第九十三話 悪しき毒薬Ⅰ
「旦那様の解剖をさせてください」
その数時間後─リコカルドが総督府に赴いたサイラスに進言したのは、この国の多くの人間が聞き慣れない言葉だった。
「かいぼう?」
同席するレンブラント、そしてヴァネッサが怪訝な顔をする。
「遺体の切り開き、内臓や骨の状態を詳しく観察することで、その生態や病、死因などを特定する行為です」
「遺体を切り刻む!?」
ヴァネッサは口元に両手を当て、悲鳴のような声を上げた。彼女の反応が大袈裟というわけではなく、レンブラントも青ざめている。
遺体を損壊することは、死者の名誉を損なう行為だ。死者は火の神イーグニスの祭壇で灯された神聖な炎によって葬られるべき─それがローラン、ひいてはこの大陸における一般的な考えだからだ。
多くの動物解剖を行い、医学を飛躍的に進歩させた医学者ガッルスも、その生の最後まで公に人体解剖を行うことは許されず、死体の窃盗で逮捕された経歴があるという。
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのですか?」
「罰はこの命を以って受けます。解剖が終わった暁には、わたしの目と耳と喉を潰し、四肢を切り落として豚の餌としてください」
「北方人の命ごときで、ゲイル様の御身体を傷つけた罰が償えるはずなどないわ」
「……私も、賛成しかねる」
レンブラントは解剖の様子を酷くおぞましいものとして想像しているらしく、青ざめた顔で首を振った。
その横で、革張りの椅子からずり落ちぬようフロールフに支えられたサイラスが口を開く。俊足を持つ彼に担がれるようにしてレスタまで移動したその顔には、疲労の色が浮かんでいた。
「私はリコカルドに賛成します。罪に問う必要もないでしょう」
「何を言うのだ、サイラス殿。遺体を切り刻むなど、偉大なる兄上様への冒涜─」
「おや?お二人は死因が判明することが恐ろしいのですか」
微かに笑った口の隙間から、薄い舌が覗く。途端に疲労が吹き飛んだ様子のサイラスに、フロールフはため息をつきながら姿勢を整えてやった。
「毒殺かもしれないと、医師である彼が判断しているというのに。そして、総督閣下が兄上にワインを勧めたという証言があるというのに。疑惑ごと遺体を焼き払って、すべてを済まそうと考えていらっしゃるのでは?」
真っ先に反応したのはヴァネッサだ。彼女はあまり話したことのないレンブラントに露骨に人見知りした様子を見せながらも、黒々とした瞳で彼を睨みつける。
「そ、その通りです……!ゲイル様はお休みになられる前、確かにそう仰っていました!こ
の者が、毒を盛ったに違いありません……!」
「確かに、扉の外からもそういった会話が聞こえました。しかしノクティリウムの香が随分濃く焚きしめられていたので、おふたりが何をお飲みになっていたかまでは分かりません」
「わ、私を疑うのか!?」
レンブラントはヴァネッサとリコカルドを交互に睨み、分厚い顎を激しく震わせた。
「ワインを飲み交わしたのは事実だ。しかしそれは昼過ぎのこと、執政官がお倒れになったのは、夜お眠りになった後のことではないか!」
「おふたりとも、落ち着いて。激情は議論の敵、冷静に、ひとつずつ疑問を紐解いていくべきでしょう。そのためにも、私は兄の死因を明確にする必要があると考えています」
つい一時間前までサイラスは、兄の棺の前で座り込み、呆然とその顔を撫でていた。しかし今の彼はここにいる誰よりも落ち着き払っている。
「そもそも、防腐処理を施す際に内臓を抜き取るでしょう、あれが許されて解剖が許されぬ道理とはなんですか?」
一転、サイラスの声音が冷たいものに変わった。
「防腐処理は、貴人をすぐに火葬することが出来ぬ場合、メタニア神の許しを乞い神官が立ち会った上で特別に許される行為だ」
「では此度の解剖も、メタニア神の御意向をお伺いしてから判断いたしましょう。意見を奏上し、もし冥王がお怒りになるのなら、このリコカルドの命を以って償わせます」
青い視線が向けられ、リコカルドは躊躇いなく頷く。
メタニア神─冥界の統治、そして鉱石などの地下資源を司る神にして、最も偉大なる王。その性格は厳格にして冷徹、死に抗う者、神の権能を損なう者を決して許さない。
彼の神は、解剖という行為をどう判断するのだろうか。
「レンブラント閣下、貴方の3番目のご子息はメタニアの神官でしたね。ぜひご子息の口から、この意見を偉大なる王に奏上して頂きたい」
「……」
レンブラントは沈黙した。ヴァネッサの言葉によって、彼には曖昧ながらも疑念が向けられている。解剖が、それを晴らすことが出来る手段であるかを考えているのだろう。
「も、もしその解剖をしたら……こ、この者が殺したという証拠が、見つかるのですか?」
ヴァネッサは落ち着きなく髪を引っ張りながら、身を縮こませた。
「私は無実だと、何度言ったら分かる!あのワインは私も飲んだのだぞ!」
「それを確かめるために行うのです、閣下」
「……もしそうするとしても、行うのはそこの従者なのだろう。私を犯人と断じ、私に不利な証拠を偽装しないとどうして言い切れる」
レンブラントの言葉は荒唐無稽なものではなかった。サイラスは少し思案したあと、再び口を開く。
「では、立会人を用意いたしましょう。我々の身内からひとり、レンブラント閣下のご身内からひとり、そして中立で善良なマーリス州民をひとり……私が知る限り、中立な立会人はカルペンタリウス殿などが良いのでは?」
ルイスの父アラン・カルペンタリウスは、レンブラントの父の代に造営官を務めており、彼らは子どもの頃から面識がある。そしてルイスはアキを通じ青い瞳の一族とも浅からぬ縁を持っていると同時に、それらに縛られず公平な立場を保つことが出来る。報告から、サイラスはそう判断していた。
「……か、カルペンタリウス?」
「先代の造営官を務めた旧家です、義姉上。後継がなく断絶しましたが、私生児がひとりレスタに暮らしていまして……公明正大な人格者であると評判なのです。そうですね、閣下?」
「……ああ、あれとは古い付き合いだが、もし私が罪を犯したとしたら、躊躇いなくそれを告発するだろう」
「念の為、カルペンタリウス夫人はレキの神殿で保護して頂きましょう。私が貴方を犯人とするため、彼女を人質にカルペンタリウス殿を脅迫する可能性もありますから。そして義姉上、姪、我が娘も同様に、貴方の人質とならないよう手配致します」
レンブラントは、サイラスの抜け目なさに内心驚愕していた。ローランの思想において、魂の強さは即ち肉体の強さであり、病弱な者はその魂も不健康だとされる。肥満体の彼自身もその思想に基づき軽蔑されることがあるが、サイラスへの貴族の態度は、下手な異民族に対するよりも差別的だ。
愚かな怪物─ゲイルたちの母フィアナは末息子を公然とそう罵るが、レンブラントには彼がそのような人間には思えなかった。
「……義姉上はどうお考えですか?」
「…………わたくしに決定権などないのでしょう。わたくしは所詮他所者で、ただの寡婦なのですから」
「我が母も、母后様も、寡婦の身でご立派に氏族を取り仕切っておられました。氏族の誰も、夫を亡くしたことを理由に貴女を軽んじることなどありませんよ」
ヴァネッサは答えない。慎ましい学者の家系に生まれた彼女にとって、母后リーリアや義母フィアナといった、偉大なる女性たちの名前を出されるのは苦痛だった。
「……寡婦がどうこうという話ではなく……」
わたくし自身を軽んじている癖に─と毒づこうとしたが、それを言葉にする勇気はなかった。サイラスは常に微笑みを絶やさず、その物腰は柔らかい。しかし彼の瞳の青は、ゲイルのそれよりもずっと深く、得体の知れないものに見えるのだ。
「さて、義姉上もご納得して頂けたということで、早速各自準備を始めましょうか」
「……解剖を行うのは、あくまでも、メタニア神のお許しを得ることが出来ればの話だ」
「いたずらに権能を侵害するのではなく、法のもとに罪人を裁く為の行いであることを説明すれば、厳格なるメタニアは必ずお許しくださいますよ」
「貴方に神々のご意志の何が分かると言うのだ」
敬虔なノクティナ信者であるレンブラントは、サイラスの神の意志を決め打ちしたような態度が気に食わなかった。しかし物言いを咎めてもなお、深い青は緩く弧を描き囁いてくる。薄い舌が獲物を狙うようにゆっくりと唇を撫でた。
「……そうやって従順にしていれば神様が助けてくれると思ってるなら、お前は随分おめでたい奴だな?」
ヴァネッサには届かぬ声量で紡がれた乱暴な言葉に、思わず息を呑む。真意を問う前に、サイラスは普段通りの柔らかな笑顔に戻って居住まいを正した。その様子に、レンブラントは先程の粗暴な態度が一瞬の白昼夢だったのかとさえ思った。
「閣下の仰る通り、定命の者に神々のご意思を推し量ることは出来ません。それ故、神は我々と自らとを繋ぐ架け橋として、神官という誉れ高き地位を産み出されたのです。ここで我々が議論を続けても神にとっては子どもの戯言、そろそろ建設的な行動を起こさなくては。違いますか?」
有無を言わさぬ圧を宿す彼の言葉に、ふたりは渋い顔をしながらもようやく頷いた。




