雨夜に潜む者
001
蒸し暑い夏の夕暮れ。
夕立の気配を孕んだ空気は、肌にまとわりつくように重くて息苦しかった。
まさか、そんな夜に──
命を落としかけるなんて、思ってもみなかった。
橋の下の林から、カサカサと小さな音がした。
最初は、ただの小動物でも通ったのかと思った。
けれど、次の瞬間。
「きゃっ──!」
女の叫び声が耳を突き刺し、そして一秒と経たないうちに、ぴたりと止んだ。
嫌な予感がした。
林の方に視線を向けたそのとき、目に飛び込んできた光景に、思わず声が漏れた。
──白いワンピースの少女。
その喉元から、赤い液体が溢れ出し、服を濡らしていた。
彼女の目の前にいたのは、黒いパーカーを着た男。
フードを被り、マスクをし、黒い手袋をしていた。
唯一見えたのは、氷のように冷たい目だけだった。
私の声で、彼は私に気づいた。
ゆっくりとこちらを向き、彼女の首を締める手を離した。
少女の体は、糸が切れた人形のように崩れ落ち、地面に倒れた。足が小刻みに痙攣していた。
私はその場に立ち尽くしていた。
動けない。
頭が真っ白になり、膝が震える。
助けを呼びたいのに、喉が乾いて声が出ない。
そのとき──
男が動いた。
私の方へ走り出したのだ。
──来る、こっちに来る!!
全身に走った恐怖で、ようやく体が動いた。
無我夢中で駆け出した。
雷鳴が轟く空。
間もなく大粒の雨が降り出すだろう。
男の足音が、すぐ背後から追いかけてくる。
重く、速く──
「た、助けて!」
叫んだ。
けれど、雷の音にかき消され、私の声は夜に溶けた。
数秒後、豪雨が降り注ぎ、田舎道には灯りも少なく、視界がほとんど奪われた。
それでも、走った。
生きるために。
前に進むしかなかった。
でも──男との距離がどんどん縮まっていく。
前方に、大きな道が見えた。
車が走っている!
あそこまで行けば、助かるかもしれない!
「っ……!」
希望を見つけた途端、足元の水たまりに気づかず転倒した。
地面の石で膝を擦りむき、鋭い痛みが走る。
立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。
──動け、お願い、動いて……!
でも、間に合わなかった。
男が、追いついた。
無表情のまま、濡れた地面を歩きながら近づいてくる。
手には、まだあの血のついたナイフを持っていた。
「だれかっ、助けてぇ!」
叫びながら、後ずさる。
腕と脚を使って、地面を這うようにして逃げようとした。
男は、すぐそこにいた。
「お願い、殺さないで、お願い……っ」
声は泣き崩れ、涙と雨が顔を濡らす。
──ああ、死ぬんだ。
そう思った。
彼は無言でしゃがみ込み、私の首を掴んだ。
力が強すぎて、指一本動かせなかった。
それでも、私は口を動かし続けた。
息が、途切れる。
意識が、薄れていく。
その目に、笑みのような何かが浮かんでいたのを、私は見た。
お願い……生きたい……。
心の中で必死に願ったその瞬間、意識が途切れた。
気がついたとき、私は病院のベッドにいた。
点滴の管が腕に繋がれていて、額には厚い包帯。
「愛ちゃん……!」
母の声がした。すぐそばで、私を覗き込んでいた。
目には涙が浮かんでいた。
眩しい日差しが差し込み、まるで夢から現実に引き戻されたようだった。
「……ママ、私……どうしたの……?」
「ほんとに……生きててよかった……」
母の涙が止まらなかった。
脳裏には、あの雨夜の光景が蘇った。
あの男。
喉にあてられたナイフの冷たさ。
──そして、遠くから聞こえた車のブレーキ音。
誰かが車の窓を開けて、大声をあげてくれた。
そのあと、男に殴られて──それ以降の記憶はなかった。
「私を助けてくれたのは……誰?」
頭に触れると、包帯の感触があった。
「江阪さんって人よ。今、病室の外で警察と話してるの。あとでお礼言わないとね」
私は頷いた。
けれど、眠ろうとしても眠れなかった。
頭の中を、あの雨の夜の記憶がぐるぐると回り続けていた。
あの、血まみれの少女は──
もう、助からなかったのだろうか。
002
その時だった。
コンコンと病室のドアがノックされ、二人の警察官が入ってきた。
その背後には、白いシャツを着た男性が付き添っていた。彼はうつむき、眉間にしわを寄せていた。
「君が仁野愛子さんだね?」
「……はい」
「昨晩、町で凶悪な殺人事件が発生しました。君は唯一の目撃者として、いくつか話を聞かせてほしい。知っていることを、すべて正直に話してもらえるかな」
一人は私の前に腰を下ろし、もう一人は少し後ろに座ってノートを広げた。
「それじゃ、見たことを順番に話してもらえる?」
──正直、思い出すのも嫌だった。
でも……犯人を捕まえるためだ。
私は震える声で、覚えている限りのことを語った。
「悲鳴をあげたせいで、犯人に気づかれて襲われかけた……そう言いましたね。では、犯人の顔は見えましたか?」
私は首を振った。
「何か目立った特徴や、印象的な持ち物、服装などは?」
「……雨がひどくて、街灯も少なかったし……真っ黒な服を着ていて、怖すぎて、あまり細かく見ていません……」
語っている途中で、傷の痛みがずきりと襲ってきた。
あの夜の記憶さえも、霞がかかったように曖昧になっていく。
「……ママ、頭が痛い……」
「警察さん、先生が言ってたんです。うちの愛ちゃん、頭を打ってるから、あまり無理させないでって……」
母がすぐさま口を挟んできた。心配そうに眉をひそめて、警察に訴える。
「わかりました。今日はここまでにしておきましょう。何か思い出したら、すぐに連絡してください」
二人の警察は、それだけ言って病室を出ていった。
すると、白いシャツの男性が一歩前に出てきた。
「江阪くん、座って座って! ちょうどよかった、今リンゴむいたから!」
母は見るからに嬉しそうだった。
「愛子が退院したら、ちゃんとお礼させてもらうわ。命の恩人だもの」
「そんな、気にしないでください。僕は、たまたま通りかかっただけですから……」
──ああ、この人が……私を助けてくれたんだ。
「じゃあ、ちょっと愛子の様子見てくるわ。先生呼んでくるから」
母が病室を出ていき、残ったのは私と江阪さん、二人だけ。
彼はずっと目を伏せたままで、何も言わなかった。
「……あの、ありがとうございました」
「気にしないで。君が無事で、本当によかった」
微笑んだその顔は、とても優しかった。
──あれ?
「……江阪さんって、この町の人じゃないですよね?」
彼は少し驚いた顔をした。
「……どうしてそう思うの?」
「勘です。この町、小さくて、人が少ないから。顔立ちのいい人なら、ちょっとした噂くらい聞くはずだし」
彼はふっと笑った。
白いシャツがよく似合っていて、穏やかな雰囲気があった。
「僕は……この町の小学校に赴任してきたばかりの美術教師です。改めて、よろしくね」
簡単に名前を交わし、いくつか言葉を交わした後、彼は病室を出ていった。
──あの夜、どうやって私を助けてくれたのか。
私はそれを聞かなかったし、彼も語らなかった。
おそらく、お互いにとって、あの夜は思い出したくない出来事なのだろう。
少し眠ろうかと思ったところで、母がご機嫌な顔で果物かごを持って戻ってきた。
「愛ちゃん、さっきね、誰かが病室の前にこんな大きなフルーツバスケット置いていったの。名前も名乗らず、すっと帰っちゃったのよ」
「……名前は書いてなかったの? カードとか……」
「ちょっと探してみるね、あっ、あったあった」
母が果物の間から小さなカードを取り出し、私に手渡してくる。
私はそれを受け取って、ふと息を呑んだ。
──そこに書かれていたのは、たった一行。
『また会いに行くよ。今度は──逃がさない』
背筋が、凍った。
003
──あれは、犯人だ。
間違いない。
あのカードは、私を狙っている人間が残したものだ。
私は体の芯から震えが止まらなかった。
あの雨の夜を思い出す。
もし江阪さんが通りかからなければ、きっと私が、あの被害者の「次」になっていたはずだ。
「……ママ……」
異変に気づいた母が、そっと私の手からカードを奪うように取り上げた。
彼女の目が一瞬で見開かれ、鋭い悲鳴が病室に響いた。
「ちょ、ちょっと待ってて! すぐ警察呼ぶから!」
さっき帰っていったばかりの警察を、母が慌てて病院に呼び戻した。
あっという間に、病室は再び人であふれかえった。
証拠を集める人、事情聴取をする人、防犯カメラの映像を確認する人……
まるで、重苦しい映画のワンシーンだった。
捜査の結果、あのフルーツバスケットは、病院の清掃員によって運ばれたものだと判明した。
彼は「男の人に百円渡されて、病室の前に置いてくれって頼まれた」と証言した。
その男は、キャップとマスクで顔を隠していたという。
果物かごにも、カードにも、指紋は残されていなかった。
防犯カメラにも、男の姿は映っていなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「心配いりません。これからしばらくは、警察の方でもあなたの身辺警護を強化します。絶対に、危険な目には遭わせません」
──そう言われても、私は笑うしかなかった。
今は夏休み。あと二ヶ月もすれば、私は大学に戻らなければならない。
殺人犯が私を追い続けるなら、警察が一緒に授業を受けてくれるわけじゃない。
警察のすすめで、母はすぐに退院手続きを進めた。
「お父さんが早くに亡くなって、あんたまでいなくなったら……母さん、生きていけないよ……」
母のその言葉に、私はそれ以上何も言えなかった。
おとなしく彼女と一緒に実家へ戻ることにした。
──でも、私には言えないことがあった。
誰にも、話していないことが。
……あの子が、見える。
喉を裂かれ、血まみれになって死んだ、あの女の子が──
彼女は、私の隣に立っていた。
一緒に家へ帰り、食卓の向こう側で私の食事をじっと見ていた。
窓の外に差す光に、うっすらと微笑んで。
まるでまだ、生きているかのように。
彼女は、私の目の中で──生きている。
けれどこのことは、誰にも話せない。
きっと、頭がおかしくなったと思われるだろう。
……精神的な問題かもしれない。
でも、今の私は、そんなことに構っていられない。
私は、生きなければならない。
──あの殺人鬼は、まだ捕まっていない。
そして、彼はまた私を狙っている。
その確信が、日々強くなっていく。
だから、気を抜くわけにはいかない。
──命を守るために、私は常に目を光らせていなければならない。
でも、まさか……あんなに早く再び来るなんて。
それは、ある夏の午後だった。
私は昼寝をしていた。母は買い物へ出かけていた。
家の前には、警察の私服二人が交代で見張っていたはず。
真夏の日差しに照らされ、彼らもさすがに眠気に襲われていたのだろう。
だが、彼らを目覚めさせたのは、私の悲鳴ではなかった。
──隣の棟から、突然の爆発音が響いたのだ。
その轟音に目を覚ました私は、目の前に立つあの女の子が、静かにベランダを指差すのを見た。
急いで窓のそばへ駆け寄ると、隣の棟の三階から、黒煙が立ち上っていた。
階下にはすでに多くの人が集まりはじめていた。
二人の警察官はすぐさま現場に向かい、住人の避難誘導を始めた。
一人は携帯で消防へ通報し、もう一人は現場の安全確認へ。
そのすぐ後には、消防車のサイレンが近づいてきた。
──対応、早っ……
思わずそう感じた矢先。
「コン、コン、コン」
病院ではなく、自宅の玄関から──沈んだ音が鳴った。
「……誰?」
玄関の方へ歩きながら、私は呼びかけた。
返事は、ない。
母なら、きっと一言くらい言うはずだ。
でも、何も聞こえない。
「コン、コン、コン」
さっきよりも、速く、鋭く。
「だ、誰なの……?」
胸が、ざわざわと波打ち始める。
隣を見ると、あの女の子が、震えながら私を見つめていた。
彼女の目に、はっきりと「恐怖」が映っていた。
「コンコンコン! コンコンコン!」
何度も何度も、容赦なく響く──その音が、まるで刃物のように神経を切り裂く。
私は、台所に走った。
手に取ったのは──包丁。
ギュッと柄を握りしめる。
──開けるべきか、否か。
でも、私は確信していた。
あのドアの向こうに立っているのは、あの男だ。
──奴が来た。
004
ドアの向こうのノック音は、しばらく続いたあと──
唐突に、止んだ。
けれど私は、息を詰めたまま動けなかった。
彼は、まだそこにいる。
足音がしない。去っていないのだ。
「ドン!」
突然の衝撃音。
玄関のドアが揺れた。
蹴られている。
外では爆発音と喧騒が渦巻いているというのに──
その暴力的な音は、まるで空気の一部のように、自然と混ざりあっていた。
一度、また一度──
ドン、ドン……
壁の隙間から、白い壁塵がぱらぱらと落ちてきた。
私は菜切包丁を持つ手が震えているのを、止められなかった。
隣にいる少女もまた、身を縮めて震えている。
彼女が、おびえた瞳で指をさした。
──寝室。
あそこに、スマートフォンがある。
警察を呼べる。
私は駆け出し、寝室へ飛び込んだ。
ドアの外では、依然としてドン、ドンと扉を蹴る音が響いている。
電話はすぐに繋がった。
私は一気に事情を伝えた。
「すぐに向かいます。大丈夫です、落ち着いてください」
警察の声が耳に届き、ほんの少しだけ、安堵が胸を撫でた。
──そのとき、母のことを思い出した。
もうすぐ帰ってくる時間だ。
急いで母に電話をかける。
でも……出ない。
呼び出し音だけが、むなしく響く。
その間に、ドアを蹴る音がぴたりと止まった。
私の心臓は、喉元まで跳ね上がる。
──音が消えた。
でも、それは「去った」ことを意味しない。
足音が、聞こえる。
遠ざかるようで、また近づいてくる。
近づいて──
「カチャ」
ドアが開いた。
「ただいまー……って、なにしてるの、愛?」
買い物袋を下げた母が、玄関に立っていた。
私が包丁を構えたまま玄関の前に立っていたせいだろう、彼女は固まった。
私は包丁を放り出し、駆け寄って彼女を抱きしめた。
涙が、堰を切ったように溢れてきた。
──その直後、警察が到着した。
彼らに事情を説明する。
彼らの話によると、隣の棟の空き部屋でガスボンベの老朽化による爆発が起きたという。
念のために、鑑識が人為的な原因の有無を調べているとのことだった。
私はベランダへ向かった。
まだ熱気の残る空気が、皮膚にまとわりつくように感じられて、息がしづらい。
窓を閉めようとしたそのとき──
視線の先に、江阪さんの姿を見つけた。
彼は木陰に立ち、爆発のあった方向をじっと見つめていた。
まるで、誰かの視線に気づいたかのように、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。
そして、静かに手を振った。
木陰の中で、彼の顔は異様なほど白かった。
その後、江阪さんは私の家のリビングにいた。
母に丁寧に挨拶をして、母はとても喜び、食事に誘った。
断りづらかったのだろう、彼はそのまま席についた。
警察はすでに帰っており、母はキッチンに引っ込んだ。
リビングには、私と江阪さん、ふたりきり。
「……偶然、ですね」
言った瞬間、自分で後悔した。
典型的な、間を埋めるためだけの言葉だった。
「ええ、たまたま引っ越してきたばかりで。まさか、君がここに住んでるとは思わなかった。前の棟に住んでます」
彼は前方を指差した。
私はうなずいた。
再び、沈黙。
──あの雨の夜のことが、ふと頭に浮かんだ。
どうして、彼はあのとき私を助けることができたのか。
「……あの夜、どうやって助けてくれたの?」
彼は手にしたリンゴを削っていた。
一瞬、背中がぴくりと固まったように見えた。
そして、何も言わずにリンゴを差し出してきた。
私は受け取った。
「雨の夜、学校から帰る途中だったんだ。すごい雨でね、スピードを落としながら走ってたら……なんとなく叫び声が聞こえたような気がして」
彼は淡々と話す。
「それで、車の窓を開けて、声をかけた。犯人はその声で驚いて、逃げて……君は気を失ってたから、すぐに病院に運んだ」
「──それだけ?」
私は思わず問い返した。
だって、あの犯人は、目撃者さえ殺そうとするタイプだった。
実際、あの少女を殺したあと、私を狙っていた。
なのに、なぜ彼の一声だけで、あっさりと逃げたのか?
「……うん。間一髪だったんだと思う」
そのとき、母が料理を運んできた。
江阪さんは、自然な仕草で立ち上がり、テーブルの準備を手伝った。
まるで、最初からここにいることが当たり前だったかのように。
食事のあと、彼は丁寧に礼を言い、帰ろうとした。
母は玄関まで見送った。
そのとき、彼がふとこちらを振り返り、言った。
「今度、写生に行かない? 君も」
「え、わたし……?」
思わず自分を指差してしまった。
あの少女も、私の隣で首を傾げている。
「うん。最近、君……あまり元気がなさそうだったから。自然の中にいると、気持ちも落ち着くよ」
「いいじゃない、愛ちゃん。母さんも、外に出たほうがいいと思ってたの。ちゃんと太陽、浴びておいで」
──なぜだろう。
あの夜以来、私は家を出るのが怖くなっていた。
いつ、どこで死ぬかわからない恐怖が、全身を支配していた。
でも、不思議と──彼の誘いを断る気にはなれなかった。
何か、大きな流れに押し出されるように、私はうなずいた。
着替えて、彼と外に出る。
血まみれの少女も、一緒だった。
あのふたりの私服警官も、背後に控えている。
──私の目に映る世界では、私たちは「五人」で出かけたのだった。
005
江阪さんは、橋や水辺といった絵にしやすい場所ではなく、わざわざ山の上に私を連れて行った。
気がつけば、日はすでに西へと傾き、空には赤く染まった雲が浮かんでいた。
その景色は確かに美しくて、世界が一瞬、静かに凍りついたようだった。
彼はキャンバスを立てて、黙々と風景を描き始めた。
私はその横に腰を下ろし、彼の背中越しに、茜色の空を見つめる。
──静かな時間だった。
風の音、草の匂い、空気の冷たさ。
それら全てが、まるで現実感を剥ぎ取っていくように感じられた。
少し離れたところでは、ふたりの私服警官がまた例の凶悪事件について話している。
犯人に関する情報は、いまだ何の手がかりもないらしい。
「犯人が、捕まるといいと思う?」
私はふと、江阪さんに問いかけた。
彼は筆を止め、私のほうへと顔を向け、ゆっくりとうなずいた。
「もちろん。君は?」
──その問いかけに、私は少し笑ってしまった。
そんなの、決まってるじゃない。
犯人が捕まらなければ、私はいつまた命を狙われるか分からない。
選択肢なんて、最初からなかった。
……けれど、今になって思う。
そのとき私たちは、穏やかな顔で、お互いに嘘をついていたのだ。
「描き終わったよ」
しばらくして、江阪さんが筆を置いた。
私は立ち上がり、彼の横に並んでキャンバスを覗き込んだ。
そこには、夕暮れの山の景色が描かれていた。
燃えるような空と、重なる山の稜線と──
そして、私。
「ごめん。断りなくモデルにしちゃって」
「……ううん。うれしい。すごく」
その絵の中の私は、山を見つめて横を向いている。
足元には、咲き乱れる野の花。
まるで、天国の入り口のような風景だった。
けれど私は知っている。
私のそばには、血まみれの少女がいて──
彼女の血が、すでに草原を染め上げているということを。
「気に入ってくれたなら、あげるよ」
江阪さんは紙をキャンバスから外し、丁寧に丸めて、一本のリボンで結んで私に渡した。
「……ありがとう」
受け取った紙は、ほんのりと絵具の匂いがした。
その瞬間、私ははっきりと感じた。
私と江阪さんの間に、何か秘密の感情が芽生えつつある。
それはまるで、深い闇に手を伸ばすような──甘くて危うい感覚。
彼は画材を片付け始めた。
白いシャツには一切の汚れがなく、まるで絵を描いていた気配さえ感じさせなかった。
上のボタンを二つ開けたその襟元から、彼が前かがみになったとき、何かがぶらりと落ちた。
──白い、翡翠のような玉のペンダント。
私は、それを見た瞬間、どこかで見た記憶が蘇った。
江阪さんも、私がそれを見ていたことに気づいたようだ。
「見てみる?」
「……あ、ううん。大丈夫」
私は慌てて視線を逸らした。
まるで、覗いてはいけないものを見てしまったような気がして。
帰り道、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。
あの夜、死の気配を共に味わったせいか──
私たちは少しだけ、互いに近づいた。
けれど同時に、それは取り返しのつかない距離も生んでいた気がする。
「また気分転換に、外に出るといいよ。自然の中は、心にいいから」
彼はそう言った。
私はうなずいた。
そして、マンションの敷地に入ると、それぞれ別の道へと分かれた。
午後に火災のあった棟は、すでに火も消え、煙の残り香だけが空中に漂っていた。
警察によれば、あの爆発は「人為的なもの」だったという。
火災発生前にすでに通報が入っていたことから、あれは煙幕──
つまり、犯人の狙いは、私だった可能性が高いと。
警備を強化するから、心配しないでください、と言われたけれど──
私は、それほど心配していなかった。
部屋に戻ると、あの少女がまたベッドの端に座っていた。
血に濡れた首筋を、何度も何度も手で拭っている。
でも、いくら拭っても、血は止まらない。
彼女はなぜ、まだここにいるのだろう。
たった二日間なのに、もう彼女の存在に慣れてしまった自分が怖い。
恐ろしい姿なのに、怖くない。
そしてまた、江阪さんのことを思い出す。
あの夜、偶然のように現れた彼。
今日の午後も、偶然、私の前に現れた。
……そんなに偶然が重なるものだろうか?
まるで、最初から私の周囲に入り込むために、彼は引っ越してきたようにさえ思えてしまう。
でも──
もし彼が犯人だとしたら、なぜ私を助けたの?
──なぜ、私を生かしたの……?
006
私は、犯人の目を覚えている。
あの夜、私を捕まえたとき──まるで獲物を逃さぬ野獣のような、鋭く、執拗で、血に飢えた目だった。
喉元に噛みつき、決して離さないとでも言うように。
けれど、江阪さんの目は──違った。
あの人の瞳には、殺意など影も形もなかった。
あるのは、理由の分からない悲しみと、どこか掴めない優しさだけ。
そのことが、逆に私を混乱させた。
事件のあと、医者は私の不眠を心配して、安眠薬と悪夢を抑える「スイートドリーム・カプセル」という錠剤を処方してくれた。
考えても分からないことが多すぎて──私は薬に頼るしかなかった。
そしてまた、あの夢を見た。
血まみれの少女が、私の手を引いて橋へ向かう。
あの子が殺された、あの場所へ。
橋の上で、私たちは犯人を待った。
耳を劈く雷鳴が空を引き裂き、稲光が川面を照らした、その瞬間──
男が現れた。
そして、少女の喉を、ためらいもなく掻き切った。
私が悲鳴を上げる前に、彼の目が、私を捉えた。
男は私に向かって走り出す。
私は反射的に逃げ出した。
けれど、身体は重く、足は鉛のようで、血まみれの少女が、私のすぐ後ろで「逃げて」と言いたげな目をして追いかけてきた。
でも、分かっていた。
──逃げ切れない。
次の瞬間、私は転び、地面に叩きつけられた。
男がゆっくりと近づいてくる。
片手で私の首を掴み、もう片方には、冷たく光る刃物。
その目は興奮に濡れていて、まるで自分自身の“狩り”に酔いしれているようだった。
怖くて、怖くてたまらなかった。
だけど──
私は見たのだ。
男の首に、白い翡翠のような玉のペンダントが揺れているのを。
……それは、昼間、江阪さんの胸元で見たものとまったく同じだった。
そして、次の瞬間。
男の顔が、江阪さんの顔に、すり替わった。
「……ッ!」
悲鳴と共に、私は目を覚ました。
汗びっしょりで、ベッドに座り込む。
額を拭えば、手のひらも湿っていた。
背中のシャツまで、肌に張りついている。
胸は激しく波打ち、呼吸が乱れ、まるで走った直後のように、息がうまく整わない。
──そうだ。
あのペンダント。
あれを最初に見たのは、あの雨の夜だった。
江阪さんも、犯人も──
あの夜、同じように現れた。
私の記憶が、狂っているだけ……?
私は、部屋の隅に目を向けた。
そこには、また彼女──血まみれの少女が、静かに蹲っている。
「江阪さん……あなたを殺したのは、彼?」
私は聞いた。
少女は、まばたきを一度しただけだった。
うなずきもせず、首を振ることもなく。
……私は壊れかけている。
──幻覚に向かって、犯人は誰かを尋ねるなんて。
私は分かっている。彼女は幽霊なんかじゃない。
私の心の中から生まれた、感情の映し鏡だ。
彼女の恐怖も痛みも、私のものとあまりにも近すぎる。
朝を待てなかった。
私はベッドを抜け出し、そっと部屋を出た。
夜の見回りをしていた刑事たちは、はっきり言っていた。
「夜間の外出は控えてください。警備に限界がありますから」と。
でも、そんなことを気にしていられなかった。
──もう、午前2時。
それでも、私は外に出ていた。
身体は勝手に動いていた。
行き先はひとつだけ。
──江阪さんの家。
……私はどうしても、知りたかった。
彼の胸にある“白い玉”の意味を。
彼の、秘密を。
……もしかしたら──
彼こそが、犯人なのかもしれない。
007
二時。
江阪さんの部屋の窓には、まだ灯りがともっていた。
私はマンションの下で立ち尽くし、上へ行くべきかどうかを迷っていた。
そのとき、窓際に人影が映る。
江阪さんがカーテンをそっと開け、まるで私の存在に気づいたかのように、こちらに手を振った。
私の足は、自分の意思とは関係なく動き出した。
ゆっくりと、一歩ずつ、彼の部屋へと向かっていった。
ドアが開くと、彼のキッチンがすぐ目に入った。
オープンキッチンのカウンターには、一本の包丁と、半分に切られたトマト。
刃には、赤い液体がうっすらと──
……血? 一瞬、そう錯覚してしまった。
「パスタ、食べる?」
私は無言でうなずいた。
江阪さんは慣れた手つきでトマトを刻み、二人分のトマトパスタを作り始めた。
その姿は、あまりにも日常的で、穏やかで、だからこそ、怖かった。
彼が私の前に皿を置いたとき、湯気がふわりと立ち上り、私たちの間に白い幕を作った。
部屋には、二人が麺をすする音だけが静かに響く。
「……聞きたいことがあるなら、聞いてくれて構わないよ。ここには、俺たちしかいない。聞いたら、早く帰って休むといい。」
彼の言葉は、あまりにも率直で。
だから、私も回りくどい言い方はやめた。
「あなたの首にかけている白いペンダント……どこで手に入れたの?」
江阪さんは、フォークを動かしながら答えた。
「小さい頃に母さんにもらったんだ。ずっと肌身離さずつけてる。」
目を合わせようとはしなかった。
けれど──私は、心の中で叫んでいた。
どうか、誰かから譲り受けたとか、偶然拾ったとか、そう言って。
あなたのものじゃなければ、それだけでよかったのに。
「思い出したの。あの夜──私、あのペンダントを見たの。犯人の首にぶら下がっていた。」
自分の記憶がどこまで正しいのか、確信はなかった。
でも、その言葉を口にした瞬間。
江阪さんの体が、わずかに──ほんの一瞬、硬直した。
すぐに元の柔らかい表情に戻ったけれど、私は見逃さなかった。
その後、彼は何も言わず、黙々とパスタを食べ終えた。
「もし俺を犯人だと思うなら……わざわざ来なくても、警察に通報すればよかったのに。」
その声は、冬の湖のように冷たく、静かだった。
「あなたは……本当に、犯人なの?」
私は誓った。
彼が「違う」と言ってくれさえすれば、私はもう二度と疑わないと。
けれど彼は、こう返した。
「君は、俺が犯人だと思うの?」
……その瞳には、きらきらとした何かが浮かんでいた。
それが涙なのか、光の加減なのか、私には判断がつかなかった。
でも、私はひどく後悔した。
そんな目を向けさせたことを。
疑ってしまったことを。
だって彼は、あの夜、私を助けてくれたじゃないか──
優しくて、誠実で、静かで、誰よりも信頼できる人だったはずなのに。
「ごめんなさい……私、記憶が曖昧で……
誰にも話してないけど、最近、頭がおかしくなってるみたいなの。
あの殺された女の子が……私の目の前に見えるの。」
私は、リビングの隅を指さした。
彼女は、そこに座って、静かにテーブルの上の写真を見ていた。
江阪さんは驚いたように、私の指先を追った。
けれど、もちろん──そこには誰もいない。
「ほら、ここ。」
私は彼女のそばに歩み寄る。
すると彼女は、指でテーブルの上の写真立てを示した。
私はそれを手に取り、写真を見た。
──言葉が、出なかった。
写真には、江阪さんと、もうひとりの人物が写っていた。
そしてその目を、私は知っている。
008
あの雨の夜──
私の首を強く締め上げた男の、あの目。
ためらいもなく少女の喉を切り裂いた、あの目。
私はその目を、写真の中に見た。
それがすべてだった。
女の子は怯えて、私の背後に隠れた。
「じゃあ……あなたは最初から、犯人が誰か知っていたの?」
写真立てを握りしめながら、私は江阪さんに問い詰めた。
彼は答えることなく、疲れきったようにソファに腰を落とした。
その顔は、まるで何かを諦めたかのようで。
「君が殺されるのだけは、俺が止めた。……でも、彼女は止められなかった。すべてが、手遅れだったんだ。」
「だったら、なぜ警察に言わなかったの!? あの男は今もどこかにいて、また私を狙っているかもしれないのに!」
「違う、そんなことはさせない。俺は絶対に……君を守る。」
「どうやって守るの? 犯人は今どこにいるの?」
私の怒りが頂点に達したとき、彼は小さく首を振った。
「あの夜以来……一度も姿を見てない。でも、奴はまた現れる。そう思ったから、君の家の近くに引っ越した。」
「愛ちゃん、俺はただ、君を……守りたくて──」
彼の言葉は、そこで途切れた。
私はもう、これ以上聞きたくなかった。
彼が私を“偶然”助けたわけではないと分かってしまったから。
彼の行動のすべては、罪悪感からくるものだった。
私たちの間に芽生えかけていた曖昧な感情は、私の片想いではなかったかもしれない。
でも、もうそれに意味はなかった。
「帰るね。」
写真立てを静かにテーブルに戻して、私はドアのほうへ歩き出した。
「気をつけて。」
引き止める言葉は、ひとつもなかった。
ただその背中から、苦しそうな声がかすかに漏れた。
「……通報する。」
私の決意を口にすると、江阪さんはかすかに笑った。
けれどそれは、引きつった、悲しい笑みだった。
彼の目から、ようやく一粒の涙が零れ落ちた。
「君がそう決めたなら、それでいい。」
私は振り返らずに、自宅へと戻った。
部屋に入ってベッドに倒れ込むと、声を殺して泣いた。
何度もまぶたを閉じても、脳裏には江阪さんの姿が浮かぶ。
そして、あの夜に私を締め上げた、血のように赤い、獣のような目。
彼が犯人を知っていながら、ずっと口をつぐんでいたことが許せなかった。
私の命が狙われていたのに。
彼はそれでも、真実を語らなかった。
私は彼のように無私ではいられない。
生きたい。
この命を無駄にはしたくない。
犯人を捕まえなければ、私の生活も、心も壊れてしまう。
夜が明けた。
光が部屋のカーテンを通して差し込み、床に淡い影を作る。
私はベッドから体を起こし、隣を見る。
血まみれの少女が、静かにそこに座っていた。
携帯を手に取り、私は通報ボタンを押した。
──あの日の雨音が、遠くでまた聞こえた気がした。
009
警察はすぐに到着し、江阪を連れて行った。
私の家の前を通るとき、彼はベランダのほうをちらりと見た。
私はベランダの影に隠れ、心臓がバクバクと鳴るのを必死で抑えた。
「江阪……ごめんね」
そう呟くしかなかった。
その夜、江阪は家に帰らなかった。
彼の家の明かりも、一度も灯らなかった。
帰らなくてよかったのかもしれない。
もし帰ってきたら、どう彼と向き合えばいいのかわからなかったから。
私は自分の身を守るために、部屋のあちこちにナイフを置いた。
机の下、テーブルの引き出し、ソファの隙間、トイレのタンクの上まで。
でも分かっている。
江阪も、警察も、本当に私を守ることはできない。
犯人は監視の目をかいくぐる方法をいくつも持っている。
もし殺す決意をしたら、決して諦めることはないだろう。
そんなとき、江阪は戻ってきた。
夏の午後、私は部屋の窓辺で風に揺れるカーテンをぼんやりと見ていた。
あの全身血まみれの少女は窓台に伏せて、目を細めて陽光を浴びている。
彼女の顔をじっと見つめる。
意外にも美しい。白い肌に長い黒髪。瞳はいつも潤んでいて、まるで川の流れのようだった。
血に染まった姿もどこか妖しく美しく映る。
ノックの音がして、私は少女と同時に緊張した。
母はいない。部屋には私一人だけだった。
「誰?」
声を張り上げて聞いた。
「愛ちゃん、僕だよ」
江阪の声。
警戒心が少し解け、慌てて髪を整えてドアを開ける。
鼓動は早くなるばかりだった。
「もう戻ったの?」
私は彼に水を注いだ。彼はソファに腰掛け、小さく頷いた。
「話がある」
江阪は私の手を取り、じっと顔を見つめた。
「何?」
彼は今日も白いシャツを着ていて、胸元の玉ペンダントがちらりと見える。
その瞳は熱く、私はつい圧倒されそうになる。
「僕たち、付き合おう」
突然の言葉に、頭の中は真っ白になった。
爆弾が心の中で爆発したようだった。
私は彼の手を振りほどき、一歩後ずさった。
「私のこと嫌いなの?」
彼はぐっと近づき、熱い息が頬をなぞる。
「違う、でもまだ解決できない問題がある。あの犯人のこと……」
「警察にも話した。考えたんだ。本気で君が好きで、一緒にいたい。犯人を捕まえるために協力して、そして君とちゃんと暮らすつもりだ」
もし私が彼に会う前にこれを聞いていたら、嬉しかったかもしれない。
でも今は、すべてが不安と迷いを増やすだけだった。
「ちょっと考えさせて」
私は拒否を決めた。
「何を考えるんだ?僕のこと嫌いなのか?」
返事もできないうちに、江阪は私の頭を掴み、唇を重ねた。
深く、強引で、窒息しそうなほどのキスだった。
酸素が足りなくなっていく脳で、必死に理性を保ち、彼を押しのけた。
反射的に、強い平手打ちをくらわせた。
江阪は呆然とし、怒りの色が彼の瞳に走った。
けれどすぐに普段の暗い色に戻り、謝った。
「ごめん、愛ちゃん。焦りすぎた。ちゃんと考える時間をあげるべきだった」
彼は少し距離をとり、私たちの間に空間ができた。
「私……水を汲んでくるね」
気まずくて押しつぶされそうな空気から逃げたかった。
「僕が入れてくるよ」
彼は立ち上がり、私の腕を取ってキッチンへ向かった。
鼓動はまだ早く、頬は熱い。
深呼吸を繰り返し、冷静になろうと必死だった。
背後に足音が近づいてきて、彼がリビングに戻ってきた瞬間、突然首を強く絞められた。
息ができず、手は必死にベルトを引っ張る。
「敬酒を断るなら、罰酒を飲め。そうしないなら、さっさと始末しろ」
それは、江阪の声だった。
一秒前の甘く優しい彼の姿は消え、生死をかけた戦いの幕が切って落とされたのだ。
010
僕は必死に片手でベルトを握りしめ、もう片方の手でソファの下を探った。
運良く、包丁をすぐに掴むことができた。
ためらうことなく、その刃を江阪光の腕に突き刺した。
彼は痛みに叫び声をあげ、手を離した。
その隙を逃さず、僕は必死にその場から逃げ出した。
立ち上がり、包丁を構えて彼に立ち向かう。
僕の後ろには、あの全身血まみれの少女が怯えて身を隠している。
「お前の芝居は下手くそだな、江阪光。」
床に倒れ込みながらも、彼は傷口を押さえ、狂ったように笑った。
ゆっくりと立ち上がり、シャツの裾を破って腕の傷を巻き始める。
「いつ気づいたんだ?」
「お前が入ってきた時からだ。」
そう、目の前の男は江阪理ではなく、双子の兄弟、江阪光だった。
あの夜、彼の家に入った瞬間から、もう一人いることはわかっていた。
彼が僕の訪問を予知していたわけではない。察知したのだ。
食材が二人分用意されていた時点で、もう一人の存在を確信していた。
誰なのかは、あの写真を見るまでわからなかった。
そこには、そっくりの二人の男が肩を組み、胸に同じ白い玉のペンダントを下げていた。
彼らは双子だった。
僕の記憶の中で、犯人の顔と江阪の顔が重なっていた理由がようやく理解できた。
このことは警察に伝え、調査の結果、江阪には双子の弟がいることがわかった。
しかし彼は反社会的な人格を持ち、精神病院に収容されていた。
警察が確認すると、江阪光は一ヶ月前に脱走しており、現在行方不明だという。
江阪は僕が通報することを知っていて、弟を家から遠ざけたのだ。
そして今、警察の目が兄の江阪理に向いている隙に、江阪光は動いた。
彼は僕が理だと気づかないと思っていた。
だが人の目は誤魔化せない。
彼の瞳には、狩りに興奮する野獣のような狂気と欲望が溢れていた。
入ってきた瞬間から、あの少女は震えていた。
確信した。
こいつが江阪光だ。
あの雨の夜、僕を殺そうとした凶悪な男。
「それで、よくも俺とキスできたな。兄貴がどうしてお前を好きなのか、全然わからねえよ。」
江阪光は一歩ずつ近づいてきた。
僕は後ずさりしながらも、恐怖に怯える心で事実を見つめようとしていた。
「まさかここまで芝居が上手いとはな。思い出すだけで吐き気がするぜ。」
「ははは、それはどうでもいい。兄貴は今、警察に捕まってる。誰もお前を助けてやれねぇ、仁野愛子。大人しくしてれば、苦しみも少なくて済むだろう。俺はお前を優しく殺してやるって約束するよ。」
遂にこの時が来た。
僕が待ち望んでいた時。
俺たち、どちらか一人しか生き残れない。
彼は突進してきた。
僕は必死に包丁を突き出し、彼の腕にもう一度傷をつけた。
小さな傷だったが、怒りを買うには十分すぎた。
彼は隙をついて、持っていた包丁を奪い取って投げ捨てた。
「もう包丁はない。さて、これからどうする?」
僕は壁際に追い詰められた。
彼は髪を掴み、一気に引きずってリビングへ連れていき、ダイニングチェアに縛り付けた。
落ちていた包丁を拾い上げ、興奮した息を荒げながら僕を見下ろす。
「兄貴がいなければ、こんなに長く生きてられなかったぜ。今からお前の首を切り裂いて、ゆっくりと血を抜いてやる。血が抜ける痛みはだんだん増していくが、脳はすぐに意識を失わない。お前は命が少しずつ消えていくのを感じながら、死の快感に溺れるんだ。」
江阪光は、まるで死の感覚を味わうことを待ちわびているようだった。
恐怖を与えたいのではない。むしろ楽しませたいのだ。
だが、それが彼の過ちだった。
011
彼が死の快楽について喋り続ける間に、僕はテーブルの下に置かれた包丁に手が届いた。
縛られていたテープを必死に切り裂く。
これは僕の二度目のチャンスだ。
もう絶対に逃さない。
彼は目の前にいる。
その白い玉のペンダントが服の隙間からこぼれ落ちていた。
そのペンダントの右側に、彼の心臓がある。
そこに、思い切り刃を突き立てればいいんだ。
今だ。
彼は死の悦びに浸っている。
この瞬間を逃すな。
視線は一点に集中する。
シャツの下で力強く鼓動する心臓が透けて見えた。
「刺せ、刺せ!」
「ぷすっ――」
江阪光はよろめきながら後ろに数歩下がった。
胸に突き刺さった包丁を信じられないように見つめる。
傷口から血が溢れ出し、白いシャツは鮮やかな血の色に染まった。
あの全身血まみれの少女とまったく同じ色だ。
人が死んでいくのを見届けるって、こういう感覚なのか。
僕は静かに江阪光のそばにしゃがみ込んだ。
あの少女も僕の隣にしゃがみ込み、二人でじっと彼を見つめていた。
瞳孔は徐々に開き、やがて動きを止める。
013
警察に通報する前に、私は鏡の前で自分の首に一本の傷をつけた。
動脈の近くをわずかに切り、たくさんの血は流れたが、命に別条はなかった。
警察はすぐに駆けつけた。
部屋の乱れと私の傷から、これは正当防衛の範囲内であると認められ、過失致死は成立しなかった。
捜査に協力し事件が終結すると、私はすぐに釈放された。
帰路、すべての始まりだったあの橋を通りかかると、江阪がそこに立っていた。
血まみれの少女はもうあの恐ろしい姿ではなく、白いワンピースを着て、まるで夕焼けのように美しかった。
私は江阪のそばへ歩み寄る。
彼は私を見つめ、その瞳の奥の悲しみはさらに深まっていた。
胸が締め付けられるように痛んだ。
「もう、安心だよ」
かすれた声で彼はそう告げた。
彼の顔は相変わらず美しかったが、最近はずいぶんと疲れた様子だった。
「そうだね、君は辛かったんだろう」
私は謝るべきか迷ったが、言葉にはできなかった。
「僕は幼い頃から江阪光とは違う。彼はこの世界で、僕だけを愛し、僕の言うことしか聞かない。
だが僕の見えないところでは、すべての人間を獲物と見なし、命を草のように扱っている。
子どもの頃、彼が猫や犬を殺すのを見つけて叱った。
彼は約束した、二度と動物は殺さないと。実際、守っていた。
ただ標的が動物から人間に変わっただけだ。16歳の時、彼は一人の少女を殺した。
その時初めて彼が反社会性人格障害であることを知り、精神病院に入れられた。
正直、どうやって脱走したのかは知らない。
彼から連絡があって、この田舎に来た。精神病院は辛すぎて、僕と新たな生活を始めたかったらしい。
僕は心が弱くなってしまった。けれどその甘さが一人の少女を死なせ、君も危うく死なせるところだった」
彼の言葉を静かに聞いた。
どう慰めていいのかわからなかった。
彼の苦しみはあまりに深く、後悔と喪失、罪悪感が彼を深い闇に沈めていた。
だが彼が知らないことがある。
私にも同じ感情があることを。
「知ってるよ、あの日君が現場にいたのは偶然じゃない。君は江阪光を探していた。
でも僕がそこにいたのも偶然じゃなかった」
私は微笑みながら江阪を見た。
彼の眉は深く寄せられていた。
そっと手を伸ばし、その硬くなった眉間をほぐす。
あの夜、私は橋の上で人を待っていた。
親友の夏美だ。大学で知り合い、多くの共通の趣味があり、故郷も同じだった。
夏休みの初めての再会の約束で、夕暮れに夏祭りの屋台で一緒に飲む予定だった。
でもその日、橋の上でずっと待っても彼女は現れなかった。
電話はつながらず、返信もない。
日が沈み、雷雨が降り始めそうだった。
不安でたまらず、立ち去ることができなかった。
その時、夏美の姿を見た。
喉を切られ、血が彼女のワンピースを染めていた。
彼女は私を見ていたが、言葉が出ず、口元は「逃げて」と伝えていた。
あの雨の夜、私は最愛の友を失った。
以来、彼女は血まみれのまま、私のそばにいる。
怖くはない。
ただ、彼女が可哀想で仕方ない。
夏美はおしゃれが大好きだった。こんな死に方はあんまりだ。
けれど彼女を無駄死ににはできない。
あの凶手は私が必ず捕まえる。
彼か私か。
江阪光が凶手だと知った瞬間、覚悟はできていた。
彼は精神疾患があって死刑は無理だが、死ななければならない。
だから江阪、私たちは同じ喪失、同じ罪悪感、同じ自責を抱えている。
お互いが相手の因果となっている。
けれどそれは交わることのない平行線を意味する。
江阪は静かに私の言葉を聞き、夕焼け空を仰いだ。
だが私は彼の涙が零れ落ちるのを見た。
彼は私がそっとぬぐう涙に気づかなかった。
「江阪、これからはちゃんと生きて」
「君もね、愛ちゃん。ちゃんと生きて」
私は笑顔で頷く。
夕焼けの中で彼の顔は本当に美しかった。
つい、つま先立ちになり、両手で彼の頭を包み込み、唇にキスをした。
彼の唇は柔らかく冷たく、苦しい涙の味がした。
手を離し、振り返らずに立ち去った。
江阪は引き止めなかった。
これが最後の別れだ。
さよなら、江阪君。