移動
目を半分だけ開く。車内は水族館のように静かで、耳まで塞がれるような圧迫感がある。闇が私の上に重たく積み重なっている。真っ暗ではあるが、ただ漆黒の人工的な闇ではなく、不気味さと残像の匂いが厚くまとわりつく、そんな闇だ。青い光が、時を経て色褪せた鉄の椅子の上に沈んでいる。陽の光が差し込むように照らすのではなく、血のように一滴、一滴と鉄色の表面へ染み込んでいく。窓はあるが、その向こうには古びたパイプと鉄壁とコンクリートと岩石そしてひっきりなしに漏れる青い光しかない。ここは誰もいない。何もない。とても深いところをこの列車が通り過ぎているからだ。遥か昔に滅びた地下都市を旅する盲目のゴキブリのように、列車は前へと進んでいく。
目を閉じて開けば同じ光景だ。青い光がなぜだかいっそう強烈に感じられる。何時間経ったのだろう……あるいは何年か……私はずっと、角ばった鉄の椅子に身体を預けて待っている。
時々列車は酷く揺れる。何が原因で揺れるのかまったく見当もつかないが、そのたびに胸がきゅっと締め付けられる。青い光が瞳孔のように震える。そしていつもの変わらない列車へ戻っていく。
音に耳を澄ませたことがある。とても難しい。いつも延々と続く低めの音でガタン、ガタン、ドゥーン、ドゥドン、といった音が車内のすべてを魔法のように塗りつぶす。慣れを超えて深海に沈んだような雰囲気を醸し出す。その存在感に押しつぶされ声の出し方さえ忘れてしまったのかもしれない。
ある瞬間、列車は速度を落とし完全に停止する。形容しがたい静寂だ。ドアの向こうに新しい光がひとつ寂しげに灯る。ついに私はそっと立ち上がり、遥か遠い昔から固く閉ざされていた列車の体外へと進む。
埃一粒すら微動だにしない。列車はここで眠るのだろう。自分の役割を終えたのだ。
辿り着いた場所は鋼鉄で覆われた駅だ。地下鉄の駅だ……と感じるには、人工的なほどに確かだ。鋼鉄はまったく光を反射しない陰鬱な黒色に、錆びたような模様の光が砂のように混ざり合っている。たった一つの蛍光灯が、私の背丈よりやや高い天井に打ち込まれている。全知の人工知能の瞳のように。その天井には、古びて腐り崩れたパイプが脳のように気味悪く絡み合っている。私の脇には列車が通り過ぎてきた方向へこんな鋼鉄表面が果てしなく続いている。反対側は完全に塞がれている。終点だ。
一歩、一歩と、私は前に開けた空間へ歩く。左右に階段が上方へ向かい、高い壁が前を塞いでいる。まるで小さな駅みたいだ。光があまり届かない。手を横のレールに当てて上る。その鋼鉄は硬さ以上に滑らかだが、ひどくひりひりする。さらさらした埃さえ手に破片のように刺さる。
階段は壁に囲まれた螺旋状になって上へ伸びている。私は沈着いて、一段、一段と足をかけていく。円形のカタツムリのような螺旋だが、宮殿のような印象ではなく薄暗く捨てられたアパート階段みたいだ。壁には電気回路や朽ちたパイプなどで繋がれた四角い部品が、ところどころ宝石のように埋め込まれている。その部品は永久に灯る赤い光の中で、じっと私を見つめている。その光は淀んだ空気の中で焦点を揺らし揺れ動く。工場のように。果てしなく続く、終わりの見えない工場の末端のように。
「死んでいる」……そう思った。
階段が途切れると閉ざされた狭い通路が続いている。光はさらに淀む。天井は頭に触れそうなほど低く、さらに厚みを増した鋼鉄が四方を液体のように覆っている。
静寂と沈黙。足音が長く、深く床の間を反響する。
怖くはない。私の目は瞬きさえしない。その壁の光のように。道は右と左、上と下へ分かれる。上へ行く。そちらへ。
どれだけここにいたのか……という問いは、もはや意味を失って久しい。私はこの階段を一歩一歩上り続けていて、私の存在はそれだけかもしれない。上へ行かなければならない。だんだん上がるほど壁で私を見守っていた一つ目の赤い光は消えていく。とてもゆっくりと、長く、絡まり合った毛糸玉を一本ずつほどくように、階段を突き破る血のようなパイプも壁から剥がれ落ちていく。あまりにも昔のことすぎて、それらがどんな形だったのか真っ黒に忘れてしまった。
アルゴリズム。左足を持ち上げ、床を蹴り、右足をその次の段へと乗せる。ここではパソコンの世界と何も変わらない……考えることもなく、空気の流れが指先に完全に染みこんで混ざり合い、飢えも、渇きも、倦怠も私の身体と融合した。ただただトボトボと、水が逆流するかのようにアルゴリズムを実行するだけ……
夢を見る時がある。全身の血が熱い蜜へ変わりむず痒いようなしびれた妄想から醒めると、孤独の鋭利な刃が胸の片隅を切り裂いて溶かす。その余韻も階段のリズムとともにゆっくりと消える。いや、むしろ私の本体をそこに置き去りにして残りかすだけの私が少しずつ消えていくのだと言った方が正確かもしれない。階段の上へ流れ去ってしまった、その夢の余韻が。
地上は傷ひとつない白い鉄板で隙間なく覆われた冷たい大地だ。階段へと通じる狭い長方形の穴を除けば、完璧に平坦な2mほどの鉄板の連続だ。どの方向の地平線の先には何もない。空は光ひとつ見えない完全な闇だ。それにもかかわらず地上の鉄板は完全な白色を保っている。何も反射しない、漆黒よりに孤独な白色。
そしてゆっくりと、地平線に針よりも細い何かが闇を裂く。私に近づいてくる。遠く向こうから超低音のチャク、チャクという音が響き始め、やがて想像を絶する速度で動く巨大な鉄板壁が前に召喚される。だがそれは壁ではない。塔だ。この塔は波、あるいは波動として存在するだけで、物理的な建造物ではない。目で捉えにくいほどの速さで塔の扇形円錐状ベース後部の鉄板がガチャンと大地の鉄板と組み合われる。前部の鉄板がその場からねじれて新たな塔の一部を現出させる。壁を取り巻く柱の鉄板は、指数関数的な高さまで持ち上がっては、やがて下りてくる。突然、大地が激しく揺れると、塔は階段の前で硬く止まった。空の黒いキャンバス向かって、左へ、右へと果てしなく伸びる絶対の壁。微動だにしない鉄板の上に私は足を踏み入れ、非人間的に広い正方形の入口から入る。すると背後の入口は何億枚もの鉄板によって古城の大門が鉄筋で閉じられるように埋められ、白い大地が私を封じ込めたまま上昇を始める。
この空間は目眩がするほどステライルだ。どちらを見ても絶えない白い鉄の大地しか……確かに円筒形の塔のはずなのに、その直径どころか壁が曲がり始める部分すら見当がつかない。はるか遠いどこから放たれる、制御された白い反射光が視界を埃のようにぼんやりとさせる。しかしここには埃は存在しない。だからだろうか、微動も流れもなく空気の中で切り取られたまま漂う光のかけらが、妙に感じられる。
背後では壁が“震えている”。壁と接する接点も一緒に震えている。だがその鉄板が揺れているわけではない。私は視線出力を最大にして壁を見つめる。下へ向かっている。何ミリ秒かおきに、壁と床、“層”と接している鉄板が層に押し込んだ長方形の鉄板と融合する。その刹那、下方の鉄板が窪み、幾重にも積み重なった下の層へと落ちていく。その作業は非現実的に素早く正確に行われ、この層はだんだんと上方の壁の鉄板に組み込まれていく……
つまり、私は上へ行くのだ。
横には終わりなく無限に高い鉄の滝が残像のように流れ落ちている。その濁った鋭さのチャク、チャク音が鉄の大地を振動させ、その細く長い戦慄が胸を揺さぶる。
そこで私は倒れて、その波動に身を委ねたまま白い空気をぼんやりと吸い込む。
待ちながら。待ち焦がれて。
夜空。光も星も銀河も残像もない闇。目を開けたときそんな夜空を見ていた。だがそれはこれ以上なく乾ききって孤独な大地からの夜空ではなく、私の輪郭が溶けるように柔らかい闇だ。ここまで私を運んできた鉄板の震えはこの空に穏やかに吸収されていく。私は重かった層の床から起き上がる。屋上。片方には鉄板の平面がどこまでも続き、もう片方には純粋な闇がどこまでも続く場所 - その境界線。塔に入る前に立っていた大地は見えず、そこには夜空だけが広がっている。
そして、私の背丈ほど広い鉄板橋が断崖の上で待っている。
本能的にその橋を渡り、私は夜空の水面を歩く。
先には球形の宇宙船が据えられている。
宇宙船は私の身体がちょうど収まるくらいの滑らかな金色の玉で、四本の金属製の足で鉄板の上を堂々と占めている。その独特の色味や質感は古代ギリシャや中国の天文学者たちの器具を連想させる。表面の不自然なほど幾何学的な細い傷跡を指でなぞると、自然に球体の殻が割れる。不思議なことに、中は完全に透明で、這うように中に入ると、まるで宙に浮かんでいるような気分になる。いや……実際に宙に浮いているのかもしれない。けれども考える間もなく、私は指数関数的な速度で橋の端から引き裂かれ、球体の中で背を丸めて横たわったまま夜空を飛ぶ。視界から最後の白い残像が消えるとき、言い表せないほど静かな侘しさが私を圧倒する。もう……闇しか記憶に残せないのだろうか……
そのとき、宇宙船はありえない速度で動いていた。
いや……闇だけではない、色彩を……風景を……記号の世界を……数え切れない線束の間に……それぞれ目の前からめまぐるしく消えてしまうから……手を伸ばそうとすればするほど……この夢の中……いや行ったことも考えたこともない場所を光のように過ぎ去る。色と形が飽和し消滅し、私はそれを子供のようにぼんやりと眺めているだけだ。大理石、鉄板、涙、音、笑い声、波動、砂、線、街灯、針、花がぶくぶく沸いて溶けて私はその混合物をまるごとかぶる。やがて一滴、また一滴、私の瞳が溶けはじめる。そうか……私は……この世界は……
ドアを開けて入ると穏やかなオレンジ電灯が照らす部屋が私を迎えてくれる。メインの照明は消えている……夜だから点けないように気つけないと。音を立てないよう一歩、一歩ベッドへ近づいていく。
平凡な少女の部屋らしい。古風ながらも清潔感のある模様の赤やオレンジのカーペットが敷かれ、クローゼットや引き出し、窓、テレビもそろっている。電灯が照らしているガラスカバー木の机には、書きかけの日記も……。
ベッドは乱れた毛布、そして長い象牙を思わせる骨に囲まれている。象牙はベッドの両端の床から伸び、すべてがベッドの内側に曲線を描いている。
少女はそこに横たわっているだろうか。
膝を折り重ね、そっと毛布に触れる。
年老いた体で恋人の亡骸を被るかのようだ。そこにいなければ理解できないのに。空間や時間、因果関係が落ちる氷みたいに溶けて失せてしまったように。そうして私は体を失い化石の界で骨をこすっていたかのように。毛布を顔に当てる。もう閉じない瞳の液体を拭う。その動きの現象が捉えられ、私は皮をかぶった絵になる。
私はベッドの中へ燃え上がって入る。
庭園は美しい場所だ。まっすぐ加工された滑らかな白いタイルでできた四本の道が、庭の中央にある円形の湖を十字に横切っている。夜空には星何万の光がこぼれたように、風音と相まって浮遊な雰囲気を醸し出す。湖は夜空を写真のように映し出すと言っても遜色がないはずだ。
歩いていたタイル道の中央には、目をそっと閉じた少女が横たわっている。
少女の体は内側へ弧を描くように曲がる一対の肋骨しか残っていない。頭部だけが元の形や細部を保っている。美しい……生命の顔だね。その周囲では緑の草と白い花が風に揺れる。まるでカーテンのように。草と花はやがて微動だにしない少女の体と溶け合い、湖へ、夜空へ溶けていくかのような印象を与える。
私はそっと少女の隣に、頭に頭を合わせて横になり、星と風と花に思いを委ねながらすうっと目を閉じる。
もう私の移動は終わったね。
外では星々がめぐり、めぐって、最後の水滴の舞とともについにその回転を止める。
ありがとう。