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Episode2-2

環は珍しく一人で歩いていた。目的地へ向かう途中、前方にゆったりと歩く人影が見える。

歩く速度を緩めると、その姿がはっきりと見えた。佐々木夫人だった。


「環君」


 夫人は環に気づき、微笑みながら足を止める。その表情には、どこか申し訳なさそうな色が滲んでいた。

 環は無言のまま立ち止まり、夫人の様子をじっと見つめる。


「先日は、本当にごめんなさいね」


 夫人は静かに息をつきながら、そっと頭を下げた。


「武のこと……あんなふうに怒鳴ってしまって。環君に嫌な思いをさせたでしょう?」


 環はわずかに頭を横に振る。気にしていないと言うように、静かに夫人の謝罪を受け流した。


「武はね、あの子なりに色々と抱えているの。口は悪いけれど、それでも私のことを思っての行動なのよ」


 夫人の唇がかすかにほころぶ。しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐに影が差した。


「でも、だからといって、あんな態度を取る理由にはならないわ」


 言葉の端に、かすかな疲労が滲んでいた。武を思う気持ちと、母親としての苦悩が絡み合い、夫人の胸の内には、複雑な思いが入り混じっていた。

 夫人はふと口をつぐみ、環をじっと見つめる。


「ねえ、環君」


 そう言いながら、ゆっくりと家の方へ視線を向けた。どこか迷うような仕草を見せながらも、意を決したように口を開く。


「よかったら、家に寄っていかない?」


 夫人の言葉に、環は静かにうなずいた。

 木造の門の奥には、広々とした古い家が佇んでいる。風格をまといながらも、庭の植木は細やかに手入れされ、穏やかな気配が漂っていた。

 夫人はその家へと歩を進め、環を誘うように門をくぐる。環は一瞬視線を巡らせ、それから静かにあとを追った。


 玄関で靴を脱ぎ、環は家の中へ足を踏み入れる。


「お茶を用意するわね」


 夫人はそう言いながら、キッチンへと向かう。環はそれを見送り、慣れたように廊下を進んだ。

 ふと立ち止まり、仏壇の前へ。ゆっくりと両手を合わせ、静かに目を閉じる。

 その姿に気づいた夫人が、湯気の立つ湯呑みを盆に載せながら微笑む。


「いつもありがとう。主人もポチも喜んでいるわ」


 仏壇の写真の横には、ポチのものと思われる首輪が掛けられている。しっかりとした革の首輪。ゴールデンレトリーバーの体にふさわしい、どっしりとした作りだ。

 夫人はふっと懐かしそうに笑う。


「ポチって名前、主人が子犬の頃に深く考えずにつけたのよ。昔ながらの犬の名前だし、小さくてかわいいと思ってね。でも、あの頃、主人はゴールデンレトリーバーがどれほど大きくなるかなんて、まったく知らなくて。まさか、こんなに立派な体になるなんて思ってもみなかったみたい」


 夫人はくすっと笑いながら、仏壇の写真に目を向ける。


「でも、気づいたらあっという間に大きくなって、優しくて賢い子だったわ」


 夫人は盆を持ったまま、環の前に座る。そして、そっと湯呑みを卓上に置いた。

 湯気がゆらりと立ちのぼる。先ほどまで穏やかだった夫人の顔が、次第に真剣な色を帯びていく。

 環をじっと見つめ、夫人は静かに口を開いた。


「環君。私に何か伝えることがあって、ここに来たのよね?」


 環は真っ直ぐ夫人を見て、迷いなく答えた。


「はい」


 夫人はゆっくりと目を閉じ、小さく息をついた。


「……そうなのね。ついに、私にもお迎えが来たのかしら」


 その声は静かで、どこか穏やかだった。だが、微かに揺らぐものがある。

 しかし、次の瞬間、環の落ち着いた声が響いた。


「おばさんのことではありません」


 夫人は目を開き、環の顔をじっと見つめた。


「……じゃあ、誰のことを?」


 夫人の顔がわずかにこわばる。

 そして、沈黙が落ちる。

 夫人は瞬きもせず、環を見つめたまま、浅く息を吸い込んだ。

 脳裏に、ある名前がよぎる。


「まさかっ……」


 その言葉がかすれた瞬間、玄関の方から足音が響いた。

 扉が開き、武が入ってくる。

 一瞬、室内を見渡し、母の姿を確認する。しかし、その視線が環へと向いた瞬間、表情がわずかに険しくなる。


「……なんで、お前がここにいる?」


 武の声は低く抑えられていたが、その響きには警戒があった。

 夫人は息をつき、静かに武を見つめた。


「武……また来てくれたのね」


 武はその言葉には答えず、環をじっと見つめた。


「母さん、何でこいつがここにいる?」


 環は動じず、ただ武を見つめ返す。

 夫人は目を伏せ、わずかに唇を引き結んだ。そして、仏壇の方へと視線を向ける。


「環君は、ポチに手を合わせに来てくれたのよ」


 武の表情が一瞬、読めなくなる。

 視線を仏壇へ向けた後、再び環へと向ける。


「……それで?」


 武の声は低く、刺々しさを帯びていた。


「また母さんに変なことを吹き込んでるのか?」


 その言葉には、明らかな敵意が滲んでいた。

 夫人は静かに息をついた。


「武、環君はそんなことをしに来たわけじゃないわ」


 武は鼻を鳴らし、腕を組む。


「どうだか。こいつが何を考えてるのかなんて、分かったもんじゃない」


 環は無言のまま、ただ武の視線を受け止める。


「母さん、何度言えばわかるんだ? こいつと関わるなって」


 武の声には明らかな苛立ちが滲んでいた。

 夫人は静かに湯呑みを手に取り、一口含むと、ふっと目を伏せる。


「武、環君は何も悪いことをしていないわ」


 武は軽く舌打ちし、夫人の言葉を切り捨てるように言った。


「何も悪いことしてない? だったら何しに来たんだよ?」


 環は視線を動かさず、静かに答えた。


「あなたに忠告しに来ました」

「……はあ?」


 武の眉が険しく寄る。

 夫人の手が微かに震え、湯呑みの縁をそっと撫でる。


「武なの? そうなのね、環君……」


 その声には、かすかな動揺があった。


「母さん、いい加減にしろよ」


 武の苛立った声が響く。

 環はそっと手を上げ、指を自分の胃の辺りに向けた。


「ここ」


 その短い言葉の後、環は少し間を置いて、低く言葉を続ける。


「このあたりに違和感がありませんか?」


 夫人ははっと息をのみ、武を見つめた。

 武は肩をすくめ、わずかに笑みを浮かべた。


「残念だったな。先月の健康診断、見事なまでに異常なしだったよ。これでお前の忠告もご破算だな」

「本当に? 今は何も感じないの? ほんの少しの違和感もないの?」


 問い詰めるような夫人の口調に、武は眉をひそめた。


「な、何だよ、母さん。そんな真剣に言われても……」


 武は視線をそらし、再び腕を組む。


「まあ、確かにここ数日、胃が変な感じはする。でも、大したことじゃないからな」


 夫人の指が湯呑みの縁をぎゅっと握る。


「お願い、武。病院に行って診てもらいましょう」


 武は大げさにため息をつき、顔をしかめた。


「母さん、大げさすぎるって……俺は元気だよ」


 そして、環を横目で見ながら、鼻で笑うように言い放つ。


「こいつの言うこと、いちいち真に受けるなよ」


 しかし、夫人は引かなかった。


「何もないってわかれば、私も安心するし……同居のことも真剣に考えるわ」


 武の動きが止まる。


「……は?」


 夫人はまっすぐ武を見つめたまま、静かに言葉を続ける。


「病院で診察を受けるなら、武の提案を受け入れることを考えてもいいと思ってる」


 武は唇を引き結び、視線を揺らした。


「……俺が病院に行けば、同居のことを考えるんだな?」


 武の声には、わずかな戸惑いが滲んでいた。

 夫人は静かにうなずく。


「ええ」


 武はしばし沈黙する。そして、小さく舌打ちし、環へと鋭い視線を向けた。


「お前、何を企んでるんだ?」


 環は落ち着いたまま武を見つめ、短く答えた。


「あなたが決めることです」


 張り詰めた沈黙が漂う。武は口を開きかけたが、結局声にならず、ただ眉間にしわを寄せる。

 環は夫人へ視線を向け、軽く会釈すると、静かに席を立った。


「そろそろ帰ります」


 夫人はわずかに息を吸い込んだ。唇が微かに動いたが、言葉にはならず、ただ環の背中をじっと見送った。


 外へ出ると、澄んだ空気が頬をかすめた。家の中に滞っていた重苦しさは、背後へと遠のいていく。

 環はふっと息を吐き、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 歩き出すと、凝り固まっていた肩の力が自然にほどけていく。

 だが、数歩進んだところで、環はふと足を止めた。


「お疲れ」


 道の脇、石垣にもたれかかるように隆二が立っていた。

 環はわずかに視線を動かし、隆二を見つめる。

 隆二はそれ以上何も言わず、ただ微かに口角を上げる。

 環は短く息を吐き、再び歩き出した。

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