犯人はヤス -そして誰もいなくなった-
康雄が自分の中に眠る殺意に気付いたのはいつの事だったろうか。
きっかけは些細な事だったかもしれない。しかしその些細な事が積み重なり、山頂から転がった小石が石や土砂を巻き込んで地崩れとなるように大きな感情へと成長していった。
自分より少しだけ成績がいい事をひけらかす傲慢さから始まり、同じ悪ふざけをしていても康雄だけが怒られる、細かい物を借りてゆくが返さず、それどころか返すように催促すればケチ臭いやつと悪態をつく。
康雄よりずっと要領が良かった京介は嫌な事、悪いことを少しずつ周囲に分散して押し付け、捕まらないよう飄々と生きて来た。そんな小さな悪意にさらされ続けた一番の被害者は幼い時から近くに住んで居た幼馴染、康雄だったのだ。親同士の付き合いから始まり小学、中学、高校と同じ学校で過ごした二人。大学になって別々の道を歩めると康雄が内心ほっとしたのも束の間、同程度の学力を持っていた京介はなんと同じ大学の別の学科に進学し再び毎日のように顔を合わせる関係となってしまった。
いつしか康雄は京介に対する殺意を抑えきれなくなっていた。もし康雄がすぱりと割り切れるような性格だったなら早々に京介との関係を断ち切り、まったく別な人間との関係を築いただろう。もし康雄が短絡的な馬鹿者だったら、暴力へと訴えたり衝動的に凶器で襲いかかった事だろう。
しかし康雄は短絡的になれないくらいには頭が良く、辛抱強い性格が災いしてか京介に対する表向きの感情を抑え込み、くすぶる敵意を内側に貯めこんでしまった。
康雄は京介を毒殺することを心に決めた。しかし京介を殺して終わりではない。その後も康雄の人生は続くし、可能な限り捕まらず疑われずに完全犯罪を成し遂げなくては『人殺しの犯罪者』である社会的レッテルが死ぬまで影を落とす。
自分の人生に影を落とし続けている邪魔者を死という形で排除したはいいが、新たに社会的なレッテルが人生に影を落としたのでは意味が無いのだ。
大学に入るまでは親の手前、大学では殺意を気取られないため、康雄は京介と仲が良い同郷の幼馴染のように見えるよう努めてふるまっている。そんな康雄の頭の中に殺意が渦巻いていたなどとは誰も思わないだろうし、そんな気持ちを誰かに打ち明けた事など一度たりとも無い。
周囲の康雄への印象も努力家だが目立たない普通の人で終わっているし、康雄は自分が疑われそうな要素は徹底的に排除しているのだ。
康雄はばれないように何か月もかけて一般的な材料と調理器具にしか見えない精製道具を集め、時には道具を自作してオリジナルのブレンド毒を作った。ミステリーでは定番の毒薬であるシアン化化合物や毒性の強いボツリヌス菌を培養して抽出した強烈な毒は、理論上致死量数ミリグラムで即効性。一滴でも口にしたり傷に入れば死は免れられない強力な物となった。
買った器具はこれまたわざと焦げ付かせたり壊したりしながら計画的に廃棄し、もはや手元に製造した証拠となるものなど無い。
ただこの毒には大きな問題点がひとつあった。隠す事が難しい程のアーモンド臭。まともな飲食物に混ぜたのでは早々に違和感に気付かれてしまうに違いない。
しかし康雄には解決策が浮かんでいた。アーモンド臭がする匂いの濃い毒を飲ませるなら、冬場に部室棟の自動販売機で売り出されるアーモンドコーヒーに混ぜればいいではないか。アーモンドコービーなら京介も嫌いではないし、複数あれば無遠慮にも自分に断りもせず勝手に拝借して飲むに違いない。
あとは残った毒の粉は部室に残っている誰かの私物に忍ばせれば、そいつに疑いがかかるはずだ。
決行の日、康雄はホットのアーモンドコーヒーをドリップタイプの自動販売機で二つ買う。装置の中でことりとカップが落ち、うなる機械がコーヒー豆を挽いていくのを康雄は昏い笑みを浮かべて見つめていた。
今まで何年も傍若無人に振る舞う京介の態度に我慢を重ねながら耐え、心を押し殺しながら生きて来たがそれも今日で終わる。康雄の母と仲が良い京介の親には気の毒だが自分は自由になれるのだ。
康雄は両方のカップのふたを開け湯気の出るコーヒーに毒の粉を混ぜ込む。そして慎重にカップのふたを戻すとふたの指紋だけ消した。京介と自分の分、両方の紙コップから毒が検出されれば自分も被害者であるように装えるからだ。
自分の分は口をつけずに、京介が死んだら動揺したふりでもしながら倒すか何かして飲まなければいい。
昨日確認した通り、部室の入り口には忘れられた部長の隆二のコートが残されていた。康雄はコートの右ポケットに少量の毒粉を入れると毒の袋は端に穴をあけて外に捨てた。
これで疑いは隆二にかかるに違いない。運が良い事に隆二と京介は普段からあまり仲が良くない。殺人犯となる動機には事欠かず、周囲の証言もそれを後押しするだろう。
いつもの時間に京介がやって来る。一人暮らしの京介はこの時期、暖房代を節約するために朝食をコンビニで済ませ早い時間に部室にやって来る。それよりも少し前に康雄が部室の暖房をつけて待つのがこのところの日課だった。
「よう、ヤス。今日も間抜けづらで暇してんな。おっ、コーヒーじゃん。二つあるし一個もらうな。」
予想通りに毒入りコーヒーをひと口含んだ京介に康雄は内心喝采をあげた。濃縮を重ねたブレンド毒は飲み込まずとも既に十分な致死量に達している。すぐにでも呼吸困難からの神経症状を併発し死に至るだろう。
次の瞬間、京介は勢いよく毒コーヒーを霧のように噴き出した。
「うぐぇ、甘ッ、まっずッ!」
その飛沫は康雄の目に入り眼球に耐えがたい刺激を与える。目を覆い叫ぼうとした康雄の口に頬を伝ったしずくが入った。
毒の味なんて見れるわけがないじゃないか。そんな思考がよぎったまま康雄の意識は体の痺れと共に沈んでいった。
京介の毒殺から20分後、いつも通り後輩の将太が部室に入って来る。
「おはようございます先輩方・・・あれ?」
机に突っ伏す京介と力なく椅子にもたれかかる康雄を見た将太は二人が寝ているのだろうと思い揺すって起こそうとした。康雄の肩に触れると身体の芯を失ったかのようにぐにゃりと椅子から滑り落ち、生気を失った開きっぱなしの目が将太を見つめる。
死んでいる。なぜ、どうして、そんな。心に受けた衝撃から将太の呼吸は次第に荒くなってゆき、過呼吸からか意識がもうろうとし始める。
ここで倒れるわけにはいかない、京介先輩がまだ生きているなら救急車を呼ばなくては。薄れゆく意識を繋ぎとめるために、将太は机の上にあった真新しいコーヒーを一気にあおった。
さらに10分後、部員の美晴がやって来る。
部屋に漂うコーヒーの香り、机に突っ伏す京介に椅子から崩れ落ち床に転がる康雄。美晴はこれが異常事態であるとすぐに理解し、助けに駆け寄った。
しかし彼女には見えていなかった。床に倒れていたもう一人の男、将太の存在が。
足をとられ態勢を崩した彼女が最後に見た光景は、目の前に迫るこぼれたコーヒーに濡れそぼった机。
しばらく後、部長の隆二は寒さに泡立つ肌をこすりながら部室にたどり着いた。
「畜生、こんなに寒くなるなら昨日コート忘れなければよかったぜ。おーす、わりいな。遅れた。」
ドアを開けると4人の男女が倒れている。隆二は美晴より若干冷静だった。ドアを開け放ったまま入り口にあった自分のコートを手繰り寄せて羽織ると、すぐに警察と救急に連絡を取った。
この寒さだ、部員たちは暖房をつけようとしたに違いない。そして点火された石油ヒーターは不完全燃焼を起こし一酸化炭素を発生させる。狭い部室の中は一酸化炭素で満たされ、次々と部員たちが倒れていった。そうに違いない。
つまりこの部室の中は目に見えない危険な空気に満たされ、踏み込んだが最後意識を失うように死んでゆく。取るべき最適解は入り口のドアを開け放って換気しつつも、できるだけ離れて救援を待つことだ。後はプロである警察や救急隊員が何とかしてくれる。
コートのポケットに手を突っ込みながら考えを巡らしていた隆二だったが、これから始まるであろう事情聴取や面倒ごとを考え、無意識に右手の爪をかじった。
なぜか少し甘い味がした。