Episode1-2
車内の空間は静寂に包まれていた。運転席には冷静な表情のドライバーが座り、その隣には執事の田中が慎重に身を正している。そして後部座席にはもう一人の執事が腰掛けていた。その執事はしばらくして低い声で口を開いた。
「初めまして、環様、円様。私は芹沢と申します。義昭様のご命令を受け、本日お二人を本邸までお連れする役目を仰せつかりました」
芹沢は丁寧に頭を下げたが、その言葉や態度からはどこか冷たさが滲んでいる。円はその無機質な声に僅かな不安を覚えたが、気丈に返事をした。
「そうですか。あの……本邸って、どこに向かってるんですか? 大奥様との約束がありますけど」
芹沢の目が一瞬だけ動き、言葉を選ぶかのような間が生まれた後、淡々とした口調で答える。
「大奥様には環様が本日、本邸に入り、当主である義昭様とお会いすることを先ほどお伝えしました」
円の表情はさらに不安げになり、彼女は少し身を乗り出して芹沢に問い詰めた。
「それってどういう意味ですか? お兄ちゃんが本邸に入るって何か特別なことなんですか?」
芹沢は冷静なまま、「それ以上のことは私からお伝えすることはありません」と答え、視線を外へ向けた。
円は両手を膝の上で握りしめ、視線を芹沢から環へと忙しなく動かす。しかしその時、環がわずかに目線を芹沢に向けた。そしてほんの一瞬、唇をきつく結び直すような小さな仕草を見せた後、再び窓の外へ視線を戻した。その目にはわずかな陰りが見えた。
車内は張り詰めた空気に包まれたまま、静寂が続く。円が落ち着かない様子を見せる中、田中はふと意を決したように口を開いた。
「大奥様はどのような返事をされたのですか?」
芹沢の鋭い目が田中へ向けられる。その冷たい視線には、厳しさがあり、彼の態度には一切の妥協がない。
「田中さん、会話に入るのはお控えください。私はあなたに報告する義務を負っておりません」
芹沢の厳しい声が車内の空気を一層張り詰めさせた。田中はその言葉に何も反論せず、言葉を飲み込むように静かに身を正す。その顔には、一瞬だけ影のような憂いがよぎった。
円はそのやり取りにさらに不安を募らせながら、環の方へ視線を送ったが、環は黙って外を見つめるだけだった。
車は舗装された道を静かに進み続けていた。
円は窓の外に目を向けながら、大奥様の邸宅を想像していたが、目の前に現れた大きな黒い門は、そのイメージを遥かに凌ぐものだった。門は鋼鉄製で精巧な模様が刻まれており、堂々とした佇まいで道の先を封じている。その門がゆっくりと開くと、車は敷地内へと進んでいった。
敷地内は、手入れの行き届いた庭木や芝生が見事に広がり、どこまでも続くように思える景色に、円は目を奪われていた。思わず窓越しにつぶやく。
「すごい……広いね」
その声に応えるように、田中が軽く頷き、穏やかな声で説明する。
「本邸の敷地は大奥様の邸宅の約五倍ほどございます。代々受け継がれてきたこの土地は、四条家の歴史と格式を象徴するものです」
円はその言葉にさらに驚き、窓の外に目を戻した。広がる庭園や木々が、ただの邸宅の一部ではなく、一つの世界のように感じられる。
その一方で、環は田中の説明を聞いているようでいながらも、窓の外から目を離すことはなかった。
車がさらに進むと、ひと際大きな建物が視界に入ってきた。
本邸は、和風の趣を強く感じさせる木造建築で、瓦屋根や木目の柱が美しく連なっている。その佇まいは厳かでありながら、近づいてみると洋風のアーチ状の窓枠や石造りのテラスがさりげなく取り入れられ、どこかモダンな印象を漂わせていた。
車が静かにスピードを落とし、本邸の正面玄関の手前で止まった。エンジン音が消えると同時に、車内には一層の静けさが広がる。
田中は素早く車を降りると、後部座席のドアを慎重に開けた。
「こちらでございます」
円は緊張気味に足を外に出した。一瞬足元に視線を落とした後、その目は自然と建物の壮大な姿を追っていた。厳かな瓦屋根と大きな柱が眼前に迫り、その存在感に思わず息を呑む。
続いて、芹沢がもう一方の後部座席から降り立った。彼はゆっくりとその場に立ち、環の方へ視線を向けながら低い声で促した。
「環様、円様、どうぞお進みください」
環はその声に軽く頷きながら、ゆっくりと車から降り立つ。彼の動作は落ち着いており、視線を一瞬本邸に向けた後、すぐに歩き出した。田中は控えめな仕草で建物の入り口を指し示し、芹沢がその先に立って道を案内する。
玄関前には数名の従者たちが控えており、一糸乱れぬ動作で深々と頭を下げた。その整然とした態度に、円の小さな声が漏れる。
「大奥様の邸宅とも全然違う……」
芹沢はその声には反応せず、田中が控えめに続く形で建物の入り口に近づくと、重厚な木製の玄関扉が音もなく開かれる。邸内からはひんやりとした空気が流れ出し、円は少し背筋を伸ばした。
田中と芹沢の案内で廊下を進む一行の足音が静かに響く。広々とした廊下には木目の美しい床と壁に飾られた調度品が並び、格式高い空間が広がっている。円は周囲をきょろきょろと見回しながら歩いていたが、環はただ前を向き、淡々と足を進めていた。
渡り廊下に差し掛かったところで、環が突然足を止めた。円は一歩進みかけて立ち止まり、環の視線の先を追った。そこには廊下から繋がる小さな建物があった。和風の木造で飾り気はなく、渡り廊下の隅にひっそりと佇んでいるその姿は、目立たないながらも廊下に馴染んでいた。
環はしばらくその建物を見つめた後、何も言わずゆっくりとそちらへ向かい始める。その動きに芹沢が困惑した様子を見せ、控えめな声で呼びかけた。
「環様、こちらではございません。お部屋は反対側でございます」
田中も慎重に言葉を選びながら環に問いかける。
「環様、どちらへ向かわれるおつもりでしょうか?」
しかし、環は二人の声を無視し、静かに歩を進めるだけだった。円は一瞬言葉を詰まらせながら、環の後を急いで追いかけた。その足取りには僅かな迷いが感じられ、手は無意識にぎゅっと握りしめられていた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
円の声は小さかったが、不安が滲んでいた。それでも彼女は環のそばを離れようとはしなかった。
環は歩みを止めずに建物の入口へと近づいていく。
田中と芹沢は一瞬視線を交わし、軽く足を止めてから、環の動きを追いかけるように歩き出した。