第九十七話 甘い香り
「遅かったな、アキ……って何だその顔?」
日が暮れ始めた娼館通りは、普段の活気が嘘のように人の往来が少なかった。ゲイルの死は、数日経った今もこの街に暗い影を落としている。
アキはひりつく頬を撫でながら、先に通りの入り口に辿り着いていたニコラへと片手を上げた。
「クレアさんにニコラと娼館行くって言ったら、性病とシラミが移るって怒られた」
「ちゃんと理由話したか?」
「話したからこれで済んでるんだよ」
クレアの娼婦嫌いは相当なもので、その理由は以前客が娼婦から移されたシラミが、マンティで繁殖したことにあるらしい。駆除にはかなり苦労したようで、彼女には「娼婦に指一本触るな」と厳しく言いつけられてきた。
「まあ北方人の娼婦なんて、どんな病気持ってるか分からないからな」
ニコラはさして関心も無さそうに呟き、通りの奥を親指で指した。
「まあ、さっさと行こう。早くしないとカルロがヤリ終わるまで待つ羽目になるし」
主人たるレンブラント総督に疑念が向いている状況で娼館に出入りするカルロは、アキが今まで出会った貴族の従者とは異なった思想の持ち主であるようだ。メルヴィルなら或いは─と、束の間考えたところで、ニコラの手が彼を制する。
「ほら、あれがカルロ」
女衒たちが数少ない客を取り合って声をかける通りの真ん中を歩くのは、姿勢の悪い壮年の北方人だった。金髪は脂っぽく、身なりにはあまり関心がないようだ。
「貴族の従者って、あんなのでもなれるのか?」
「親父の引き継ぎじゃなきゃ無理だったと思うよ。レンブラントもさっさと川に捨てときゃ良いのに」
カルロは娼婦を値踏みしながら歩き、アキたちはそれらの勧誘を振り払って早足で進んでいるので、その背中に追いつくまでそう時間はかからなかった。
「カ〜ルロくん」
ニコラがペしりと背を叩いた瞬間、カルロは驚いた猫のような仕草で振り返った。青白い肌にそばかすが目立つ、これといった特徴のない絵に描いたような北方系の顔であった。
「なんっ……何だお前ら」
「いやあ〜レンブラントがゲイル様を殺したって噂聞いてさ。従者のアンタなら何か知ってるんじゃないかと思って、気になって声をかけたんだ」
ニコラの会話は、親しげというよりはふてぶてしく図々しい。初対面の南方人に声をかけられたカルロは心底不愉快そうに眉を寄せた。
「ガキには関係ない話だ、さっさとご主人さまのところに帰りな」
「へー、随分偉そうだね。娼婦に入れ込みすぎて借金してるって話も聞いたけど?」
藍色の目が獲物を見つけた鷹の如く光る。
「なっ……」
「おれもこの辺よく出入りするからさ。あんたが質に出す宝石はレンブラントのだとか、散々主人の悪口を肴にしてるとか、まあ色々耳に入ってくるんだよ。どう、合ってる?」
「……」
カルロはみるみる顔色を悪くしながらも、小刻みに首を振った。
「ば、馬鹿なことを言うな。俺の主人を誰だと思ってる?俺を侮辱するっていうことは、つまり旦那様を侮辱するってことだ。分かってるのか」
「分かってないのはお前だろ、レンブラントが犯人だったら、お前も一緒に死ぬことになるんだけど?」
「リコカルドのやつは、主人が死んだっていうのに生きてるじゃないか」
「英雄と犯罪者を一緒にするなよ。このままじゃお前とレンブラントは、ティレーの市長とその家族みたいな目に遭うだろうさ」
カルロの青白い顔は一層青ざめていく。ニコラは彼を「軽率なやつ」と称していたが、まさにその通りの人物であるように思えた。
「……よ、酔った勢いで言っちまっただけなんだ!あの売女が、俺がやったんじゃないかなんて言い出すから……最初はリコカルドだって言ったんだけど、あいつってレスタで産気づいた売女を助けたことがあるからさ、女どもはあいつの肩を持ちやがるんだ」
「自分が疑われないために他人の悪評流したってこと?小さいやつだと思ってたけど、まさかここまでとはな」
ニコラは心底呆れ返った様子でため息をつく。街の人間が語っていた彼の悪評に間違いはなかったらしい。
アキは不愉快に思いながらも、ニコラの続きを引き取って質問する。
「なあ、犯人に心当たりってないのか?誰かがワインに触ってるのを見たとか、ゲイル様に食い物勧めてるやつがいたとか」
「心当たりなんてあったら、俺はとっくにそいつの名前を出してるよ。でも正直、一番怪しいのは総督だろ?」
「従者のあんたに何も相談してないんだろ?貴族の従者って、そういうときこそ右腕になって暗躍するものじゃないのか?」
アキの言葉に、カルロは肩をすくめた。彼の言うところによると、自分には従者の素質もやる気も全く無い。そしてレンブラントもそれを理解しており、信頼関係はないに等しいという。
自分の関与を否定することに必死の彼は、とにかく饒舌だった。
「書類仕事は殆ど別の奴隷たちがやってる。俺がやることなんて、女の家内奴隷に任されるようなもんに毛が生えた程度さ」
「つまり主人が何を考えてるかはお前にも分からない、と。なあ、ヴァネッサ様が仰ってたけど、レンブラントが変わった味のワインをゲイル様に振る舞ったんだって?」
「ああ。最近新しい製法を色々試してるみたいだ。それだって俺は指一本触れてないぞ。給仕役のガキ奴隷が用意したんだ。誰かまでは知らないけどな……」
「ふーん」
毒の摂取経路はまだ判明していない。アーザクが持つ毒の遅効性は、多くの証拠を洗い流してしまうには充分だった。
「な、なあ……貴族の従者って辞められねえのかな。なんか、少し前にノクティナ信者がカルペンタリウス攫ってゲイル様殺そうとした事件も、総督の差し金だとか言われてるし……俺、巻き込まれたくないんだよ」
「言われてる?誰がそんなこと言ってるんだよ」
「女衒たちが噂してたぞ。まあガキは知らないと思うがな……」
アキとニコラは顔を見合わせる。黒衣の男たちの襲撃、そして帝都に囚われた捕虜が突然にティレー内乱について告発したこと、レンブラントが熱心なノクティナ信者であること、それらの情報が彼らの中で線となり繋がっていく。
「単なる噂だろ。従者なら主人を信じてやれよ、ほら」
ニコラは腰に下げた袋の中から、銀貨を1枚掴んで放った。
「情報代。足止めて悪かったな」
銀の輝きに気を良くしたのか、カルロはニヤリと笑ってそれを握り締める。
「へへ、気が利くじゃないか」
ニコラの正体も、ここまで問い詰めた目的も問うてこない。彼は銀貨を手にした瞬間、他のすべてを忘れてしまったように、ちらちらと娼館を振り返っている。
「相変わらずしょうもない奴。バカだし」
ニコラはボソリと呟いてから、娼館通りを再び歩き出す。
「なあニコラ、例の黒服連中がノクティナ信者だって話、公表されてたか?」
「いーや、全然。カルロ以外にも街に噂を流してるやつがいるってことだな。愚者の仲間とか……」
「ストゥ……?」
「ほら、メルヴィルが酔い潰して捕まえた黒服が居ただろ、あいつのこと。古ローラン語でバカって意味らしいよ。そいつが急にティレーで反乱が起きるだのなんだのって告発したから、ゲイル様はこっちに遠征してきたんだ」
「ああ……それは、レイチェル様も言ってたな……」
レンブラントは不眠症の治療を受けて以来熱心に夜の女神ノクティナを崇拝しているという。総督府に赴いたときも、あちこちにノクティナ神を象徴する白い花、ノクティリウムが飾られ、甘い匂いが漂っていた。
「これ、面倒なことになるな」
ニコラは蜂蜜を固めた飴を口に放り込んだ。
「レンブラントがゲイル様を暗殺した。それってすごい単純で、印象的だろ?そういう噂はあっという間に広まる。それらしい理由を誰かが考えて、それを隣近所に言い触らして、そのうちみんなが事実みたいに語るようになる」
「そうなったら、お偉方もレンブラントを疑わざるを得ないよな。俺は……そうじゃないって信じたいけど」
レンブラントに特別な思い入れはない。しかしルイスが信じた人間を疑うことは、アキにはできなかった。
何者かによって、彼に疑念の目が向かうようすべてが仕向けられている。そんな予感がした。
「そうだな。多分総督は重要参考人ってことで事情聴取を受ける。そうなったら、近いうちに取り返しのつかないことが起きるよ」
「取り返しのつかないこと?」
曖昧な言葉が焦燥を募らせた。
「死ぬんだよ」
「……は?」
「家名が汚れる前に死ぬ。ローランの上流階級じゃ、よくある話だってさ。あいつらには真偽よりも名誉が大切なんだ、馬鹿みたいだろ?」
ニコラはフンと鼻を鳴らして笑ったが、アキは息を呑んだ。
遠い昔、漁網を編みながら父が話していた昔話が蘇る。
『アクィルス、僕たちの女王はオーガスタスに捕まったあと、ご自分の意志で囚われていた塔から飛び降りたんだ』
『異国の王の捕虜になるなんて、誇りが許さなかったんだろうな』
どこか誇らしげな言葉に同意することは出来なかった。
死んでしまっては、どうにもならない。
生きなければ、何も成せない。
生きるために故郷を出た彼には、自ら死に向かう者も、それを誇る者も、理解し難い遠い存在だった。




