第九十五話 悪しき毒薬Ⅲ
クレアと共に総督府の一室に待機していたアキは、突然呼び出されることとなった。
一体何が目的なのか─髪と瞳の色を変性魔法で変化させたまま、急いで向かった先は絢爛な意匠の扉の前。奴隷に促されるまま通ったその奥にはなんと属州総督レンブラントが鎮座していた。その傍らにサイラスと黒髪の女性が座り、フロールフとくすんだ赤毛をした男性、そしてルイスが立って彼を迎える。
「アクィルス、ここに」
ソファの近くに立っていたルイスが、アキを本名で呼びつけた。
「……ルイス、南方人と聞いていたが?」
「混血だ。珍しくもないだろう」
レンブラントと彼はそんなやり取りを交わし、やがてサイラスが口を開く。
「アクィルス、久方ぶりだね。いつも、我が家の家内奴隷と仲良くしてくれてありがとう」
「……い、いえ……こちらこそ」
アキは緊張と困惑で強張った首でなんとか頷く。彼はにこやかに返して、室内をぐるりと見回した。
「こちらはマーリス州総督のレンブラント閣下だ。顔は知っているかな?」
「……はい」
「こちらは我が兄の妻ヴァネッサ、そこに立っているのが兄の従者リコカルドで」
紹介された人物の方を見ながら何とか不格好な礼を取っていると、ヴァネッサと呼ばれた女性がそれを遮った。
「……ゆ、悠長にそのような話をしている場合ではないでしょう」
「失敬、名も知らぬ者に囲まれ緊張してしまっては、話せるものも話せなくなってしまうと思いまして。では閣下……」
サイラスは微笑んだまま謝罪して、レンブラントに会話の主導権を譲る。初めて間近で見る総督は、演説台に立つ姿よりも服の窮屈さが際立っている上に、ルイスが度々「マーシアス」と呼ばわって昔の話をするので、あまり威厳らしいものは感じられなかった。
「アクィルスといったな」
「はい」
「お前の故郷には、奇妙な毒を持つ魚が棲むというのは真か?」
「……え?」
予想外の質問に、アキは目を瞬かせる。戸惑う彼に、ルイスは説明を付け加えた。
「以前話していただろう、食べると手足が痛み、高熱を出し、尿が変色するといった症状が現れる魚がいると」
「あぁ……まぁ、確かに話しました……けど」
真意を問う前に、アキの思考はひとつの結論に辿り着く。レスタを揺るがしたゲイルの突然の訃報、死因についてまことしやかに飛び交う噂の数々─彼はハッと顔を上げた。
「“──“にあたったんですか?」
「なんだって?」
聞き慣れぬ発音に皆が眉を寄せる。彼のアステリ語は非常に訛りが強かった。レンブラントが聞き返すと、アキは先程よりもゆっくりと言葉を紡ぐ。
「アーザク、です。真っ青、みたいな意味です。でも古い言い回しなんで、殆どその魚固有の名前?みたいになってました」
「アステリ語の“アジュアク“に由来する単語かな?瑠璃のような青を形容するときに使われるもので……」
「旦那様」
肩を支えるフロールフの制止で、サイラスは語り始めた蘊蓄を中断する。
「失礼、続けてくれ」
「……はい、アーザクは村の近くにいる魚で、基本はポシラの影に隠れてるんですけど、たまにうっかり出てきちゃった奴が網に引っかかるんです。あ、ポシラってのは海底にいる花みたいな生き物?で……」
それはおそらく、ローランで言うところの磯巾着のことであると思われた。発音は得意な彼だが、ローラン語を覚えてそこまで長い年月が経っているわけではなく、まだ複雑な語彙を持ち合わせてはいない。
ところどころサイラスに助けられつつ、彼は辿々しく説明を続けた。
「それを食べると半日から1日経って、さっき言ったような症状が出ます。何十年かに一回、度胸試しした子どもとか、アーザクを知らない余所者が食べてそのまま……っていう事故が起きるとか」
「そのアーザクは、君の故郷にだけ棲む生き物なのかい?」
「村の大人はそう言ってました。他の海にはいない、呪われた生き物だって。近所にもぼんやりとした噂くらいは伝わってたみたいで、近場の山にある村では魚を買い取ってもらえませんでした。それで、いつも少し遠くの宿場とか港に売りに行ってたんです」
それ故、“アーザク”について吹聴することは禁忌とされ、近隣の古い集落以外にその情報は伝わっていない。そしてそれも曖昧な噂程度のものであり、明確なアーザクの外見や生息範囲、毒の効果などを知るのは村人たちだけだとアキは語る。
「アクィルス、そのアーザクの毒は具体的にどの部位にあるか分かるかい?」
「……いや、そこまでは。すみません」
「謝る必要は無いよ。もうひとつだけ……その毒を薬などに加工する、または試みる習慣はあったかい?」
「俺が知る限りは全く。網に引っかかったら、みんな触るのも嫌がって棒で突いて捨てていたくらいなので」
質問に答えている間、アキはアーザクがゲイルの死の原因だと信じ切ることはできなかった。それは村人たちの公然の秘密であると同時に、外部の人間がやすやすと知り得る情報ではなかったからだ。
しかしわざわざアキが呼び出されたということは、少なくとも彼らにとっては、そう判断するに足る条件が揃っているのだろう。
沈黙していたルイスが、レンブラントに低い声で問いかけた。
「……マーシアス、その魚に心当たりは?」
「レスタでは数百種の魚類が毎日取引されているが、そのようなものは聞いたことがない」
「リコカルド殿、執政官が食べた食事に魚は入っていたか?」
「いいえ。しかし毒の種類によっては、抽出したのちに他の食べ物や飲み物に混ぜて摂取させることも可能でしょう」
そこでレンブラントは、落ち着きなく腕を組みかえながら唸った。
「一先ずは、陛下にご報告する必要があるだろう。帝都にはまだ執政官の死さえ伝わっていない。陛下への報告を待たずして、我々が独断で動くことは出来ん」
アキはそれからいくつか質問をされ、再び奴隷の案内で客室に戻ることとなった。
歩きながら、彼は先程の問答を思い出す。アーザクの毒によってゲイルが殺害されたとすれば、その犯人は非常に限られるように思えた。
─え、もしかしてまたルイスさんが疑われてるとかじゃないよな……
一抹の不安を抱きつつ奴隷に会釈し、扉のノブに手をかける。その瞬間、思い切り手首を掴まれた。
「っ……!?」
「静かに」
弾かれるように視線を向けると、きっちりと髪を編み込んだつむじが見えた。それは黒衣に身を包んだレイチェルだった。
「レイ─」
「こちらに来なさい」
細身の少女の力は決して強くないが、振り払い難い圧力があった。言われるがままに連れられ、アキは廊下の奥にある一室へと招かれていく。
寝台や化粧台が置かれたそこは、女性が使うために用意されたものだと分かった。
「さあ、何を尋ねられたかわたくしにも話しなさい」
「……サイラス様なら、頼めば教えてくださるんじゃないですか?」
「叔父様はお忙しい身、そしてわたくしは父上の遺体の番をしなければなりません。恐らく帝都出立まで殆ど顔を合わせることは叶わないでしょう」
ローランでは、親が死んだ場合子どもが交代で遺体の番をする習慣が存在する。
アキがサイラスたちとのやり取り、アーザクについての説明をすると、レイチェルは眉間に皺を寄せたまま腕を組んだ。不機嫌さを隠さない態度に、彼は後ずさる。
「……あの、ルイスさんが疑われてる訳じゃないですよね?」
「ええ、安心なさい」
喪服を纏ったレイチェルは、以前よりもずっと大人びて静かに見える。しかしそれは成長というには歪に思えた。
「話は以上です。誰かが通りがかる前に部屋に戻りなさい」
「……あの」
薄闇の中でもなお鮮やかな青と視線が交わる。
「他にも、俺にできることがあったら言ってください」
「は?」
「俺は……父親とは上手くいってないけど、でも死んだら悲しいし、殺されたなら絶対犯人を見つけたいです」
レイチェルの唇で燻る炎が部屋をわずかに明るく照らす。アキは壁まで走って逃げたが、それでも言葉は止めなかった。
「仮にそうだとして、お前にはなんの関係も無いでしょう」
「関係はないけど、貴女は……俺の人生で初めて、他の誰でもない俺自身が必要だって言ってくれた人だから、その恩を返したい。助けになりたいと思ってます」
彼女の言葉はアキを利用しようとしたもので、明らかに彼を見下すものだった。しかし彼女との出会いによって、アキの人生は動き出した。ゲメッルス、サイラス、ニコラ、レジナルドと出会い、己の出自の一端を知った。そしてルイスやクレアと心を通わせることができた。
「あの日貴女に出会えなかったら、俺は何も知らないまま、誰も信じられないまま、ただ生きていただけだと思います。貴女に会って、俺の人生は動いた」
「……」
「別に貴女が怖いから言ってるんじゃない。俺が、俺の意志でそうしたい」
レイチェルの唇から炎が消えた。小さな足がゆっくりと踏み出したが、今度は不思議と逃げようとは思わなかった。
「レイチェル」
「え?」
「わたくしには、レイチェルという名があります。お前にアクィルスという名があるように」
「……レイチェル、様」
恐る恐る名を呼ぶ。薄闇の中で己を見上げる顔は、年相応の少女のあどけなさを宿していた。
「アクィルス、わたくしに協力してくれますか?」
「俺はそのつもりで言いましたよ」
レイチェルは薄く微笑んだあと、深く息を吸った。可憐な百合のような仕草に、アキは一抹の不安を覚える。
「その前にひとつ」
「はい?」
百合は燃え上がり、青い瞳にも普段通りの激しい熱が宿った。
「何が“助けになりたい”ですって?奴隷風情が、わたくしに生意気な口を利くのはお止めなさい!」
鋭い言葉に続いて、彼女の口からは真っ赤な炎が吐き出された。




