Episode2-1
夕暮れの柔らかな光が街を染める中、環と隆二は肩を並べて歩いていた。校門を出た生徒たちのざわめきは徐々に遠ざかり、静けさの中に二人の足音だけが響く。環は隣を歩く隆二に目を向けると、会話を交わしながら、ぼんやりと色づく街並みに視線を戻した。
「なぁ環、今日の数学、あれめっちゃ難しくなかったか?」
隆二が眉をしかめながら片手で頭を掻きつつ問いかけると、環は一瞬だけ視線を向け、軽くうなずいた。
「うん、ちょっとな」
「だよな!」
隆二は笑いを含ませながら肩をすくめ、やれやれといった表情を見せる。
「公式が多すぎて、途中で頭がショートしかけたぞ」
環はその言葉には答えず、ふと歩幅を緩める。その控えめな仕草に気づいた隆二がちらりと目を向けた瞬間、背後から軽快な足音が近づき、明るい声が二人の耳に届いた。
「お兄ちゃん!」
振り返ると、バッグを揺らしながら小走りで駆け寄る円の姿が視界に飛び込み、隆二の顔に笑みがこぼれた。
「おっ、円ちゃん。今日も元気だな」
円は軽く息を切らしながら二人に追いつき、環を見上げて声を弾ませた。
「お兄ちゃん、一緒に帰っていいよね?」
環は少し歩みを緩めると、無言でうなずき、自然と円の隣に移動した。
隆二はその動きに目を留めつつも、円に向けて声を明るく響かせた。
「円ちゃん、あの和菓子、美味しかったよ!」
円は得意げに微笑むと、ちょっと胸を張った。
「でしょ? あれ、高級菓子だよ」
「マジか!」
隆二が目を丸くしながら驚いた声を漏らす。
「どうりでうまいわけだ」
円はうんうんとうなずきながら、楽しそうに話を続けた。
「田中さんが、お兄ちゃんが和菓子好きだからって、たくさん持ってきたの。でも生菓子だから早く食べないとダメだったの。みんなで食べたおかげで助かったよ」
「なるほど、それで俺にもおすそ分けが回ってきたってわけか。ありがたい話だ!」
隆二が声を弾ませると、環がわずかに目元を緩めながら一言つぶやいた。
「ああ、確かに美味しかった」
その短い感想に、円はパッと顔を輝かせ、環の方を向いてにっこり笑った。
「ほらね、お兄ちゃんはそう言うと思った!」
環は小さく微笑みながら足を進めた。その時、不意に柔らかな声が響く。
「まあまあ、環君に円ちゃん」
足を止めた三人の前には、一人の高齢の女性が微笑みながら立っていた。ゆったりとした動きで手を軽く振る彼女に、円が嬉しそうに声を上げる。
「佐々木のおばさん!」
円の声に、佐々木夫人は優しく微笑み、ゆっくりと歩み寄った。
「環君、円ちゃん、そして本郷君も。こうして顔を見られるだけで嬉しいわ」
佐々木夫人はふと目を伏せ、静かに息をつくと、穏やかな声で続けた。
「……ポチがいなくなってから、寂しくてね。でもね、環君には本当に助けてもらったの」
懐かしげに環を見つめながら、優しく語りかける。
「何度も具合が悪くなった時、環君がすぐに気づいてくれたおかげで、ポチは何度も危ないところを乗り越えたわ。散歩の途中で様子がおかしくなった時も、環君がすぐに声をかけてくれて……あの時の助言がなかったら、もっと辛いことになっていたかもしれない」
佐々木夫人の言葉には、深い感謝が滲んでいた。円は静かに環の方へ視線を向ける。環は少しだけ目を伏せた。
「環君、本当にありがとうね。ポチの最後の時間を、安心して過ごさせてくれたこと、私はずっと忘れないわ」
夕暮れの空の下、佐々木夫人の言葉は温かく響き、静かに街に溶けていった。
しかし、その穏やかな空気を切り裂くように、荒々しい声が響く。
「……母さん、またこんな連中と話してるのかよ」
街灯の薄明かりの下、肩を怒らせた男が立っていた。佐々木夫人の息子、武だった。
黒いジャケットを無造作に羽織り、険しい表情を浮かべている。
「何度言えばわかるんだ。変な奴らと関わるなって」
円は戸惑いながら武を見つめる。佐々木夫人は静かに息をつき、落ち着いた声で返した。
「武、そんな言い方をしないで。環君はポチのことを本当に助けてくれたのよ」
「はぁ?」
武は露骨に顔をしかめた。
「そんなくだらない話、信じてるのかよ。犬の具合が悪くなるくらい誰でも気づくだろ?」
環は黙っていた。ただ、武の言葉を静かに受け止めるようにじっと見つめている。
その視線に気づいた武は、不快感をあらわにする。
「……おい、何黙ってこっち見てるんだよ。気味悪いな」
「武、そんな言い方はやめて。環君は悪いことなんて何もしていないわ」
佐々木夫人が困ったように武の腕に軽く触れたその時、低い声が響いた。
「おい、おっさん」
円が驚いて隆二を見つめる。
「なんだよ、その言い草。環がポチを助けたのは事実だろ。母親が感謝してるのに、それを否定する理由って何なんだ?」
武は苛立ったように鼻を鳴らした。
「何を偉そうに言ってるんだ? お前らみたいなガキに、何がわかる?」
「は? そっちこそ何様だよ」
隆二は肩をすくめながら、堂々と武を睨み返す。
「おっさんさ、何がそんなに気に入らないんだよ? 母親がちゃんと感謝してんのに、それを邪魔するのはどうかと思うけどな」
円は慌てて隆二の袖を引いた。
「ちょっと隆二先輩、やめよう……」
武は佐々木夫人の腕を強引に引きながら、隆二を一瞥する。
「こんなくだらない話に付き合ってる暇はないんだ。帰るぞ、母さん」
そのまま武は佐々木夫人を連れて歩き出す。
円が何か言いかけたが、佐々木夫人は軽く首を振り、武とともに歩き出した。
夕暮れの光はすっかり弱まり、街の灯りがひとつ、またひとつと点り始めていた。
環は、その消えゆく光の中で、武の背中をじっと見つめていた。そこにある違和感を確かめるように。