第九十二話 火の粉の命
ゲイルの遺体は、リコカルドの主導で速やかにレスタへと運ばれた。そこで防腐処理を施されたあと、市民に見送られながら帝都へと帰還する手筈となっている。
遺体が腐敗するというのはローラン人にとって耐え難く恐ろしい現象であるらしく、兵士たちは倒れるまで代わる代わる水魔法を駆使し、彼が眠る急拵えの棺を冷却し続けていた。
「……はあ」
ゲイルは形式的な遺言書の他、個人に対する手紙を実に30人以上にあてて遺していた。
それらの管理は従者であるリコカルドの仕事であり、改竄や盗難を避けるために常に肌見放さず持ち歩いてきた。
今彼は、総督府の庭の隅に座り、己宛の手紙を開封している。
手紙は全く形式に沿っていない、子どもの私信のような有様で、今までの仕事に対する労いとこれからのことが簡潔に記されている。そのこれからが問題だった。
“リコカルドよ、お前は人生に飽いたと何度も言っていたな”
“私に、永い時を生きるお前の退屈や孤独を理解することはできない。お前を主人として縛り続けることもできない”
“しかしこの命令だけは守れ。お前にはいつか、お前にとっての死が迎えに来る。その時まで、生きろ”
たったそれだけ。封筒を覗き込み、裏をひっくり返し、蝋燭の火で炙ってみたが、何も見つからなかった。
リコカルドは与えられた命令に、退屈そうな溜め息をつく。凍りついた荒野で生きるヴィンテル人の生は静かで、保守的で、ローランのように月日が巡るたびに何かが変わるようなことはない。
人々はそれを享受し、祖神ルドの教えに従って慎ましく生きていく。娯楽は運動、読書、盤上遊戯といった限定的なもので、皆毎日を生きることに必死だった。
そんな生活から故郷を救いたい。だから医師として研鑽を積みに行く─好奇心をそんな大義名分で塗り隠して村を出たのはどれほど昔のことだっただろうか。
永く、永く、永く生きた。アステリ王国の栄華、ローランの建国、数多の都市国家の隆盛と滅亡、神君による大改革、テオドールによる北方征服。その全てが、そこに生きた人々の命が、川の流れのように過ぎていき、冥界の門をくぐっていった。
ゲイルの従者になったのは、彼の言う通り暇潰しに過ぎなかった。待遇が悪ければヴィンテル人としての力でいつでも逃げ出せば良い─そんな考えで形式的に忠誠の誓いをしたのは、つい昨日のことのようだ。
ゲイルは良き主人だった。常に、己の内に宿る渇望、民からの期待、国への忠誠、あらゆるものに縛られ、それでも高潔に、正しく生きようと藻掻いていた。
「せめて、子どもたちを支えろと命じてほしかったものだ」
再び溜め息が落ちる。束の間の暇潰しは終わった。既に解放奴隷であるリコカルドを縛るものはない。故郷を出たように、大陸を彷徨ったように、ローラン捕虜となる前の生活に戻ることが出来る。しかしそれもまた、この数千年の繰り返しだろう。
『何か用か』
ふとリコカルドは口を開く。長らく使っていない故郷の言葉で。するとどこからともなく声が返ってきた。
『移送はいつだ』
木の上から軽やかに降り立ったのはフロールフだ。サイラスは葬儀への参列、そして家長代理としてゲイルの遺体移送の指揮をとるため、遺体と共に帝都へ赴くことが決まっている。特に男児が短命に終わることの多いセレ氏族において、一人前と見なされる25歳を越えた男は、彼ひとりしか残っていない。
『……』
『爺、呆けてないで答えろ』
『ああ……いつだったか。総督閣下に確認しなくてはな』
『従者としてやるべきことを成せ。そしてさっさと殉死しろ。死に時を失った年寄りなど惨めなだけだぞ』
ふたりは同郷だが、顔を合わせたのはセレ氏族に仕え始めてからだ。リコカルドが故郷を出たのは、フロールフが生まれる前のことである。
『旦那様に、生きろと言われてしまった』
『生きたいようには見えないが』
『……わたしもあなたほど単純になれたら良かったな』
『どういう意味だ』
『ゲイル様に、他殺の疑いが出ている』
ゲイルはレンブラントとの密談の際、彼が勧めたワインを口にしたという。それは不可思議な味わいで、レンブラントによればマーリス州で独自に改良している希少な品種だそうだ。
『そんなもの、残った現物を確認すればすぐに真偽が分かるはずだ』
『密談から旦那様に症状が現れるまで半日経過している。既に残った瓶も杯も洗浄されてしまっていた。そもそも、それほど間を開けてあのような激しい作用をもたらす毒など存在するのか……』
『ではそれを解明すれば良い』
『……あなたほど若ければ、それで済んだだろう』
リコカルドは羨ましかった。ローダに殉じた従者のことも、フロールフのことも。誰かひとりに対して、そのように真っ直ぐに思いを貫くことの出来る心が彼にはなかった。否、長い命の中で失われてしまった。
『貴様は、ゲイル様に何の恩義も忠義も感じていないというのか?』
『そうではない。あのお方は良き主人だった。しかしわたしの生において、良き人間は数多く居た』
『はは』
フロールフは華やかな美貌に、珍しく邪気のない笑みを浮かべた。些細な悪戯をした子どもに向けるようなそれに、リコカルドの首が自然と傾く。
『私は40年セレに仕えた。ゲイル様の本質は多少なりとも理解している。そんな私の前で“良い人間”だとアレを取り繕うのは、忠義ゆえの行いではないのか?』
『……旦那様は』
ゲイルは、心に一片の曇りのない善人ではない。妻も愛人も、彼にとっては生涯心を奪われた“うつくしい戦場”を思い出す為に側に置かれた存在だった。彼の心は常に「神が生み出した平等」とやらに魅了され、その命は星々が見下ろす大地に囚われていた。
“私のどこが、太陽なものか”
ふと、苦悩する横顔を思い出す。しかし、その中であってもゲイルは良き父、良き夫、良き執政官であろうと、努力し続けていた。その様は例えるならば火の粉だ。焚き火から天に舞い上がり、そしていつか地に落ち行く。その瞬きのような命の傍らにいる時間は、とても穏やかだった。
彼の生き様はうつくしかった。そのようにあろうと泥濘の中で藻掻いていた。しかし燃えながら落ちていく火の粉は突然、誰かの手によって地に落とされ、踏み躙られた。
そう考えると、ちりちりと焼けるような感情が胸に込み上げてくるような感覚がする。もう何百年も感じたことのないそれに、リコカルドは戸惑う。
『何だ、急に?』
突然黙り込んでしまったリコカルドの顔を、フロールフが覗き込む。
『……わたしは、ゲイル様が、あの御方の望み通りに生きて、望み通りに命を終える様を……側で見たかったのかもしれない』
『それで?』
『ゲイル様の生き方はうつくしかった。善いものではなかったかもしれないが、冬夜の篝火のように眩しくて儚かった……もし死の原因に誰かの悪意があったなら、それは燃える火を踏み消すような行いだ』
『貴様の話は長過ぎる』
『……瞬きの後に消えてしまうものだとしても、踏み躙っていい理由にはならない。もしあの方を殺害した犯人がいるのなら、わたしはそれを─許せない』
これは怒りだ。最後に感じたのはいつだったか分からないが、怒りとはこんなにも、胸を焼くように熱かっただろうか。炙った針のように鋭かっただろうか。
『では、迷うことなどない筈だ』
『……』
フロールフの瞳は揺るがない。ただ長い時を茫洋と生きるヴィンテルの世界において、これほど強い眼差しは見たことがなかった。
『貴方は、貴方の主のために生きれば良い。今までも、これからも、命が尽きる時まで─現世では主に尽くし、死後はその名誉を守り、そして冥界での安寧をこの地よりお支えすることを、貴方の人生の標とするんだ』
死者の安寧は、現世で生きる者の記憶に依る。強くこの世に記憶を残す死者ほど、その冥界での暮らしは誉れ高く末永く続いていく。
『フアリ、前言を撤回する。貴方は死ぬべきではない』
“フアリ”というのは、ヴィンテルの言葉において年長の男性に対する敬称である。フロールフの言葉は、今まで聞いたことがないほど穏やかで、そして真摯な響きを宿していた。
『……ありがとう、フロールフ。正直、あなたに礼を言う日が来るとは思わなかったが』
『黙れ、クソジジイ』
フロールフはふいと顔を背け、『帝都出立の予定を調整してくる』と言い、風のように去っていった。
一人残されたリコカルドは、銀の瞳で空─ではなく地を見つめ、そっと掌で土を撫でる。冥界は深い深い地の底にある大王国だ。
「旦那様」
微かな暖かさと柔らかさは、冥界から届くものか、注がれる太陽のものか。
「もし、あなたさまの命を奪ったものが悪意ある定命の者であったのなら、わたしがその正体を突き止め、この生涯をかけ、報いを受けさせましょう」
土に膝をつき、彼は死者たちの王国に向け敬礼した。礼儀の所作はいつの時代に誰に仕えても褒められたものだ。
「……あなたはご自分をいつも軽んじていた。だからこそ、私に自由をお与えになったのでしょう」
自分の為に死ぬ必要などない─ゲイルが言いそうなことだ。そこで彼は一度沈黙する。普段は延々と回る口がちっとも気の利いた言葉を紡いでくれないことに苦笑した。しかし単純な物言いを好む主は、この手向けの言葉に案外満足して頷くかもしれない。
「わたしの永遠の主人よ、どうか心安らかに」




