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Episode2-3

 季節は移り変わり、春の柔らかな風が、少しずつ初夏の温もりを帯び始めた。

 武は定期的に病院へ通い続けている。診察の結果、環の忠告が正しく、早期に治療を受けたことで命の危機を回避できた。

 医師は驚きを隠せず、『このタイミングで見つかったのは本当に幸運だった』と語る。ほんの少しでも遅れていれば、結果は違っていたかもしれない。まさに紙一重のところで救われた命だった。


 その頃、佐々木夫人は武夫婦との同居を決意し、引っ越しの準備を進めていた。長年過ごした家には数えきれない思い出が詰まっている。夫人は一つひとつ丁寧に整理しながら、静かに時を振り返っていた。

 環、円、隆二の三人は佐々木家を訪れていた。


「佐々木のおばさん、これ持って行く?」


 円は夫人の荷造りを手伝いながら、楽しげに問いかける。その様子に夫人は優しく微笑み、円の手元へ視線を落とした。

 隆二はふと仏壇へ目をやる。写真の横には、ポチの首輪が掛けられたままだった。静かに佇むそれは、長い時間を経ても変わらぬ存在として、この家の記憶を留めているようだった。手に取ることなく、じっと眺める。そして、息を小さく吐きながら、ぽつりとつぶやく。


「……寂しくなるな」


 その言葉は、静かな空気の中に溶けていく。

 環は仏壇へ視線を移し、写真の横に掛けられたポチの首輪を見つめた。円の動き、夫人の穏やかな表情、隆二の何気ない言葉――。それらが、時の流れの中でゆるやかに交わり合っている。

 環はそっと息を吐き、ゆっくりと目を伏せた。もうすぐこの場所は変わる。ただ、その事実を静かに受け止めるように、数秒の沈黙が流れた。

 円がふと環の横顔をのぞき込む。


「お兄ちゃん……?」


 環はすぐに目を開き、微かに首を振った。円の視線を受けながら、少しだけ間を置いて、「大丈夫だ」と静かに応じる。

 その時、玄関の扉が開く音がした。続く足音が廊下に響き、近づいてくる。


「おい、ずいぶん賑やかじゃないか」


 低く落ち着いた声が部屋へと届いた。武だった。


「お帰りなさい、武。検査の結果はどうだったの?」


 夫人が穏やかな微笑みを浮かべる。


「母さん、ただいま。いたって順調だってよ」


 軽く息を吐きながら、武は部屋の奥へと足を進める。全員へ視線を巡らせた後、ふと環へと目を移した。

 ほんの数歩、環に歩み寄る。立ち止まり、わずかに息を整えるようにして、一瞬視線を落とした。


「……お前の言ったこと、間違ってなかったな」


 それだけ言うと、何事もなかったかのように視線をそらし、そのまま夫人の方へ向かう。

 環はその背中をしばらく見つめ、微かに目元を緩めた。

 武が夫人のそばへ歩み寄ると、彼女は静かに顔を上げた。


「……武」


 柔らかな呼びかけには、安堵とわずかな驚きが滲んでいた。

 武は視線を外しながらも、肩の力を少し抜いた。

 夫人は微笑む。


「本当に、よかったわね」


 武は何も返さず、ただゆっくりと肩をすくめた。



 引っ越しの準備もひと段落し、環と隆二、円は佐々木家を後にする。歩きながら、円が嬉しそうに口を開いた。


「お兄ちゃん、武さん、ちゃんと感謝してたよね?」


 環は軽くうなずくものの、特に大きく反応するわけではない。

 円は少し前に出て、続ける。


「武さん、最初はすごく怖かったけど、今日のお兄ちゃんへの言葉、全然違ったよね」


 隆二が苦笑いしながら言う。


「確かにな。最初は環に敵意むき出しだったのに、今日はちゃんと認めた感じだったな」


 円は嬉しそうにうなずき、環を見上げる。


「お兄ちゃんは、やっぱりすごいね!」


 環は少し考え、静かに答える。


「別に俺がすごいわけじゃないよ」

「もう、そんなこと言わないの。お兄ちゃん、ちゃんとすごいんだから」


 円は少し頬を膨らませると、環の腕にそっと手を伸ばし、軽く揺らした。


「ほんとだよ?」


 環は軽く肩をすくめ、特に反論はしなかった。

 その様子を見ていた隆二が、表情を和らげて言った。


「佐々木のおばさん、幸せそうでよかったな」


 円はその言葉に反応し、弾むように顔を上げる。


「うん! すごく嬉しそうだったよね!」


 環は足を止めることなく、わずかに視線を落とした。


「うん」


 短く応じた後、しばらく歩き続ける。

 夜風がゆっくりと頬をなでると、環はふっと息を吐き、ぽつりとつぶやいた。


「でも、人の寿命はどうにもできないから」


 環の声は夜風へと溶けていった。


Episode3は5月中に更新します。楽しみにお待ちください。

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― 新着の感想 ―
フクフクさんは、別作品でもそうでしたが、大切な存在を看取ったり、亡くしたりされた後の、悲しみややるせなさを、よくご存知な方なのでは、と感じます。 作品の端々に感じる、その優しいものを、これからも散りば…
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