証拠はすでに、これほどまでに明白に――」
たまらず声を上げた宰相オルバンを、国王は視線一つで射抜いた。
「宰相、控えよ。余の言葉を遮るか」
「も、申し訳ございません。しかし、陛下のためを思えばこそ――」
「黙れ」
その一言が、絶対零度の刃となって宰相の言葉を断ち切った。オルバンは、屈辱に顔を歪ませながらも、深く頭を垂れるしかできない。
王は再び、被告人たちへと向き直った。
「クラインフェルト、バーデン両家が長年に渡り王国へ尽くした忠義、その功の数々を、余は忘れてはおらぬ。真偽も定かならぬ数片の書状をもって、代々の忠臣を断罪するような不義は、この余が許さぬ」
その言葉に、議場がわずかにどよめく。だが、王の威厳は、続く言葉でそれを一蹴した。
「この一件、王たる余が直々に吟味し、裁定を下す。だが、国家反逆の嫌疑そのものを看過はできぬ。逃亡や証拠隠滅の憂いも絶たねばならぬ。――者共、聞け」
国王の号令に、衛兵たちが一斉に姿勢を正す。
「クラインフェルト公爵、ならびにバーデン子爵を投獄せよ。サクファナは、未だデビュタントも済ませておらぬ身。その全責任を問うには早計であろう。よって、デビュタント・ボールの前日までの一切の自由を剥奪し、自邸での軟禁を命じる!」
そして、王は最後に、氷のような声で告げた。
「心せよ。余の調査の結果、罪が確定した暁には、クラインフェルト、バーデン両家は、その名も歴史も、跡形もなく取り潰しとする!」
その宣告が、俺の心を砕いた。
衛兵たちが、サクファナ様のもとへ歩み寄る。彼女は、最後まで気丈な表情を崩さなかった。
俺は、声なき絶叫を上げていた。
止めなければ。弁護しなければ。あれは罠だ、と叫ばなければ。
だが、できない。
帝国との繋がりを否定することは、俺が帝国の密偵だと自白するに等しい。
そうなれば、この完璧に仕組まれた罠に、俺自身が最後の証拠として組み込まれるだけだ。
俺が彼女に与えたものが、疑惑の種となった。
俺が彼女に授けた知略が、野心の証拠とされた。
そして、帝国の密偵という俺そのものの存在こそが、この国を裏切った何よりの証明となってしまう。
罠を仕掛けたのは宰相オルバンだ。
つまり、ユーハライムの言う"強力な後ろ盾"とは、宰相オルバンの事であり、同時に"裁定者"だと確信しているのだろう。
過去の例においても、"裁定者"は宰相であることが多い。
宰相オルバンは何らかの方法により、自らを"裁定者"に任じられていると確信に至ったのだろう。
やはり、宰相オルバンに近づき、注視すべきだったか。悔いても悔やみきれない。
なにより。宰相オルバンの罠、その設計図を描かせ、最も効果的な毒を用意したのは、この俺自身だということ。
安易に、短期間で注目を集めるための道具として、帝国との関わりを想起させるものを、サクファナに与えてしまった。
守りたいと願ったはずの女性を、俺が、俺自身の手で、光の届かない絶"絶望の淵へと突き落としてしまったのだ。
サクファナが連行され、公爵が静かに頭を垂れる。その光景を前に、俺はただ、指一本動かせない。
完璧な絶望が、冷たい鉛となって、俺の全身を支配していた。
◇ ◇ ◇
公爵家の庭は、月明かりだけが頼りの深い闇に沈んでいた。
俺は、着慣れた庭師の服を脱ぎ捨て、故郷の密偵としての、夜闇に溶け込む黒い旅装束に身を包んでいた。
傍らには、必要最低限の物だけを詰めた小さな鞄が置かれている。
胸中は、自責の念とどうしようもない無力感で、荒れ狂っていた。愛する女性が"反逆者"の烙印を押され、その未来を奪われた。
その最大の要因が、彼女を守るために与えた俺自身の計略だったという事実が、心を容赦なく苛む。
彼女が絶望に染まる姿を思うだけで、魂に熾火を押し付けられるような激痛が走った。
任務は、最悪の形で失敗した。
これ以上この国に留まることは、彼女をさらに危険に晒すだけだ。俺という存在が、宰相の罠を完成させる最後の証拠になりかねない。
俺は、夜陰に紛れてこの国を去ることを、固く決意していた。
最後の別れを告げることなく、影のように静かに屋敷を去ろうとした、その時。
背後から、凛とした声が俺の名を呼んだ。
「どこへ行くの、パルク」
振り返ると、そこにサクファナが立っていた。
月の光を背に受けたその姿は、まるで幻のように儚く、それでいて目が離せないほどに美しかった。
軟禁され、絶望の淵にいるはずの彼女。だが、その瞳にはもはや悲しみの色はなく、嵐の前の海のような、恐ろしいほどの静けさが湛えられていた。
「……申し訳ありません、サクファナ様」
彼女の顔を直視することができず、俺は視線をそらし、地面を見つめたまま言った。
「全ては、俺のせいです。俺が、あなたを破滅に追い込んだ……。もはや俺に、あなたの力になる資格はない」
この場を去ることが、俺にできる唯一の償いだ。そう信じていた。
しかし、サクファナは静かに首を横に振る。
「……あなたのせい? いいえ、違うわ」
俺の謝罪を、彼女は静かな、しかし有無を言わせぬ響きで遮った。
「聞いてちょうだい、パルク。わたくしが、どんな人生を歩んできたのかを」
月明かりの下、彼女は独白するように、静かに語り始めた。
「物心ついた頃から、わたくしは『殿下の婚約者』でしたわ。来る日も来る日も、厳しい訓練の毎日。――ええ、お茶の淹れ方や刺繍のことではありませんのよ。なぜ未来の王妃に、影を歩く暗殺者のような体術や、人の心を読み解く謀略の術が必要なのか、誰も教えてはくれませんでした。ただ、それが完璧な王妃になるために必要なのだと、そう教えられてきただけ」
彼女の瞳が、遠い過去を見つめる。
「でも、不思議と苦しくはなかった。むしろ、できなかったことができるようになるたび、自分が"完成"していくような、奇妙な充実感さえ覚えていたのです。他の誰にもできないことができる。その万能感が、わたくしを支えていたのかもしれませんわね。"完璧令嬢"…その仮面は、いつしかわたくしの素顔そのものになっていました」
だが、その声に、ふと影が差す。
「けれど、殿下の一言で、積み上げてきた全てが砂の城のように崩れ落ちるのを感じましたの。その時、初めて思ったのです。わたくしは一体、何のために? この私の全てを、あんな男のために捧げてきたのか、と。空っぽでした。本当に、何もかも」
彼女はそこで一度言葉を切り、今度は俺の目をまっすぐに見つめた。
「そんな空っぽになったわたくしの前に、あなたが現れた。"悪役令嬢"…正直、最初は意味も分からず、ただあなたの言葉を信じて演じていただけでしたわ。でも、気づいたの。ああ、そうかと」
その声に、確かな熱が宿る。
「今までのわたくしには、"自分"というものがなかったのだと。完璧な人形であっただけ。貴方のおかげで、ようやく、この胸の中に、わたくし自身の意志というものが、か弱くも芽生えたのですわ」
彼女は、月光の下で、まるで生まれ変わったかのように静かに微笑んだ。
その瞳には、もはや過去を悔やむ涙はなく、未来を切り開かんとする強い光だけが宿っている。
「あなたがくれた、この"悪役令嬢"という名の、か細い刃を、わたくしはまだ鞘に収めるつもりはないの。いいえ、ここからが本当の始まりよ。あなたが教えてくれたのでしょう? "悪役令嬢"の舞台は、まだ幕が下りてはいない、と」
彼女は俺の目を見つめ、はっきりと告げた。
「私たちの契約は、まだ終わっていないわ」
その言葉に俺が驚いて顔を上げると、彼女は夜の闇の中でもはっきりとわかる、強い意志を目に宿して、続けた。
「見て。今の私は『国を売ろうとした大罪人』。お父様も力を失い、かつての味方は皆去っていったわ。もう、失うものは何一つないのよ。……あなたの言う"悪役令嬢"、まさにその頂点に辿り着いたというわけね」
彼女は俺に一歩近づき、その宝石のような瞳で、俺の心をまっすぐに見据えた。
「だからこそ、最後の賭けができるの」
「……賭け、ですか?」
「デビュタント・ボールへの参加は、まだ禁じられていないわ。陛下は『デビュタント・ボールの前日まで』と、そうおっしゃった。つまり、その日になれば、私の軟禁は解かれ、参加する資格があるということです」
彼女の言葉に、俺はハッとする。確かに、王の裁定には不自然な温情があった。本気で反逆者と断じるなら、即刻、断頭台へ送るはずだ。
「陛下には何かお考えがあるのだと、私は思っているの。陛下は、決して私反逆者だとはお考えではない。そうでなければ、このような裁定はありえないでしょう?」
その通りだ。だが、だとしても何ができる? 絶望的な状況は変わらない。
「デビュタント・ボールが決戦の日。殿下が満場の貴族の前で私を断罪し、婚約破棄を宣言する、私のための処刑台よ。でも、むざむざと首を差し出すつもりはないわ。たった一度きりの、その瞬間に、全てを賭けるの」
「……何を、賭けるというのですか?」
絞り出すような俺の声に、サクファナは、夜闇に咲く月下美人のように、不敵な笑みさえ浮かべてみせた。
「殿下が私を捨てる、その瞬間に……殿下より遥かに、比べ物にならないほど優れた殿方と、新たな婚約を結ぶのです」
その言葉は、もはや絶望から生まれた狂気ではなかった。
全てを失った者だけが手にできる、絶対的な覚悟から生まれた、起死回生の奇策。
俺は、息を呑んだ。
彼女はもはや、守られるべき脆い"完璧令嬢"ではない。自らの手で運命をこじ開け、絶望の淵からさえも牙を剥く、真の"悪役令嬢"だった。
その気高い魂の輝きに、俺の心は完全に撃ち抜かれた。帝国も、任務も、俺自身の過去さえも、全てが思考から消え去っていく。
ただ、この女性のために。
この人のために、俺の全てを懸けたい。
その熱い衝動に突き動かされ、俺はその場に深く膝をつき、騎士が女王に忠誠を誓うように、サクファナの手を取った。
「その大役……この私では、不足、でしょうか」
それは、庭師パルクの言葉ではなかった。帝国の密偵の言葉でもない。一人の男が、愛する女性に捧げる、魂からの誓いだった。
月明かりの下、サクファナは俺の目を見つめ、その手に僅かに力を込めて、静かに、しかし力強く頷いた。
「他にいないわ。……でも、今のままの貴方ではだめ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。彼女の声は、どこまでも澄み切っている。
「庭師パルクもなく、影に潜む帝国の密偵でもない。ましてや、任務に失敗して故郷に逃げ帰ろうとする、つまらない男でもないわ。本当の貴方なら、あるいは――」
脳を雷に撃ち抜かれたような衝撃だった。
全ての仮面を、一枚一枚、丁寧にはぎ取られていく。庭師、密偵、そして逃亡者。彼女は、俺が纏ってきたすべてを否定した。
「わたくしの隣に立つのは、月にも劣らぬ輝きを持つ、気高き狼でなくては。……あなたなら、なれるでしょう?」
狼――それは、エルツライヒ帝国そのもの。あるいはその王族を指し示す暗喩。
全てを知られている。
全てを知った上で、なお、彼女は俺を選んでいる。
どうやって? いつから?
俺の正体は、帝国でさえ最高機密に属する。この国の、一介の令嬢がそれを知る術など、あるはずがない。
思考が焼き切れそうなほどの速度で可能性を探るが、答えはどこにも見つからない。
俺が声も出せずにいると、彼女は続けた。
その恐ろしいほど美しい瞳には、推測や疑いの色など微塵もない。ただ、絶対的な確信だけが、静かな光を宿していた。
「ここは、クラインフェルト公爵家。そして、私はその令嬢。殿下の婚約者として、クラインフェルト公爵家によって磨き上げられた存在。そういうことよ」
その一言が、俺の戸惑いを、驚愕を、一瞬にして消し飛ばした。
俺は、クラインフェルト公爵家の表の顔しか知らないと言うことか。おそらく他国には漏らせない、裏の顔があるのだろう。
俺もまた、別の顔を持つように。
いいだろう。
正体が暴かれたことなど、もはや些事だ。
この身分が、この名が、サクファナを絶望の淵から救い出すための最後の切り札になるのなら。
喜んで、俺のすべてを晒そう。
覚悟は、決まった。
俺は彼女の手を恭しく押しいただき、顔を上げた。その瞳には、もう迷いの色はない。
「……待っていて欲しい。相応しい姿となり、貴女を迎えに来る」
「ええ。楽しみに待ってるわ」
二人の最後の契約が、月光の下、静かに結ばれた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
デビュタント・ボールが催される王宮の大広間は、無数のシャンデリアが放つ光と、着飾った貴族たちの華やかな喧騒で満ち溢れていた。
けれど、そのきらびやかな雰囲気の裏では、これから始まる一人の令嬢の公開処刑――反逆者サクファナの断罪劇――に対する、下品で残酷な期待が渦を巻いているのを、わたくしは肌で感じていた。誰もが、わたくしがどのような無様な姿を晒すのかを、固唾を飲んで待ち構えている。
やがて、楽団の奏でるファンファーレが、わたくしの入場を告げた。
重々しく開かれた扉の向こうに歩みを進めると、全ての視線が一斉に突き刺さる。
本来なら、父であるクラインフェルト公爵に手を引かれて、扉をくぐるはずだったが、今もなお、父は投獄されたままだ。
誰にもエスコートされずに、この場でデビュタントを迎える令嬢が会場入りするなど、異例も異例だ。
しかし、わたくしは、堂々と歩みを進める。
わたくしが今宵、身に纏ったのは、純白のドレスでも、華美な宝石を散りばめたドレスでもない。
まるで夜そのものを織り上げたかのような、荘厳な漆黒のドレス。しかし見る角度によって、キラキラと輝く光を放つ。
その様子はまるで星空のよう。手に取ってじっと見つめてみても、いったい何が光っているのか分からない、不思議な生地で作られていた。
パルクが用意してくれたドレスだが、彼曰く「ウェアラブルディスプレイ・ドレスとでも言えば良いのか、光る粒子を布に編み込んであって、布自体がディスプレイになってるから、好きな模様を投影できるんだ」らしい。説明を聞いても意味が分からない。
しかし、それは、反逆者の烙印を押されたわたくしの立場を、自ら示すかのように。
挑発的でありながら、同時に他の誰をも寄せ付けない、孤高の女王のごとき威厳を放っているはず。それで十分だ。
会場のざわめきが一瞬にして止まり、次の瞬間には侮蔑と嘲笑を含んだ囁きとなって、波のように広がっていく。
「本当に来たわ……」
「あの黒いドレス、まるで悪魔のようね。……でも、綺麗ね。ときおり星が瞬くように見える……」
「どんな厚い面の皮をしているのかしら。……見たこともない色の口紅ね、あれもやっぱり帝国に行けばあるのかしら」
(ええ、見なさい。笑いなさい。その目がやがて驚愕と恐怖に変わる様を、このわたくしが楽しんであげるわ)
四方八方から突き刺す悪意の視線を、わたくしはまるで意に介さない。
背筋を伸ばし、顔を上げ、毅然とした足取りで、広間の中央へと進んでいく。
玉座の前、一段だけ高い場所に立つユーハライム殿下が、主役の登場を待ってましたとばかりに、わたくしを指さした。
彼の隣には、勝ち誇った表情の新たな寵姫となった令嬢と、全てが計画通りとでも言うように、冷笑を浮かべるオルバン宰相の姿がある。
ユーハライム殿下は、集まった全ての貴族に聞こえよがしに、わたくしの"罪"を糾弾し始めた。
「サクファナ! そなたは己の嫉妬心からこの国を裏切り、敵国エルツライヒ帝国に情報を流した大罪人である!」
彼の声に、会場は水を打ったように静まり返る。
その静寂を支配する快感に、ユーハライム殿下は酔いしれているようだった。
わたくしは、そんな彼を黙って見つめ、唇の端に、ほんのかすかな笑みを浮かべてみせた。
その態度が、彼の癇に障ったらしい。
「その笑みを消せ! 己の立場がわかっているのか!」
彼は駆け下り、わたくしの目の前まで詰め寄ってきた。唾が飛んできそうなほどの剣幕だった。
「そうだ、サクファナ! 貴様はいつもそうだ! 完璧を気取って、いつも我を正そうとする! 我の言葉を遮り、我の政策を批判し、まるで我が貴様より劣っているとでも言うようだったな! 女とは、男の後ろを三歩下がって歩き、男を敬い立てるものだ! 貴様のような、可愛げのない、傲慢な女は我にはふさわしくないのだ!」
彼は、慌ててユーハライムを追いかけて駆け寄って来た令嬢の肩を抱き寄せ、見せつけるように高らかに言う。
「それに比べて、今、我の隣にいるリリアーナを見ろ! 彼女こそ、真の淑女だ! いつも我を敬い、我の言葉に心から耳を傾け、我を英雄として立ててくれる! 彼女こそが、次代の王妃にふさわしい!」
(殿下には見えていないみたいね。その女性が隠してる侮蔑の表情を。今も殿下に肩を抱かれても、その目線は常に周囲を見回している。勘の良い女性ね、わたくしがあまりに余裕の表情を浮かべられていることに、違和感を感じて、その原因を探ってる)
「貴様のような女にはわかるまい! 我が、この国を偉大にするために、どれほどのことを成してきたか!」
その言葉に、わたくしはあえて、純粋な好奇心を装って首を傾げてみせた。
「まあ、殿下の『偉業』…。わたくし、寡聞にして存じ上げませんでしたわ」
わたくしは心底意外だという表情を浮かべ、純粋な好奇心に満ちた声で問いかけた。
「わたくしが耳に挟みました殿下のご武勇は――夜の閨におきまして、連れ込んだお相手の淑女が、奉仕すべき"もの"が見つからず、呆れて部屋を出てしまわれたとか。まさか、それも『偉業』の一つでいらっしゃいますの?」
「なっ……!」
わたくしの挑発に、ユーハライム殿下の顔が怒りで真っ赤に染まる。殿方が最も知られたくないことを、淑女たちは良く知っている。
罠にかかった獣のように、ユーハライム殿下の理性の箍が外れたようだ。
「だ、黙れ! 貴様のような女に、我の深謀遠慮がわかるものか! 聞かせてやろう! 軍備を増強するために、資材を流出させた見返りに、帝国の秘密結社から最新の武具を密かに輸入した! さらには、いざという時のための奴隷兵団も組織している! これらはすべて、我が王になった暁に、この国を大陸の覇者とするための神聖なる布石なのだ! 貴様は、そんな我の偉大な計画の邪魔でしかなかった!」
ユーハライム殿下の自白に、会場が大きくどよめいた。
当然だろう、わたくしを"敵国エルツライヒ帝国に情報を流した大罪人"と断罪する殿下自身が、帝国からの武具の密輸。それも秘密結社とはいったい。
そして何より、この国で固く禁じられている人道に反する大罪――奴隷兵団の組織。
わたくしは、ちらりと壇上のオルバン宰相に目をやった。
彼の顔からは血の気が引き、慌てて背後の部下に何か小声で指示を出している。もはや手遅れですわよ、宰相閣下。
(これが、この国の次期王を名乗る男の言葉ですの? 呆れて何も言い返せません。……陛下は、なぜ黙っていらっしゃるの? その表情の奥に、何を隠しているのですか?)
わたくしは視線の端で、玉座に座す国王陛下の様子を窺った。陛下は、表情一つ変えず、ただ黙って息子の愚行を見つめている。
ユーハライム殿下は芝居がかった仕草で胸を張り、この舞台のクライマックスを演じるように、声を張り上げた。
「よって、次期王のユーハライム・アークライトは、神聖なるこの場において宣言する! 本日をもって、サクファナとの婚約を、完全に破棄する!」
会場からは、「当然だ!」という声と、申し合わせた拍手が沸き起こる。
誰もが、わたくしが泣き崩れるか、許しを乞う姿を期待して、その一挙手一投足に注目していた。
しかし、わたくしはうつむくことも、涙を一粒たりとも見せることもしなかった。
蔑むような目で自分を見下ろす王太子殿下をまっすぐに見据えると、花のつぼみが開くかのような、完璧な微笑みをその唇に浮かべた。
(さあ、道化の時間は終わり。ここからは、わたくしの舞台よ)
静まり返った会場に、わたくしの鈴を転がすような、しかし鋼の意志を感じさせる声が響き渡る。
「――そのお言葉を、待っておりましたわ、殿下」
予期ぬ反応に、ユーハライムも、宰相も、そして会場中の貴族たちも、一瞬、何を言われたのか理解できずに凍りつく。
絶望の淵で打ちひしがれているはずの罪人が見せた、あまりにも堂々とした、美しくも不遜な微笑み。
それは、これから始まる壮大な逆転劇の幕開けを告げる、鮮烈な狼煙だった。
◇ ◇ ◇
わたくしが放った言葉の余韻が、大広間を氷のように凍てつかせていた。
ユーハライムも、宰相も、そして固唾を呑む貴族たちも、誰もが言葉を失っている。
ただ一人、玉座に座す国王陛下だけが、全てを見通すように静かにその光景を眺めていた。
愚かな息子に最後まで与する者は誰か、この局面でいかに動くか、一人ひとりを見定めるように。
その張り詰めた静寂を破ったのは、再び重々しく開かれた大広間の扉だった。
王宮の侍従長が、息を切らしながらも威儀を正し、玉座の前へ進み出る。
「申し上げます! エルツライヒ帝国第七皇子セトファルク殿下が、陛下への緊急謁見を求め、ただ今ご到着いたしました!」
敵国の皇子の、あまりに時宜を得た来訪。会場は、先ほどとは質の違う、緊張と警戒のどよめきに包まれた。
国王は動じることなく、静かに手を挙げる。
「通せ」
万雷の拍手すら呑み込む静寂の中、居並ぶ王侯貴顕、そのすべての呼吸がひとつの扉に注がれていた。
やがて、大理石の床に荘厳な音を響かせ、黄金の双扉が内へと開かれる。
そこに姿を顕したのは、神々の手で紡がれたもうたかのような、一人の若き皇子であった。
その御名は、セトファルク・カイザー・フォン・エルツライヒ。帝号たる「カイザー」をその名に継ぎし、エルツライヒが秘中の至宝。
身に纏いしは、穢れを知らぬ聖雪を思わせる壮麗な純白の軍装。胸には、皇祖の魂を宿した帝国狼の紋章が銀の光糸にて刻まれ、水晶宮の大燭台が放つ幾万の光彩を浴びるたび、その御身から後光が差すが如き神威を放っていた。
エルツライヒ帝国が第七皇子にして、その尊顔を公の場に賜うことは万に一度も無く、年にただ一度、星辰の巡りが許した祝祭の夜にのみ、血族の前へと現れるのみ。なのに、その天上の美は、姿を写した一枚の肖像画が国境を越え、列強諸国の后妃や王女たちの間で金銀宝石よりも価値ある至宝として秘蔵されると謳われるほど。
人界の美の粋を集めたこの大広間にあってなお、彼の御前ではあらゆる宝石が色を失い、いかなる貴公子も影に沈む。神造と見紛うばかりに整いしその顔立ちと、深淵を湛えた瞳は、一瞥だけでこの場の貴婦人たちの魂を根こそぎ奪い、理性を溶かし、ただひれ伏すことのみを願わせる魔性を秘めていた。
臣民の誰もが知る通り、エルツライヒの“秘蔵っ子”とは帝国の切り札である。皇子の降嫁はあらゆる取引を凌駕し、その御身一つで国さえ動く。故に、帝国の覇道は未来永劫、揺らぐことがない。血を一滴も流さずして万の城を落とし、一個師団の武力に勝る和平を帝国にもたらすために神が遣わした、“生ける最終兵器”に他ならないのだ。
迷いのない足取りで大理石の床を踏みしめ、まっすぐに玉座へと進む。
(ああ、見事だわ…パルク)
誰もがその威厳に息を呑む中、わたくしだけはその姿に懐かしい面影を探していた。
けれど、そこにいるのは庭師の青年ではない。一片の隙も見せぬ、帝国皇子の姿だった。
セトファルクは周囲の驚愕を意にも介さず、国王の御前にて深々と臣下の礼をとった。
「アークライト国王陛下におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。エルツライヒ帝国の使者、セトファルク、これに。先触れもなき訪問、平にご容赦を」
「うむ。して、皇子自らの来訪、用向きは何かな」
セトファルクは顔を上げ、凛とした声で告げた。
「この国で、我が帝国に内通したとして反逆罪に問われた貴族がおられるとか。その件について、帝国の名誉にかけて申し上げます。我がエルツライヒ帝国は、貴国のいかなる貴族からも国家に関わる情報を得た事実はなく、無論、その見返りを与えた事実も一切ございません」
彼は懐から、皇帝の印璽で封をされた書状を取り出す。
「ここに、我が皇帝陛下直筆の書状がございます。帝国はこの度の反逆容疑に一切関知せぬこと。そして、もしこれに反する証拠なるものが存在するならば、それは全て帝国の与り知らぬところで捏造された偽書であると、ここに断言いたします」
侍従が書状を国王へ捧げる。封を解き、静かに目を通した陛下は、やがて顔を上げ、セトファルクに頷き返した。
「……うむ、真筆に相違ない。確かに受け取った。よって、この場において宣言する。バーデン子爵、ならびにクラインフェルト公爵にかけられた反逆の嫌疑は、これをもって完全に晴れたものと見なす!」
「お待ちください、陛下!」
宰相オルバンが、血相を変えて叫んだ。
「正気でございますか! 敵国の言葉を、何の吟味もなくなぜ信じられます! こちらには動かぬ証拠がございますぞ! その書状こそが、我らを欺くための罠に相違ありませぬ!」
しかし、国王は眉一つ動かさない。その瞳には、もはや何の感情も映っていなかった。
「黙れ、オルバン」
静かだが、万鈞の重みを持つ声が宰相を黙らせる。国王は、哀れな男を見下ろすように続けた。
「よいか。宰相たるそなたに、今一度この世の理を説いてやろう。真実や証拠が、常に力を持つと思うてか? 否。皇帝が『白』と言い、国王が『白』と認めれば、墨であろうと白だ。それが権力だ。長年その座にありながら、まだ分からぬか」
宰相が押し黙る中、セトファルクは再び国王に一礼した。
「陛下のご英断に感謝いたします。さて、使者としての役目はこれで果たしましたが、セトファルクという一個の男として、この場で果たしたい儀がございます。陛下の御前、僭越ながらこの場をお借りする許可を頂きたく存じます」
国王は面白そうに口の端を上げ、「許す」と短く応えた。
許可を得たセトファルクは、ゆっくりと振り返ると、まっすぐにわたくしの元へ歩み寄る。
そして、満場の貴族が見守る中、その黒い手袋に包まれた手を取り、恭しく跪いた。
「サクファナ様。ユーハライム殿下との婚約は、今、解消された。ならば、私の心の内を告げます。あなたの気高い魂と、いかなる逆境にも輝きを失わぬその強さに、私は心を奪われた。どうか、私の妃となり、未来を共に歩んでほしい」
わたくしは、今まで誰にも見せたことのない、心からの笑顔で「ええ、喜んで」と応えようとしたが、無粋な邪魔が入る。
「き、貴様っ! 戯言を申すな! この罪人に求婚だと!?いや!そもそも、それは我のものだ!敵国の皇子になどやれるはずがない!」
ユーハライム殿下が顔を真っ赤にして叫んだ、その時だった。これまで沈黙を守っていた国王陛下が静かに立ち上がり、威厳に満ちた声で広間を制した。
「黙れ」
国王陛下はそのまま、最上段からゆっくりと降りてこられて、わたくしとセトファルクの前に来られた。
そして、わたくしに向かって、真剣な表情で告げる。
「時は満ちた。サクファナよ、今こそ問う。ユーハライムではなく、セトファルクを選ぶ。それでよいのだな?」
その言葉の真意を、わたくしは即座に悟った。
陛下の問いは、単なる結婚相手の確認ではない。"時は満ちた"という成句が示すその意味を。
隣を見れば、セトファルクが驚きに目を見開いているのがわかる。彼の任務はその役職を持つ人物を探すことであったはず。
しかし、ユーハライムにはまだ理解できていないらしい。きょとんとした顔で、わたくしとセトファルクと陛下の顔を順番に見ている。
「陛下、そのような大任をわたくしなどに……」
「今は勅問の時。サクファナよ、汝の心に従い、答えよ」
陛下の短い言葉が、わたくしの迷いを断ち切る。「責務など案ずるな。ただ、お前が誰を選ぶか、それだけを答えよ」と。
「これまでわたくしは、クラインフェルト公爵家の娘として、国のため、家のため、その道を歩むことだけを考えておりました。ですが。今、この瞬間、わたくしはただのサクファナとして、心のままに答えを申し上げたく存じます。数多の定められし道ではなく、わたくしが歩みたいと願う唯一の道を」
陛下はじっとわたくしを見つめている。わたくしの隣では、セトファルクもまた、真剣な表情で見つめている。
「わたくしは、彼を、セトファルク殿下を選びます。この命、この魂のすべてを懸けて、殿下の傍らで未来を紡いでゆくことを、どうかお許しいただけますでしょうか」
国王は満足げに頷くと、広間の貴族たちを見渡し、国家の最大の秘密を宣言した。
「我が国の王位継承には、古より伝わる一つの掟がある。次期国王は、血筋のみにあらず。当代の"裁定者"によってその器を試され、選定されるのだ。そして、その神聖なる権限を持つ唯一の人物こそ……そこにいる、サクファナ・フォン・クラインフェルトである!」
「サクファナが、裁定者だと!? 馬鹿な、このわしではなく!?」
宰相が信じられないとばかりに叫ぶ。
「陛下! 裁定者は代々、宰相が務めてきたはず! だからこそ陛下は、この私の行いを……」
「お前の増長を許してきたと申すか。愚かよの」
国王は冷ややかに言い放った。
「余を試すように、些細な悪事を重ねては余の反応を窺っていたな。そしてサクファナの婚約破棄を余が黙認したことで、己が裁定者であると確信した。そこがお前の浅はかさよ。全ては、お前自身にその罪を暴かせるための布石に過ぎん」
「なっ……!」
「全てお見通しよ。ただ、時を待っていただけだ。――者共、捕らえよ」
「お待ちください!この国を売り渡すおつもりか! あろうことか敵国の皇子に国をくれてやると! それが王のなさることか!」
国王は氷の視線で彼を射貫いた。
「帝国とはすでに合意の上だ。皇帝陛下も、両国の末永い平穏のため、セトファルクをサクファナの伴侶としてこの国に迎えることを快く承諾してくださった」
「そん、な…ばかな……」
「連れて行け」
王の冷徹な命令が下る。近衛騎士たちが、崩れ落ちた宰相と、呆然と立ち尽くすユーハライムの両脇を固めた。
「なっ、離せ! 私を誰だと思っている!」
自分が捕縛の対象だとようやく悟ったユーハライムは、ヒステリックに叫びながら騎士の手を振り払おうともがく。
しかし、鍛え上げられた騎士の腕はびくともしない。彼は混乱の中、最後の蜘蛛の糸にすがるように、わたくしの名を絶叫した。
「サクファナッ!」
騎士に腕を引かれながらも、無様に身をよじって彼女に手を伸ばす。その顔には、これまで浮かべたことのない、焦りと恐怖が張り付いていた。
「サクファナ! なぜ黙っている! お前は我の、この我の婚約者だったはずだ! 父上に、こいつらを止めるように言ってくれ! なあ!」
その必死の形相は、つい先ほどまでわたくしを見下し、断罪していた男と同一人物とは思えないほど哀れだった。
広間に集う貴族たちは、次期国王と信じていた男の無様な姿を、冷たい沈黙で見つめている。
「我が間違っていた! 謝る! だから助けてくれ! お前は我を愛していただろう!? 我がいなければお前はただの女だ! 我が王になってやるから、だから……!」
支離滅裂な命乞い。しかし、わたくしは表情一つ変えなかった。
「殿下。わたくしたちの関係は、あなたがこの満座の中で、ご自身の言葉で断ち切られたはずですわ。それに……」
わたくしは、氷のように美しい笑みを、その唇に浮かべた。
「あなたの婚約者であった"完璧令嬢"と呼ばれた女は、もういないのです。ここに居るのは、理不尽な運命に牙を剥き、自らの望むものをその手で掴み取る、誇り高き"悪役令嬢"。わたくしは、あなたなど、必要ではありません」
その言葉は、最後のとどめだった。 ユーハライムの顔から血の気が引き、懇願の言葉が喉の奥で凍りつく。
彼は、自分の愚かさと、決して覆ることのない結末を悟った。
「あ……あ……」
全ての力が抜けたように、ユーハライムは膝から崩れ落ちる。
騎士たちに両腕を掴まれ、まるで魂の抜けた人形のように、なすすべもなく引きずられていく。
その最後まで、彼は信じられないというようにわたくしの顔を見つめ、何かを呟こうとしていたが、それは声にならなかった。
その無様な様を、もはや何の感情も映さない瞳で見送った。隣で、セトファルクがそっとその肩を支える。
こうして、静かに終わりを告げた。
◇ ◇ ◇
ふたりはこたえあわせをしました。
「ねえ、セトファルク。ずっと聞きたかったのだけれど、貴方の本当の姿はどちらなの?」
「どっち、とは?」
「傾国の美貌と謳われる第七皇子?それとも素朴な庭師?」
「どちらも私ですよ」
「それはそうなんだけど、さ。そうじゃなくて、いったい、どちらが変装だったのかしら?」
「どちらも変装であり、私の自身の姿でもありますよ。変装をすべて剥がしたら、骨しか残らないかもしれません」
「そういうのなら、ほんとうにすべてひん剥いてみるしかないわね、クラインフェルト公爵家の秘術を使えば……」
「そう。そのクラインフェルト公爵家とは、いったいこの国でどのような役割を担っているのでしょう?」
「あー。それはわたくしの口からは説明できないかなぁ。お父様が判断されることだわ」
「なるほど。では、サクファナは、いったいどんな訓練を?あの狩猟会で見せた貴女の動き。正直、私は真っ向から戦った場合は、勝てないと感じました」
「ふふ、どうかしら。わたくしはただ、未来の王妃として、あらゆる事態に対応できるよう"完璧"に育てられただけですわ」
「……この国では、王妃が大きなイノシシを一撃で沈めることも求められるとは驚きです」
「すべては完璧な淑女の嗜みよ。驚くような特別なことなんて、何もありませんわ。刺繍も、お茶の淹れ方も、護身術も。基盤は繰り返しの訓練だもの」
「私もそれなりに訓練に明け暮れたと思っていましたが、この国の淑女の基準があなたのようであるなら、私もまだまだですね」
「貴方こそどうなの? 帝国の第七皇子というお方が、どうして自ら密偵などなさってるの?」
「んー。私も、私の口から説明できることではないのですが、第七皇子が密偵をしていたのではなく、密偵が第七皇子になった、が正しいですね」
「え?……つまり、世間で知られてる傾国の皇子って、誰か、ではなく、作られた役ってこと?」
「さあ。世間でどのように私の事がふれ回られているのか、私自身は知りませんから、とお答えします」
「なるほどね。……わたくしたちは似た者同士ということなのかもしれないわね」
「あ!そうだ。一番聞きたいことがあったわ!」
「なんでしょう?」
「あのお菓子よ!貴方の部屋で食べさせてもらったのもそうだし、手土産に持たせてくれたものもそう。あれってどこで売ってるの?」
「売ってませんね」
「宰相も、帝国でもごく一部にしか出回っていないとか言ってたけど」
「あれは嘘ですね。帝国でさえ、口にした者は数人に限られていて、出回るほどでは」
「え、どういうこと?」
「私は帝国で悪友たちと秘密結社ごっこをしてまして」
「なに、その、ふざけた遊び言葉。ごっこ?」
「そのメンバーの一人に、まるで別の世界の記憶でも持っているかのような男がいまして。彼が気まぐれに作るんです」
「意味わかんない」
「でしょうね。でも、そうとしか言いようがないので」
「ま、いいわ。でも、次の問題がある。それをどうして、あなたがこの国に持ち込めてるのよ?腐らないってわけじゃないでしょ?」
「これまた、別のメンバーにまるで魔法のような道具をつくる男がいまして、腐らずに持ち運ぶことが出来るのです」
「なんなの、その秘密結社って」
「悪友たちと遊びで作った組織ですよ」
「……それじゃ、また食べたいって言ったら、その人に作ってもらえるの?」
「ええ、もちろん。あとでメニュー表を見せますよ。お薦めは一番人気の"ポン・デ・リング"ですが、個人的には"オールドファッション"のサクサク感が好きですね」
「……」
「季節限定も捨てがたい。"しっとりスイートポテトドーナッツ"が――」
「ねえ!……ほんとに、それ、他の誰かが作ったのを、魔法みたいな道具で持ち込んだの?」
「ええ」
「サクファナ。もう貴女は、"完璧令嬢"でも"悪役令嬢"でもありません。これからは、どんなご令嬢になりたいですか?」
「そうね…。もう、完璧でなくてもいい。誰かを打ち負かす悪役でなくてもいい。…ただ、普通の女の子のように、好きな人と一緒にあの甘いお菓子を頬張って、綺麗なお花を愛でて…そんな、ささやかな時間を過ごしてみたい。…なんて、柄にもないかしら?」
「とってもお似合いかと。どんなあなたにもなれますよ。さあ、このメニューから好きなのを選んでください」
「すごい!なにこれ。……え、この黒いのなに?」
「チョコレートです。甘くておいしいのです」
「この白いのは?」
「クリームです。甘くておいしいのです」
「甘いのばっかりじゃない!」
「ええ。だから幸せでしょう?」
「あはははっ!そっか、これが幸せっていうのね!」
ふたりは仲睦まじくメニューを眺めるのでした。