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Episode1-1

 黒木家の居間には、朝の光が静かに差し込んでいた。

 テレビから流れるニュースキャスターの声が、家族の会話の合間を縫うように響く。


『今朝未明、大手総合商社『○○グループ』の社長が急死したとのニュースが入りました――』


 ニュースは続いていたが、食卓に座る家族の誰も気にした様子はない。

 母、叶は食卓の皿を手に取りながら、黙々と朝食をとる息子に顔を向けた。


「環、今日は大奥様に会う日でしょう?」


 環は無言で頷く。するとその隣で朝食を楽しむ妹の円が、目を輝かせながら箸を置いた。


「ママ、私もお兄ちゃんと一緒に行くから、ご飯いらないよ!」


 叶は意外そうな顔をしながらも、優しい声で答える。


「そうなの。ご迷惑にならないかしら?」


 円は元気よく笑顔を見せ、すぐに答えた。


「ちゃんと許可もらってるから平気だよ! それよりさ、ママとパパ、二人きりなんだしデートでも行ってきたら?」


 叶は少し照れたように笑いながら、箸を持つ手を止める。


「もう、大人をからかうんじゃないの」


 食卓を囲む家族の笑い声が静かな居間に広がり、黒木家の穏やかな朝のひとときが流れていた。

 その数十分後、環と円はいつものように学校へと向かって歩き出していた。


「見て、お兄ちゃん、あそこの花!」


 円が道端の咲き始めた花々を指さし、顔をほころばせる。その指の先には、小さな黄色の花が朝陽にきらめいていた。


「春だね、気持ちいい!」


 円は深呼吸をして、満足そうに目を閉じる。その仕草に環もつられて微笑み、ゆっくりと歩調を合わせる。

 朝の空気が心地よく頬を撫で、二人の足取りは自然と軽くなった。


「おはよう、環! 円ちゃんも元気そうだな」


 背後から軽快な足音とともに、笑顔の本郷隆二が二人に声をかけてきた。

 円はすぐに隆二の顔をじっと見つめ、眉をひそめた。


「隆二先輩、鼻の下汚れてますよ。土か何かついたんですか?」


 隆二は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにとぼけたように笑いながら鼻の下を手でこすった。その指先には、黒い土が爪の中に入り込んでいるのがちらりと見えた。その仕草を見た円が、目を細めてじっと観察する。


「先輩、それ、泥遊びの名残とかじゃないですよね?」


 隆二は苦笑いしながら肩をすくめる。


「いやいや、そんなことないって! どこかでついたんだろうな」


 円は少し口元を曲げながら「ふーん」とつぶやき、疑わしげに隆二を見上げる。それでも特に追及はせず、環の袖を引っ張って小声でつぶやいた。


「怪しいよね、これ」


 環は小さく笑いながらも、隆二に向かってぼそっと一言。


「ありがとう」


 環が低い声でそうつぶやくと、隆二は一瞬だけ目を細めて微笑んだ。それから、照れ隠しのように鼻の下を手でこすりながら、環の肩を軽く叩く。


「おう!」


 短い返事とともに、肩を叩く動作にはどこか励ましの意図が込められていた。

 その様子を見ていた円は、不満げに眉をひそめ、二人を交互にじっと見つめる。


「もう、二人だけで分かってる感じ出すのやめてよ! ずるいんだから!」


 円が頬を膨らませて拗ねたような声を上げると、隆二は吹き出すように笑い、環は肩を叩かれるまま無言で歩みを進めた。

 その後ろで、円が急いで二人に追いつこうと駆け足になった。


 その日の学校生活は、どこかいつもと違う空気があった。

 円は教室で放課後の支度をしながら、ふと周囲のざわつきに気付いた。

 クラスメイトたちが何かをひそひそ話しながら窓の外をちらちら見ているのが目に入る。


「ねえ、見た? 校門のところにすごい車が停まってるよ!」

「もしかして、有名な人が来てるんじゃない?」


 円はそんな会話が耳に入ると、カバンを肩にかけたまま窓の外へと目を向けた。

 校門の前には一台の黒い高級車が静かに止まっていた。その光沢と堂々とした佇まいから、ただならぬ存在感を放っている。

 円の目が大きく開き、思わず声が漏れた。


「え、あの車……!」


 慌てた様子で円は窓辺を離れると、廊下を駆け出しながら下駄箱へ向かった。

 息を少し切らしながら下駄箱にたどり着くと、そこには帰り支度を済ませて立っている環と隆二の姿があった。


「お兄ちゃん、校門に車が!」


 円は環の腕を掴むと、急いで靴を履き替え始めた。足元に気を配りながら、少しもたつく動作の間も、心はすでに校門へ向いている。

 環はそんな円の様子を静かに見守るだけで、隆二は腕を組みながら「何かすごいことが起きてるのか?」と軽口を叩く。


「ほら、早く!」


 円は環の腕を引き、急ぎ足で校門へと向かった。その後ろを隆二が追いかける。


 校門が近づくにつれ、黒い高級車の存在感が否応なしに目を引いた。円は環の腕を引きながら、視線を車に向けつつ少し声を潜めてつぶやく。


「なんかすごい車じゃない?」


 夕方の光が車体に柔らかな輝きを与え、その黒い光沢がさらに際立っている。周囲の生徒たちは立ち止まり、遠巻きにその車を見つめている。普段なら聞こえる放課後のざわめきが、その車の異様な存在感によってかき消されているようだった。

 環の横顔をそっと見上げた円は、彼の視線がまっすぐに車へ向けられているのに気づいた。環は一言も発さず、その表情は読めないままだった。


「おいおい、何だよこれ。いよいよドラマみたいな展開か?」


 後ろから聞こえる隆二の軽口に、場の空気が一瞬緩む。それでも隆二の声の奥には、ほんの僅かだが緊張感が滲んでいた。

 円は周囲の空気に煽られるように、環の腕をさらに強く握りしめながら、急ぎ足で校門へ向かった。


 円の視線は次第に黒い高級車の隣に立つ男性へと引き寄せられた。きっちりとしたスーツに身を包み、姿勢を崩さず佇むその男性は、環たちにとってお馴染みの執事、田中だった。しかし今日の彼は、いつもの穏やかな顔立ちではなく、険しい表情を浮かべていた。

 田中は環たちに気付くと、深々と頭を下げた。その仕草はいつも以上に慎重で、重々しさすら感じさせる。


「環様、お待ちしておりました」


 その一言に、円は困惑したように田中を見上げた。環を引っ張る手が自然と強くなる。


「どうして校門で待ってるの? 普段はもっと人目につかないところなのに……」


 田中は短く息を整えると、静かな声で答えた。


「本日は当主様のご命令で、校門までお迎えに上がりました。詳しいお話は車内にてご説明させていただきます」


 円はさらに質問しようとしたが、隣で環が短く「わかった」とだけ言い、静かに歩き始めた。その背中はどこか決意が宿っているように見え、円は少し戸惑いながらも後に続いた。


「環、大丈夫なのか?」


 ふいに背後から隆二の声が響いた。その声には普段の軽口とは異なる真剣さがあり、円は思わず振り向く。

 環は一瞬だけ足を止め、隆二に視線を送ると、低く「大丈夫だ」とだけ答えた。

 田中がわずかに目を伏せながら後部座席のドアを開けると、環はためらうことなく乗り込む。その動きには、一切の迷いがなかった。

 円はその様子をじっと見つめ、小さく息を呑んだ。胸の奥で膨らむ不安を振り切るようにして、急いで環の後を追った。その背中を追いかける彼女に、隆二が肩をすくめながら軽く一言漏らした。


「まあ、何があっても乗り切れるだろ。円ちゃん、気をつけろよ」


 円は黙ったまま短く頷くと、車内に滑り込むように座り込んだ。

 田中が慎重にドアを閉じると、その音が重く周囲に響き渡った。車は静かにエンジン音を響かせながら動き出し、ゆっくりと校門を越えた。

 隆二はその場に立ち尽くし、遠ざかる車をじっと見つめていた。

 車の影が完全に見えなくなるにつれ、彼の眉間に刻まれた皺が一層深くなり、その視線はどこか遠くを彷徨っていた。目に浮かぶ微かな憂いには、言葉にできない思いが静かに揺れていた。

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